「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」

まさき

文字の大きさ
15 / 41

第十四話 仮面のない日々

第十四話 仮面のない日々
 
 エミリアの薬草店での最初の仕事は、干した薬草を種類ごとに仕分けることだった。
 
 店の奥の作業台に座り、エミリアに教わりながら、ソフィアは黙々と手を動かした。葉の形、茎の色、香りで種類を見分ける。最初は似たようなものばかりに見えたが、慣れてくると少しずつ違いがわかってきた。
 
「これはラベンダー。こっちはセージ。似てるけど香りが全然違うでしょ」
 
「本当ね。こちらの方が甘い香りがする」
 
「そう。ラベンダーは眠れないときや不安なときに使う薬草よ。セージは消化を助ける」
 
「薬草にそれぞれ意味があるのね」
 
「そう。花言葉みたいなものかな。知れば知るほど面白いのよ。ちなみにうちの夫のルカは最初全然覚えられなくて、今でも時々間違えるのよね」
 
 エミリアが笑いながら言った。ソフィアも思わず笑った。
 
 エミリアは楽しそうに話しながら、手際よく仕分けを進めていった。ソフィアは話を聞きながら、自分の手を動かし続けた。
 
 不思議なことに、この作業が嫌いではなかった。
 
 侯爵夫人として過ごした五年間は、常に人の目があった。社交界での立ち居振る舞い、使用人への指示、来客へのもてなし。何をするにも「見られている」という意識があった。しかしここでは、ただ手を動かすだけでいい。誰も見ていない。評価されない。ただ、薬草を仕分けるだけだ。
 
 その単純さが、心地よかった。
 
 昼過ぎになって、店に客が来た。
 
 六十代ほどの男性で、腰が悪いらしく、杖をついていた。エミリアと顔馴染みらしく、気軽に話しながら薬草を選んでいた。その様子をソフィアは作業台の奥から眺めていた。
 
「あんた、見慣れない顔だね。エミリアの知り合いかい?」
 
 老人がソフィアに気づいて、声をかけてきた。
 
「はい、幼馴染です。しばらくお世話になっています」
 
「そうかい。どこから来たんだい」
 
「王都から、少し離れた場所です」
 
「ほう。王都か、遠いところから来たねえ」
 
 老人はそれ以上詮索しなかった。王都から来た伯爵令嬢だとも、侯爵夫人だったとも、誰も知らない。ただの旅人として、気軽に声をかけてもらえる。それがソフィアには新鮮だった。
 
 夕方になって、エミリアの夫・ルカが店から戻ってきた。
 
 穏やかな目をした男性で、体格がよく、日に焼けた肌をしている。エミリアを見ると自然に笑顔になる、そういう男性だった。
 
「おかえり」
 
「ただいま。あ、ソフィアさんですね。エミリアからよく聞いています」
 
「はじめまして。お世話になります」
 
「いえいえ、こちらこそ。エミリアが張り切って料理を作ってますよ」
 
 ルカが笑いながら言った。エミリアが「余計なこと言わないで」と笑って返した。その二人のやり取りを見ながら、ソフィアは胸の奥でじんとするものを感じた。
 
 ——夫婦というのは、こういうものか。
 
 気軽に笑い合い、気軽に言葉を交わす。特別なことは何もない。しかしその当たり前の温かさが、ソフィアには眩しかった。
 
 五年間、セイルとこういう瞬間が一度でもあっただろうか。
 
 思い返しても、浮かんでこなかった。ただ並んでいた。ただ同じ屋根の下にいた。笑い合ったことも、くだらないことを話したことも、ほとんどなかった。
 
 ——もういい。
 
 ソフィアは静かに視線を外した。終わったことを引きずっても仕方がない。今は目の前にある温かさを、ただ受け取ればいい。
 
 夕食は四人でとった。
 
 エミリアの手料理は素朴で、しかし美味しかった。鶏肉と根菜の煮込み、黒パン、季節の野菜を使ったサラダ。侯爵家の料理長が作る洗練された料理とは違うが、食卓を囲む温かさが、料理をより美味しくしていた。
 
 マリアも同じテーブルに着いた。
 
 侯爵家では使用人と同じテーブルで食事をすることはなかった。しかしここではそういう決まりはない。エミリアが当たり前のようにマリアにも席を勧めた。マリアは最初遠慮していたが、ソフィアが小さく頷いたのを見て、静かに席に着いた。
 
 食事をしながら、エミリアがふと言った。
 
「ソフィア、今日薬草の仕分けしてるとき、楽しそうだったよ」
 
「そうかしら」
 
「うん。久しぶりに見た、あなたのそういう顔」
 
 エミリアが微笑んだ。
 
「子供の頃、何かに夢中になってるときのあなたの顔と、同じだった」
 
 ソフィアは少しだけ驚いた。子供の頃の自分の顔を、覚えていてくれている人がいた。侯爵夫人になる前の、ただのソフィアだった頃の顔を。
 
「……そんな顔、していたかしら」
 
「してたよ。またそういう顔が見られてよかった」
 
 エミリアの言葉は、さりげなかった。しかしその一言が、ソフィアの胸の奥にある何かをそっと解きほぐした。
 
 夕食が終わって、ソフィアは自分の部屋に戻った。
 
 窓から夜の町を眺めた。王都とは違う夜の静けさがあった。街灯の数も少なく、空には星が瞬いていた。王都ではほとんど見えなかった星が、ここでは無数に広がっていた。
 
 ソフィアは窓辺に座り、しばらく星を眺めた。
 
 今日一日を振り返った。薬草の仕分け、花屋の老婆、ルカとエミリアの笑顔、四人での夕食。どれも小さなことだった。しかしその小さなことが、今日のソフィアを確かに満たしていた。
 
 ——仮面をつけていない一日だった。
 
 そのことに、今更ながら気づいた。今日一日、侯爵夫人の顔を作らなかった。完璧な微笑みを練習しなかった。ただ、感じたままに笑い、感じたままに話した。
 
 それだけのことが、こんなにも疲れないのだと、今日初めて知った。
 
 ソフィアは窓を少し開けた。夜風が頬を撫でた。星の光が、白銀の髪をかすかに照らした。
 
 ——ここで、少しずつ取り戻そう。
 
 何を取り戻すのか、まだはっきりとはわからなかった。ただ、失くしてしまっていた何かが、この町にある気がした。
 
 ソフィアは静かに窓を閉めて、ベッドに横たわった。
 
 今夜も、ぐっすり眠れそうだった。
感想 36

あなたにおすすめの小説

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

「竣工おめでとうございます。施主はもう私ではないようなので」~建築家の妻を五年演じた私が離婚を決めたら、五年分の請求書をお渡しします~

まさき
恋愛
建築家の夫・蒼介を支えるため、自らのキャリアを捨てて五年。葉山澪は今日、離婚届にサインをもらった。 大学院時代、澪は蒼介と同じ建築家の卵だった。成績も評価も澪の方が高かった。それでも蒼介の「一緒にやろう」という言葉を信じ、彼の独立に全てを賭けた。事務所の実務、経理、クライアント対応——蒼介が設計だけに集中できるよう、澪は自分の図面を引くことをやめた。 三年目、蒼介は業界誌に「最も注目すべき若手建築家」として特集される。その記事に澪の名前はなかった。それでも澪は誇らしかった——四年目に、大手デベロッパーの敏腕プロジェクトマネージャー・桐嶋玲奈が現れるまでは。 玲奈と蒼介は打ち合わせのたびに盛り上がった。五年のブランクを抱える澪には、もう入り込む言葉がなかった。嫉妬も、訴えも、全て飲み込んだ。完璧な妻を演じ続けた。でも、もう十分だった。 家を出た澪は、大学時代の旧友の事務所に加わり、五年ぶりに設計と向き合う。最初は指が動かなかった。それでも、感覚は錆びていなかった。やがて澪が手がけた住宅が建築メディアに取り上げられ、業界に「葉山澪」の名前が静かに広がっていく。 一方、蒼介の事務所は澪の不在で混乱していた。澪が一人で回していた膨大な業務、澪が築いていたクライアントとの信頼——失って初めて、その大きさを知る。玲奈のプロジェクトにも重大なミスが発覚し、蒼介は初めて孤立する。業界の知人から「あの事務所の実務、奥さんがやってたんでしょう」と言われる日が来る。 後悔した蒼介は澪に連絡をとり、「愛している、戻ってきてほしい」と懇願する。澪の答えは静かで、明確だった。 「五年間、一度も私の名前を呼ばなかった人の言葉は、信じられません」 澪は蒼介に一枚の紙を渡す。金銭的な請求書ではない。五年間澪がやってきた全業務のリスト——蒼介の成功の、原価表だった。 そして澪が手がけた建物の竣工式。晴れた空の下、自分の名前が刻まれたプレートを見上げる。泣き終わった建築家の、静かで鮮やかな再生の物語。

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

あなたが後悔しても、私の愛はもう戻りません

藤原遊
恋愛
婚約者のアルベルトは、優しい人だった。 ただ――いつも、私より優先する存在がいただけで。 「君は分かってくれると思っていた」 その一言で、リーシェは気づいてしまう。 私は、最初から選ばれていなかったのだと。 これは、奪われた恋を取り戻す物語ではない。 後悔する彼と、もう戻らないと決めた私、 そして“私を選ぶ人”に出会うまでの、静かな恋の終わりと始まりの物語。

片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた

アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。 高校生くらいから何十回も告白した。 全て「好きなの」 「ごめん、断る」 その繰り返しだった。 だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。 紛らわしいと思う。 彼に好きな人がいるわけではない。 まだそれなら諦めがつく。 彼はカイル=クレシア23歳 イケメンでモテる。 私はアリア=ナターシャ20歳 普通で人には可愛い方だと言われた。 そんなある日 私が20歳になった時だった。 両親が見合い話を持ってきた。 最後の告白をしようと思った。 ダメなら見合いをすると言った。 その見合い相手に溺愛される。

三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください

まさき
恋愛
「別れてください」 笑顔で、声を震わせずに、澄花はそう言った。 三年間、夫の隣に立ち続けた。残業続きの夫を待ち、不満を飲み込み、完璧な妻を演じた。幼なじみの麗奈が現れるまでは、それが愛だと信じていた。 嫉妬も、怒りも、とうに泣き尽くしていた。残ったのは、静かな決意だけだった。 離婚届を差し出した翌朝、夫・誠は初めて泣いた。 ――遅すぎる。三年分、遅すぎる。 幼なじみに夫を奪われかけた妻が、すべてを手放す覚悟をしたとき、夫はようやく目を覚ます。泣き終わった女の強さと、取り戻せないものの重さを描く、夫婦の崩壊と再生の物語。

愛していると気づいたから、私はあなたを手放します

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
愛しているのに、触れられない。 幼なじみの夫は、こう言った。 「もう、女性を愛することはできない」と。 それでも「君がいい」と言い続ける彼と、 子どもを望む現実の間で、私は追い詰められていく。 だから決めた。 彼のためにも、私は他の誰かを探す。 ――そう思ったのに。 なぜあなたは、そんな顔で私を追いかけてくるの? これは、間違った優しさで離れた二人が、 もう一度、互いを選び直すまでの物語。 ※表紙はAI生成イラストを使用しています。

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。