「既婚と知りながら3年愛した私が、奥さんの涙を見てようやく取り返しのつかないことをしたと気づきました」

まさき

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第十三話「さくらの運動会」

第十三話「さくらの運動会」

十一月の終わりだった。
朝晩の冷え込みが、本格的になってきた。
職場の暖房が入って、空気が乾燥した。
加湿器を買おうと思いながら、買えていなかった。
 
その日は金曜日だった。
午後から会議が続いて、気づいたら夕方になっていた。
大輔さんは午前中から機嫌がよさそうだった。
いつもと同じ表情なのに、なんとなく、そう感じた。
三ヶ月で、そういうことがわかるようになっていた。
わかるようになっていることを、少し複雑に思った。
 
定時近くになって、大輔さんが席を立った。
引き出しから何かを取り出して、鞄に入れた。
いつもより早く帰る準備をしていた。
 
「木下さん、今日早いですね」
 
田中さんが声をかけた。
 
「ええ、明日さくらの運動会なので」
 
大輔さんが、笑顔で答えた。
職場で見せる表情より、柔らかかった。
さくらの話をするときの顔だった。
 
運動会。
その言葉が、耳に入ってきた瞬間、胸の奥で何かが固まった。
 
「あら、いいじゃないですか。何歳でしたっけ」
 
「七歳になりました。かけっこ、頑張るって言ってて」
 
七歳。
さくらちゃんが、七歳になっていた。
誕生日がいつかも、知らなかった。
知らないまま、七歳になっていた。
 
「お父さんに見てもらいたいんでしょうね」
 
「そうみたいで。昨日の夜、絶対来てねって言われました」
 
大輔さんは、少し照れくさそうに言った。
娘に絶対来てね、と言われた父親の顔だった。
その顔を、私は見てしまった。
 
見なければよかった。
でも、見てしまった。
 
大輔さんは鞄を持って、じゃあお先に失礼します、と言って出ていった。
田中さんが、いってらっしゃい、と言った。
私は何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
 
席に戻って、パソコンの画面を見た。
画面が、滲んで見えた。
泣いているわけではなかった。
泣いてはいけなかった。
 
でも、胸の奥で何かが、ゆっくりと崩れていく感覚があった。
 
さくらちゃんは明日、かけっこを頑張る。
大輔さんに見てもらいたくて、絶対来てねと言った。
大輔さんは、早退して帰った。
優子さんと三人で、明日の運動会に行くのだろう。
お父さんとお母さんと、さくらちゃんと。
三人で、行くのだろう。
 
それが、正しいことだった。
それが、あるべき姿だった。
わかっていた。
 
わかっていたのに、胸が痛かった。
痛いと思うことを、止められなかった。
 
仕事が終わって、一人で帰った。
電車の中で、スマホを見た。
大輔さんからのLINEはなかった。
当たり前だった。
今夜は家族と過ごしている。
当たり前のことだった。
 
でも、LINEがないことが、こんなに静かに刺さるとは思っていなかった。
刺さることに、慣れなかった。
慣れたくなかった。
 
家に帰って、ご飯を食べた。
一人でテーブルに座って、一人で食べた。
テレビをつけたけど、内容が入ってこなかった。
静かだった。
静かすぎた。
 
ふと、思った。
大輔さんの家は今頃、にぎやかなのだろうと。
さくらちゃんが明日の運動会の話をして、大輔さんが笑って、優子さんが夕食を作って。
三人が、同じテーブルを囲んでいる。
 
それが、家族というものだった。
私にはない、あたたかさだった。
ないことを、誰かのせいにはできなかった。
自分で選んだ道の先に、一人のテーブルがあった。
 
お風呂に入って、ベッドに入った。
眠れなかった。
天井を見ながら、さくらちゃんのことを考えた。
明日、かけっこを頑張るさくらちゃんのことを。
前歯が抜けた笑顔で、お父さんを探すさくらちゃんのことを。
 
その笑顔の中に、私はいない。
当たり前だった。
当たり前なのに、その当たり前が、夜中に一人でいると、ひどく重かった。
 
翌日の土曜日、私は一人で部屋にいた。
特に何もしなかった。
本を読もうとして、読めなかった。
音楽をかけようとして、やめた。
 
昼過ぎに、大輔さんからLINEが来た。
さくら、一等賞でした。
写真が一枚、添付されていた。
 
開けなかった。
開けたくなかった。
開けたら、何かが壊れる気がした。
 
しばらくしてから、開けた。
結局、開けてしまった。
 
写真の中で、さくらちゃんが笑っていた。
一等賞のリボンを胸に下げて、全力で笑っていた。
隣に大輔さんがいた。
肩を並べて、二人で笑っていた。
 
優子さんが撮ったのだろう、と思った。
この写真を撮った人が、いる。
シャッターを押した人が、いる。
 
よかったですね、と返信した。
それだけだった。
それしか、送れなかった。
 
既読がついた。
返信はしばらく来なかった。
家族と過ごしているのだろうと思った。
そうであるべきだった。
 
窓の外は、晴れていた。
運動会日和だった。
青い空が、綺麗だった。
綺麗だと思いながら、カーテンを閉めた。
 
第十三話 完
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