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第17話:鬼子母神
第91章:顧復之恩(こふくのおん)
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♡ーーーーー♡
【顧復之恩】親に慈しみ育てられた恩のこと。
いつか、この身に受けた恩を返していくぞ・・・、みたいな。
♡ーーーーー♡
「お前ら!なんで!!」
御九里は絶対に感知できるわけがないと思っていた。たとえ、自分が仙台にいると分かっても、この場所にいるところまではわからないはずだと。それもそのはずだ。そもそも御九里自身も、巧妙に隠された十和子の妖気を追うことができずに、いろいろな情報網を駆使して、やっとのことでここまで辿り着いたのだから。
しかし、そんな抗議とも疑問ともつかない言葉を日暮が一蹴する。
「『なんで』も何もありません!・・・私!ホントに、ほんっとうに!心配、したんですからぁ!!!」
彼女は腰にくくってある革袋から、一握りの石を取り出すと、ぎゅっと握りしめて呪言を唱える。
「石気鳴動!鎮星・歳破神よ、傷門、杜門、驚門、死門に至れ!」
そのまま石礫のようにそれを十和子に投げつけた。石礫がバラバラと十和子に当たるが、それ自体には全くダメージはないようだ。日暮が両の手で複雑な印を次々と結んでいく。
「月家奇門、遁甲神機、石よ応えよ!・・・神羅天帝、急々如律令!」
ブウンッと散らばった石の一つ一つが色とりどりに光り、震え出す。十和子の周囲に散らばった石たちが、それを囲い込む結界を形成し彼女をその内部に捕らえてしまう。
「・・・っ!」
両の手を拡げ、左右の親指同士、人差し指同士をくっつけた形・・・日輪印を形成し、前方に突き出して最後の呪言を奏上する。
「石気結界・歳破鳴動呪!」
キィン・・・!
石の鳴動が共鳴しあい、結界内部の空間全てを超高周波の振動で揺さぶり尽くす。
「ぎゃああああっ!!!」
十和子の鬼の皮膚が裂け、目、耳、鼻、その他すべての穴という穴から血しぶきが上がる。複雑な振動数を組み合わせた超高周波振動は、十和子の身体のあらゆる部分と共鳴し、呪的エネルギーを注ぎ込む。たとえ最硬度を誇る皮膚であっても、微細かつ高頻度の振動で突き崩されてしまい、その硬さは全くの無意味となる。
これが、日暮が唯一(素面で)使える、最大の攻撃呪術『歳破鳴動呪』である。
「ぐああああああっ!!」
十和子の表情が苦悶に歪み、半径1メートルほどの結界内で暴れまわる。十和子の力により、結界が内側から力を受け、嫌なきしみを上げる。
「くっ!」
日輪印を突き出したままの姿勢で日暮が唇を噛んで呪力を絞り、結界の維持に努める。そもそもが占術を専門とする『占部衆』の術者である。攻撃呪も結界法も、彼女にとっては専門外なのだ。それでも最大の呪力を絞って、鬼である十和子の身体を結界内部に押さえつけようとする。
「は・・・早く・・・御九里さん・・・今です・・・早く、は、祓って!」
手がブルブルと震え、今にも日輪印が崩れそうになる。結界の内部からの圧力がそのまま日暮の身体にダメージとして伝わってきてしまっているのだ。
しかし御九里も素早かった。日暮が攻撃をしかけたその隙に、態勢を立て直し、傍らに跳ね飛ばされた自らの武器を拾い上げていた。
「日暮!そのまま押さえてろ!」
御九里は刀を高く持ち、その刀身が顔にかかるように構える。いわゆる霞の構えというやつだ。
・・・土御門さん、技を借りますっ!
「天地開闢 四神天帝を奉る
霊光、星辰、日形、月形、極みて退けよ
東方青帝土公、南方赤帝土公、西方白帝土公、北方黒帝土公、赤門より再拝せよ」
切っ先が光り始め、刀身が細かく震え、鳴動する。身体から立ち上る呪力は呪言により四神の光に変換され、退魔の力となって収束していく。
「え・・・?その呪言て・・・」
九条が御九里の放とうとしている術式を察知して目を見開く。それもそのはず、この術は、金気における最高呪のひとつ、陰陽寮では唯一土御門のみが使えると考えられていた四神退魔法が一法
「霊光剣戟 急急如律令!」
霞の構えから上段に振り上げた鬼丸国綱改を一息に振り下ろす。
その術式の名は・・・
「四神霊光檄!」
振り下ろした刀から、円弧状の光刃が迸る。それが日暮がかろうじて維持していた石気の結界に囚われている十和子を両断せんと迫っていった。
しかし・・・
「があっあああぁあっ!!」
最後の力を振り絞って十和子がその両の手を拡げ、日暮の結界を内部から打ち破る。「きゃあ!」と軽い悲鳴を上げ、日暮の日輪印がバチンと音を立てて解けてしまう。
その様子を横目に見つつ、『間に合え!』と御九里は念じていた。実際は、光刃が結界に到達するのと、結界がはち切れるのはほぼ同時に見えた。
光が弾け、一瞬、あたりが閃光に包まれ真っ白になる。
十和子の悲鳴、結界が崩れるバチッという破裂音、何かが肉を切り裂く音・・・それらが入り混じる。やがて、光は闇に溶け、目が効くようになってきた。
・・・どう、なった!?
油断なく刀を構えたまま、御九里がジリジリと十和子のいた場所に近づいていく。視界が晴れてくると、そこには、右腕が肩のあたりからバッサリと切り落とされた状態で、はあ、はあと苦しそうに喘ぐ十和子がいた。その目には怨嗟の炎がメラメラと燃え上がっている。
「ちっ!」
御九里が舌打ちをする。九条が慌てて金鞭を構え直し、日暮は一歩後ずさる。ちなみに田久保は、大きな木の陰に隠れて震えていた。
「まだだ!」
九条が叫んだのと、十和子が踵を返して駆け出すのが同時だった。弾かれたように駆け出す十和子を見て、慌てて御九里と九条が後を追う。日暮も追うが、戦闘員たる御九里や、万能型の九条ほどの脚力がないため、どんどんと置いていかれてしまう。
「はあ・・・ま・・・待ってぇ・・・ああ・・・っ!にゃ・・・ニャンコ先生!行って!行って御九里さんを助けてぇ!」
にゃあ、にゃあと日暮の足元にたむろしていた黒猫軍団が一気に走り出す。猫たちはすぐに御九里達に追いつくと、それを追い越し十和子に追いすがろうとした。この時、十和子はすでに公園を抜け、その裏手に走る幹線道路に差し掛かろうとしているところだった。
「ば・・・、馬鹿!」
御九里が声を上げる。右側からダラダラと血を流しながら疾走する十和子も、追いつこうとしている猫神達に気づいたようだった。
「く・・・来るな!」
右肩越しに振り返りざま、左手で一閃する。そこから生み出された衝撃波が、背後に迫っていた猫神達をことごとく跳ね飛ばした。
「ぶぎゃ!」「ぎゃっ!」
短い悲鳴を上げ、次々と猫神が吹き飛ばされ、あるものは樹に、あるものは地面に叩きつけられ、くたりとする。そもそもが戦闘向きではない猫神に人鬼を追わせるのは無理があるのだ。
ただ、猫神達に構ってくれたおかげで、御九里と十和子の距離が縮まったのは確かだ。この時点で、十和子にもっとも近かったのは、木気の強身術で筋力を増強していた御九里である。そして、その背後10メートルほど後ろに九条、更に大分遅れて日暮が続いているという形だった。
御九里が一足飛びに跳躍し、鬼丸国綱改で十和子に斬りかかる。あやかしの耐久力とタフネスを有する十和子も、さすがに右腕を失ったダメージは大きかったのか、先程よりも動きに切れがない。その隙を、御九里の斬撃が突いていく。
ギィン!
かろうじて御九里の斬撃を左手で受けながら、バックステップでなおも十和子は逃げようとする。十和子としては、ここさえ逃げ切ってしまえば、また闇に潜伏し、力を取り戻すことができる、という算段があったに違いない。
御九里もそれを読んでいたからこそ、体力と呪力の限界を押して追いすがり、切りかかっていっているのである。もはや、彼を支えているのは気力のみであった。
「絶対、絶対・・・逃がすかぁ!」
・・・俺は、あの時止められなかった・・・
左下からすくい上げるような斬撃を繰り出す。十和子はそれを硬化した足で押さえつけ、踏みつけて武器破壊を狙う。御九里は手首を返し右に刀を払うと、今度は刺突の構えに入る。
だから・・・ずっと、ずっと追ってたんだ・・・!
右腕を鋭く突き出し、その切っ先で十和子の喉をえぐろうとする。だが、十和子もまた、その軌道を読み、身をのけぞらせることで喉への直撃を避け、さらに、その刃を牙で受ける。刀を噛み砕かれそうになるのを直感し、御九里は慌てて刃を引くと、すぐさま体をコマのように右回転させ、彼女の死角である右体側めがけて、横薙ぎの斬撃を繰り出していく。
あんたには・・・これ以上・・・
ザシュっという肉を断つ音をたてる。しかし、胴を横薙ぎにするべく放った斬撃は、十和子が態勢を崩すという犠牲を払いつつも後ろに倒れ込むようにして身を躱した結果、胸を浅く切り裂くだけに終わり、致命傷にはならなかった。
十和子が、そのまま体を転がすようにして幹線道路に飛び出していく。間髪いれずに御九里もそれを追いかける。
「罪を・・・犯させたく・・・ないんだ!!」
右肩に担ぐように振り上げた刀を、渾身の力を込めて振り下ろそうとする。バランスを崩しつつも、左手を押し出すようにしてそれを防ごうとする十和子。その二人を、まばゆいばかりのヘッドランプが横から照らし出す。
「御九里!」
やっとのことで二人に追いついた九条が声を上げる。九条の目には、幹線道路に絡み合いながら飛び出した十和子と御九里に向かって、大型のダンプカーが突っ込んでくるところが映っていた。
危ない!
そう思った瞬間、クラクションと急ブレーキ音をけたたましく鳴り響かせながら、九条の眼前を大質量のダンプカーが通り過ぎていった。グチャリと肉が轢き潰される音、車体を揺らしながらスピンをし公園の外壁にダンプカーが衝突する破砕音が響き渡る。そして、それらが全て収まった後、辺りは一転して静寂に包まれた。
「御九里!」
道路際にへたり込むように座る御九里の名を再び呼びながら九条が駆け寄る。御九里自身は、目を見開いた姿勢で、前方を凝視していた。
そこには、手足がグチャグチャに引き裂かれ、頭の半分が潰された十和子の亡骸が、血溜まりの中に倒れていた。
「ギリギリ・・・避けたのか・・・」
目の前の惨劇はともかくとして、御九里が助かったことに、九条はホッとして言葉を漏らした。しかし、御九里は、ゆっくりと頭を振った。
「違う・・・違うんだ・・・」
彼の瞳は、目の前の光景を前に、微かに揺れていた。
☆☆☆
「御九里・・・自宅で1か月、謹慎!ついでにその間、減給!」
「え?・・・」
十和子との一戦から3日後、とりあえずの怪我の治療を終え、陰陽寮に出勤してきた御九里は土御門に呼び出された。その土御門から言い渡された処分がこれだった。
「・・・謹慎?」
「そうや」
「お給料・・・減る?」
「当たり前や!」
いまだ頭に包帯を巻き、骨折した右腕は三角巾で吊っている御九里は、がっくりと肩を落とした。
「そもそも勝手に単独で怪異の調査を行ったのが内規違反です。そして、厳しく言えば呪力不正行使にも当たるのですから、本当はクビでもおかしくなかったんですよ」
土御門の傍らにいる瀬良が、フォローにもなっていないことをそっと伝えてくる。瀬良としては、心の中では『まあ、そもそも、謹慎など言い渡さなくても、怪我の回復に1ヶ月はかかるでしょうから、実質は減給処分だけですけどね』と思っていた。
要は『謹慎』というのは建前で、身も心も大きなキズを負った御九里に、しっかり休めという土御門なりの優しさなのである。
「いや・・・でも・・・あの・・・」
「でも、やない!どんだけ、おまはんは周りに迷惑かけたと思とるねん!ほれ!さっさと辞令受け取って家に帰り!」
そう言うと土御門は、シッシと手のひらを振って、御九里を追い出すような仕草をする。はあ、とため息をつくと、差し出された辞令を受け取り、土御門の執務室を後にしようとした。
「ああ・・・なんだ・・・。ついでに言うとくが、例のご遺体な、司法解剖終わったからな葬儀・・・できるで」
その言葉に立ち止まると、ビクリと肩を震わせる。黙って振り返り、深々と一礼して、そのまま部屋を後にした。
「瀬良ちゃん・・・」
「分かってます。御九里様を助けてやれ・・・でしょ?」
にこりと笑うと、瀬良もまた、執務室を後にする。
あとに残った土御門は、どかりと椅子に腰掛けると、机の上に足を投げ出し、ぼんやりと天井を眺めていた。
この時、彼が思い出していたのは、訓練室の片隅で今にも泣き出しそうな顔をしていた、あの頃の御九里の姿だった。
☆☆☆
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等・・・」
烏帽子を被り白装束に身を包んだ神主が、恭しく祭壇に向かって祝詞を奏上している。祭壇前には、棺が安置されており、神主は幣を振って、それを清めていた。
亡くなった御九里塔若子(みくりとわこ)に対する神式の葬儀が、宮内庁陰陽寮の敷地内で厳かに執り行われていた。
参列者は少なく、土御門、御九里、それから日暮と九条。そして、今回の祭事を取り仕切っている大鹿島と瀬良だけだった。
神主が深く一礼すると、まずは御九里が玉串を持って祭壇前に立つ。そしてそれを、そっと用意された机の上に置くと、両手を合わせて深く頭を垂れた。
この日の彼の姿は、髪の毛の色こそいつもの白銀色ではあるものの、可能な限りワックスで撫でつけていた。ピアスも光沢の少ないものに付け替えられており、衣装は当然のように黒のスーツだ。そんな御九里が、たっぷり3分ほど、そのままの姿勢をとっていた。そして、顔を上げると、もう一度軽く礼をして、席に戻った。
ついで、土御門、そして日暮と九条、瀬良が玉串を捧げる。
最後に大鹿島が深々と一礼をしつつ、玉串の置かれた台を祭壇に届けた。
神主による祓えの祝詞の奏上を終え、棺が運び出される。そのまま斎場で火葬されることとなっていた。さすがに顔の復元は難しかったようで、故人との対面、という部分は省略されていたが、それは御九里も承知の上だった。
そして火葬は、あっけないほどあっという間に終わった。
皆が斎場を後にしようとするが、御九里だけが歩みを止め、後ろを振り返っていた。午後から始まった祭事だったので、時刻はすでに夕暮れに迫っていた。茜射す空に一筋立ち上る白い煙を、彼はただ、ぼんやりと見上げていた。
「御九里・・・さん」
日暮が、おずおずと話しかける。普段とあまりにも雰囲気が違いすぎて、話しかけることがためらわれていたので、これが今日、初めての会話だった。
日暮はある程度の事情を、自分の上司である土門から聞いていた。
十和子・・・塔若子が御九里の母親だったということ。
御九里が幼い頃に、塔若子が目の前で鬼となり、大量虐殺を働いたこと。
そして、御九里はこれまでずっと、母親である塔若子がこれ以上罪を犯さないよう、自らの手で祓うことを誓って、追い続けていたこと。
その思いを全て分かるとは、とても言えないけれども、辛そうにしている彼を、なんとか支えたいと、彼女は思っていた。
「おかゆ・・・作ってくれたんだ」
後ろにいる日暮の方を一瞥すると、唐突に御九里は言った。
「一回だけ、なんだけどさ・・・。多分、俺が・・・6歳くらいの時。インフルエンザかなんかになっちまって、高熱でうなされてたとき・・・さ、おかゆ出してくれたんだ」
御九里の頬に涙が流れていた。
それは、顎を伝って、一粒、そして、また一粒と地面に落ちていった。
「今から考えるとさ、あれ、レトルトだったと思うんだけど・・・でも・・でもさ・・・俺のために・・・」
肩が震えていた。そんな御九里の背中を、温かい感触が包み込む。日暮が、彼を抱きしめていた。背中におでこをつけて、ギュッと、彼の身体を掻き抱いていた。おそらくいつもなら、それを振り払っていただろう御九里も、このときは日暮のするがままにさせていた。
「あの時・・・あの時・・・鬼になったのは・・・お・・・俺が・・・傷つけられたからで・・・お、俺が・・・俺さえいなければ・・・いなければ・・・」
母さん・・・
絞り出すような声が御九里の口から漏れる。
幼い日、彼があの環境の中、死なずに済んだのは、
たとえ不器用であっても、彼の母親の愛情があったからだ。
彼女は邪険にしながらも、決して彼を捨てることはなかった。
『父』の元を離れたのも、彼がいたからだった。
そして、鬼になって、彼のことを忘れ果てたはずだったのに・・・
最期の最期で、十和子は・・・いや『塔若子』は、彼を突き飛ばしてダンプカーに轢かれないようにしたのだ。
御九里の目から、とめどなく涙が溢れてくる。
記憶が、思い出が、堰を切ったように溢れてくる。
声にならない嗚咽が止まらない。
そして、その心は、後悔と罪悪感でぐちゃぐちゃになっていた。
そこからはもう、言葉になんてならなかった。
そんな彼を、日暮は更に力を込めて抱きしめていた。
『あなたは悪くない
小さかったんだ、しょうがなかったんだ』
『あれだけ人を喰ったんだ、祓うよりほかなかったんだ』
そんな事を言っても、多分、届かない。
だから・・・
このとき彼女にできる最大限のこと
黙って抱きしめることが、精一杯の彼へのメッセージだったのだ。
土御門と瀬良も、その様子を少し離れたところから見守っていた。
☆☆☆
「上がりまーす!」
日暮が、そそくさと荷物をまとめて占部の事務室から退室する。17時30分、陰陽寮の正規の勤務が終わるので、別に責められることではないのだが、占部衆所属の陰陽師である廣金は、なんとなくそれを不自然に感じていた。
「ここんところ日暮さん、毎日上がるの早いですね・・・」
ポツリとそう言うと、上席に座っていた土門がニヤニヤと笑っているのに気づく。
「土門様?なにか心当たりが?」
「ふっふっふ・・・やーっと、うちの朴念仁たちも気づいたのでしょうか・・・。あれはですね、押しかけ女房なのです・・・ふふふふふ」
不敵に笑う土門の目はいかにも愉しそうだった。
「押しかけ?・・・え?何処かに行ってるってことですか?」
問いかける廣金に、土門はただ、ふふふふふふ・・・と笑うのみで、詳細は教えてはくれなかった。そんな土門の様子に、なんとなく不気味なものを感じた廣金は、それ以上この話題に触れるのをやめることにした。
土門は土門で、そんな廣金の視線など全く意に介さず、日暮が去っていった扉を見ながら、顔がニヤけるのを止める事ができないでいた。
知っている・・・知ってるのですよぉ・・・
御九里は今、手が使えません・・・一人暮らしの彼はさぞやお困りでしょう。
あなたはそれをご存知ですよね?
行ってあげたい、お料理、お洗濯、包帯を替えてあげたり、お風呂で頭を洗って差し上げたり・・・
下の世話・・・はいらないにしても・・・
そして、そして!
ええ、ええ、そうですとも!
そんなことしてたら、仲良くなっちゃうのは目に見えているのです
・・・ふふふふふ・・・
もしかしたら、もしかして?
もう、夜の生活のお世話なんかもしちゃってたりして♡
ふふふふふ・・・
ほくそ笑む土門、遠巻きにそれを見る廣金。
衆の事務室には他にも冴守や設楽なども残っているが、彼らはこのことにはあまり興味がないようである。
外はどんよりとした梅雨空であるけれども、どうやら土門の頭の中だけは、ピンク色の世界が広がっているようだった。
【顧復之恩】親に慈しみ育てられた恩のこと。
いつか、この身に受けた恩を返していくぞ・・・、みたいな。
♡ーーーーー♡
「お前ら!なんで!!」
御九里は絶対に感知できるわけがないと思っていた。たとえ、自分が仙台にいると分かっても、この場所にいるところまではわからないはずだと。それもそのはずだ。そもそも御九里自身も、巧妙に隠された十和子の妖気を追うことができずに、いろいろな情報網を駆使して、やっとのことでここまで辿り着いたのだから。
しかし、そんな抗議とも疑問ともつかない言葉を日暮が一蹴する。
「『なんで』も何もありません!・・・私!ホントに、ほんっとうに!心配、したんですからぁ!!!」
彼女は腰にくくってある革袋から、一握りの石を取り出すと、ぎゅっと握りしめて呪言を唱える。
「石気鳴動!鎮星・歳破神よ、傷門、杜門、驚門、死門に至れ!」
そのまま石礫のようにそれを十和子に投げつけた。石礫がバラバラと十和子に当たるが、それ自体には全くダメージはないようだ。日暮が両の手で複雑な印を次々と結んでいく。
「月家奇門、遁甲神機、石よ応えよ!・・・神羅天帝、急々如律令!」
ブウンッと散らばった石の一つ一つが色とりどりに光り、震え出す。十和子の周囲に散らばった石たちが、それを囲い込む結界を形成し彼女をその内部に捕らえてしまう。
「・・・っ!」
両の手を拡げ、左右の親指同士、人差し指同士をくっつけた形・・・日輪印を形成し、前方に突き出して最後の呪言を奏上する。
「石気結界・歳破鳴動呪!」
キィン・・・!
石の鳴動が共鳴しあい、結界内部の空間全てを超高周波の振動で揺さぶり尽くす。
「ぎゃああああっ!!!」
十和子の鬼の皮膚が裂け、目、耳、鼻、その他すべての穴という穴から血しぶきが上がる。複雑な振動数を組み合わせた超高周波振動は、十和子の身体のあらゆる部分と共鳴し、呪的エネルギーを注ぎ込む。たとえ最硬度を誇る皮膚であっても、微細かつ高頻度の振動で突き崩されてしまい、その硬さは全くの無意味となる。
これが、日暮が唯一(素面で)使える、最大の攻撃呪術『歳破鳴動呪』である。
「ぐああああああっ!!」
十和子の表情が苦悶に歪み、半径1メートルほどの結界内で暴れまわる。十和子の力により、結界が内側から力を受け、嫌なきしみを上げる。
「くっ!」
日輪印を突き出したままの姿勢で日暮が唇を噛んで呪力を絞り、結界の維持に努める。そもそもが占術を専門とする『占部衆』の術者である。攻撃呪も結界法も、彼女にとっては専門外なのだ。それでも最大の呪力を絞って、鬼である十和子の身体を結界内部に押さえつけようとする。
「は・・・早く・・・御九里さん・・・今です・・・早く、は、祓って!」
手がブルブルと震え、今にも日輪印が崩れそうになる。結界の内部からの圧力がそのまま日暮の身体にダメージとして伝わってきてしまっているのだ。
しかし御九里も素早かった。日暮が攻撃をしかけたその隙に、態勢を立て直し、傍らに跳ね飛ばされた自らの武器を拾い上げていた。
「日暮!そのまま押さえてろ!」
御九里は刀を高く持ち、その刀身が顔にかかるように構える。いわゆる霞の構えというやつだ。
・・・土御門さん、技を借りますっ!
「天地開闢 四神天帝を奉る
霊光、星辰、日形、月形、極みて退けよ
東方青帝土公、南方赤帝土公、西方白帝土公、北方黒帝土公、赤門より再拝せよ」
切っ先が光り始め、刀身が細かく震え、鳴動する。身体から立ち上る呪力は呪言により四神の光に変換され、退魔の力となって収束していく。
「え・・・?その呪言て・・・」
九条が御九里の放とうとしている術式を察知して目を見開く。それもそのはず、この術は、金気における最高呪のひとつ、陰陽寮では唯一土御門のみが使えると考えられていた四神退魔法が一法
「霊光剣戟 急急如律令!」
霞の構えから上段に振り上げた鬼丸国綱改を一息に振り下ろす。
その術式の名は・・・
「四神霊光檄!」
振り下ろした刀から、円弧状の光刃が迸る。それが日暮がかろうじて維持していた石気の結界に囚われている十和子を両断せんと迫っていった。
しかし・・・
「があっあああぁあっ!!」
最後の力を振り絞って十和子がその両の手を拡げ、日暮の結界を内部から打ち破る。「きゃあ!」と軽い悲鳴を上げ、日暮の日輪印がバチンと音を立てて解けてしまう。
その様子を横目に見つつ、『間に合え!』と御九里は念じていた。実際は、光刃が結界に到達するのと、結界がはち切れるのはほぼ同時に見えた。
光が弾け、一瞬、あたりが閃光に包まれ真っ白になる。
十和子の悲鳴、結界が崩れるバチッという破裂音、何かが肉を切り裂く音・・・それらが入り混じる。やがて、光は闇に溶け、目が効くようになってきた。
・・・どう、なった!?
油断なく刀を構えたまま、御九里がジリジリと十和子のいた場所に近づいていく。視界が晴れてくると、そこには、右腕が肩のあたりからバッサリと切り落とされた状態で、はあ、はあと苦しそうに喘ぐ十和子がいた。その目には怨嗟の炎がメラメラと燃え上がっている。
「ちっ!」
御九里が舌打ちをする。九条が慌てて金鞭を構え直し、日暮は一歩後ずさる。ちなみに田久保は、大きな木の陰に隠れて震えていた。
「まだだ!」
九条が叫んだのと、十和子が踵を返して駆け出すのが同時だった。弾かれたように駆け出す十和子を見て、慌てて御九里と九条が後を追う。日暮も追うが、戦闘員たる御九里や、万能型の九条ほどの脚力がないため、どんどんと置いていかれてしまう。
「はあ・・・ま・・・待ってぇ・・・ああ・・・っ!にゃ・・・ニャンコ先生!行って!行って御九里さんを助けてぇ!」
にゃあ、にゃあと日暮の足元にたむろしていた黒猫軍団が一気に走り出す。猫たちはすぐに御九里達に追いつくと、それを追い越し十和子に追いすがろうとした。この時、十和子はすでに公園を抜け、その裏手に走る幹線道路に差し掛かろうとしているところだった。
「ば・・・、馬鹿!」
御九里が声を上げる。右側からダラダラと血を流しながら疾走する十和子も、追いつこうとしている猫神達に気づいたようだった。
「く・・・来るな!」
右肩越しに振り返りざま、左手で一閃する。そこから生み出された衝撃波が、背後に迫っていた猫神達をことごとく跳ね飛ばした。
「ぶぎゃ!」「ぎゃっ!」
短い悲鳴を上げ、次々と猫神が吹き飛ばされ、あるものは樹に、あるものは地面に叩きつけられ、くたりとする。そもそもが戦闘向きではない猫神に人鬼を追わせるのは無理があるのだ。
ただ、猫神達に構ってくれたおかげで、御九里と十和子の距離が縮まったのは確かだ。この時点で、十和子にもっとも近かったのは、木気の強身術で筋力を増強していた御九里である。そして、その背後10メートルほど後ろに九条、更に大分遅れて日暮が続いているという形だった。
御九里が一足飛びに跳躍し、鬼丸国綱改で十和子に斬りかかる。あやかしの耐久力とタフネスを有する十和子も、さすがに右腕を失ったダメージは大きかったのか、先程よりも動きに切れがない。その隙を、御九里の斬撃が突いていく。
ギィン!
かろうじて御九里の斬撃を左手で受けながら、バックステップでなおも十和子は逃げようとする。十和子としては、ここさえ逃げ切ってしまえば、また闇に潜伏し、力を取り戻すことができる、という算段があったに違いない。
御九里もそれを読んでいたからこそ、体力と呪力の限界を押して追いすがり、切りかかっていっているのである。もはや、彼を支えているのは気力のみであった。
「絶対、絶対・・・逃がすかぁ!」
・・・俺は、あの時止められなかった・・・
左下からすくい上げるような斬撃を繰り出す。十和子はそれを硬化した足で押さえつけ、踏みつけて武器破壊を狙う。御九里は手首を返し右に刀を払うと、今度は刺突の構えに入る。
だから・・・ずっと、ずっと追ってたんだ・・・!
右腕を鋭く突き出し、その切っ先で十和子の喉をえぐろうとする。だが、十和子もまた、その軌道を読み、身をのけぞらせることで喉への直撃を避け、さらに、その刃を牙で受ける。刀を噛み砕かれそうになるのを直感し、御九里は慌てて刃を引くと、すぐさま体をコマのように右回転させ、彼女の死角である右体側めがけて、横薙ぎの斬撃を繰り出していく。
あんたには・・・これ以上・・・
ザシュっという肉を断つ音をたてる。しかし、胴を横薙ぎにするべく放った斬撃は、十和子が態勢を崩すという犠牲を払いつつも後ろに倒れ込むようにして身を躱した結果、胸を浅く切り裂くだけに終わり、致命傷にはならなかった。
十和子が、そのまま体を転がすようにして幹線道路に飛び出していく。間髪いれずに御九里もそれを追いかける。
「罪を・・・犯させたく・・・ないんだ!!」
右肩に担ぐように振り上げた刀を、渾身の力を込めて振り下ろそうとする。バランスを崩しつつも、左手を押し出すようにしてそれを防ごうとする十和子。その二人を、まばゆいばかりのヘッドランプが横から照らし出す。
「御九里!」
やっとのことで二人に追いついた九条が声を上げる。九条の目には、幹線道路に絡み合いながら飛び出した十和子と御九里に向かって、大型のダンプカーが突っ込んでくるところが映っていた。
危ない!
そう思った瞬間、クラクションと急ブレーキ音をけたたましく鳴り響かせながら、九条の眼前を大質量のダンプカーが通り過ぎていった。グチャリと肉が轢き潰される音、車体を揺らしながらスピンをし公園の外壁にダンプカーが衝突する破砕音が響き渡る。そして、それらが全て収まった後、辺りは一転して静寂に包まれた。
「御九里!」
道路際にへたり込むように座る御九里の名を再び呼びながら九条が駆け寄る。御九里自身は、目を見開いた姿勢で、前方を凝視していた。
そこには、手足がグチャグチャに引き裂かれ、頭の半分が潰された十和子の亡骸が、血溜まりの中に倒れていた。
「ギリギリ・・・避けたのか・・・」
目の前の惨劇はともかくとして、御九里が助かったことに、九条はホッとして言葉を漏らした。しかし、御九里は、ゆっくりと頭を振った。
「違う・・・違うんだ・・・」
彼の瞳は、目の前の光景を前に、微かに揺れていた。
☆☆☆
「御九里・・・自宅で1か月、謹慎!ついでにその間、減給!」
「え?・・・」
十和子との一戦から3日後、とりあえずの怪我の治療を終え、陰陽寮に出勤してきた御九里は土御門に呼び出された。その土御門から言い渡された処分がこれだった。
「・・・謹慎?」
「そうや」
「お給料・・・減る?」
「当たり前や!」
いまだ頭に包帯を巻き、骨折した右腕は三角巾で吊っている御九里は、がっくりと肩を落とした。
「そもそも勝手に単独で怪異の調査を行ったのが内規違反です。そして、厳しく言えば呪力不正行使にも当たるのですから、本当はクビでもおかしくなかったんですよ」
土御門の傍らにいる瀬良が、フォローにもなっていないことをそっと伝えてくる。瀬良としては、心の中では『まあ、そもそも、謹慎など言い渡さなくても、怪我の回復に1ヶ月はかかるでしょうから、実質は減給処分だけですけどね』と思っていた。
要は『謹慎』というのは建前で、身も心も大きなキズを負った御九里に、しっかり休めという土御門なりの優しさなのである。
「いや・・・でも・・・あの・・・」
「でも、やない!どんだけ、おまはんは周りに迷惑かけたと思とるねん!ほれ!さっさと辞令受け取って家に帰り!」
そう言うと土御門は、シッシと手のひらを振って、御九里を追い出すような仕草をする。はあ、とため息をつくと、差し出された辞令を受け取り、土御門の執務室を後にしようとした。
「ああ・・・なんだ・・・。ついでに言うとくが、例のご遺体な、司法解剖終わったからな葬儀・・・できるで」
その言葉に立ち止まると、ビクリと肩を震わせる。黙って振り返り、深々と一礼して、そのまま部屋を後にした。
「瀬良ちゃん・・・」
「分かってます。御九里様を助けてやれ・・・でしょ?」
にこりと笑うと、瀬良もまた、執務室を後にする。
あとに残った土御門は、どかりと椅子に腰掛けると、机の上に足を投げ出し、ぼんやりと天井を眺めていた。
この時、彼が思い出していたのは、訓練室の片隅で今にも泣き出しそうな顔をしていた、あの頃の御九里の姿だった。
☆☆☆
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等・・・」
烏帽子を被り白装束に身を包んだ神主が、恭しく祭壇に向かって祝詞を奏上している。祭壇前には、棺が安置されており、神主は幣を振って、それを清めていた。
亡くなった御九里塔若子(みくりとわこ)に対する神式の葬儀が、宮内庁陰陽寮の敷地内で厳かに執り行われていた。
参列者は少なく、土御門、御九里、それから日暮と九条。そして、今回の祭事を取り仕切っている大鹿島と瀬良だけだった。
神主が深く一礼すると、まずは御九里が玉串を持って祭壇前に立つ。そしてそれを、そっと用意された机の上に置くと、両手を合わせて深く頭を垂れた。
この日の彼の姿は、髪の毛の色こそいつもの白銀色ではあるものの、可能な限りワックスで撫でつけていた。ピアスも光沢の少ないものに付け替えられており、衣装は当然のように黒のスーツだ。そんな御九里が、たっぷり3分ほど、そのままの姿勢をとっていた。そして、顔を上げると、もう一度軽く礼をして、席に戻った。
ついで、土御門、そして日暮と九条、瀬良が玉串を捧げる。
最後に大鹿島が深々と一礼をしつつ、玉串の置かれた台を祭壇に届けた。
神主による祓えの祝詞の奏上を終え、棺が運び出される。そのまま斎場で火葬されることとなっていた。さすがに顔の復元は難しかったようで、故人との対面、という部分は省略されていたが、それは御九里も承知の上だった。
そして火葬は、あっけないほどあっという間に終わった。
皆が斎場を後にしようとするが、御九里だけが歩みを止め、後ろを振り返っていた。午後から始まった祭事だったので、時刻はすでに夕暮れに迫っていた。茜射す空に一筋立ち上る白い煙を、彼はただ、ぼんやりと見上げていた。
「御九里・・・さん」
日暮が、おずおずと話しかける。普段とあまりにも雰囲気が違いすぎて、話しかけることがためらわれていたので、これが今日、初めての会話だった。
日暮はある程度の事情を、自分の上司である土門から聞いていた。
十和子・・・塔若子が御九里の母親だったということ。
御九里が幼い頃に、塔若子が目の前で鬼となり、大量虐殺を働いたこと。
そして、御九里はこれまでずっと、母親である塔若子がこれ以上罪を犯さないよう、自らの手で祓うことを誓って、追い続けていたこと。
その思いを全て分かるとは、とても言えないけれども、辛そうにしている彼を、なんとか支えたいと、彼女は思っていた。
「おかゆ・・・作ってくれたんだ」
後ろにいる日暮の方を一瞥すると、唐突に御九里は言った。
「一回だけ、なんだけどさ・・・。多分、俺が・・・6歳くらいの時。インフルエンザかなんかになっちまって、高熱でうなされてたとき・・・さ、おかゆ出してくれたんだ」
御九里の頬に涙が流れていた。
それは、顎を伝って、一粒、そして、また一粒と地面に落ちていった。
「今から考えるとさ、あれ、レトルトだったと思うんだけど・・・でも・・でもさ・・・俺のために・・・」
肩が震えていた。そんな御九里の背中を、温かい感触が包み込む。日暮が、彼を抱きしめていた。背中におでこをつけて、ギュッと、彼の身体を掻き抱いていた。おそらくいつもなら、それを振り払っていただろう御九里も、このときは日暮のするがままにさせていた。
「あの時・・・あの時・・・鬼になったのは・・・お・・・俺が・・・傷つけられたからで・・・お、俺が・・・俺さえいなければ・・・いなければ・・・」
母さん・・・
絞り出すような声が御九里の口から漏れる。
幼い日、彼があの環境の中、死なずに済んだのは、
たとえ不器用であっても、彼の母親の愛情があったからだ。
彼女は邪険にしながらも、決して彼を捨てることはなかった。
『父』の元を離れたのも、彼がいたからだった。
そして、鬼になって、彼のことを忘れ果てたはずだったのに・・・
最期の最期で、十和子は・・・いや『塔若子』は、彼を突き飛ばしてダンプカーに轢かれないようにしたのだ。
御九里の目から、とめどなく涙が溢れてくる。
記憶が、思い出が、堰を切ったように溢れてくる。
声にならない嗚咽が止まらない。
そして、その心は、後悔と罪悪感でぐちゃぐちゃになっていた。
そこからはもう、言葉になんてならなかった。
そんな彼を、日暮は更に力を込めて抱きしめていた。
『あなたは悪くない
小さかったんだ、しょうがなかったんだ』
『あれだけ人を喰ったんだ、祓うよりほかなかったんだ』
そんな事を言っても、多分、届かない。
だから・・・
このとき彼女にできる最大限のこと
黙って抱きしめることが、精一杯の彼へのメッセージだったのだ。
土御門と瀬良も、その様子を少し離れたところから見守っていた。
☆☆☆
「上がりまーす!」
日暮が、そそくさと荷物をまとめて占部の事務室から退室する。17時30分、陰陽寮の正規の勤務が終わるので、別に責められることではないのだが、占部衆所属の陰陽師である廣金は、なんとなくそれを不自然に感じていた。
「ここんところ日暮さん、毎日上がるの早いですね・・・」
ポツリとそう言うと、上席に座っていた土門がニヤニヤと笑っているのに気づく。
「土門様?なにか心当たりが?」
「ふっふっふ・・・やーっと、うちの朴念仁たちも気づいたのでしょうか・・・。あれはですね、押しかけ女房なのです・・・ふふふふふ」
不敵に笑う土門の目はいかにも愉しそうだった。
「押しかけ?・・・え?何処かに行ってるってことですか?」
問いかける廣金に、土門はただ、ふふふふふふ・・・と笑うのみで、詳細は教えてはくれなかった。そんな土門の様子に、なんとなく不気味なものを感じた廣金は、それ以上この話題に触れるのをやめることにした。
土門は土門で、そんな廣金の視線など全く意に介さず、日暮が去っていった扉を見ながら、顔がニヤけるのを止める事ができないでいた。
知っている・・・知ってるのですよぉ・・・
御九里は今、手が使えません・・・一人暮らしの彼はさぞやお困りでしょう。
あなたはそれをご存知ですよね?
行ってあげたい、お料理、お洗濯、包帯を替えてあげたり、お風呂で頭を洗って差し上げたり・・・
下の世話・・・はいらないにしても・・・
そして、そして!
ええ、ええ、そうですとも!
そんなことしてたら、仲良くなっちゃうのは目に見えているのです
・・・ふふふふふ・・・
もしかしたら、もしかして?
もう、夜の生活のお世話なんかもしちゃってたりして♡
ふふふふふ・・・
ほくそ笑む土門、遠巻きにそれを見る廣金。
衆の事務室には他にも冴守や設楽なども残っているが、彼らはこのことにはあまり興味がないようである。
外はどんよりとした梅雨空であるけれども、どうやら土門の頭の中だけは、ピンク色の世界が広がっているようだった。
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