「今更、あなたの娘のふりなどできません」〜ずっと支えていた手を、そっと引っ込めただけです〜

まさき

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第十五話「それでも、遅すぎた」

第十五話「それでも、遅すぎた」
 
 
 リーナが屋敷を去って、二ヶ月が経った。
 
 
 カトリナが倒れたのは、ある朝のことだった。
 
 
  ◇
 
 
 起き上がれない、とカトリナが言った。
 
 
 体がだるくて、頭が重くて、熱はないのに何もする気が起きない。ソフィアが医者を呼んだ。医者は一通り診察して、「疲労からくる体調不良」と言った。しばらく安静に、ということだった。
 
 
 でも翌日、マリアも同じことを言い始めた。
 
 
「お母様、私も体がだるくて」
 
 
「あなたまで」
 
 
 ソフィアは眉を寄せた。
 カトリナとマリアが同時に体調を崩すことは、これまでなかった。
 
 
「熱は?」
 
 
「ないんだけど。なんか、力が入らなくて」
 
 
 医者をもう一度呼んだ。同じ診断だった。疲労、安静。
 
 
 ソフィア自身も、ここ数週間、体が重い日が続いていた。
 
 
  ◇
 
 
 アルベルトは書斎で、ヘルタを呼んだ。
 
 
「屋敷の者たちの体調不良について、何か知っているか」
 
 
 ヘルタは少し間を置いた。
 
 
「医者には原因不明と言われています」
 
 
「わかっている。それ以外に、何か心当たりはないか」
 
 
 ヘルタはアルベルトを見た。
 この旦那様が、こういう聞き方をするのは珍しい。本気で困っているのだろう。
 
 
「……一つだけ、申し上げてもいいですか」
 
 
「言いなさい」
 
 
「リーナさんがいた頃、屋敷の中の調子がよかったんです。私の膝も、オットーさんの花壇も、グレタさんのパンも。使用人みんなの体の具合も。リーナさんがいなくなってから、全部が少しずつ悪くなりました」
 
 
 アルベルトはしばらく黙っていた。
 
 
「あの子がいなくなったことと、今の不調が関係していると」
 
 
「関係があるかどうかは、わかりません。ただ——時期が重なっています」
 
 
「根拠はあるのか」
 
 
「ありません。でも、二ヶ月間そう感じ続けています」
 
 
 アルベルトはまた黙った。
 長い沈黙だった。
 
 
「リーナはどこに行ったかわかるか」
 
 
「わかりません。何も言わずに出ていきましたから」
 
 
「……そうか」
 
 
 ヘルタは一礼して、書斎を出た。
 
 
  ◇
 
 
 その夜、アルベルトはソフィアに話した。
 
 
「リーナを探してみようと思う」
 
 
 ソフィアは驚いた顔をした。
 
 
「リーナを? なぜ今更」
 
 
「屋敷の不調と関係があるかもしれない」
 
 
「でも、それは——」
 
 
「根拠はない。だが、試す価値はある」
 
 
 ソフィアはしばらく黙っていた。
 
 
「……あの子に、何か特別な力があったということ?」
 
 
「ヘルタがそう言っていた。私にはわからん。でも、このまま何もしないよりはいい」
 
 
 ソフィアは窓の外を見た。
 
 
 特別な力。
 三年間、あの子が屋敷にいた。食事の席も用意せず、名前も覚えず、将来の話も本人に伝えなかった。それでもあの子は毎朝早く起きて、黙って働いていた。
 
 
「……探しましょう」
 
 
 ソフィアはそれだけ言った。
 
 
 罪悪感、という言葉を、ソフィアはあまり使ったことがない。でも今夜は、その言葉が頭の中をよぎった。
 
 
  ◇
 
 
 翌朝、カトリナがソフィアの部屋に来た。
 
 
「お父様がリーナを探すって本当?」
 
 
「本当よ」
 
 
「なんで今更」
 
 
 カトリナは少し不機嫌そうだった。でも、その不機嫌さは——いつものそれとは少し違う気がした。
 
 
「屋敷の不調と関係があるかもしれないから」
 
 
「……リーナが何かしてたってこと?」
 
 
「そうかもしれない」
 
 
 カトリナは黙った。
 
 
「私、リーナに対してひどいことしてたかな」
 
 
 唐突な言葉だった。ソフィアは少し驚いてカトリナを見た。
 
 
「リーネって呼んでたし。用事ばっかり頼んでたし。お茶の温度とかで怒ったりもしてたし」
 
 
「……そうね」
 
 
「でも別に、嫌いだったわけじゃなくて。なんか、いて当たり前だと思ってたから」
 
 
 カトリナはそれだけ言って、部屋を出た。
 
 
 ソフィアは鏡の中の自分を見た。
 
 
 いて当たり前。
 自分も、そう思っていたかもしれない。
 あの子が何をしてくれていたか、何を感じていたか、一度も考えたことがなかった。
 
 
  ◇
 
 
 アルベルトは人を雇って、リーナの行方を調べさせることにした。
 
 
 ただし、情報は少なかった。
 リーナが屋敷を出た方角。年齢と外見。それだけだ。
 姓はヴェルナーだが、それは継父の姓で、本人が使うかどうかはわからない。
 
 
「本人の姓は?」
 
 
 調査を任せた男がそう聞いた。
 
 
 アルベルトは、答えられなかった。
 
 
 三年間、一緒に暮らしていた。それなのに、この子の本当の姓を知らなかった。
 
 
「……調べてみる」
 
 
 アルベルトはそう言って、ソフィアに聞いた。ソフィアは少し考えてから答えた。
 
 
「ランツ、だったと思います。前の夫の姓で」
 
 
「リーナ・ランツ、か」
 
 
 アルベルトはその名前を、静かに書き留めた。
 
 
 三年間、一度も正しく呼ばなかった名前を、今更紙の上に書いている。
 
 
 遅すぎる、とはわかっていた。
 それでも、書かずにはいられなかった。
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