「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」

まさき

文字の大きさ
7 / 41

第六話 届かぬ燭台の灯り

第六話 届かぬ燭台の灯り
 
 一週間の期限まで、あと四日あった。
 
 夜が深まるにつれて、屋敷は静かになる。使用人たちが引き上げ、廊下の燭台だけが淡い光を灯している。ソフィアは寝室の窓際に椅子を引き寄せ、外の闇をぼんやりと眺めていた。
 
 眠れない夜が、また来ていた。
 
 以前はこういう夜に、セイルの部屋に灯りがついているかどうか、確認しに行くことがあった。扉の前まで行って、ノックをしようとして、できなくて戻る。そんなことを、嫁いだ最初の二年は繰り返していた。今はもう、しない。する意味がないとわかったから。
 
 庭に面した窓の向こうは、真っ暗だった。
 
 月のない夜で、薔薇庭園の輪郭すら見えない。昼間あれほど鮮やかだった花たちが、今は闇の中に溶けている。それがなぜか、今夜のソフィアには自分のことのように思えた。
 
 人に見えているときだけ、咲いているように見える。
 
 燭台の灯りが、窓ガラスにソフィアの顔を映していた。白銀の髪、青い瞳、整った顔立ち。侯爵夫人として申し分ない外見だと、社交界ではよく言われた。しかしその顔が、今夜は酷く他人のように見えた。
 
 五年間、この顔で微笑み続けた。
 
 ふと、廊下に足音が聞こえた。
 
 深夜のこの時間に歩く人間は、この屋敷には一人しかいない。足音はソフィアの寝室の前を通り過ぎ、廊下の奥へと遠ざかっていった。書斎に向かったのだろう。
 
 セイルも、眠れないのかもしれなかった。
 
 眠れない夜だからこそ、普段は考えないことを考えてしまう。そう思いながら、ソフィアは暗い窓の外に目を向けた。セイルのことを、ここ数年は「振り向いてくれない人」としてしか見ていなかった気がした。一人の人間としてではなく、自分の痛みの原因として。
 
 それは公平ではなかったかもしれない。
 
 しかしだからといって、離縁の決意が揺らぐわけではなかった。人間として理解しようとすることと、妻として限界を迎えることは、別の話だ。
 
 ソフィアは窓から目を離し、燭台の炎を見つめた。
 
 小さく揺れる炎が、風もないのに左右に揺れている。今にも消えそうで、しかし消えない。その様子をしばらく眺めながら、ソフィアは五年前のことを思い出していた。
 
 嫁いで最初の夜のことだ。
 
 緊張しながら寝室で待っていたソフィアの元へ、セイルは来なかった。使用人を通じて「今夜は公務が長引いた。先に休んでくれ」という伝言だけが届いた。その言葉の意味を、当時のソフィアはまだ理解していなかった。ただ、寂しいと思った。
 
 翌朝、朝食の席でセイルは普通に現れた。
 
「昨夜は遅くなった。疲れただろう」
 
 そう言って、ソフィアの顔を一度だけ見た。それだけだった。気遣いなのか、罪悪感からなのか、当時のソフィアには読み取れなかった。ただその視線には、どこか後ろめたさに似た色があった気がした。今になって思えば、あの頃からセイルはすでに、この結婚に対して何かを抱えていたのかもしれない。
 
 あの朝からずっと、ソフィアはセイルの視線を読もうとし続けた。
 
 五年間、ずっと。
 
 燭台の炎が、また揺れた。
 
 廊下の向こうで、書斎の扉が閉まる音がした。セイルが中に入ったのだろう。扉一枚と、長い廊下を挟んで、今夜も二人は別々の場所にいる。
 
 この屋敷での最後の夜々が、静かに過ぎていく。
 
 ソフィアは立ち上がり、燭台の炎をそっと吹き消した。
 
 暗くなった部屋の中で、目を閉じる。眠れなくても、横になることはできる。残り四日、ただ静かに過ごすだけでいい。
 
 ベッドに横たわりながら、ソフィアはふと思った。
 
 あの燭台の灯りは、今夜も書斎の窓に映っているのだろうか。セイルの目に、この部屋の灯りは届いていただろうか。
 
 届いていたとしても、もう遅い。
 
 そう思いながら、ソフィアは静かに目を閉じた。夜の静寂が、屋敷全体を包んでいた。
感想 36

あなたにおすすめの小説

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた

アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。 高校生くらいから何十回も告白した。 全て「好きなの」 「ごめん、断る」 その繰り返しだった。 だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。 紛らわしいと思う。 彼に好きな人がいるわけではない。 まだそれなら諦めがつく。 彼はカイル=クレシア23歳 イケメンでモテる。 私はアリア=ナターシャ20歳 普通で人には可愛い方だと言われた。 そんなある日 私が20歳になった時だった。 両親が見合い話を持ってきた。 最後の告白をしようと思った。 ダメなら見合いをすると言った。 その見合い相手に溺愛される。

「竣工おめでとうございます。施主はもう私ではないようなので」~建築家の妻を五年演じた私が離婚を決めたら、五年分の請求書をお渡しします~

まさき
恋愛
建築家の夫・蒼介を支えるため、自らのキャリアを捨てて五年。葉山澪は今日、離婚届にサインをもらった。 大学院時代、澪は蒼介と同じ建築家の卵だった。成績も評価も澪の方が高かった。それでも蒼介の「一緒にやろう」という言葉を信じ、彼の独立に全てを賭けた。事務所の実務、経理、クライアント対応——蒼介が設計だけに集中できるよう、澪は自分の図面を引くことをやめた。 三年目、蒼介は業界誌に「最も注目すべき若手建築家」として特集される。その記事に澪の名前はなかった。それでも澪は誇らしかった——四年目に、大手デベロッパーの敏腕プロジェクトマネージャー・桐嶋玲奈が現れるまでは。 玲奈と蒼介は打ち合わせのたびに盛り上がった。五年のブランクを抱える澪には、もう入り込む言葉がなかった。嫉妬も、訴えも、全て飲み込んだ。完璧な妻を演じ続けた。でも、もう十分だった。 家を出た澪は、大学時代の旧友の事務所に加わり、五年ぶりに設計と向き合う。最初は指が動かなかった。それでも、感覚は錆びていなかった。やがて澪が手がけた住宅が建築メディアに取り上げられ、業界に「葉山澪」の名前が静かに広がっていく。 一方、蒼介の事務所は澪の不在で混乱していた。澪が一人で回していた膨大な業務、澪が築いていたクライアントとの信頼——失って初めて、その大きさを知る。玲奈のプロジェクトにも重大なミスが発覚し、蒼介は初めて孤立する。業界の知人から「あの事務所の実務、奥さんがやってたんでしょう」と言われる日が来る。 後悔した蒼介は澪に連絡をとり、「愛している、戻ってきてほしい」と懇願する。澪の答えは静かで、明確だった。 「五年間、一度も私の名前を呼ばなかった人の言葉は、信じられません」 澪は蒼介に一枚の紙を渡す。金銭的な請求書ではない。五年間澪がやってきた全業務のリスト——蒼介の成功の、原価表だった。 そして澪が手がけた建物の竣工式。晴れた空の下、自分の名前が刻まれたプレートを見上げる。泣き終わった建築家の、静かで鮮やかな再生の物語。

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

あなたが後悔しても、私の愛はもう戻りません

藤原遊
恋愛
婚約者のアルベルトは、優しい人だった。 ただ――いつも、私より優先する存在がいただけで。 「君は分かってくれると思っていた」 その一言で、リーシェは気づいてしまう。 私は、最初から選ばれていなかったのだと。 これは、奪われた恋を取り戻す物語ではない。 後悔する彼と、もう戻らないと決めた私、 そして“私を選ぶ人”に出会うまでの、静かな恋の終わりと始まりの物語。

愛していると気づいたから、私はあなたを手放します

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
愛しているのに、触れられない。 幼なじみの夫は、こう言った。 「もう、女性を愛することはできない」と。 それでも「君がいい」と言い続ける彼と、 子どもを望む現実の間で、私は追い詰められていく。 だから決めた。 彼のためにも、私は他の誰かを探す。 ――そう思ったのに。 なぜあなたは、そんな顔で私を追いかけてくるの? これは、間違った優しさで離れた二人が、 もう一度、互いを選び直すまでの物語。 ※表紙はAI生成イラストを使用しています。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。