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第2話:170センチの視線、176センチの自負
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第2話:170センチの視線、176センチの自負
深夜三時。店内は、冷蔵庫のモーター音だけが異様に大きく聞こえる時間帯に入っていた。
外を走る車の音も途絶え、自動ドアが一度も開かないまま三十分が過ぎる。この時間、世界には俺と彼女の二人しか存在しないのではないかという、身勝手な錯覚が頭をよぎる。
俺はレジカウンターの中で、タバコの棚を整理していた。
整然と並んだ各銘柄。その中に混じる「ラーク」の赤いパッケージを見るたび、さっき事務所で吸い込まされた煙が、まだ肺の奥の、血管の細いところにまで沈殿しているような気がしてならない。
タバコを吸わない俺にとって、その匂いは彼女そのものの記号だった。
「……ねえ。君、さっきから私のこと見てる?」
カウンターの反対側、スナック菓子の棚を整えていた彼女が、背中を向けたまま声をかけてきた。
俺は心臓が跳ねるのを抑え、慌てて視線を納品伝票の数字に戻す。
「見てませんよ。棚の在庫を確認してただけです」
「ふーん。にしては、さっきからずっとポテトチップスの裏側の文字、読んでるみたいだけど。そんなに原材料が気になる?」
彼女はくすくすと笑いながら立ち上がり、ゆっくりとレジの方へ歩いてきた。
歩くたびに、キュッ、キュッ、とゴム底が床を噛む音がする。彼女が履いているのは、いつもの底の薄い、履き潰されたキャンバス地のスニーカーだ。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えないが、その飾らない質感が、彼女という人間を象徴しているようでもあった。
彼女がカウンターの横、俺のすぐ隣まで来ると、俺は無意識に背筋を伸ばした。
男としては平均より少し高い俺だが、並んで立てば、俺の視線は彼女の少し上を通る。その僅かな余裕だけが、俺が彼女の前で平静を保つための、唯一の、そしてひどく脆い防波堤だった。この距離感があるからこそ、俺は彼女に対して「後輩の男」として、辛うじて対等に近い口を利けるのだと自分に言い聞かせている。
「……先輩。いつも、それですよね」
「それって?」
「その靴。もっと、ほら。背が高いんだから、ヒールとか履けば似合うのに」
彼女はカウンターに肘をつき、体重を預けて俺を見上げるようにして目を細めた。
茶髪のパーマが少し顔にかかり、その隙間から覗く瞳が、深夜の蛍光灯を反射してガラス玉のように冷たく、けれど熱く光る。その角度だと、彼女の細い首筋のラインが強調され、俺の少し高いはずの視界は、簡単に足元から崩れ去る。
「……嫌味? 私、これ以上デカくなりたくないの。可愛くないでしょ」
「嫌味じゃないですよ。ただ、もったいないなと思って。スタイルいいんだし、もっと華やかな靴を履けば、モデルみたいに見えるのに」
「もったいない、ねえ。君、女の人のこと何も分かってないでしょ。それとも、私が君より高くなったら困る理由でもあるの?」
彼女は鼻で笑い、レジカウンターに置いてあった俺のハンドクリーム――乾燥する冬の夜勤でひび割れた指先を保護するための、無香料で味気ない実用品――を手に取った。彼女の指先は、ラークのヤニの匂いが微かにするが、その指自体は驚くほど白く、細い。
「私がこれ以上高くなったら、男の人がみんな逃げてっちゃう。君だって、私に自分より高くなられたら、今みたいに偉そうに喋れなくなるでしょ? この『差』が、君のプライドなんでしょ」
心臓を素手で掴まれたような感覚だった。
俺が彼女に「ヒールを履けばいい」なんて言ったのは、彼女の美しさを肯定したいという純粋な気持ちの裏側で、「でも、俺よりは低いままでいてくれ」という卑屈な願望が透けて見えていたからに他ならない。自分が彼女を「見下ろせる」位置にいることで、男としての優位性を確認したかったのだ。
「……男は、その数センチが大事なんです」
「バカだね。たったそれだけでしょ。誤差みたいなもんじゃない。一歩踏み出せば、そんな距離、すぐになくなるのに」
彼女はハンドクリームを俺の手に押し返すようにして戻し、そのまま俺の額を指先で軽く小突いた。
一瞬だけ触れた指先の熱。それだけで、俺の頭の中はショートしそうになる。
170センチの彼女が、俺の、その神聖にして不可侵なはずの領域を、いとも簡単に土足で踏み越えてくる。
「男の人は『高さ』でマウントを取りたがるけどさ。女はね、どこを見てるか知ってる?」
彼女は不意に、顔を俺の耳元に寄せた。
ふわりと、事務所で嗅いだあのラークの残り香と、彼女の体温が混ざり合った匂いがした。
「……どこを見てるんですか」
「秘密。君がその『実用品』以外のものを私にくれるようになったら、教えてあげる。……例えば、そうね。明日にはなくなっちゃうような、無駄で、綺麗で、何の役にも立たないものとか」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、再び棚の方へ戻っていった。
その背中、真っ直ぐな、凛としたラインを見送りながら、俺は自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
俺の視界は、確かに彼女を見下ろしているはずだった。
物理的な距離では、俺の方が高い位置にいる。
けれど、精神的な標高では、俺はずっと低い場所に立たされている。
彼女が履かないハイヒール。それは、彼女が俺に与えてくれている最後の「慈悲」のようにも思えてきた。
「……ああ、そうだ」
彼女が棚の影から顔を出した。
「四時になったら、廃棄のお弁当温めるから。事務所に来て。……実用品くん」
床を叩くスニーカーの足音が、静かな店内にリズムを刻む。
俺は自分が贈るべき「実用品以外のもの」が何なのか、その答えを深夜の静寂の中に探していた。でも、その時の俺には、彼女が欲しがっているものが、自分の中の何を削れば手に入るのか、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、俺の「自負」は、もうボロボロに崩れ始めているということだった。
深夜三時。店内は、冷蔵庫のモーター音だけが異様に大きく聞こえる時間帯に入っていた。
外を走る車の音も途絶え、自動ドアが一度も開かないまま三十分が過ぎる。この時間、世界には俺と彼女の二人しか存在しないのではないかという、身勝手な錯覚が頭をよぎる。
俺はレジカウンターの中で、タバコの棚を整理していた。
整然と並んだ各銘柄。その中に混じる「ラーク」の赤いパッケージを見るたび、さっき事務所で吸い込まされた煙が、まだ肺の奥の、血管の細いところにまで沈殿しているような気がしてならない。
タバコを吸わない俺にとって、その匂いは彼女そのものの記号だった。
「……ねえ。君、さっきから私のこと見てる?」
カウンターの反対側、スナック菓子の棚を整えていた彼女が、背中を向けたまま声をかけてきた。
俺は心臓が跳ねるのを抑え、慌てて視線を納品伝票の数字に戻す。
「見てませんよ。棚の在庫を確認してただけです」
「ふーん。にしては、さっきからずっとポテトチップスの裏側の文字、読んでるみたいだけど。そんなに原材料が気になる?」
彼女はくすくすと笑いながら立ち上がり、ゆっくりとレジの方へ歩いてきた。
歩くたびに、キュッ、キュッ、とゴム底が床を噛む音がする。彼女が履いているのは、いつもの底の薄い、履き潰されたキャンバス地のスニーカーだ。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えないが、その飾らない質感が、彼女という人間を象徴しているようでもあった。
彼女がカウンターの横、俺のすぐ隣まで来ると、俺は無意識に背筋を伸ばした。
男としては平均より少し高い俺だが、並んで立てば、俺の視線は彼女の少し上を通る。その僅かな余裕だけが、俺が彼女の前で平静を保つための、唯一の、そしてひどく脆い防波堤だった。この距離感があるからこそ、俺は彼女に対して「後輩の男」として、辛うじて対等に近い口を利けるのだと自分に言い聞かせている。
「……先輩。いつも、それですよね」
「それって?」
「その靴。もっと、ほら。背が高いんだから、ヒールとか履けば似合うのに」
彼女はカウンターに肘をつき、体重を預けて俺を見上げるようにして目を細めた。
茶髪のパーマが少し顔にかかり、その隙間から覗く瞳が、深夜の蛍光灯を反射してガラス玉のように冷たく、けれど熱く光る。その角度だと、彼女の細い首筋のラインが強調され、俺の少し高いはずの視界は、簡単に足元から崩れ去る。
「……嫌味? 私、これ以上デカくなりたくないの。可愛くないでしょ」
「嫌味じゃないですよ。ただ、もったいないなと思って。スタイルいいんだし、もっと華やかな靴を履けば、モデルみたいに見えるのに」
「もったいない、ねえ。君、女の人のこと何も分かってないでしょ。それとも、私が君より高くなったら困る理由でもあるの?」
彼女は鼻で笑い、レジカウンターに置いてあった俺のハンドクリーム――乾燥する冬の夜勤でひび割れた指先を保護するための、無香料で味気ない実用品――を手に取った。彼女の指先は、ラークのヤニの匂いが微かにするが、その指自体は驚くほど白く、細い。
「私がこれ以上高くなったら、男の人がみんな逃げてっちゃう。君だって、私に自分より高くなられたら、今みたいに偉そうに喋れなくなるでしょ? この『差』が、君のプライドなんでしょ」
心臓を素手で掴まれたような感覚だった。
俺が彼女に「ヒールを履けばいい」なんて言ったのは、彼女の美しさを肯定したいという純粋な気持ちの裏側で、「でも、俺よりは低いままでいてくれ」という卑屈な願望が透けて見えていたからに他ならない。自分が彼女を「見下ろせる」位置にいることで、男としての優位性を確認したかったのだ。
「……男は、その数センチが大事なんです」
「バカだね。たったそれだけでしょ。誤差みたいなもんじゃない。一歩踏み出せば、そんな距離、すぐになくなるのに」
彼女はハンドクリームを俺の手に押し返すようにして戻し、そのまま俺の額を指先で軽く小突いた。
一瞬だけ触れた指先の熱。それだけで、俺の頭の中はショートしそうになる。
170センチの彼女が、俺の、その神聖にして不可侵なはずの領域を、いとも簡単に土足で踏み越えてくる。
「男の人は『高さ』でマウントを取りたがるけどさ。女はね、どこを見てるか知ってる?」
彼女は不意に、顔を俺の耳元に寄せた。
ふわりと、事務所で嗅いだあのラークの残り香と、彼女の体温が混ざり合った匂いがした。
「……どこを見てるんですか」
「秘密。君がその『実用品』以外のものを私にくれるようになったら、教えてあげる。……例えば、そうね。明日にはなくなっちゃうような、無駄で、綺麗で、何の役にも立たないものとか」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、再び棚の方へ戻っていった。
その背中、真っ直ぐな、凛としたラインを見送りながら、俺は自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
俺の視界は、確かに彼女を見下ろしているはずだった。
物理的な距離では、俺の方が高い位置にいる。
けれど、精神的な標高では、俺はずっと低い場所に立たされている。
彼女が履かないハイヒール。それは、彼女が俺に与えてくれている最後の「慈悲」のようにも思えてきた。
「……ああ、そうだ」
彼女が棚の影から顔を出した。
「四時になったら、廃棄のお弁当温めるから。事務所に来て。……実用品くん」
床を叩くスニーカーの足音が、静かな店内にリズムを刻む。
俺は自分が贈るべき「実用品以外のもの」が何なのか、その答えを深夜の静寂の中に探していた。でも、その時の俺には、彼女が欲しがっているものが、自分の中の何を削れば手に入るのか、まだ分からなかった。
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