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第三十八話 真夜中の扉【セイル視点】
第三十八話 真夜中の扉【セイル視点】
夜が深くなっても、眠れなかった。
宿の寝台に横になって、天井を見ていた。今日の話が、頭の中で何度も繰り返された。薔薇の話。三年目の春の朝。そして——もう一度、あなたの夫になりたい、と言ったこと。
言ってしまった、と思った。
言うつもりはなかった。今日はまだ、そういう話をする段階ではないと思っていた。ソフィアの問いに答えていたら、気づいたら口から出ていた。
ソフィアは、すぐには答えなかった。
当然だと思った。五年間の重さが、簡単に答えられるものではない。それは分かっていた。分かっていたが、あの沈黙の間、セイルの中で何かが静かに緊張していた。
受け取った、と言ってくれた。
それで十分だと、今は思っている。答えを急がないと言ったのは自分だ。ソフィアが受け取ってくれた。それ以上を今日に求めるべきではない。
でも、眠れなかった。
深夜、セイルは起き上がった。
眠れないなら、起きていればいい。そう思って、上着を羽織って宿の窓を開けた。夜風が入ってきた。冷たいが、湿り気があった。春の夜の空気だった。
星が出ていた。
王都より、やはりよく見える。この町に来るたびに、そう思う。ソフィアはこの星を、毎晩見ているのだろうか。今夜も、眠れずにいるだろうか。
——いや。
セイルは、その考えを止めた。
ソフィアが眠れているかどうかを、今の自分が心配することは、まだ許されない気がした。心配する資格は、これから作るものだ。今夜ではない。
窓を閉めて、椅子に座った。
今日のことを、もう一度整理した。
薔薇の話を聞いた。赤と、白と、桃色。それぞれの理由を。意味のない桃色が一番自分らしいと、ソフィアは言った。
——意味のない方が、自分らしい。
その言葉が、ずっと頭に残っていた。
侯爵夫人として全てに意味を持たせようとしていた女が、意味のない花を一番好きだったと言った。その言葉の中に、ソフィアという人間の核心があった気がした。
完璧な仮面の下に、そういう人間がいた。
五年間、その人間を見ようとしなかった。
三年目の春の朝のことを、また思い出した。窓から見ていた。綺麗だと思った。声をかけなかった。
気づいていたと、ソフィアは言った。
気づいていて、気づかないふりをした。顔に出して、気づかれなかったら傷つくと思ったから。
——二人して、傷つくことを怖れていた。
その事実が、今夜は特別に重く感じた。
怖れていたのは自分だけではなかった。ソフィアも、同じように怖れていた。だとすれば、どちらかが一歩踏み込めば、あの五年間は違うものになっていたかもしれない。
たられば、だと分かっていた。
だが、今夜は少し違う角度からその事実が迫ってきた。どちらかが踏み込めばよかった、という後悔ではなく——次は、自分が踏み込む、という決意として。
夜が少し白み始めた頃、セイルはようやく横になった。
眠れるかどうかは分からなかった。でも、目を閉じた。
明日、もう一度会いに行く。
今日言えなかったことが、まだある。言いたいことが、まだある。一度の訪問で全てを言い尽くすことは、自分にも、ソフィアにも、重すぎる。少しずつ、丁寧に。
それが、今の自分にできることだった。
——ソフィア。
名前を、今度は少し声に出した。
誰もいない宿の部屋に、低い声が落ちた。五年間呼ばなかった名前が、今は一番自然な言葉になっていた。
遅すぎた。
でも、遅すぎたことを言い訳にはしない。
夜明けの光が、窓の端から少しずつ滲んでいた。
セイルは目を閉じたまま、明日のことだけを考えた。
今日より少し、前へ進めるように。
夜が深くなっても、眠れなかった。
宿の寝台に横になって、天井を見ていた。今日の話が、頭の中で何度も繰り返された。薔薇の話。三年目の春の朝。そして——もう一度、あなたの夫になりたい、と言ったこと。
言ってしまった、と思った。
言うつもりはなかった。今日はまだ、そういう話をする段階ではないと思っていた。ソフィアの問いに答えていたら、気づいたら口から出ていた。
ソフィアは、すぐには答えなかった。
当然だと思った。五年間の重さが、簡単に答えられるものではない。それは分かっていた。分かっていたが、あの沈黙の間、セイルの中で何かが静かに緊張していた。
受け取った、と言ってくれた。
それで十分だと、今は思っている。答えを急がないと言ったのは自分だ。ソフィアが受け取ってくれた。それ以上を今日に求めるべきではない。
でも、眠れなかった。
深夜、セイルは起き上がった。
眠れないなら、起きていればいい。そう思って、上着を羽織って宿の窓を開けた。夜風が入ってきた。冷たいが、湿り気があった。春の夜の空気だった。
星が出ていた。
王都より、やはりよく見える。この町に来るたびに、そう思う。ソフィアはこの星を、毎晩見ているのだろうか。今夜も、眠れずにいるだろうか。
——いや。
セイルは、その考えを止めた。
ソフィアが眠れているかどうかを、今の自分が心配することは、まだ許されない気がした。心配する資格は、これから作るものだ。今夜ではない。
窓を閉めて、椅子に座った。
今日のことを、もう一度整理した。
薔薇の話を聞いた。赤と、白と、桃色。それぞれの理由を。意味のない桃色が一番自分らしいと、ソフィアは言った。
——意味のない方が、自分らしい。
その言葉が、ずっと頭に残っていた。
侯爵夫人として全てに意味を持たせようとしていた女が、意味のない花を一番好きだったと言った。その言葉の中に、ソフィアという人間の核心があった気がした。
完璧な仮面の下に、そういう人間がいた。
五年間、その人間を見ようとしなかった。
三年目の春の朝のことを、また思い出した。窓から見ていた。綺麗だと思った。声をかけなかった。
気づいていたと、ソフィアは言った。
気づいていて、気づかないふりをした。顔に出して、気づかれなかったら傷つくと思ったから。
——二人して、傷つくことを怖れていた。
その事実が、今夜は特別に重く感じた。
怖れていたのは自分だけではなかった。ソフィアも、同じように怖れていた。だとすれば、どちらかが一歩踏み込めば、あの五年間は違うものになっていたかもしれない。
たられば、だと分かっていた。
だが、今夜は少し違う角度からその事実が迫ってきた。どちらかが踏み込めばよかった、という後悔ではなく——次は、自分が踏み込む、という決意として。
夜が少し白み始めた頃、セイルはようやく横になった。
眠れるかどうかは分からなかった。でも、目を閉じた。
明日、もう一度会いに行く。
今日言えなかったことが、まだある。言いたいことが、まだある。一度の訪問で全てを言い尽くすことは、自分にも、ソフィアにも、重すぎる。少しずつ、丁寧に。
それが、今の自分にできることだった。
——ソフィア。
名前を、今度は少し声に出した。
誰もいない宿の部屋に、低い声が落ちた。五年間呼ばなかった名前が、今は一番自然な言葉になっていた。
遅すぎた。
でも、遅すぎたことを言い訳にはしない。
夜明けの光が、窓の端から少しずつ滲んでいた。
セイルは目を閉じたまま、明日のことだけを考えた。
今日より少し、前へ進めるように。
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