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早春譜
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「まだ薄ら寒い春の始めに出会った若い男と女、そして一匹の猫。彼らの数奇な運命は?出会いは偶然なのかそれとも必然だったのか?揺れ動く早春の日のほのぼのラブストーリー」
誰にも感慨深い一日はあるものだ。
しかし、それが偶然というより、まるで天使の悪戯のような一日だとしたら・・・ ・・・
今でも僕はあの日の出来事を、そうにちがいないと信じている。
暦ではもう春だというのに、放射冷却とやらで、やけに冷えこんだ朝だった。目が醒めると、風邪の前兆か、喉が痛み身体が妙にけだるい。頭の中が、会社を休みこのまま布団の中で寝ていたいと叫ぶのだが、身体が勝手に起きて背広を着て、いつもの時間に満員電車に揺られていた。入社三年にもなると、すっかり会社人間になっていた。だが朝飲んだ風邪薬のせいで、仕事中に大胆な居眠りをして、上司ににらまれてしまった。
——やっぱり無理しないで休めば良かったな。
残業はやめて定時退社で駅に向かう途中、何度かそう思った。
空には重く雨雲が広がっている。傘がないので急ぎ足になったその時、電柱の陰で何か動く気配を感じた。近付いてみると、それは手のひらに乗りそうなやせぎすの仔猫だった。白地に黒汁をたらしたような柄の猫で、よく見ると目やにと鼻水で顔がこわばっている。
僕は思わずため息をついた。実家に居た頃は、よく拾て猫を拾ってきたものだ。しかしアパートの一人暮らしでは、事情が違う。しゃがみこんで猫の頭を撫でてやると、そいつはニャーと鳴いて、僕の足に頬を摺り寄せてきた。思わず両手で抱き上げる。どうしよう。
「雨がきそうだし、腹も空いてるだろうな・・・・・」
言い訳するように呟きながら、僕はそのまま歩き出した。喉は傷み、身体がけだるかった。雲行きもますます怪しい。
僕は電車をやめて、通りに出るとタクシーを止めた。猫連れはまずいかと、少しためらっていると「乗るの乗らないの?」と運転手が不機嫌な声を出した。その声に引きずられ、二駅先のアパートの住所を言うと「その猫、粗相しないだろうね」と言っただけで、黙って走り出した。
猫は車に乗るのが初めてなのか、心細そうに僕の胸にしがみつき、鳴いていた。だいぶ走って、車が赤信号で急ブレーキを踏んだ瞬間、生暖かい感触が下腹から太股に広がった。
「つりはいい」考えるより先に言葉が口から出ると、猫をひっかかえ車を降りた。家に向かって歩き出すと、急に濡れたところが冷たくなりだした。
雨が降りはじめたせいか、通行人は濡れた服で仔猫を抱いている僕には、目もくれず足早に通り過ぎていく。と、白いコーモリをさした若い女が、僕にぶつかりそうになって足を止めた。僕の抱いている猫に視線をとめると、目を細めてえくぼを作った。それからかすかに頬を赤らめて、こう言った。
——よかったら、このコーモリ使って下さい。
いきなり見知らぬ女からコーモリを差し出されて、僕はとまどった。女は信号の先の明るく電気の灯った店を指して、
「私そこの薬局で夜八時まで働いてますから、でも返さなくてもいいのよ」
女は僕の手にコーモリの柄を握らせると返事も聞かずに、信号を渡っていった。旋風が突如目の前を過ぎていったみたいだった。
ふと空を見上げると、黄昏はいつのまにか夜へと変わっていた。猫は鳴き疲れて僕の腕の中で眠っている。コーモリに打ち付ける雨音がだんだん強くなるのを聞きながら、僕はしばらくその場にたたずんでいた。
あれから幾度、春が巡っただろう。僕は今でも時折あの日のことを思い出す。とりわけ春の息吹をうっすらと感じながら、まだまだ寒いこんな日は。
彼らと出会うべくして出会った、あの早春の夕暮れ・・・・・・
「そう思わないかい?」
ソファで、僕の傍らに寝そべっている猫に話しかける。猫は大きなあくびをして、すっかり肥えた体を僕に擦り寄せてくる。キッチンから弾んだ声が夕食を告げる。僕は振り返り、その声の主にゆっくりと微笑みを返す。
誰にも感慨深い一日はあるものだ。
しかし、それが偶然というより、まるで天使の悪戯のような一日だとしたら・・・ ・・・
今でも僕はあの日の出来事を、そうにちがいないと信じている。
暦ではもう春だというのに、放射冷却とやらで、やけに冷えこんだ朝だった。目が醒めると、風邪の前兆か、喉が痛み身体が妙にけだるい。頭の中が、会社を休みこのまま布団の中で寝ていたいと叫ぶのだが、身体が勝手に起きて背広を着て、いつもの時間に満員電車に揺られていた。入社三年にもなると、すっかり会社人間になっていた。だが朝飲んだ風邪薬のせいで、仕事中に大胆な居眠りをして、上司ににらまれてしまった。
——やっぱり無理しないで休めば良かったな。
残業はやめて定時退社で駅に向かう途中、何度かそう思った。
空には重く雨雲が広がっている。傘がないので急ぎ足になったその時、電柱の陰で何か動く気配を感じた。近付いてみると、それは手のひらに乗りそうなやせぎすの仔猫だった。白地に黒汁をたらしたような柄の猫で、よく見ると目やにと鼻水で顔がこわばっている。
僕は思わずため息をついた。実家に居た頃は、よく拾て猫を拾ってきたものだ。しかしアパートの一人暮らしでは、事情が違う。しゃがみこんで猫の頭を撫でてやると、そいつはニャーと鳴いて、僕の足に頬を摺り寄せてきた。思わず両手で抱き上げる。どうしよう。
「雨がきそうだし、腹も空いてるだろうな・・・・・」
言い訳するように呟きながら、僕はそのまま歩き出した。喉は傷み、身体がけだるかった。雲行きもますます怪しい。
僕は電車をやめて、通りに出るとタクシーを止めた。猫連れはまずいかと、少しためらっていると「乗るの乗らないの?」と運転手が不機嫌な声を出した。その声に引きずられ、二駅先のアパートの住所を言うと「その猫、粗相しないだろうね」と言っただけで、黙って走り出した。
猫は車に乗るのが初めてなのか、心細そうに僕の胸にしがみつき、鳴いていた。だいぶ走って、車が赤信号で急ブレーキを踏んだ瞬間、生暖かい感触が下腹から太股に広がった。
「つりはいい」考えるより先に言葉が口から出ると、猫をひっかかえ車を降りた。家に向かって歩き出すと、急に濡れたところが冷たくなりだした。
雨が降りはじめたせいか、通行人は濡れた服で仔猫を抱いている僕には、目もくれず足早に通り過ぎていく。と、白いコーモリをさした若い女が、僕にぶつかりそうになって足を止めた。僕の抱いている猫に視線をとめると、目を細めてえくぼを作った。それからかすかに頬を赤らめて、こう言った。
——よかったら、このコーモリ使って下さい。
いきなり見知らぬ女からコーモリを差し出されて、僕はとまどった。女は信号の先の明るく電気の灯った店を指して、
「私そこの薬局で夜八時まで働いてますから、でも返さなくてもいいのよ」
女は僕の手にコーモリの柄を握らせると返事も聞かずに、信号を渡っていった。旋風が突如目の前を過ぎていったみたいだった。
ふと空を見上げると、黄昏はいつのまにか夜へと変わっていた。猫は鳴き疲れて僕の腕の中で眠っている。コーモリに打ち付ける雨音がだんだん強くなるのを聞きながら、僕はしばらくその場にたたずんでいた。
あれから幾度、春が巡っただろう。僕は今でも時折あの日のことを思い出す。とりわけ春の息吹をうっすらと感じながら、まだまだ寒いこんな日は。
彼らと出会うべくして出会った、あの早春の夕暮れ・・・・・・
「そう思わないかい?」
ソファで、僕の傍らに寝そべっている猫に話しかける。猫は大きなあくびをして、すっかり肥えた体を僕に擦り寄せてくる。キッチンから弾んだ声が夕食を告げる。僕は振り返り、その声の主にゆっくりと微笑みを返す。
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