170センチの彼女がヒールを履かない理由 ―20年前のラークと、今の密会―

まさき

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第6話:コンビニの裏側で、茶髪のパーマが揺れる

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​第6話:コンビニの裏側で、茶髪のパーマが揺れる

​ 自動ドアが閉まる音が、いつもより冷たく響いた。
 外から戻ってきた彼女を、俺はレジカウンターの影から盗み見るようにして確認した。
 二月の深夜の空気は、彼女の体に刺さるように冷たかったはずだ。けれど、彼女の頬は微かに上気し、茶髪のパーマは夜風に煽られたのか、いつもより乱暴に揺れていた。
​ 彼女は俺の方を一度も見ることなく、真っ直ぐバックヤードへと消えていく。
 その歩き方は、どこか浮ついていて、それでいてひどく重苦しい。キュッ、キュッ、と鳴るスニーカーの音さえ、今の俺には「別の誰か」の体温を運んできた足音にしか聞こえなかった。
​ 俺は、彼女が捨てていった空っぽの事務所に足を踏み入れた。
 換気扇は回り続けているが、部屋の空気は入れ替わっていない。そこには、彼女が吸っていたラークの匂いと、そして、さっきまではなかった「男」の香水の匂いが、泥のように澱んでいた。
​「……クソ」
​ その男が乗っていた低い車よりも、俺の方が物理的な視点は高いはずだ。けれど、今の俺は、その男が彼女の肌に残していった目に見えない「印」を、ただ黙って受け入れることしかできない。
 俺の大きな体格は、彼女を包み込むためではなく、ただ彼女の秘密を遠くから見守るためだけの、無用な肉塊のように思えてきた。
​ バックヤードの入り口付近で、彼女が鏡を見ているのが見えた。
 彼女は自分の唇を指でなぞり、少しだけ崩れた口紅を拭っている。
 その仕草、その指の動き、その伏せられた睫毛。
 すべてが「俺の知らない時間」を物語っていた。
​「……先輩。点検、終わりました」
​ 俺はわざと無愛想な声を出し、彼女の背後に立った。
 彼女は鏡越しに俺と目を合わせた。その瞬間、彼女の瞳に宿った「女」の光に、俺は射すくめられる。それは、俺を揶揄う時の意地悪な先輩の顔ではなく、一人の男に抱かれた後の、湿った熱を帯びた顔だった。
​「ありがと。早かったね」
​ 彼女は平然とした声で言い、茶髪のパーマを整えるために手ぐしを通した。
 ふわっと、夜の匂いが弾ける。
​「……外、寒かったんじゃないですか」
​「まあね。でも、ちょっとした暖房代わりにはなったかな」
​ 彼女は鏡に向かって、自嘲気味に笑った。
 その「暖房」が何を指しているのか、察しの悪い俺でも分かる。
 俺は体をさらに強張らせ、彼女のスニーカーの先を見つめた。
​「そんなに、いいんですか。あんな、低い車」
​ つい、言葉が漏れた。
 彼女は手を止め、ゆっくりと俺の方へ振り返った。
 彼女が真っ直ぐに立つ。俺との視線が、火花を散らすような近さで交差した。
​「……何が言いたいの?」
​「……別に。ただ、あんな男、実用的じゃないなと思っただけです。深夜に呼び出して、車の中で済ませて、すぐ帰すなんて」
​ 吐き出した言葉は、自分でも驚くほど醜かった。
 軍手や電池を整理するように、彼女の私生活まで整理しようとした、俺の傲慢な嫉妬心。
 彼女はしばらくの間、黙って俺を見つめていた。その瞳から感情が消え、深い闇のような静寂が二人を包み込む。
​「君に、私の何が分かるっていうの」
​ 彼女の声は、低く、冷たかった。
「身長はあるのに、君の見ている世界って、本当に狭いんだね」
​ 彼女は俺の横をすり抜け、事務所の中へ戻っていった。
 すれ違いざま、彼女の肩が俺の胸に強く当たった。
 弾かれたのは俺の方だった。
 彼女の存在感は、今、確実に俺のプライドを粉々に砕いていた。
​ 事務所のドアが閉まる。
 俺は一人、バックヤードの段ボールの山に取り残された。
 手の中には、補充しようとしていたカッターナイフが握られていた。
 段ボールを切り裂くための実用品。
 けれど、今、俺が切り裂きたいのは、自分のこの無力な高さだった。
 彼女の彼氏。
 その姿は一度も見ていない。名前も知らない。
 けれど、その男は、俺が逆立ちしても手が届かない彼女の「深淵」を、あの低い車の中で簡単に手に入れている。
​ 俺は、自分が選んできた「実用品」の限界を悟り始めていた。
 軍手は手を守ってくれるけれど、心までは守ってくれない。
 電池は懐中電灯を灯してくれるけれど、彼女の孤独を照らすことはできない。
 そして、この身長は、彼女の心の壁を乗り越えるための梯子にはならないのだ。
​「……何やってるんだ、俺は」
​ 俺は壁に頭を打ち付け、深く息を吐いた。
 バックヤードの空気は、彼女の吸うラークの残像を求めて、俺の肺を白く染めていく。
​ その夜の残りの時間は、死んだような沈黙の中で過ぎていった。
 彼女は一度も事務所から出てこなかった。
 俺はただ、誰もいない売場で、賞味期限の切れていく商品を一つずつ確認し続けた。
​ 茶髪のパーマが揺れる、あの後ろ姿。
 彼女が背負っているものの正体を、俺はまだ、何も知らない。
 知っているのは、彼女が履かないハイヒールの意味と、俺が持っている、あまりにも安っぽくて無力な自尊心だけだった。
​ 朝が来る。
 事務所から出てきた彼女は、いつもの「意地悪な先輩」の顔に戻っていた。
 けれど、その目元には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
​「……お疲れ様。あ、コーヒー、美味しかったよ」
​ 彼女は俺の横を通り過ぎる時、一瞬だけそう言った。
 昨日の夜、俺が置いたあの微糖の缶コーヒー。
 彼女はそれを、あの男と一緒に飲んだのだろうか。それとも、男が去った後の孤独の中で、一人で飲み干したのだろうか。
​ 俺は、彼女に問いかける勇気を持てなかった。
 ただ、「お疲れ様でした」とだけ、低い声で返した。
​ 俺の視界に、昇り始めた朝日が差し込む。
 けれど、俺の心の中は、まだ深夜のバックヤードに置き去りにされたままだった。
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