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第9話
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病院前でタクシーからおりると、芙美子はまず一階の受付に行き、奈美恵の病室を確認した。エレベーターで六階まであがり、廊下を歩いて病室の名札を見てまわった。談話室の前を通ると、車椅子の、足をギブスで固めた少年が漫画を読んでいる。その隣の六人部屋の入り口に杉本ちひろの名札がかかっていた。
芙美子はおそるおそる部屋の中を覗く。ちひろの姿は見当たらない。ベッドに横たわっているのは知らない男ばかりである。ただ奥に二つある窓際のベッドが、一方は留守で、もう片方は間仕切りカーテンで遮られて中の様子がわからない。とにかく、ちひろのベッドはどちらかだ。
芙美子はまた廊下を歩き出す。突き当りの三人部屋の名札に母の名前を見つけて病室の中にはいっていく。奈美恵ははいってすぐのベッドで寝ていた。
「お母さん。」
いきなり声をかけられ、奈美恵は目をパチクリさせて辺りを見渡した。足元に立っている芙美子に気づくと、上半身を起こそうとした。
「無理しないで、そのままでいいから。」
「あ、そうだ。足首折れてたんだ。体中がすり傷だらけでもう満身創痍よ。」
奈美恵はおどけたように笑った。足にはギブスが、両腕には包帯が巻き付けられている。芙美子は丸椅子に腰かけた。
「何があったの、説明してちょうだい。」
奈美恵は横目で隣をちらりと見る。真ん中は空きベッドで、奥の窓際のベッドは茶髪の若い女が向こうにして寝ている。眠っているのかどうかわからない。奈美恵はぼそぼそと喋り始める。
「昨日ね、私あの人に、ちひろさんに会いにアパートに行ったのよ。だって理由も言わず、急に別れたいなんて言うもんだもの。でもあの人ったら部屋から出てきてくれないのよ。だから私死んでやるって叫んだの。そしたらあの人、いきなり飛び出してきて。私、思わず逃げたわ。腹が立って、惨めで、涙が出て、わけがわからなくなってたわ。」
奈美恵はズルズルと鼻をすすった。
「それから階段のところで私をつかまえて、馬鹿なことはするなって怒鳴るのよ。誰のせいだと思ってるのかしらねえ、まったく。」
ニンマリ笑うと、奈美恵はティッシュで思いきり鼻をかんだ。鼻紙を側らのゴミ箱に捨てて、話を続ける。
「それでね、アパートの外の鉄階段でもみ合いになったのよ。死のうが死ぬまいが、もう他人なんだから関係ないでしょうって言っているのに私の腕をつかんで離さないのよ、あの人。そしたらそこでヒールが引っかかっちゃって。」
芙美子は、奈美恵のかかとの細い真っ赤なパンプスを思い出した。
「私、思わずあの人の服につかまったんだけど、そのまま二人とも転げ落ちちゃって、階段の二階から下までまっしぐら。悲鳴を聞いて人がたくさん集まってくるわ、こっちは痛くて起き上がれないわで大変だったわ。そのうち救急車がやってきて、この病院に運ばれたのよ。」
興奮してきたせいか、同室の患者のことをすっかり忘れて大声で喋っている。もともと地声の大きな女なのだ。
芙美子は、シーと人差し指を立てる。
奈美恵は辺りをキョロキョロ見渡した。
「骨折の具合はどうなの。」
「全治三か月だって。これから手術だしリハビリもあるし。ま、ここでゆっくり治すわ。人生リセットリセット。」
ぺろりと赤い舌を出して、奈美恵は微笑んだ。それから真顔になったかと思うと、遠い目をして呟いた。
「本当に馬鹿な女よねえ、私は。」
芙美子はちひろのケガの具合が気になったが、奈美恵の神妙な様子につい聞きそびれてしまった。
しばしの間、二人は黙り込んだ。
「お食事でーす。」
看護士の威勢のいい声と、ガラガラと食事を運ぶ車の音が廊下の向こうから近づいてくる。
「あんた、ご飯取ってきて。」
奈美恵に頼まれて芙美子は椅子から立ち上がる。四角い盆に乗った食事を受け取り、ベッドの上の簡易テーブルに置く。ペットボトルのお茶を紙コップに二人分つぐと、奈美恵はさっそく食べ始めた。唇に米粒をつけて食べる姿を見て、芙美子はとりあえずホッとした。奈美恵は食事を平らげると、芙美子の持ってきた鞄の中身を布団の上に引っ張り出しながら、小声で言った。
「私あの人と別れるつもりだから。」
芙美子は黙って頷いた。
洗濯物と片方のかかとが取れた赤いパンプスを鞄に入れて、芙美子は肩に担いだ。
「明日また来るからね。」
奈美恵に手を振って廊下を出た。それからその足で、ちひろのいる六人部屋へと向かった。別れる理由をどうしても問いたださなくてはならない。娘としての使命だと思った。
ちひろの病室を覗くと、食事時のくつろいだ雰囲気が部屋中に立ち込めていた。間仕切りカーテンは開け放たれ、ちひろが上半身を起こして布団の中にいるのが見える。彼の正面には、談話室で漫画を読んでいた少年がテレビを観ていた。
ちゅうちょすることなく、芙美子はつかつかと病室に入って、ちひろのベッドの脇に立った。不意の出現に彼は驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情を浮かべた。
まるで、こうなることを予期していたかのように。
「訊きたいことがあって来ました。」
「僕も話さなけりゃいけないと思ってさ。」
ちひろはベッドから起き上がり、窓に立て掛けてあった松葉杖を取った。左脇でそれにもたれ、廊下の方を指すと、軽く足を引きずりながら歩き出した。
「足、大丈夫ですか。」
「一週間で退院できるから気にしないで。それより奈美恵さんは骨折したって聞いて、僕のせいだ。」
ちひろの真っすぐな瞳と澄んだ声は以前会った時と同じだった。それなのに何故、彼の心は変わっていまったのだろう・・・
二人はエレベーターで一階におりていった。今の時間ならロビーにあまり人はいないし、何より奈美恵と出くわす心配が無かった。
一階のロビーへの通路は薄暗くしんとしている。二人は無言で歩いて、待合室の椅子に並んで座った。
「奈美恵さんと別れる理由を知りたいんだね。」
整った、少年の面影を残した横顔のまま、ちひろは低い声で言った。その様子はいつになく煽情的に感じられたが、芙美子は気づかないふりをして頷いた。
それは、と言いかけて、ちひろは口をつぐんだ。
「それは、なんですか。」
芙美子の強い口調に、ちひろは思わず彼女の顔を凝視した。哀し気な、それでいて瞳の奥が燃えているような、不思議な色をした瞳だった。その目に見据えられ、芙美子は顔をそむけた。ちひろは前に向き直り、足元に視線を落とした。そして呟いた。
「僕は君の父親になれないからだよ。」
芙美子は意味がよくわからなかった。
「どういうことですか。」
ちひろは両膝の上で固く結んだ両手を、さらに強く握りしめた。
「初めてあった日、芙美子さんには感じない何かを君に感じたんだ。」
芙美子の胸に、恐ろしい予感がこみ上げてくる。
「それが何なのか、僕にもわからなかった。でも、気がつくと僕はいつも、君のことを思っていた。奈美恵さんといる時でも。」
ちひろは熱い視線を、芙美子に注いだ。
「奈美恵さんはね、僕のことを観葉植物のような男だっていうんだ。ギラギラしてなくてピュアなところが好きだって。」
ちひろの声は自嘲の色を帯びている。
「だけど違うんだ。僕は禁欲主義者なんかじゃない。プラトニックラブ信奉者でもない。ふつうの男なんだよ、それが証拠に僕は君に。」
「もうやめて。」
芙美子は何が何だかわからなかった。ただこれ以上、ちひろに言葉を続けさせてはいけないと思った。
「裏切るつもりはなかったんだ。」
両手を固く結び首を深くうなだれて、ちひろは絞るような声を出した。
「もういいです。」
芙美子は椅子から立ち上がった。そして病院の正面玄関に向かって歩き出した。その背中に、ちひろは更に言葉を投げかける。
「今日会って、はっきり自分の気持ちがわかったんだ。僕は君に惹かれている。」
芙美子はびくんと体が震えた。とろけそうな甘酸っぱい感覚が、カラダの芯をよぎる。
しかし振り返ることなく、玄関の自動ドアを通り病院の外に出た。その途端、もあっとした熱気に包まれたが、麻痺したように感じなかった。芙美子自身がすでに熱かった。
病院の前のロータリーには幾台かのタクシーが待機していた。その一台に乗り込み、彼女はかすれた声で運転手に行き先を告げた。
芙美子はおそるおそる部屋の中を覗く。ちひろの姿は見当たらない。ベッドに横たわっているのは知らない男ばかりである。ただ奥に二つある窓際のベッドが、一方は留守で、もう片方は間仕切りカーテンで遮られて中の様子がわからない。とにかく、ちひろのベッドはどちらかだ。
芙美子はまた廊下を歩き出す。突き当りの三人部屋の名札に母の名前を見つけて病室の中にはいっていく。奈美恵ははいってすぐのベッドで寝ていた。
「お母さん。」
いきなり声をかけられ、奈美恵は目をパチクリさせて辺りを見渡した。足元に立っている芙美子に気づくと、上半身を起こそうとした。
「無理しないで、そのままでいいから。」
「あ、そうだ。足首折れてたんだ。体中がすり傷だらけでもう満身創痍よ。」
奈美恵はおどけたように笑った。足にはギブスが、両腕には包帯が巻き付けられている。芙美子は丸椅子に腰かけた。
「何があったの、説明してちょうだい。」
奈美恵は横目で隣をちらりと見る。真ん中は空きベッドで、奥の窓際のベッドは茶髪の若い女が向こうにして寝ている。眠っているのかどうかわからない。奈美恵はぼそぼそと喋り始める。
「昨日ね、私あの人に、ちひろさんに会いにアパートに行ったのよ。だって理由も言わず、急に別れたいなんて言うもんだもの。でもあの人ったら部屋から出てきてくれないのよ。だから私死んでやるって叫んだの。そしたらあの人、いきなり飛び出してきて。私、思わず逃げたわ。腹が立って、惨めで、涙が出て、わけがわからなくなってたわ。」
奈美恵はズルズルと鼻をすすった。
「それから階段のところで私をつかまえて、馬鹿なことはするなって怒鳴るのよ。誰のせいだと思ってるのかしらねえ、まったく。」
ニンマリ笑うと、奈美恵はティッシュで思いきり鼻をかんだ。鼻紙を側らのゴミ箱に捨てて、話を続ける。
「それでね、アパートの外の鉄階段でもみ合いになったのよ。死のうが死ぬまいが、もう他人なんだから関係ないでしょうって言っているのに私の腕をつかんで離さないのよ、あの人。そしたらそこでヒールが引っかかっちゃって。」
芙美子は、奈美恵のかかとの細い真っ赤なパンプスを思い出した。
「私、思わずあの人の服につかまったんだけど、そのまま二人とも転げ落ちちゃって、階段の二階から下までまっしぐら。悲鳴を聞いて人がたくさん集まってくるわ、こっちは痛くて起き上がれないわで大変だったわ。そのうち救急車がやってきて、この病院に運ばれたのよ。」
興奮してきたせいか、同室の患者のことをすっかり忘れて大声で喋っている。もともと地声の大きな女なのだ。
芙美子は、シーと人差し指を立てる。
奈美恵は辺りをキョロキョロ見渡した。
「骨折の具合はどうなの。」
「全治三か月だって。これから手術だしリハビリもあるし。ま、ここでゆっくり治すわ。人生リセットリセット。」
ぺろりと赤い舌を出して、奈美恵は微笑んだ。それから真顔になったかと思うと、遠い目をして呟いた。
「本当に馬鹿な女よねえ、私は。」
芙美子はちひろのケガの具合が気になったが、奈美恵の神妙な様子につい聞きそびれてしまった。
しばしの間、二人は黙り込んだ。
「お食事でーす。」
看護士の威勢のいい声と、ガラガラと食事を運ぶ車の音が廊下の向こうから近づいてくる。
「あんた、ご飯取ってきて。」
奈美恵に頼まれて芙美子は椅子から立ち上がる。四角い盆に乗った食事を受け取り、ベッドの上の簡易テーブルに置く。ペットボトルのお茶を紙コップに二人分つぐと、奈美恵はさっそく食べ始めた。唇に米粒をつけて食べる姿を見て、芙美子はとりあえずホッとした。奈美恵は食事を平らげると、芙美子の持ってきた鞄の中身を布団の上に引っ張り出しながら、小声で言った。
「私あの人と別れるつもりだから。」
芙美子は黙って頷いた。
洗濯物と片方のかかとが取れた赤いパンプスを鞄に入れて、芙美子は肩に担いだ。
「明日また来るからね。」
奈美恵に手を振って廊下を出た。それからその足で、ちひろのいる六人部屋へと向かった。別れる理由をどうしても問いたださなくてはならない。娘としての使命だと思った。
ちひろの病室を覗くと、食事時のくつろいだ雰囲気が部屋中に立ち込めていた。間仕切りカーテンは開け放たれ、ちひろが上半身を起こして布団の中にいるのが見える。彼の正面には、談話室で漫画を読んでいた少年がテレビを観ていた。
ちゅうちょすることなく、芙美子はつかつかと病室に入って、ちひろのベッドの脇に立った。不意の出現に彼は驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情を浮かべた。
まるで、こうなることを予期していたかのように。
「訊きたいことがあって来ました。」
「僕も話さなけりゃいけないと思ってさ。」
ちひろはベッドから起き上がり、窓に立て掛けてあった松葉杖を取った。左脇でそれにもたれ、廊下の方を指すと、軽く足を引きずりながら歩き出した。
「足、大丈夫ですか。」
「一週間で退院できるから気にしないで。それより奈美恵さんは骨折したって聞いて、僕のせいだ。」
ちひろの真っすぐな瞳と澄んだ声は以前会った時と同じだった。それなのに何故、彼の心は変わっていまったのだろう・・・
二人はエレベーターで一階におりていった。今の時間ならロビーにあまり人はいないし、何より奈美恵と出くわす心配が無かった。
一階のロビーへの通路は薄暗くしんとしている。二人は無言で歩いて、待合室の椅子に並んで座った。
「奈美恵さんと別れる理由を知りたいんだね。」
整った、少年の面影を残した横顔のまま、ちひろは低い声で言った。その様子はいつになく煽情的に感じられたが、芙美子は気づかないふりをして頷いた。
それは、と言いかけて、ちひろは口をつぐんだ。
「それは、なんですか。」
芙美子の強い口調に、ちひろは思わず彼女の顔を凝視した。哀し気な、それでいて瞳の奥が燃えているような、不思議な色をした瞳だった。その目に見据えられ、芙美子は顔をそむけた。ちひろは前に向き直り、足元に視線を落とした。そして呟いた。
「僕は君の父親になれないからだよ。」
芙美子は意味がよくわからなかった。
「どういうことですか。」
ちひろは両膝の上で固く結んだ両手を、さらに強く握りしめた。
「初めてあった日、芙美子さんには感じない何かを君に感じたんだ。」
芙美子の胸に、恐ろしい予感がこみ上げてくる。
「それが何なのか、僕にもわからなかった。でも、気がつくと僕はいつも、君のことを思っていた。奈美恵さんといる時でも。」
ちひろは熱い視線を、芙美子に注いだ。
「奈美恵さんはね、僕のことを観葉植物のような男だっていうんだ。ギラギラしてなくてピュアなところが好きだって。」
ちひろの声は自嘲の色を帯びている。
「だけど違うんだ。僕は禁欲主義者なんかじゃない。プラトニックラブ信奉者でもない。ふつうの男なんだよ、それが証拠に僕は君に。」
「もうやめて。」
芙美子は何が何だかわからなかった。ただこれ以上、ちひろに言葉を続けさせてはいけないと思った。
「裏切るつもりはなかったんだ。」
両手を固く結び首を深くうなだれて、ちひろは絞るような声を出した。
「もういいです。」
芙美子は椅子から立ち上がった。そして病院の正面玄関に向かって歩き出した。その背中に、ちひろは更に言葉を投げかける。
「今日会って、はっきり自分の気持ちがわかったんだ。僕は君に惹かれている。」
芙美子はびくんと体が震えた。とろけそうな甘酸っぱい感覚が、カラダの芯をよぎる。
しかし振り返ることなく、玄関の自動ドアを通り病院の外に出た。その途端、もあっとした熱気に包まれたが、麻痺したように感じなかった。芙美子自身がすでに熱かった。
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