安瀬乃片敷六丁目六番地六号より

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第三十話 靴ひも

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 いつも通りの出勤中のYさんは、朝の駅に向かう路上でつんのめりそうになった。

 見れば右の靴ひもが解けている。スマホを見ながら歩いていたせいで踏んでしまったようだ。むしろ転ばなかっただけラッキーだ、Yさんはそう思ったという。

(やれやれ…この靴も古いからなぁ。そろそろ買い替え時か)
 昨今、物価ばかり高くなってやりくりが厳しい。
 まだ買わないとならないものがあるのに、とか考えながら靴ひもを結びなおし、視線をあげたところで。

「…へ?」

 頓狂な声をあげてしまった。

 周りが暗い。

 夜だ。

 慌ててスマホを見る。
 時刻はAM7:32だった。

「いやいやいや、え?」

 どうやら思い違いではないらしい。
 周囲は住宅街で、晩餐と思しき灯りがあちこちから漏れ出ている。
 耳をすませば、遠くから繁華街の喧騒も聞こえてきていた。

「え? え? どういうこと…」

 それでも事実は容易に脳に浸透してくれはせず、混乱したままYさんは歩き出した。
 何とはなしに、出勤予定の会社に向かうことにしたのだ。

「……酔っぱらってるとか色彩がおかしくなったとかではないよな……」

 電車にゆられ、夜の街を眺めるうち今置かれている現実は事実だとYさんも納得せざるを得なかった。
 それでも、会社に行けばいつもの日常に戻れるかもしれない。

 そんな淡い期待は、当然報われることがなかった。

「俺の、会社…は…」

 なんと、Yさんが勤めていた会社の入っていたビルそのものが無い。
 五年前に竣工したきれいな八階建てのビルはなく、代わりに建っていたのは経年劣化が激しそうな五階建てのビルだった。Yさんのオフィスは七階なので、ひっくり返ってもないものはない。

「…あっ! そ、そうだ、連絡…」

 Yさんはぴしゃりと額を叩くと慌ててスマホを取り出した。動転していたせいで今まで気づかなかったが、無断欠勤したのだから連絡が来てるはず。

 しかし、頼みの綱のスマホには一通のメールも届いていない。
 慌てて通話してみる…が、登録していた会社関連の連絡先は軒並み不通で終わった。
 完全に連絡がつかなくなったことで途方にくれたYさん、ふと気づいた。

「そうだ、実家!」

 あるいは実家なら何か知ってるかも、そう思い電話を掛けるが「この電話は現在使われておりません」というアナウンスが流れるだけ。
 先週送ってもらったカニのお礼を伝えたばっかりなのでそんなはずはない。だが何度かけなおしても聞きなれたフレーズだけが返ってくる。

 完全に混乱したYさんは、地元の警察署――つまり、ここ――に駆け込んできたというわけだ。

「話は大体分かりました」

 超常現象対策部特捜課に来てもらい、茶を出して落ち着いてもらったYさんの語りを聞いてまとめてみたのだが…

「楪《ゆずりは》さんと言いましたか。あの、一体何が起こってるんでしょうかこれ…」
「うーん…説明は難しいんですけどね。一言でいうと、”運が無かった”これにつきますかね」

 がしがし頭を掻き掻き言葉に迷ったが、結局ずばりということにした。

「運、ですか」
「ええ、まあ。あなた、愉快犯に誘拐されたようなもんです」

 そういうと、Yさんはぎょっとしたように顔を引きつらせる。
 まあ、この日本にいて白昼堂々と誘拐されるとか思わないよな。

「え、じゃ、じゃあ私は一体何をされるんで?」
「ああ、いや、別に何かをさせるとか金品など要求されるとかってのはないと思います。ただ、突発的に起こるというか、間が悪くとっ捕まるというか」

 だから、”運が無かった”。そうとしか言いようがない。

 昔から安瀬乃片敷六丁目では行方不明事件や、逆に記憶があいまいな人がふいっと現れることがままあり、超常現象対策部特捜課では彼らの保護も仕事に含まれている。
 そういう人たちの中には見た目日本人なのに日本語が通じないこととか、戸籍が無いとかもザラだったため、俺は彼らは別次元から来た、あるいは連れてこられた人たちだと思うことにしている。だって本当に別次元があるかどうかは自分がなってみないと判らないし。

 怪訝そうな顔をされたYさんだが、とりあえず説明しようがないのだからそういうものだと割り切ってもらうしかない。
 それより重要なのは今後のことについてだ。

 ざっくりとではあるが、Yさんは黙っておおむねの話を聞いてくれた。
 真っ青な顔をしているが、まだ冷静に話を聞こうとする姿勢を保っているだけで好感が持てる。ひどいのになるとこちらが担ごうとしてるんじゃないかと暴れだしたり、カメラが無いかと荒らし回ったりしてくるからな。

「…じゃ、じゃあ…もう、ぼくは戻れないのですか…」
「それもなんとも。神隠しにあった人も少なくないので、あるいは戻った人もいるかもしれません。ゼロじゃない、がゼロに近いと思ってもらうのがいいでしょう。肝心なのは、いつでも戻れるように生活基盤を整えておくことです。安定して飯が食えること、それが人生一番大事ですからね」

 あいまいな答えは返さない。残酷なように思えるが、あり得もしない期待を抱かせるほうがよほど酷だと俺は思っている。
 泣きそうな顔をしているYさんは、こくりとうなずく。

「なぁに、進んできた時間が違うだけでここの生活や風習は元の世界とあんま変わらんでしょう。あるいはここでの生活がよかった、という人も中にはいます。あまり気落ちなされないように」

 元の世界でのしがらみが薄い人なら良いけど、そうではない人にはこんな言葉は何ら慰めにもならないことは分かっている。
 しかし、それでやけになられるのがこちらで生きている者としては一番困るのだ。そういう”危険”から住民を守るのが警官である自分の職分だ。

「いずれにせよ、当分…三年ほどは書類を提出さえしていただければ生活保護が適応されますので、書類を書いていただくことになります。まあ、就職における保証も兼ねてますので、そうしないと生きていくこともままなりませんがね」
「はあ…何から何まですいません。ついでに、トイレ借りてもいいですか」

 どうやら顔が青かったのは緊張のせいだけではなかったようだ。

「あ、これは気づきませんでどうも。あちらの扉を出て左の廊下突き当りにあります」
「ありがとうございます」

 Yさんは手持ち無沙汰にもてあそんでいたスマホを机の上に置き、廊下に向かう。

「あ」

 小さな声が上がった。
 Yさんが扉をくぐったところで、いつの間にかほどけていた靴ひもを踏んだようでよろけたのだ。
 ところが壁に倒れこむより先にふっとYさんの姿がかき消える。

 慌てて後を追ったが、廊下には誰もいない。確認のためトイレの中をも確認したが、いずれも鍵が掛かっていた。

 俺はため息をはくと、部屋へ取って返し机の上に放置されていた忘れ物に目をやった。
「このスマホは…遺失物管理課へ預けておかんとなぁ」
 再び取りに戻ってくる可能性もゼロじゃない。
 ただただ、彼が無事元の世界へ戻れたことを祈るばかりである。


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 ツギハ23ニチ19ジ
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