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第十三話 小さな町の朝
第十三話 小さな町の朝
目が覚めたとき、見慣れない天井があった。
白い漆喰の天井。ヴァルト侯爵邸の高い石造りの天井とは全く違う、低くて温かみのある天井。ソフィアはしばらくそれを眺めてから、ここがエミリアの家だということを思い出した。
——そうか、もう王都にはいないのだ。
その事実が、じわりと胸に染み込んだ。不安でも、寂しくもなかった。ただ、静かな実感があった。
窓の外から、町の音が聞こえてきた。
馬のひづめの音、誰かの話し声、遠くで鳥が鳴いている。王都の喧騒とは違う、ゆったりとした朝の音だった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、小さな部屋を柔らかく照らしていた。
ソフィアはゆっくりと起き上がった。
体が軽かった。五年間、朝目が覚めるたびに感じていた重さが、今朝はなかった。今日こなすべき公務の確認も、完璧な侯爵夫人の顔を作る必要も、何もない。ただ、朝が来ただけだった。
着替えを済ませて部屋を出ると、階下から食事の匂いがした。
階段を下りると、エミリアが台所で朝食の準備をしていた。エプロン姿で、鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている。その光景が、ひどく普通で、ひどく温かかった。マリアはエミリアの隣で、慣れない手つきながら野菜を切るのを手伝っていた。
「おはよう、ソフィア。よく眠れた?」
「ええ、久しぶりにぐっすり眠れたわ」
「それはよかった。顔色もいいじゃない」
エミリアはソフィアを見て、にっこりと笑った。その笑顔に、作り物の要素は何一つなかった。社交界で毎日見ていた、計算された微笑みとは全く違う。
ソフィアは椅子に座り、テーブルの上を見た。素焼きのカップ、木のスプーン、野菜のスープ。侯爵夫人として食べていた豪華な朝食とは程遠い。しかしその素朴さが、今朝のソフィアにはちょうどよかった。
「さあ、食べましょう。冷めないうちに」
三人で向かい合って朝食をとった。
エミリアは話し上手だった。町の人々のこと、薬草店のこと、昨日入荷した珍しい薬草のこと。次々と話題が出てきて、ソフィアは相槌を打ちながら、自分が自然に笑っていることに気づいた。
——いつぶりだろう。
作り物ではない笑顔を浮かべたのが、いつ以来なのか思い出せなかった。社交界での微笑みは仮面だった。使用人への笑顔は礼儀だった。しかし今この瞬間の笑顔は、ただ可笑しいから笑っていた。それだけだった。
「ねえ、ソフィア」
エミリアが、少し真剣な顔になった。
「辛かったでしょう。五年間」
ソフィアは少し考えてから、答えた。
「辛いというより……疲れたわ。ずっと完璧でいなければならなかったから」
「もう完璧でなくていいのよ、ここでは」
エミリアの言葉は、さらりとしていた。慰めるでもなく、同情するでもなく、ただ当たり前のことを言うように。その軽さが、かえってソフィアには染みた。
「……ありがとう」
「お礼なんていらない。それより、しばらくここにいなさい。うちの店の手伝いでもしながら、のんびりしてればいいから」
「手伝いなんて、私に何かできるかしら」
「最初は見ているだけでもいいのよ。慣れてきたら薬草の仕分けくらいは教えてあげる。難しくないから」
エミリアがまた笑った。ソフィアも笑った。
朝食を終えて、ソフィアは一人で町を歩いた。
小さな町は、朝から賑やかだった。広場では露店が並び始め、子供たちが走り回っていた。パン屋から焼きたてのパンの匂いが漂い、花屋の店先には色とりどりの花が並んでいた。
誰もソフィアを知らなかった。
王都から三日離れたこの町では、侯爵夫人の名など届いていない。礼をする人もいない。品定めするような視線もない。ただの見慣れない旅人として、町の人々はソフィアの前を通り過ぎた。その匿名性が、今のソフィアには心地よかった。
花屋の前で足を止めた。
白い小花、黄色い花、紫の花。薔薇もあったが、ソフィアの目は薔薇ではなく、小さな白い野花に止まった。旅の途中で摘んだあの花と同じ種類だった。
「これ、一束いただけますか」
「はい、どうぞ!旅の方ですか?」
花屋の老婆が、人懐っこい笑顔で答えた。
「しばらくこちらに滞在する予定です」
「それはよかった。いい町ですよ、ここは」
老婆の言葉に、ソフィアは微笑んだ。侯爵夫人の微笑みではなく、ただの、普通の微笑みで。
白い花束を手に持って、ソフィアは町の広場に出た。広場の中心には小さな噴水があり、水が柔らかく流れていた。石造りのベンチに腰を下ろし、花束を膝の上に置いた。
青い空が広がっていた。
雲が流れ、風が吹き、噴水の水が光を弾いた。ヴァルト侯爵邸の薔薇庭園も美しかったが、この広場の素朴な美しさは、また違う種類のものだった。
——ここで、少し休もう。
ソフィアは目を閉じた。風が頬を撫でた。白い花の淡い香りがした。
五年間張り続けた何かが、ゆっくりとほどけていく気がした。完璧である必要のない場所で、誰も知らない場所で、ただ風を感じていた。
しばらくして、目を開けた。
噴水の前で、子供が二人、水を手で掬って遊んでいた。笑い声が広場に響いた。その声が、なぜかとても遠くから来るもののように聞こえた。
——私も、笑えるようになるかしら。
本当の意味で。仮面ではなく、作り物でもなく、ただ笑えるようになるかしら。
答えはまだわからなかった。しかしこの町の朝の光の中で、その問いを持つことができるようになっただけで、今日はもう十分だった。
ソフィアは白い花束を胸に抱いて、静かに空を見上げた。
目が覚めたとき、見慣れない天井があった。
白い漆喰の天井。ヴァルト侯爵邸の高い石造りの天井とは全く違う、低くて温かみのある天井。ソフィアはしばらくそれを眺めてから、ここがエミリアの家だということを思い出した。
——そうか、もう王都にはいないのだ。
その事実が、じわりと胸に染み込んだ。不安でも、寂しくもなかった。ただ、静かな実感があった。
窓の外から、町の音が聞こえてきた。
馬のひづめの音、誰かの話し声、遠くで鳥が鳴いている。王都の喧騒とは違う、ゆったりとした朝の音だった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、小さな部屋を柔らかく照らしていた。
ソフィアはゆっくりと起き上がった。
体が軽かった。五年間、朝目が覚めるたびに感じていた重さが、今朝はなかった。今日こなすべき公務の確認も、完璧な侯爵夫人の顔を作る必要も、何もない。ただ、朝が来ただけだった。
着替えを済ませて部屋を出ると、階下から食事の匂いがした。
階段を下りると、エミリアが台所で朝食の準備をしていた。エプロン姿で、鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている。その光景が、ひどく普通で、ひどく温かかった。マリアはエミリアの隣で、慣れない手つきながら野菜を切るのを手伝っていた。
「おはよう、ソフィア。よく眠れた?」
「ええ、久しぶりにぐっすり眠れたわ」
「それはよかった。顔色もいいじゃない」
エミリアはソフィアを見て、にっこりと笑った。その笑顔に、作り物の要素は何一つなかった。社交界で毎日見ていた、計算された微笑みとは全く違う。
ソフィアは椅子に座り、テーブルの上を見た。素焼きのカップ、木のスプーン、野菜のスープ。侯爵夫人として食べていた豪華な朝食とは程遠い。しかしその素朴さが、今朝のソフィアにはちょうどよかった。
「さあ、食べましょう。冷めないうちに」
三人で向かい合って朝食をとった。
エミリアは話し上手だった。町の人々のこと、薬草店のこと、昨日入荷した珍しい薬草のこと。次々と話題が出てきて、ソフィアは相槌を打ちながら、自分が自然に笑っていることに気づいた。
——いつぶりだろう。
作り物ではない笑顔を浮かべたのが、いつ以来なのか思い出せなかった。社交界での微笑みは仮面だった。使用人への笑顔は礼儀だった。しかし今この瞬間の笑顔は、ただ可笑しいから笑っていた。それだけだった。
「ねえ、ソフィア」
エミリアが、少し真剣な顔になった。
「辛かったでしょう。五年間」
ソフィアは少し考えてから、答えた。
「辛いというより……疲れたわ。ずっと完璧でいなければならなかったから」
「もう完璧でなくていいのよ、ここでは」
エミリアの言葉は、さらりとしていた。慰めるでもなく、同情するでもなく、ただ当たり前のことを言うように。その軽さが、かえってソフィアには染みた。
「……ありがとう」
「お礼なんていらない。それより、しばらくここにいなさい。うちの店の手伝いでもしながら、のんびりしてればいいから」
「手伝いなんて、私に何かできるかしら」
「最初は見ているだけでもいいのよ。慣れてきたら薬草の仕分けくらいは教えてあげる。難しくないから」
エミリアがまた笑った。ソフィアも笑った。
朝食を終えて、ソフィアは一人で町を歩いた。
小さな町は、朝から賑やかだった。広場では露店が並び始め、子供たちが走り回っていた。パン屋から焼きたてのパンの匂いが漂い、花屋の店先には色とりどりの花が並んでいた。
誰もソフィアを知らなかった。
王都から三日離れたこの町では、侯爵夫人の名など届いていない。礼をする人もいない。品定めするような視線もない。ただの見慣れない旅人として、町の人々はソフィアの前を通り過ぎた。その匿名性が、今のソフィアには心地よかった。
花屋の前で足を止めた。
白い小花、黄色い花、紫の花。薔薇もあったが、ソフィアの目は薔薇ではなく、小さな白い野花に止まった。旅の途中で摘んだあの花と同じ種類だった。
「これ、一束いただけますか」
「はい、どうぞ!旅の方ですか?」
花屋の老婆が、人懐っこい笑顔で答えた。
「しばらくこちらに滞在する予定です」
「それはよかった。いい町ですよ、ここは」
老婆の言葉に、ソフィアは微笑んだ。侯爵夫人の微笑みではなく、ただの、普通の微笑みで。
白い花束を手に持って、ソフィアは町の広場に出た。広場の中心には小さな噴水があり、水が柔らかく流れていた。石造りのベンチに腰を下ろし、花束を膝の上に置いた。
青い空が広がっていた。
雲が流れ、風が吹き、噴水の水が光を弾いた。ヴァルト侯爵邸の薔薇庭園も美しかったが、この広場の素朴な美しさは、また違う種類のものだった。
——ここで、少し休もう。
ソフィアは目を閉じた。風が頬を撫でた。白い花の淡い香りがした。
五年間張り続けた何かが、ゆっくりとほどけていく気がした。完璧である必要のない場所で、誰も知らない場所で、ただ風を感じていた。
しばらくして、目を開けた。
噴水の前で、子供が二人、水を手で掬って遊んでいた。笑い声が広場に響いた。その声が、なぜかとても遠くから来るもののように聞こえた。
——私も、笑えるようになるかしら。
本当の意味で。仮面ではなく、作り物でもなく、ただ笑えるようになるかしら。
答えはまだわからなかった。しかしこの町の朝の光の中で、その問いを持つことができるようになっただけで、今日はもう十分だった。
ソフィアは白い花束を胸に抱いて、静かに空を見上げた。
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