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第9話「伯爵の、いない朝」
第9話「伯爵の、いない朝」
三月の声を聞く前に、私は風邪を引いた。
大したことはなかった。鼻が詰まって、少し頭が重い。熱を測ったら七度二分。安静にしていれば二日で治る程度だ。
ミレイが青ざめた顔で飛んできた。
「奥様、顔色が」
「大丈夫です。今日は部屋で仕事をします」
「仕事はなりません。休んでください」
「では横になりながら書類を」
「なりません」
ミレイは珍しく強い口調だった。私は少し驚いた。
「……わかりました。午前中だけ休みます」
「一日です」
「午前中と」
「一日休んでください。お願いします」
ミレイが頭を下げた。十六か七の侍女にそこまで言われたら、従うしかなかった。
「わかりました。一日休みます」
*
朝の報告に行けないので、カイルに伝言を頼んだ。今日は体調不良で休む、緊急の案件があれば部屋に来てほしい、と。
カイルは心配そうな顔をしたが、わかりましたと言って去っていった。
私はベッドに戻った。横になると、確かに体が重かった。自分では大したことないと思っていたが、思っていたより疲れていたのかもしれない。
天井を見ながら、春以降の計画を頭の中で整理しようとした。薬師の確保、屋根の修繕、宿舎の転用工事、農家への還元の見直し。順番は——
気づいたら、眠っていた。
*
昼頃、扉を叩く音で目が覚めた。
「はい」
「私だ」
ダリウスの声だった。
私は少し驚きながら起き上がった。
「どうぞ」
扉が開いた。ダリウスが入ってきた。部屋の中を一度見回して、ベッドの傍まで来た。手にお茶の入った杯を持っていた。
「カイルから聞いた」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。大したことはないので」
「熱は」
「七度二分でした。今はもう少し下がっていると思います」
ダリウスは杯をテーブルに置いた。
「生姜湯だ。ミレイに作らせた」
「ありがとうございます」
私は杯を取って、両手で包んだ。温かかった。生姜の香りがした。
ダリウスは椅子を引いて、ベッドの傍に座った。帰る様子がなかった。
「……仕事は大丈夫ですか」
「何が」
「朝の報告がなくて、困ることはないかと思いまして」
「一日くらい困らない」
「そうですか」
ダリウスは私を見ていた。報告を聞く目ではなかった。ただ、確かめるような目だった。
「無理をしていたのか」
「していないつもりでしたが」
「つもり、ということは」
「気づいていなかっただけかもしれません」
ダリウスは少し黙った。
「冬の間、休んだ日があったか」
私は考えた。
「……なかったかもしれません」
「そうだろうと思っていた」
「ダリウス様も、休んでいらっしゃいますか」
「私は体が丈夫だ」
「私も丈夫なほうです」
「丈夫な人間でも倒れる」
語気は強くなかった。でも、有無を言わせない静かさがあった。先月、夜中に城の外を確認していた人の声だ、と思った。
「わかりました。今日は休みます」
「今日だけでなく、定期的に休め」
「定期的に」
「週に一日は仕事をするな」
私は少し考えた。
「それは命令ですか」
「そうだ」
「わかりました。従います」
ダリウスは小さく頷いた。それから立ち上がろうとして、止まった。
「何か必要なものはあるか」
「大丈夫です。生姜湯をいただいたので」
「そうか」
それでも、すぐに立たなかった。窓の外を見ていた。雪はまだあるが、光は春に近かった。
「ダリウス様」
「何だ」
「ここに来てくださったのは、心配してくださったからですか」
少し間があった。
「報告がなかったから、状況を確認しに来た」
「そうですか」
私は黙って、生姜湯を一口飲んだ。温かさが、胸のあたりまで届いた。
ダリウスが立ち上がって、扉へ向かった。扉を開けて、一度止まった。
「……ゆっくり休め」
それだけ言って、出ていった。
*
扉が閉まった後、私はしばらく天井を見ていた。
生姜湯は、まだ温かかった。
*
翌朝、ダリウスは朝食の場で私の顔を見るなり言った。
「もう一日休め」
「熱は下がりました」
「顔色がまだ悪い」
「仕事をすれば治ります」
「それは理屈になっていない」
私は少し考えた。
「では、半日だけ働いて、午後は休みます」
「午前中休んで、午後だけ働け」
「逆ですか」
「午前に無理をすると午後に響く」
なぜ知っているのだろう、と思った。
「わかりました。午後から働きます」
ダリウスは頷いた。
朝食の間、いつもより少し多く、話した。取りとめのない話だった。春になったら何から始めるか、薬師の確保はどう動くか、農家への還元の見直しはどう伝えるか。ダリウスは聞きながら、時々短く答えた。
普通の朝だった。でも、普通の朝が、この城では一番温かかった。
第9話 了
三月の声を聞く前に、私は風邪を引いた。
大したことはなかった。鼻が詰まって、少し頭が重い。熱を測ったら七度二分。安静にしていれば二日で治る程度だ。
ミレイが青ざめた顔で飛んできた。
「奥様、顔色が」
「大丈夫です。今日は部屋で仕事をします」
「仕事はなりません。休んでください」
「では横になりながら書類を」
「なりません」
ミレイは珍しく強い口調だった。私は少し驚いた。
「……わかりました。午前中だけ休みます」
「一日です」
「午前中と」
「一日休んでください。お願いします」
ミレイが頭を下げた。十六か七の侍女にそこまで言われたら、従うしかなかった。
「わかりました。一日休みます」
*
朝の報告に行けないので、カイルに伝言を頼んだ。今日は体調不良で休む、緊急の案件があれば部屋に来てほしい、と。
カイルは心配そうな顔をしたが、わかりましたと言って去っていった。
私はベッドに戻った。横になると、確かに体が重かった。自分では大したことないと思っていたが、思っていたより疲れていたのかもしれない。
天井を見ながら、春以降の計画を頭の中で整理しようとした。薬師の確保、屋根の修繕、宿舎の転用工事、農家への還元の見直し。順番は——
気づいたら、眠っていた。
*
昼頃、扉を叩く音で目が覚めた。
「はい」
「私だ」
ダリウスの声だった。
私は少し驚きながら起き上がった。
「どうぞ」
扉が開いた。ダリウスが入ってきた。部屋の中を一度見回して、ベッドの傍まで来た。手にお茶の入った杯を持っていた。
「カイルから聞いた」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。大したことはないので」
「熱は」
「七度二分でした。今はもう少し下がっていると思います」
ダリウスは杯をテーブルに置いた。
「生姜湯だ。ミレイに作らせた」
「ありがとうございます」
私は杯を取って、両手で包んだ。温かかった。生姜の香りがした。
ダリウスは椅子を引いて、ベッドの傍に座った。帰る様子がなかった。
「……仕事は大丈夫ですか」
「何が」
「朝の報告がなくて、困ることはないかと思いまして」
「一日くらい困らない」
「そうですか」
ダリウスは私を見ていた。報告を聞く目ではなかった。ただ、確かめるような目だった。
「無理をしていたのか」
「していないつもりでしたが」
「つもり、ということは」
「気づいていなかっただけかもしれません」
ダリウスは少し黙った。
「冬の間、休んだ日があったか」
私は考えた。
「……なかったかもしれません」
「そうだろうと思っていた」
「ダリウス様も、休んでいらっしゃいますか」
「私は体が丈夫だ」
「私も丈夫なほうです」
「丈夫な人間でも倒れる」
語気は強くなかった。でも、有無を言わせない静かさがあった。先月、夜中に城の外を確認していた人の声だ、と思った。
「わかりました。今日は休みます」
「今日だけでなく、定期的に休め」
「定期的に」
「週に一日は仕事をするな」
私は少し考えた。
「それは命令ですか」
「そうだ」
「わかりました。従います」
ダリウスは小さく頷いた。それから立ち上がろうとして、止まった。
「何か必要なものはあるか」
「大丈夫です。生姜湯をいただいたので」
「そうか」
それでも、すぐに立たなかった。窓の外を見ていた。雪はまだあるが、光は春に近かった。
「ダリウス様」
「何だ」
「ここに来てくださったのは、心配してくださったからですか」
少し間があった。
「報告がなかったから、状況を確認しに来た」
「そうですか」
私は黙って、生姜湯を一口飲んだ。温かさが、胸のあたりまで届いた。
ダリウスが立ち上がって、扉へ向かった。扉を開けて、一度止まった。
「……ゆっくり休め」
それだけ言って、出ていった。
*
扉が閉まった後、私はしばらく天井を見ていた。
生姜湯は、まだ温かかった。
*
翌朝、ダリウスは朝食の場で私の顔を見るなり言った。
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「顔色がまだ悪い」
「仕事をすれば治ります」
「それは理屈になっていない」
私は少し考えた。
「では、半日だけ働いて、午後は休みます」
「午前中休んで、午後だけ働け」
「逆ですか」
「午前に無理をすると午後に響く」
なぜ知っているのだろう、と思った。
「わかりました。午後から働きます」
ダリウスは頷いた。
朝食の間、いつもより少し多く、話した。取りとめのない話だった。春になったら何から始めるか、薬師の確保はどう動くか、農家への還元の見直しはどう伝えるか。ダリウスは聞きながら、時々短く答えた。
普通の朝だった。でも、普通の朝が、この城では一番温かかった。
第9話 了
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