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孫と祖父

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一ヶ月後。ミチルはまた夜の街を散歩していた。
 忌引き明けは大変だった。何せ、休んでいたうちに溜まったミチルが担当していた案件や書類が多かった。
 そして、感情の収拾がつかなかったせいかいまいち仕事に身が入らずに新人時代でもやらなかったミスを連発してしまった。
 同僚や先輩、上司は心配してくれて、気を遣ってくれたり助けてもらったりしたが、むしろそれに対しても申し訳なさと感謝がせめぎ合って自分がなんだか惨めに思えていた。

 けれど、そんなことがあったのは忌引明け一週間で終わった。
 二週目からは調子を取り戻して、同僚や先輩、上司に迷惑かけたことに謝罪と感謝を述べてバリバリ働いている。

 一ヶ月経つ頃には、あの日のようにごちゃごちゃしていた頭のなかも随分とすっきりとした。夜、一人になった時や街中で祖父の形跡を見つけるとあのような気持ちになることもあったが日常生活には支障がないくらいに回復した。

 今日散歩に出たのは、あの日のような後ろ向きな理由からではなくただ夜桜を見に行きたいとふと思ったからだ。
 祖父が死んで、一ヶ月。凍えるような季節は桜が咲き誇る春へと変わっていた。

 あの日、出会った不思議な青年のことはミチルの頭の中からは消えていた。
 それを思い出したのはまたあの公園で青年と出会ってからだった。

「こんばんは。お手紙書いたんですか?」

 あの公園のベンチに白い服の青年が座っていて、青年、河原はミチルを見かけるなり声をかけてきた。
 その瞬間に思い出したのだが、今思ってみればいくら腹が立ったとはいえあの態度はなかったなと少し反省してミチルは小さく首を振って、河原と一人分の空間をあけて同じベンチに腰をかけた。

「……あの時は、ごめんなさい。ひどい態度を取りました。」

 なんとなく謝っておいた方がいいような。そんな気がして謝罪をすれば河原は驚いたようにキョトンと目を丸くして笑った。

「いえ、あのようなことは慣れていますから。」

 河原は本当に気にしていない、というように優しく微笑むとミチルにまた声をかけた。

「それに、あの日は感情がぐるぐるとしていて辛そうな顔をしてたから。」
「……えぇ、まあ。」

 自分よりも恐らく年下の青年にそのようなことを言われるのはなんだか恥ずかしかった。
 ダメなところを見られたような気分になったのだ。
 だが、河原はそんなミチルの心をよんだかのように言葉をつづけた。

「大切な人とお別れをして、いつも通りでいられる人の方が少ないよ。」
「え?」
「お別れしたんでしょう?僕はこんな仕事をしているから大体そういう人は顔でわかるんだ。」

 なぜ河原が知っているのだろうと思ったが、先に答えを言われてしまった。
 こんな仕事、というのはこの前言っていた「天国と現世の郵便配達」という仕事のことだろうか。
 そんなアニメや漫画のようなこと信じられるはずもなかったが、どこか達観した横顔にはなんだか説得力があった。
 ジトっ、と見ていれば河原は「あ、まだ疑ってる?」と少しむくれたような顔をした。

 それから特に会話をすることはなかった。
 だって、ミチルは別に河原のことを信じたわけではないし河原だってきっとミチルが「手紙」を持って来ないのならば用はないのだろう。
 二人してボケっと夜桜を眺めていると、河原の方からベルのような音が聞こえてくる。聞いたことがあるそれは祖父の家で聞いたことがある昔の黒電話の音だ。

「あ。時間だ。」

 河原は古そうな懐中時計を手に取ると、ミチルに「ねえ」と声をかけた。

「一つだけ、アドバイスするよ。
辛い感情とか、苦しい感情とか、悲しい感情とか。そういう負の感情って人間はしまえるようにできてるんだよ。」
「?」

 急に何を言い出すのかと、ミチルは首をかしげる。

「箱のようなものを作って、そこに押し込んで心の隅に置いておけるの。でもね、それは昇華しない。それはただの逃げだから。負の感情と向き合わないときっといつか、同じ思いを感じた時その感情が倍々になってこの前よりもぐちゃぐちゃになると思うよ。」
「なんで。」
「きっとお姉さんはまだ心の区切りも整理もできてない。そう遠くないうちに、その感情と向き合うのをお勧めするよ。」

 河原はそれだけ告げるとベンチから立ち上がって、歩き出してしまう。
 そして姿が見えなくなる一歩手前で思い出したように河原が叫ぶ声が聞こえてきた。

「もし、お手紙を出したいならまたここで!」

 そんな声が聞こえてきたが、ミチルは動く気にはなれなかった。
 だって、河原の言っていたことが漠然とわかってしまったから。

 河原の言葉を借りるのなら確かにミチルは日常生活を送るために、祖父への思いをきっとしまいこんだ。
 祖父の死を思い出すのが辛くて、苦しくて、悲しくて。街中で祖父の形跡を見るたびに湧き上がってくる感情を押さえつけた。
 そうしているうちに祖父のことを考える時間は減り、あの時ほど辛くも苦しくも悲しくもなくなった。
 それは自分の中で「区切り」がついたからだと思っていたし、これから時間が少しずつぐちゃぐちゃだった感情を「整理」してくれるとも思っていた。

 けれど、河原にそれを「逃げ」だと否定されて。
 
 でも、それならどうやってあの感情と別れればいいんだ。
 辛くて、苦しくて、悲しい感情を吐き出すことすらもできず、表現することすらもできず、逃げ出すのは良くないと否定されて。

 

 気がつけば、ミチルは部屋へと帰ってきていた。
 あの日と同じようにソファに沈み込んで、あの日とは違うどうしたらいいのかわからない思いを抱えて。

 その日は、少しだけ祖父の夢を見た。
 祖父は花が綻ぶような人のいい笑顔でミチルの頭を撫でる。そんな悪夢を。




***




「こんにちは、お手紙書いたんですか?」

 次の日の夕方。
 ミチルはまたあの公園にいた。そして河原も相変わらず白い雪のような格好でそのベンチに座っていた。
 ミチルは昨日と同じように首を振って、またベンチに一人分の空白をあけて腰をかける。

「……気持ちと向き合うために、祖父のこと聞いてくれませんか。」

 本当は、今日ここにきたのは河原に文句を言うためだった。
 昨日あなたが余計なことを言ったせいで、また感情の整理がつかなくなったと。

 でもそれは、河原の顔を見てやめた。
 まだ幼さが残るようなその顔には悪意などなかった。悪意を持って、ミチルの心をかき乱したわけではないと思ったからだ。

 知らない人に、身の上話をするなんて正気の沙汰ではない。
 けれど、昨日河原がいった気持ちと向き合うためには誰かに聞いて欲しかったのだ。
 母や父、親戚には絶対に口に出せないミチルが祖父にむけていた感情を、ミチルが祖父にやってしまった行いを。
 
 河原は少しだけ呆気に取られたような顔をしたが、すぐに笑った。
 それは馬鹿にしたような笑みではなく、ミチルの決意を受け止めたようなそんな笑みだった。

「しがない郵便屋ですが、話を聞く時間はあるよ。」

 ミチルはゆっくりと語り出す。
 大好きで、憧れて、大嫌いだった祖父の話を。


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