氷の沸点

藤岡 志眞子

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11 偽りの真実の、偽り

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「旦那様、ボ、ボクは何のために交換奉公をしているのでしょうか…?」

「ケイキ、俺も聞きたかったんだが、何も知らないで引き受けたのか。」

「え?」

遠原 和葉の妊娠事件を聞き、ケイキは真相を知るべく喜船の旦那様、綿貫 鈿兵衛(わたぬき でんべえ)に尋ねた。

「お前は何て聞いてうちに来たんだ。」

「ただ、名前と出身地を替えて、料亭の丁稚で働けって…。」

「お前は…自分の事なんだから、ちゃんと聞いてだな。」

お前はお前は、って。旦那様はイライラするとケイキからお前呼びになる。怒ってるんだろうなぁ…。
ケイキ偽り遠原 和葉は十六歳になっても子供っぽく何に対しても自身なさげで、その雰囲気、立居振る舞いのせいで年下の丁稚に馬鹿にされている。しかし、仕事は出来る。最初のうちはとんと駄目で向いてないんじゃないかと弥助に言われたが、柿谷に指南に行って帰ってきてから急に飲み込みが早くなり、弥助も悠太も、女将さんまでもが目を見張った。身体の成長も皆を驚かせ、喜船に来て背が四十センチも伸びた。
丸顔で、くりっとした目も成長するにつれ目尻が上がり、団子鼻も「形を変えたのか?」と、久しぶりに会った父親に言われるほど綺麗に整い、ぼやけた横顔はくっきり影に映るほどになっていた。

「良い男になったもんだよ。」

佐倉屋の人間は気にも留めていなかった次男坊の容姿に目を見張り、良いところのお嬢さんと結婚できるのでは、と張り切り始めていた。そんな時であった。

(遠原 和葉が、安森の娘を孕ませた。)

遠原の家までその話はまだいっていないにしろ、噂とは怖いもの。いつ、どこで漏れるかわからない。嘘の話、誠の話などどうでもよい。面白がって関係の無い者まで知れてしまう。

「始めは…、加賀美屋の旦那が天野の家の者に頼まれてな、うち(喜船)に今年丁稚に上がる歳の近い男の子がいたら、そいつと交換して働かせたいと言ってきたんだ。その丁稚がお前。それはお前も知ってるな?」

「はい…。」

そうだ、お父様に言われた時は、料亭喜船と言われてガッカリして、しばらくして酒屋になったと聞いた。

「…で、交換だけならやってるとこはたくさんある。合わない奉公先だってあるしな。斡旋屋(仕事の仲介)だって工夫するんだ。お前は加賀美屋に行って、天野はうちだった。だから、遠原…お前の実家には息子は加賀美屋に奉公にやったと思っている。それが直前に、元に戻すと言ってな。しかも名前と出身地を変えて、だ。実家からしてみたら、加賀美屋にお前がいると思ってる。しかし、行ってみたら違う奴がいる。疑われるような事を何でわざわざって…。」

家を出て、斡旋屋と待ち合わせの場所に行ったら、天野 桂樹がいた。そして、斡旋屋から喜船に行けと言われ身分証を交換したんだ。

「じ、実家の家族には、本当にバレていないんでしょうか…。」

「手紙も小包も、加賀美屋にお前宛に来たやつは全て、旦那の配慮でこっちに届けてくれてるし、数年前みたいにお袋さんが来た時は、酒蔵に見学に行ってるって取り繕ってくれたしな。だが、長くはもたない。今までバレなかったのが不思議だよ…」

「ボクも帰省する度に料理の話をしそうになるし、台所をうっかり手伝って危なかった…。」

「お前…。」

「もし、また家族が加賀美屋に行ってお前がいないとなったら、元々行くはずだったうちに連絡を寄越すだろう。その時が来たら終わりだ。」

「…天野の家からの手紙はないのですか。」

「あるっちゃあるが、お前ほどはないな。うちにも家族が訪ねてくる事はなかったし…。」

何故だろう、何だか悲しい気持ちになる。

「……今回の事で、話を持ってきた加賀美屋の旦那。そして、別の日に安森の若旦那とこの前、話した。」

安森の若旦那様は、喜船の旦那様と仲が良かった前旦那様の息子さんである。
和葉の柔和な顔が強張った。

「安森の若旦那は加賀美屋から結構な見舞金を貰って納得したと言っていた。だからこの事は他所に漏れる事はない、大丈夫だ。」

ほっ。良かった…。

「で、加賀美屋からの話でわかった事だが、天野の本名は安森だ。天野はその安森と親戚ってわけだ。何の因果か親戚同士で作っちまったんだな…。」

「え、親戚…って、天野も偽名だったんですか?」

「まぁ、そういう事だろう。で、加賀美屋の話だと…安森本家のあの家に、北の国に追いやられた天野の旦那が復讐で息子に名前を変えさせて近付いて、今回の件を起こしたんじゃないかって話だ。傷物で終わらすつもりが、妊娠までして想定外だっただろうが…。まぁ、そういう話が簡単なんじゃないかってな。」

「復讐?なら、単に名前を変えて加賀美屋に奉公に上がれば良かったではないですか。ボクは必要無いのでは。」

「そこだ、そこがわからん。だから加賀美屋と天野の仲介に入った斡旋屋にも話を聞きたかったんだが、これが見つからなくてなぁ。まぁ、名前のことに関して以外は、俺より加賀美屋の方が大損喰らってるし…良い気味だよ。…加賀美屋の旦那は、天野に何か恨みを買うような事をしたんじゃないか?復讐するにあたり奉公先にも迷惑が掛かるというのも計算して、天野(安森)はあいつを加賀美屋に出した、と俺は踏んでいる。」

入念な計画に悪寒が走る。そんな和葉の目を見た後、旦那様が居直してから話を続ける。

「お前、安森の名前に覚えはないか?親父さんから何か聞いた事とか…。」

「な、ないです。」

恨まれてる、とか…?

「そうかぁ…何でお前を、天野としてうちに寄越したかったのか。偶然か?」

…ボクも、計画の内に入っている…?

安森本家、北の国の酒蔵の天野、偽り安森。ふたりの偽装、加賀美屋への奉公。そして、ボク。遠原の家は過去に何か安森と関わっているのだろうか。ざわざわと胸騒ぎがした。
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