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第1話:拾った美女、濡れすぎ問題
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第1話:拾った美女、濡れすぎ問題
最悪な一日だった。
期末テストの答案が返ってきて、数学が18点。
18点って何だよ。100点満点で。
隣の席の山田が「お前、答案用紙に名前だけは書けたな」と慰めてきたのが、余計に傷ついた。
「……帰ろ」
七月の夜、僕――神崎翔は傘もささず、じとじとした雨の中をアパートへ向かって歩いていた。
どうせ五分で着く。どうせ誰も待っていない。
高校二年生、十七歳。特技なし。目標なし。成績は下から数えた方が早い。
我ながら、清々しいくらい何もない。
……まあ、なんとかなるか。
いつもそう思って、いつもなんとかならない。
それが僕のデフォルトだ。
「……ん?」
アパートの入り口脇、街灯の薄明かりの下に、誰かがいた。
大きなスーツケースを脇に置いて、壁にもたれてずるずる崩れかけている。女性だ。年上、たぶん大学生くらい。雨でぐっしょり濡れた黒髪が、白い頬に張り付いている。
僕は三秒、眺めた。
放っておくという選択肢は、一秒で消えた。
「ちょっ、大丈夫ですか!?」
駆け寄って、崩れかけた体を咄嗟に支えた。
その瞬間、気づいてしまった。
彼女が着ているのは、白いブラウス。
雨でびしょびしょに濡れた、白いブラウスだ。
……その、透けた布の向こうに、あるものが。
み、見るな見るな見るな俺――!!
脳内で全力の自制を発動しながら、僕は視線を彼女の顔面に固定した。
顔も、かなりまずかった。
目鼻立ちが整っていて、濡れた睫毛が頬に影を作っていて、唇が半開きで。
どこ見ても駄目だこれ。
「……ん」
睫毛が、ゆっくりと動いた。
「気づきました? よかった。立てますか?」
「…………着いた」
「え?」
「やっと……着いた……」
安堵したように呟いて、彼女はまたがくりと傾いた。
「っと……!」
支え直した瞬間、距離が縮まった。
いい香りがした。雨の匂いと、花みたいな何かと。
発熱してる……? というかこの状況どこ見ればいいんだ本当に。
なんとか共用廊下まで連れ込んで、雨をしのがせた。
自販機で温かいお茶を買って差し出すと、彼女は震える手で受け取って、一口飲んで、ほうっと息をついた。
「……ありがとうございます」
「いえ。あの、このアパートに何か用ですか?」
「202号室」
「……それ、僕の部屋ですけど」
沈黙。
彼女がゆっくりこちらを向いた。雨粒がついた睫毛のまま、まじまじと僕を見る。
「あなたが神崎翔くん?」
「そうですけど……」
「よかった」
彼女は、心底安堵したように息をついた。
「桐島咲楽。二十三歳、東大大学院一年。今日からあなたの家庭教師です」
「……は?」
「それと」
少し間を置いて、真剣な顔になった。
「諸事情で住む場所がなくなったので、しばらく一緒に住まわせてください。家賃の代わりに、勉強を全力で教えます」
「…………」
疑問が四十個くらい同時発生した。
でも、眼の前の彼女は全身ずぶ濡れで、微かに震えていて。
「……とりあえず上がってください。倒れられたら困るんで」
咲楽さんはぱちりと瞬きして、それから――少し笑った。
……笑うと、また別方向でまずい顔をしてる、この人。
「ありがとう、翔くん」
下の名前で呼ばれた瞬間、心臓が変な音を立てた。
部屋に上がった直後、事件が起きた。
「着替えをお借りできますか」
「あ、はい、ちょっと待って――」
タンスをごそごそやっていたら、背後でがたん、と音がした。
振り返ると、咲楽さんがスーツケースにつまずいて、見事に転んでいた。
「……いたた」
「大丈夫ですか!?」
「平気です、慣れてるので」
「慣れてるんですか転ぶことに」
「段差によく引っかかるので」
東大大学院生が床で足を押さえながらさらっと言った。
しかも立ち上がろうとしてまたよろけた。
何なんだこの人……。
手を貸すと、咲楽さんは「ありがとうございます」と言いながら立ち上がり、そのまま僕の手をぎゅっと握り続けた。
「……あの、咲楽さん」
「はい」
「手」
「あ」
ぱっと放された。耳が、うっすら赤くなっていた。
「す、すみません。なんか安心してしまって」
か、可愛い……って何考えてんだ俺は。
着替えてもらっている間、廊下で壁に背中を預けて天井を仰いだ。
……待って、何この状況。
家庭教師が来るとは聞いていなかった。というか、誰から? なんで? 同居って何?
ドアが開いた。
「お待たせしました」
咲楽さんが、僕のTシャツとスウェット姿で出てきた。
身長差のせいで、Tシャツの裾がスウェットにかぶさって、全体的にぶかぶかで。
……それがなぜか、やばいくらい似合っていた。
髪もタオルで拭いて、さっきよりほぐれて。
やばい、普通にやばい、なんかいろいろやばい。
「翔くん?」
「何でもないです」
「顔が赤いですよ」
「暑いんです七月なので」
「エアコンついてますけど」
「暑いんです!!」
咲楽さんが首を傾けた。不思議そうな顔で、まったく無自覚なところが、また余計だった。
テーブルに向かい合って座ると、咲楽さんがバッグから小さなノートを取り出した。
表紙には「研究記録」と書かれていたが、彼女はさっとバッグに戻した。
……研究記録?
気になったが、聞く前に咲楽さんが口を開いた。
「成績表、見せてもらえますか」
渡すと、さっと目を通して。
「……偏差値42。でも、国語の読解だけ平均以上ですね」
「……どうせ壊滅的でしょ」
「やり方が悪いだけです」
即答だった。
「三ヶ月で偏差値60は超えられます」
「……本気で言ってますか」
「本気で言わないことは言いません」
咲楽さんが真っ直ぐ僕を見た。
「できない子なんていません。私、本当にそう思ってます」
断言なのに、押しつけがましくない。本当に信じてるみたいな声だったから。
「……わかりました。お願いします」
「よかった」
ほっとした顔になった瞬間、ぐぅ、と小さな音が鳴った。
咲楽さんのお腹の辺りから。
沈黙。
咲楽さんが、みるみる赤くなった。
「……お腹、空いてますよね」
「す、すみません……」
「今日ご飯食べましたか」
「……朝は食べました」
「今、夜の九時ですよ」
「色々バタバタしていたので……」
東大大学院生が、しゅんとした顔で俯いた。
……ほっとけないだろこれは。
「卵かけご飯でよければすぐ作れますけど」
「……食べます」
「即答だ」
立ち上がりながら、僕は冷蔵庫を開けた。
その時、ふと「研究記録」という文字が頭をよぎった。
……まあ、いいか。
深く考えるのは、また今度にした。
天才なのかドジなのか天然なのか、まったく掴めない人だった。
でも、「できない子なんていない」という言葉が、頭の中にじわじわ残っていた。
……信じてみようか。少しくらい。
「咲楽さん」
「はい」
「明日から、よろしくお願いします」
咲楽さんが、ふわりと笑った。
「こちらこそ。……絶対に、合格させてみせます」
……やばい、笑顔もずるい。
卵を手に取りながら、僕は小さくため息をついた。
やばい同居生活が、今夜から始まった。
第1話 完
最悪な一日だった。
期末テストの答案が返ってきて、数学が18点。
18点って何だよ。100点満点で。
隣の席の山田が「お前、答案用紙に名前だけは書けたな」と慰めてきたのが、余計に傷ついた。
「……帰ろ」
七月の夜、僕――神崎翔は傘もささず、じとじとした雨の中をアパートへ向かって歩いていた。
どうせ五分で着く。どうせ誰も待っていない。
高校二年生、十七歳。特技なし。目標なし。成績は下から数えた方が早い。
我ながら、清々しいくらい何もない。
……まあ、なんとかなるか。
いつもそう思って、いつもなんとかならない。
それが僕のデフォルトだ。
「……ん?」
アパートの入り口脇、街灯の薄明かりの下に、誰かがいた。
大きなスーツケースを脇に置いて、壁にもたれてずるずる崩れかけている。女性だ。年上、たぶん大学生くらい。雨でぐっしょり濡れた黒髪が、白い頬に張り付いている。
僕は三秒、眺めた。
放っておくという選択肢は、一秒で消えた。
「ちょっ、大丈夫ですか!?」
駆け寄って、崩れかけた体を咄嗟に支えた。
その瞬間、気づいてしまった。
彼女が着ているのは、白いブラウス。
雨でびしょびしょに濡れた、白いブラウスだ。
……その、透けた布の向こうに、あるものが。
み、見るな見るな見るな俺――!!
脳内で全力の自制を発動しながら、僕は視線を彼女の顔面に固定した。
顔も、かなりまずかった。
目鼻立ちが整っていて、濡れた睫毛が頬に影を作っていて、唇が半開きで。
どこ見ても駄目だこれ。
「……ん」
睫毛が、ゆっくりと動いた。
「気づきました? よかった。立てますか?」
「…………着いた」
「え?」
「やっと……着いた……」
安堵したように呟いて、彼女はまたがくりと傾いた。
「っと……!」
支え直した瞬間、距離が縮まった。
いい香りがした。雨の匂いと、花みたいな何かと。
発熱してる……? というかこの状況どこ見ればいいんだ本当に。
なんとか共用廊下まで連れ込んで、雨をしのがせた。
自販機で温かいお茶を買って差し出すと、彼女は震える手で受け取って、一口飲んで、ほうっと息をついた。
「……ありがとうございます」
「いえ。あの、このアパートに何か用ですか?」
「202号室」
「……それ、僕の部屋ですけど」
沈黙。
彼女がゆっくりこちらを向いた。雨粒がついた睫毛のまま、まじまじと僕を見る。
「あなたが神崎翔くん?」
「そうですけど……」
「よかった」
彼女は、心底安堵したように息をついた。
「桐島咲楽。二十三歳、東大大学院一年。今日からあなたの家庭教師です」
「……は?」
「それと」
少し間を置いて、真剣な顔になった。
「諸事情で住む場所がなくなったので、しばらく一緒に住まわせてください。家賃の代わりに、勉強を全力で教えます」
「…………」
疑問が四十個くらい同時発生した。
でも、眼の前の彼女は全身ずぶ濡れで、微かに震えていて。
「……とりあえず上がってください。倒れられたら困るんで」
咲楽さんはぱちりと瞬きして、それから――少し笑った。
……笑うと、また別方向でまずい顔をしてる、この人。
「ありがとう、翔くん」
下の名前で呼ばれた瞬間、心臓が変な音を立てた。
部屋に上がった直後、事件が起きた。
「着替えをお借りできますか」
「あ、はい、ちょっと待って――」
タンスをごそごそやっていたら、背後でがたん、と音がした。
振り返ると、咲楽さんがスーツケースにつまずいて、見事に転んでいた。
「……いたた」
「大丈夫ですか!?」
「平気です、慣れてるので」
「慣れてるんですか転ぶことに」
「段差によく引っかかるので」
東大大学院生が床で足を押さえながらさらっと言った。
しかも立ち上がろうとしてまたよろけた。
何なんだこの人……。
手を貸すと、咲楽さんは「ありがとうございます」と言いながら立ち上がり、そのまま僕の手をぎゅっと握り続けた。
「……あの、咲楽さん」
「はい」
「手」
「あ」
ぱっと放された。耳が、うっすら赤くなっていた。
「す、すみません。なんか安心してしまって」
か、可愛い……って何考えてんだ俺は。
着替えてもらっている間、廊下で壁に背中を預けて天井を仰いだ。
……待って、何この状況。
家庭教師が来るとは聞いていなかった。というか、誰から? なんで? 同居って何?
ドアが開いた。
「お待たせしました」
咲楽さんが、僕のTシャツとスウェット姿で出てきた。
身長差のせいで、Tシャツの裾がスウェットにかぶさって、全体的にぶかぶかで。
……それがなぜか、やばいくらい似合っていた。
髪もタオルで拭いて、さっきよりほぐれて。
やばい、普通にやばい、なんかいろいろやばい。
「翔くん?」
「何でもないです」
「顔が赤いですよ」
「暑いんです七月なので」
「エアコンついてますけど」
「暑いんです!!」
咲楽さんが首を傾けた。不思議そうな顔で、まったく無自覚なところが、また余計だった。
テーブルに向かい合って座ると、咲楽さんがバッグから小さなノートを取り出した。
表紙には「研究記録」と書かれていたが、彼女はさっとバッグに戻した。
……研究記録?
気になったが、聞く前に咲楽さんが口を開いた。
「成績表、見せてもらえますか」
渡すと、さっと目を通して。
「……偏差値42。でも、国語の読解だけ平均以上ですね」
「……どうせ壊滅的でしょ」
「やり方が悪いだけです」
即答だった。
「三ヶ月で偏差値60は超えられます」
「……本気で言ってますか」
「本気で言わないことは言いません」
咲楽さんが真っ直ぐ僕を見た。
「できない子なんていません。私、本当にそう思ってます」
断言なのに、押しつけがましくない。本当に信じてるみたいな声だったから。
「……わかりました。お願いします」
「よかった」
ほっとした顔になった瞬間、ぐぅ、と小さな音が鳴った。
咲楽さんのお腹の辺りから。
沈黙。
咲楽さんが、みるみる赤くなった。
「……お腹、空いてますよね」
「す、すみません……」
「今日ご飯食べましたか」
「……朝は食べました」
「今、夜の九時ですよ」
「色々バタバタしていたので……」
東大大学院生が、しゅんとした顔で俯いた。
……ほっとけないだろこれは。
「卵かけご飯でよければすぐ作れますけど」
「……食べます」
「即答だ」
立ち上がりながら、僕は冷蔵庫を開けた。
その時、ふと「研究記録」という文字が頭をよぎった。
……まあ、いいか。
深く考えるのは、また今度にした。
天才なのかドジなのか天然なのか、まったく掴めない人だった。
でも、「できない子なんていない」という言葉が、頭の中にじわじわ残っていた。
……信じてみようか。少しくらい。
「咲楽さん」
「はい」
「明日から、よろしくお願いします」
咲楽さんが、ふわりと笑った。
「こちらこそ。……絶対に、合格させてみせます」
……やばい、笑顔もずるい。
卵を手に取りながら、僕は小さくため息をついた。
やばい同居生活が、今夜から始まった。
第1話 完
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