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チノちゃんとアップルパイ

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ある月曜日。寒い雨の日で客の入りも少ない為、チノはローランと一緒に、店のキッチンを使ってクッキーを焼いていた。
一枚は馴染みあるバニラ、もう一枚にはココアを練り込んで、ローランが綿棒で伸ばした生地を、チノが星やハート、猫さんの型でくり抜いてゆく。

「そうそう、そうやってくり抜いたら、この天板に、間隔を開けて乗せてくれ。 ―――ああ、オーブンは今暖めていて熱いからな、触るなよ」

「はーい!」

チノがふんふんと鼻歌を歌いながら、自慢の二尾の尻尾を揺らして作業していると、ふと、カララン!と軽い音を立てて店のドアベルが鳴った。

「いらっしゃい。  ――――チノ、お客さんだ、出られるか?」

「まかせるでし!」

チノはそう言うと、 パッと乗っていた踏み台から降りて、キッチンの脇に纏めてあるメニュー表を持つと、トテトテとお客さんに近づいた。

「いらっしゃいませ!  『妖怪喫茶・鈴猫堂《すずねこどう》』へようこそでし!いま、お水をお出し致しますでし」

「ありがとう、可愛い店員さん」

そう言ってチノに微笑みかけたのは、大きなベージュの肩掛けカバンを携えた、十代後半から二十代初めくらいの少女。美しいサラサラの金髪を腰まで垂らし、群青色の長袖のワンピースを纏った、綺麗な若い娘だった。

「おや、アリスちゃ……オホン、アリスさんじゃないか。久しぶり。最近街に出てこなかったのはまた製作活動かい?」

「ええ、その様子だと貴方も元気そうね、ローランさん。やっと満足する商品が出来上がったから、これからお客さんに届けに行くつもり。―――――ところで、この可愛らしいお嬢さんは誰かしら?」

そう言って、頭の上にお盆を乗せ、その上にグラスに入れた冷水を置いて持ってきたチノを見て、金髪の少女――――アリスはチノに問いかけた。

「初めまして、お姉さん。チノはチノでし!パパの娘でし!」

「…………貴方の娘?貴方の使い魔の間違いじゃなくって?」

そう、アリスがグラスを受け取って、水で唇を塗らしながら聞くと、ローランはクッキーの乗った天板を暖めたオーブンへ放り込んでから、カップを拭きだした手をほんの僅かに止めて、渋い顔をした。

「その辺はその……ほら……この子もまだ幼いし……」

「何よ、歯切れが悪いわね。いつもみたいにはっきり言えば良いじゃない。前に来たときは貴方、もうちょっと堂々としてた気がするけど?」

「うーん、それはその、ちょっとばかし複雑な経緯が……オホン。…………ところで、その大きな荷物は?」

と、そこでローランはふと、この話題から逃げるようにアリスの持ってきた大きな肩掛けカバンを指し示す。

「随分露骨に話をすり替えるのね……まあ、話したくないなら良いけど。さっきも言ったけれど、これはお客様に頼まれていた新作の人形よ。――――ああ、あと、注文はいつものアールグレイを頂戴」

アリスはそう言いながら、カウンターの一番隅の席に座って、ティーカップを拭いていたローランに注文をした。

「かしこまりました」

そう言って、ローランはサイフォンに水を入れ沸騰させる。紫色で唐草模様の付いている缶からアールグレイの茶葉を取り出し、それをポットに三往復。それから良いタイミングで泡を立てはじめた熱湯を一気に注いで、数分蒸らしてから、茶こしを使ってカップに注ぎ、それを少女にお出しする。

 アリスは、白と青を基調としたティーカップに注がれた、熱々のアールグレイを一口口に含むと、満足そうに口角を上げた。

「うーん、流石鈴猫堂のお茶ね。柔らかくて、お茶の香りを損なっていない。――――だから好きなのよ、此処」

「お褒めにあずかり光栄だ。 …………さあて、何が食べたい?何でも作るぞ」

「ねえ貴方、チョロいって良く言われない? でも…………それならそうねぇ、アップルパイ、が食べたいかしら」

「アップルパイ? それはまた意外……いやいや、可愛らしいご注文だ」

「何よ、可笑しい?  ――――まだ、姉さんが生きていた頃、良く作ってくれたのよ」

  そう言って、どこか遠くを見つめる目をするアリス。 

――――そういえば、彼女の実姉、マリアンヌは、流行病で随分前に亡くなったのだっけ。

「そういうことなら了解した。いっとう美味しいアップルパイを作ろうじゃないか」

「アップルパイ!チノも頑張るでし!」

そう言って、チノは黒いエプロンの端をローランに結んで貰うと、えい、えい、おー!!と高らかに小さな拳を宙に掲げた。

                        *

「パパ、チノは先ず何をしたらいいでしか?」

「そうだなあ、じゃあチノは、まずこの綿棒で、冷凍庫から出したパイ生地を伸ばしてくれ。ああ、生地が溶けないように気をつけろよ」

「わかったでし!」

 チノはローランから綺麗な成形用の綿棒を受け取ると、それをコロコロと転がして、ほんのりバターの香るパイ生地を伸ばしてゆく。
 ローランは、というと、チノの隣でリンゴの芯をくり抜き、皮をむいたそれを形の良いいちょう切りにしてゆく。棚から取り出した鍋に切ったリンゴと砂糖、レモン汁、シナモンパウダーを合わせて、ふつふつ煮詰めると、甘い匂いが店中に漂ってきた。

「うーん、リンゴの良い香りでし!」

「ぼちぼち良いかな。よし、これをガラスの器に移して冷ましている間に、パイ生地を切るぞ。これをパイ皿に敷き込んで……っと」

 それから、ローランがパイ生地を成形して、チノが先程煮詰めたイチョウ型のリンゴ達を、大きめのスプーンで丁寧に詰め込んでゆく。
 上から細長く切った別のパイ生地を互い違いに並べて、卵の黄身をハケで塗れば、あとは焼くだけだ。

「アップルパイ、おいしくできるといいなぁ」

チノはそう言いながら、オーブンの中をじっとみつめて、二本の尻尾をゆらりと揺らした。

                      *

 ――――熱々のオーブンで焼くこと三十分後。黒いエプロンを着けたローランが、一カットに切ったアップルパイを持ったチノを連れて、静かに紅茶を飲んでいるアリスの前に現れた。

「お待たせ致しました。当店の看板娘が一生懸命作った、『想い出のアップルパイ』です」

「あまーくて、美味しいアップルパイができたでし!どうぞ、めしあがれでし!」

そう言って、チノはティーカップと同じメーカーの小皿に乗せたアップルパイを、アリスの前に差し出した。

「えっ、これ……貴女が作ったの?」

「はいでし。チノとパパで、一生懸命心を込めて、お姉さんの為にお作りちまちた」

「へえ…………、それは楽しみね。じゃあ、冷めないうちに…………頂きます」

アリスはそうして、そっとアップルパイにフォークを突き刺す。 
 サクッというパイ生地の軽い音と共に、ほのかに香るバターと甘いリンゴの匂いが鼻腔をくすぐり、それはいやでも彼女の食欲を刺激した。 思い切って切り取ったひとかけらを口の中に放り込めば、芳醇な林檎の風味と、サクサクのパイの食感に包み込まれるようだ。

「ああ……この味……。忘れもしない、姉さんが作ってくれたアップルパイの味よ」

 ――――――その時、少女は思い出していた。今は亡き大好きな姉が、生前自分の為にと作ってくれたアップルパイ。この味は、 姉が作ってくれたそれとは、完璧に同じでは無いけれど、それでも、そんな懐かしい想い出を思い出す、優しい味がした。

「…………ありがとう、ローランさん、チノちゃん」

そうして静かに感謝を伝える彼女の頬には、いつの間にか、穢れのない、綺麗な雫が伝っていた。
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