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1章:死後の不在証明

1-3 兄の話

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彼女の後をついて学校を出てみると、校門には見慣れぬ黒い外車が止まっていた。彼女はその車に真っ直ぐと歩いていき、ごく当然のように後部座席のドアを開けた。



「乗りなさい」



「いやいやいや・・・。」



僕は戸惑った。当然である。



「面倒ね。何警戒してるのよ?置いてくわよ。」



後部座席の奥に座り、毅然とした態度で足を組み、座っている。

先程の緊迫した状況からまだ数分も経っていないのだ。警戒などして当たり前である。このまま訳の分からない怪しげな研究所に連れ込まれるかも分からない。そもそも彼女はそんなにお金持ちだったのか?だとしたら何故もっと校内で有名にならない?

僕が乗り込もうか乗り込まないか色々逡巡していると、彼女がやれやれといった具合に大きな溜息をつきながら後部座席のドアを閉めようとした。



「まてまて!わかったよ!乗るから!」



咄嗟に言ってしまい、結局車に乗り込む事になった。



彼女は座席の端に座り、僕も極力反対側の端に体を押し付けた。座席の材質はやはり高級車だけあって、おそらく牛革でできており、車内全体も何処となく高級感漂う落ち着いた装飾になっている。ふと、運転席の方を見ると、恐らく70代ほどの白髪頭の老人がハンドルを握っていた。だがその格好は高級車の内装にはそぐわず、割とラフな格好をしている。個人的なイメージとして、こういう運転手はキッチリとした格好をしているものだと勝手に思っていたが、現実は意外とそうでも無いのだろうか。

運転が始まってから数分が経った。依然車内には沈黙が流れている。だがこの数分で、僕の頭は些か冷静になり、また思考を再開する余地が出てきた。

流れていく車窓の景色を眺めながら考える。取り敢えずは情報収集だ。



「貴女の名前は何ていうんですか?そういえば聞いてなかったですけど。」



「神永無月。あと、敬語じゃなくても良いわ。貴方と私は同学年よ。」



「え?でもあの時芹沢百子の友人だって・・・」



「あれは嘘よ。」



完全に騙されていた。色々と彼女が上手である事に苛立ちを感じる。



「・・・じゃあ神永。僕は一体何処に向かっていて、これから何をされる?脳味噌でもほじくり回す気か。正直、気が気じゃ無いんだけど。」



「プフッ」



唐突に吹き出した声の方を見ると、先程の老人とバックミラー越しに目があった。さっきは後ろからで顔がよく見えていなかったが、どうやら眼鏡をかけているらしい。



「失礼しました。」



老人は居心地悪そうにそう言うと、また視線を前方に戻し運転を再開した。



「蓮見君が今向かっているのは私の家よ。そしてそこで少しお話をするつもり。『交渉』と言っても良いかも知れないわね。私の目的と『あのこと』についての。」



「それなんだが、本当に知っているのか?またブラフなんじゃないのか?」



「お兄さんの事でしょ。」



「───!」

やはりこの女、間違いなく知っている。
なぜ神永が知っているのかは分からない。だが今の返答で確信する。こいつはあの兄のことについて、何か知っている。



僕の2つ上には兄がいた。名前を蓮見ハジメと言う。僕の兄は完璧だった。何をやっても僕に勝ち目はなかった。勉強も、スポーツも、そして、人間性も。兄は優しかった。何かにつけては僕の心配をする。僕だけでなく周囲への気遣いも絶やさない。とにかく人間として良くできた人だった。

両親はそんな兄を本当に自慢に思っていた。そして、僕はそんな兄が嫌いだった。何をやっても僕の上を行く。よくある優秀な兄と凡庸な弟の確執というやつであった。僕は幼いなりに兄に追いつこうと必死でもがいたが、結局兄には追いつけず、まさしく彼は目の上のたんこぶだった。周囲は兄ばかりを褒めちぎり、必ず僕を比較対象にした。僕はそんな自分を取り巻く環境に反吐が出るほどうんざりしていたのだ。



ある日のこと、中学生だった僕は当時所属していたサッカー部の部活動を終えて家に帰ってきた。ドアを開けて玄関に入ると、リビングから兄、父、母の3人の談笑の声が聞こえてくる。その日は珍しく父が早く仕事を終えて酒を飲んでいるようで、いつもより一段と大きな声で喋っていた。



「ハジメ、お前は将来何になるのか決めたのか?」



「いや、特にはまだ・・・」



「ハジメなら大学に入ってから目標を決めても遅くはないわよ。だから今は目の前のことを頑張りなさい!」  



「偉いなあ~お前はしっかり勉強して!俺がお前ぐらいの頃はずっと遊び呆けてたぞ!」



ガハハハと言ってとても愉快そうに父が笑う。母や兄も笑う。



「お前の真面目さをレイにも分けてやれ!あいつは俺に似て手を抜く癖があるからなぁ」



まあまあ、レイも頑張ってるわよと母が父を諫める。兄も苦笑する。



僕はこれを聞いて虫唾が走った。また、兄に比較されている。仮に、僕が兄以上に真面目を意識して行動しても、両親は僕に不当な評価を下すだろう。どれだけ頑張っても、誰も僕を認めない。それも全ては兄がいるからだ。僕のプライドはそこでまたしてもささくれ立った。

その場にいるのが、そこから先の話を聞くのが、耐えられなくなったので、わざとらしく大きな音を立てて「ただいまー」と声を発した。ほんのわずかな沈黙が発生した後「おぉ帰ったか~」という父の返答が返ってきて、すぐに兄が廊下に出てきた。



「うわぁ、泥だらけだね。疲れたでしょ?お風呂沸いてるよ。」



兄特有の人懐こい笑顔だったが、その笑みには少しばかりの影が見えた。そして、いつもよりさらに優しい声だった。

彼は僕が先程の会話を聞いていたことに感づいていたのだろう。そして彼は僕が、自分が兄より劣っている事を気にしていることも恐らく気づいている。

憐まれたくなかった。彼と同じ空間にいると、まるで水中の上から重石を乗せられているかの様な息苦しさを感じる。

僕は彼に目を合わせることもなく、さっさと洗面所に入ってドアを閉めた。後ろからは「何だあいつは」という父の声とまたしてもそれを諫める母の声がした。



ドアの向こうでは暫く佇む兄の気配がする。何かを伝えたがっているような気がしたが、やはり僕は無視をした。兄と会話をしようとも、その時の僕は思わなかった。



兄が失踪したのはそれから暫くしたあとだった。唐突に、霞のように消えてしまった。理由はまるで見当がつかなかった。誰の目から見ても兄の人生は順風満帆であり、少なくとも自分から失踪したとは考えにくい。考えられる可能性としては誘拐等の犯罪に巻き込まれたという事だが、そういった犯人からのコンタクトはなかった。

両親は帰ってこなかったその日の内に警察に捜索願を出した。ここからも両親の彼に対する溺愛ぶりを窺い知れる。もっとも、もう少し様子を見てくださいと突っぱねられていたが。僕もその時は、夜出歩くのは兄にしてはかなり珍しい事だが、その内にすぐ帰ってくるだろうと何の根拠もなく思っていた。だが、1日、2日、3日経っても兄は帰ってこなかった。そして警察は大々的に調査を開始。ニュースでも大きく取り上げられたが、有力な情報は今現在まで何一つ出てこず。

両親の落ち込みぶりといったらなかった。2人の喧嘩も絶えなくなった。その間、まるで僕は蚊帳の外である。この一連の事件の中に、僕という存在は2人にとって無いも同然なのだ。この事件がきっかけで、両親と僕との距離はさらに離れてしまうことになった。

兄が失踪した原因は全くもって不明だった。
そして、僕の心には違和感が残った。憎悪という炎が燃え盛っていたその後に、何やら得体の知れない燃えカスがこびりついてしまったようだった。



「あの時」のドアの向こうの兄の気配が、どうにも頭に引っかかる。でもそれが何故なのかは分からなかった。



しばらくして僕はその兄の幻影に悩まされるようになった。リビングにいる時、風呂に入っている時、夜自室で眠る時、いつでもドアの向こうでは彼が佇んでいるような気がした。怨念、だろうか。劣っている僕の方がのうのうと生きている事が、兄は許せないのだろうか。

ふつふつと、また怒りがこみ上げてきた。何故また思い出さなくてはならないのか。煙のように消えてしまった後でも、兄はこうして僕を苦しめる。僕の苦悩など知らないとばかりに。

今でもぶつけようのない憤りが、衝動が、僕の心臓を鷲掴みにして離さない。

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