4 / 32
4話 殿下のお仕事が消えました
4話 殿下のお仕事が消えました
婚約破棄の翌々日、王宮は静かに混乱していた。
悲鳴が上がっているわけではない。廊下を人が走り回っているわけでもない。見た目だけなら、いつも通り整っている。磨かれた床、乱れのない花、一定の温度に保たれた空気。王宮という場所は、多少の綻びがあっても、外からは分からぬように作られているのだ。
だが中で働く者たちは、もう気づいていた。
何かがおかしい。
いや、正確には。
今まで“おかしくならないように整えられていた”ものが、整えられなくなっている。
「この書類、どなたが順番を変えたのです」 「変えておりません! 届いた時からこの順で――」 「あり得ません。王太子殿下がお目通しなさる前に、先に外務、次に財務、そのあとに北方伯家からの上申書が来るはずでしょう」 「しかし、今回は……」 「今回は、ではありません。今まではそうなっていたのです」
王太子執務室の前室で、若い文官たちが困惑を隠せずにいた。
机の上には、封蝋のついた書類がいくつも積まれている。どれも急ぎの案件だが、順番が悪い。優先順位もおかしい。必要な関連資料が添えられていないものもある。しかも、誰が何をどこまで確認したのか、いつもなら一目で分かるはずの印が抜けていた。
「まさか……」
年嵩の補佐官が小さく呟く。
「本当に、ナタリア様が全部整えていらしたのか……?」
その場にいた数人が、一斉に口をつぐんだ。
誰もが薄々は気づいていたことだ。だが、認めたくなかった。
王太子クラウディオ・セイグランが、華やかで社交的で、王都の人々に好かれやすい人物であることは事実だ。けれど、その華やかさが成立するために、裏でどれだけの調整が必要だったのか、そしてその多くを誰が担っていたのかまで、真剣に考える者はあまりいなかった。
考える必要がなかったからである。
いつも整っていたのだから。
「失礼いたします」
前室の扉が開き、王太子付きの侍従が入ってくる。
「殿下が、この件についてお尋ねです」
「どの件でしょうか」
「……北方伯家への返答がまだ出ていないことについて」
その言葉に、補佐官の顔が引きつる。
「まだ、ではありません。あちらからの追加資料が先に必要なのです。昨日の時点でその確認をお願いしたはずですが」
「殿下は、昨日のうちに返答するものとお考えだったようで」
「できるはずがないでしょう!」
思わず声を荒げた補佐官は、すぐに口を押さえた。
「失礼」
侍従も責めるような顔はしない。ただ疲れた目をしていた。
「……そうお伝えしても、殿下は“今までならできていた”と」
また沈黙が落ちる。
今までならできていた。
その“今まで”が、いかに誰かの手によって綿密に作られていたかを、クラウディオ自身が一番分かっていない。
補佐官はこめかみを押さえた。
「できていたのは、必要な確認事項が事前に整えられ、先方との関係まで踏まえた補足がつき、殿下が判断しやすい形にまとめられていたからです」
「……はい」
「今はそれがない」
「はい」
「なぜないと思います?」
侍従は答えに困ったように目を伏せる。
補佐官は自分で吐き捨てるように言った。
「ナタリア様がいらっしゃらないからです」
王太子執務室では、そのころクラウディオが苛立ちを隠さずにいた。
「まだまとまらないのか」
机を指先で叩きながら、彼は書類の山を睨んでいる。
「昨日も言ったはずだ。北方伯家への返答は急ぐと」
対面に立つ文官が、慎重に言葉を選ぶ。
「殿下。返答そのものは急ぐべきですが、その前に、先方が求めている交易補填の内訳を確認せねばなりません」
「そんなもの、あとから整えればいいだろう」
「それでは先方の不信を招きます」
「だが返事を遅らせても不信を招く!」
「ですから、その間を取るために必要な前置きと補足説明を――」
「回りくどいな」
クラウディオは苛立たしげに言った。
「どうしてそんな簡単なことがすぐに片づかないんだ。前はもっと円滑だっただろう」
文官は答えなかった。
いや、答えられなかった。
前はもっと円滑だった。
ええ、そうでしょうとも。
なぜならその“前”には、あなたが読む前に文脈を整え、相手家の温度を測り、失礼のない形へまとめ直し、必要なら別筋から先に根回しまでしていた婚約者がいたのだから。
だがそれを、本人の前で言える者はまだいない。
クラウディオは不機嫌そうに別の書類を手に取った。
「それと、昼の会談だが」
「はい」
「西方の使者に渡す予定だった記念品は?」
「それにつきましても」
「まだか」
「選定は終わっております。ただ、殿下からご指定のありました銀器は、今回の相手方には適しません」
「なぜだ?」
「西方は先年、銀山をめぐる件で微妙な立場にございます。こちらから銀器を贈るのは、嫌味と取られる可能性が」
「そんな細かいことまで気にする必要があるのか」
その一言に、文官は一瞬だけ目を閉じた。
必要があるから調整していたのです、と誰もが喉元まで出かかったに違いない。
だがその時、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、王妃付きの侍従長だった。
彼は部屋の空気を一目で察したらしく、きわめて控えめな表情で一礼する。
「王妃陛下より、殿下に少々お時間をいただきたいとのことです」
「今か?」
「はい」
クラウディオは露骨に顔をしかめた。
「忙しいんだが」
その言葉に、侍従長の眉がほんのわずかに動く。
忙しい。
それを言うなら、周囲の者たちのほうがよほど忙しいだろう。だが侍従長はベテランらしく、その感想を顔には出さなかった。
「陛下も、お急ぎのようです」
「……分かった」
クラウディオは椅子を引いた。
「この件は戻ったらまた見る」
そう言い残して部屋を出ていく。
彼の背が消えたあと、執務室には重い沈黙が残された。
若い文官が、小さく息を吐く。
「戻られたら、また最初から説明だな」
誰かが乾いた声で答える。
「しかも今度は機嫌が悪くなっている」
「昨日より悪化している気がする」
「昨日はまだ、なんとかなると思っておられたのだろう」
「今日は?」
「今も思っておられるさ。何とかならないのは、自分以外のせいだと」
補佐官は書類の山を見つめた。
王太子の未熟さそのものは、昨日今日に生まれたものではない。だが、それが表に出にくかったのは、周囲が必死に整えてきたからだ。
中でも一番大きかったのは、間違いなくナタリア・アイゼンシュタインの存在だった。
「ナタリア様は……」
若い文官がぽつりと言う。
「よくあれで耐えておられたな」
補佐官は低く返す。
「耐えておられたのではない。回しておられたのだ」
そのころ、アイゼンシュタイン公爵家では、ナタリアが書斎の窓辺で報告書に目を通していた。
王宮の混乱など知る由もない。
いや、正確には、ある程度は予想していたが、いちいち気にしていなかった。
「お嬢様」
エマが新しい書類を持ってやってくる。
「東の倉庫の在庫報告でございます」
「ありがとう」
ナタリアはそれを受け取り、ざっと目を走らせる。
「……やはり染料の減りが少しおかしいわね」
「領地のほうの件ですか」
「ええ。春先の発注量に対して使用量が合わないの。別口で流れている可能性があるわ」
エマは少し首を傾げた。
「すぐにお分かりになるのですね」
「数字は、嘘をついても辻褄が合わなくなるもの」
ナタリアは羽根ペンを取る。
「この担当者と、倉庫番、それから運送記録も照らし合わせたいわ。明日までに集めてもらえるかしら」
「かしこまりました」
エマが書き留める。
それから少しだけ迷うように言った。
「お嬢様は、本当にこちらの仕事を楽しそうになさいますね」
ナタリアはペン先を止めた。
「そう見える?」
「はい」
「そうかもしれないわね」
彼女は率直に認めた。
「少なくとも、誰かの気分で正解が変わる仕事よりは好きだわ」
エマが小さく笑う。
「また本音でございます」
「今さら取り繕う必要もないでしょう」
「それはそうですが」
ナタリアは椅子にもたれ、少しだけ窓の外を見る。
よく晴れていた。庭では春の花が揺れている。王宮のような張りつめた気配は、ここにはない。
「婚約者でいたころは、こういう時間がずいぶん贅沢に感じていたのよ」
「書類を見る時間がですか?」
「ええ。本を読む時間、帳簿を見る時間、考えごとをする時間。誰かの見栄のためではなく、自分の頭を使う時間」
ナタリアはくすりと笑う。
「思えばずいぶん長く、もったいないことをしたわ」
エマはその横顔を見つめる。
婚約破棄されたばかりの令嬢とは思えないほど、ナタリアの表情は晴れやかだった。
悲しくないわけではないのだろう。あれだけ長く定められていた未来が変わったのだ。面倒もあるし、気力を使うこともある。
けれどそれでも、彼女は明らかに自由になっていた。
「お嬢様」
「何かしら」
「王宮のほうは、少し大変なことになっているかもしれませんね」
ナタリアは目を細めた。
「でしょうね」
「やはりそう思われますか」
「だって、今まで整っていたものが急に整わなくなるのですもの。気づかないほうがおかしいわ」
あまりにもさらりと言うので、エマは思わず瞬きをした。
「……お嬢様が整えていらしたのですものね」
「全部ではないわ」
ナタリアは冷静に訂正する。
「全部ではないけれど、かなりの部分ではあるでしょうね。少なくとも、殿下が“ご自分で自然にできている”と思い込んでいた範囲の半分以上は」
それはなかなか辛辣な評価だったが、エマは否定しなかった。
むしろ控えめだとすら思った。
「少しは、お困りになればよろしいのです」
ナタリアは報告書へ視線を戻しながら言う。
「今まで何が支えになっていたか、失ってから知るのも勉強でしょう」
その口調は穏やかで、怒りに任せたものではなかった。
ただ、本当にそう思っているだけだ。
王宮では今も、クラウディオが自分の仕事がうまく回らないことに苛立っているかもしれない。
けれどナタリアにしてみれば、それは自業自得だった。
気づかないまま当然のように享受していた支えが消えた。
ならば、自分の足で立つ苦労くらい知るべきだ。
「それに」
ナタリアはふと口元を緩めた。
「わたくしはもう、あの方のために段取りを整える必要がありませんもの」
その一言は、何よりも軽やかだった。
王太子の執務室では、ようやく王妃の呼び出しから戻ったクラウディオが、さらに苛立ちを募らせていた。
「どうしてまだ片づいていない!」
先ほどより声が大きい。
しかも王妃に釘を刺されたあとだからか、余計に機嫌が悪い。
侍従たちは視線を交わし合いながら、誰が説明するかを押しつけ合っているような空気だった。
結局、補佐官が一歩前へ出る。
「殿下。片づいていないのではございません。確認すべき順と手間があるのです」
「前ならこんなに手間取らなかった」
「前は、事前に整えられていたからです」
言ってしまった、と思った。
部屋の空気が止まる。
クラウディオが補佐官を見た。
「……何が言いたい」
補佐官は一瞬だけ迷ったが、もう引き返せなかった。
「ナタリア様がいらしたころは、必要な確認事項、相手家の事情、返答の文面、贈答の意味合いまで、事前にかなり整えられておりました」
静まり返る執務室。
若い文官たちは、いっそ祈るような顔をしている。
「ですから殿下は、最終判断だけで済んでおられたのです」
クラウディオの顔色が変わる。
「それでは、まるで僕が何もしていなかったようではないか」
「そうは申しません」
補佐官はできるだけ平板に言った。
「ですが、今までと同じように進めるには、今までと同じ準備が必要だということです」
クラウディオは何も言わなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
腹が立ったのだろう。侮辱されたと感じたのかもしれない。だが同時に、その言葉を完全には否定できない程度には、身に覚えもあったはずだ。
ナタリアが、さりげなく、しかし当然のように、自分の隣で物事を整えていた記憶。
必要なときにはすでに資料があり、会談前には注意点がまとめられ、式典では失敗しないよう根回しが済んでいた記憶。
それらを今まで“当然”として受け取っていたことに、ほんの少しだけ気づきかける。
だが、その気づきはまだ浅かった。
「……ならば、誰かがやればいい」
クラウディオはそう言った。
「ナタリアがやっていたことなら、他の者にもできるだろう」
その言葉に、補佐官は目を伏せた。
できる者はいるかもしれない。
だが、あの公爵令嬢ほどの精度で、あの王太子の機嫌まで損ねずに、あそこまで先回りして整えられる者が、そう簡単に見つかるものか。
その夜、王宮ではまだ灯りが消えなかった。
文官たちは書類を抱え、侍従たちは走り回り、女官たちは予定の綻びを縫い合わせるように調整を続けていた。
ただ一人。
その綻びをずっと目立たぬよう縫い留めてきた人間だけが、そこにいない。
そしてその不在は、すでに誰の目にも明らかになりつつあった。
殿下のお仕事が消えたわけではない。
殿下のお仕事を“殿下ができているように見せていた何か”が、消えたのだ。
その違いに、王宮はようやく気づき始めていた。
婚約破棄の翌々日、王宮は静かに混乱していた。
悲鳴が上がっているわけではない。廊下を人が走り回っているわけでもない。見た目だけなら、いつも通り整っている。磨かれた床、乱れのない花、一定の温度に保たれた空気。王宮という場所は、多少の綻びがあっても、外からは分からぬように作られているのだ。
だが中で働く者たちは、もう気づいていた。
何かがおかしい。
いや、正確には。
今まで“おかしくならないように整えられていた”ものが、整えられなくなっている。
「この書類、どなたが順番を変えたのです」 「変えておりません! 届いた時からこの順で――」 「あり得ません。王太子殿下がお目通しなさる前に、先に外務、次に財務、そのあとに北方伯家からの上申書が来るはずでしょう」 「しかし、今回は……」 「今回は、ではありません。今まではそうなっていたのです」
王太子執務室の前室で、若い文官たちが困惑を隠せずにいた。
机の上には、封蝋のついた書類がいくつも積まれている。どれも急ぎの案件だが、順番が悪い。優先順位もおかしい。必要な関連資料が添えられていないものもある。しかも、誰が何をどこまで確認したのか、いつもなら一目で分かるはずの印が抜けていた。
「まさか……」
年嵩の補佐官が小さく呟く。
「本当に、ナタリア様が全部整えていらしたのか……?」
その場にいた数人が、一斉に口をつぐんだ。
誰もが薄々は気づいていたことだ。だが、認めたくなかった。
王太子クラウディオ・セイグランが、華やかで社交的で、王都の人々に好かれやすい人物であることは事実だ。けれど、その華やかさが成立するために、裏でどれだけの調整が必要だったのか、そしてその多くを誰が担っていたのかまで、真剣に考える者はあまりいなかった。
考える必要がなかったからである。
いつも整っていたのだから。
「失礼いたします」
前室の扉が開き、王太子付きの侍従が入ってくる。
「殿下が、この件についてお尋ねです」
「どの件でしょうか」
「……北方伯家への返答がまだ出ていないことについて」
その言葉に、補佐官の顔が引きつる。
「まだ、ではありません。あちらからの追加資料が先に必要なのです。昨日の時点でその確認をお願いしたはずですが」
「殿下は、昨日のうちに返答するものとお考えだったようで」
「できるはずがないでしょう!」
思わず声を荒げた補佐官は、すぐに口を押さえた。
「失礼」
侍従も責めるような顔はしない。ただ疲れた目をしていた。
「……そうお伝えしても、殿下は“今までならできていた”と」
また沈黙が落ちる。
今までならできていた。
その“今まで”が、いかに誰かの手によって綿密に作られていたかを、クラウディオ自身が一番分かっていない。
補佐官はこめかみを押さえた。
「できていたのは、必要な確認事項が事前に整えられ、先方との関係まで踏まえた補足がつき、殿下が判断しやすい形にまとめられていたからです」
「……はい」
「今はそれがない」
「はい」
「なぜないと思います?」
侍従は答えに困ったように目を伏せる。
補佐官は自分で吐き捨てるように言った。
「ナタリア様がいらっしゃらないからです」
王太子執務室では、そのころクラウディオが苛立ちを隠さずにいた。
「まだまとまらないのか」
机を指先で叩きながら、彼は書類の山を睨んでいる。
「昨日も言ったはずだ。北方伯家への返答は急ぐと」
対面に立つ文官が、慎重に言葉を選ぶ。
「殿下。返答そのものは急ぐべきですが、その前に、先方が求めている交易補填の内訳を確認せねばなりません」
「そんなもの、あとから整えればいいだろう」
「それでは先方の不信を招きます」
「だが返事を遅らせても不信を招く!」
「ですから、その間を取るために必要な前置きと補足説明を――」
「回りくどいな」
クラウディオは苛立たしげに言った。
「どうしてそんな簡単なことがすぐに片づかないんだ。前はもっと円滑だっただろう」
文官は答えなかった。
いや、答えられなかった。
前はもっと円滑だった。
ええ、そうでしょうとも。
なぜならその“前”には、あなたが読む前に文脈を整え、相手家の温度を測り、失礼のない形へまとめ直し、必要なら別筋から先に根回しまでしていた婚約者がいたのだから。
だがそれを、本人の前で言える者はまだいない。
クラウディオは不機嫌そうに別の書類を手に取った。
「それと、昼の会談だが」
「はい」
「西方の使者に渡す予定だった記念品は?」
「それにつきましても」
「まだか」
「選定は終わっております。ただ、殿下からご指定のありました銀器は、今回の相手方には適しません」
「なぜだ?」
「西方は先年、銀山をめぐる件で微妙な立場にございます。こちらから銀器を贈るのは、嫌味と取られる可能性が」
「そんな細かいことまで気にする必要があるのか」
その一言に、文官は一瞬だけ目を閉じた。
必要があるから調整していたのです、と誰もが喉元まで出かかったに違いない。
だがその時、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、王妃付きの侍従長だった。
彼は部屋の空気を一目で察したらしく、きわめて控えめな表情で一礼する。
「王妃陛下より、殿下に少々お時間をいただきたいとのことです」
「今か?」
「はい」
クラウディオは露骨に顔をしかめた。
「忙しいんだが」
その言葉に、侍従長の眉がほんのわずかに動く。
忙しい。
それを言うなら、周囲の者たちのほうがよほど忙しいだろう。だが侍従長はベテランらしく、その感想を顔には出さなかった。
「陛下も、お急ぎのようです」
「……分かった」
クラウディオは椅子を引いた。
「この件は戻ったらまた見る」
そう言い残して部屋を出ていく。
彼の背が消えたあと、執務室には重い沈黙が残された。
若い文官が、小さく息を吐く。
「戻られたら、また最初から説明だな」
誰かが乾いた声で答える。
「しかも今度は機嫌が悪くなっている」
「昨日より悪化している気がする」
「昨日はまだ、なんとかなると思っておられたのだろう」
「今日は?」
「今も思っておられるさ。何とかならないのは、自分以外のせいだと」
補佐官は書類の山を見つめた。
王太子の未熟さそのものは、昨日今日に生まれたものではない。だが、それが表に出にくかったのは、周囲が必死に整えてきたからだ。
中でも一番大きかったのは、間違いなくナタリア・アイゼンシュタインの存在だった。
「ナタリア様は……」
若い文官がぽつりと言う。
「よくあれで耐えておられたな」
補佐官は低く返す。
「耐えておられたのではない。回しておられたのだ」
そのころ、アイゼンシュタイン公爵家では、ナタリアが書斎の窓辺で報告書に目を通していた。
王宮の混乱など知る由もない。
いや、正確には、ある程度は予想していたが、いちいち気にしていなかった。
「お嬢様」
エマが新しい書類を持ってやってくる。
「東の倉庫の在庫報告でございます」
「ありがとう」
ナタリアはそれを受け取り、ざっと目を走らせる。
「……やはり染料の減りが少しおかしいわね」
「領地のほうの件ですか」
「ええ。春先の発注量に対して使用量が合わないの。別口で流れている可能性があるわ」
エマは少し首を傾げた。
「すぐにお分かりになるのですね」
「数字は、嘘をついても辻褄が合わなくなるもの」
ナタリアは羽根ペンを取る。
「この担当者と、倉庫番、それから運送記録も照らし合わせたいわ。明日までに集めてもらえるかしら」
「かしこまりました」
エマが書き留める。
それから少しだけ迷うように言った。
「お嬢様は、本当にこちらの仕事を楽しそうになさいますね」
ナタリアはペン先を止めた。
「そう見える?」
「はい」
「そうかもしれないわね」
彼女は率直に認めた。
「少なくとも、誰かの気分で正解が変わる仕事よりは好きだわ」
エマが小さく笑う。
「また本音でございます」
「今さら取り繕う必要もないでしょう」
「それはそうですが」
ナタリアは椅子にもたれ、少しだけ窓の外を見る。
よく晴れていた。庭では春の花が揺れている。王宮のような張りつめた気配は、ここにはない。
「婚約者でいたころは、こういう時間がずいぶん贅沢に感じていたのよ」
「書類を見る時間がですか?」
「ええ。本を読む時間、帳簿を見る時間、考えごとをする時間。誰かの見栄のためではなく、自分の頭を使う時間」
ナタリアはくすりと笑う。
「思えばずいぶん長く、もったいないことをしたわ」
エマはその横顔を見つめる。
婚約破棄されたばかりの令嬢とは思えないほど、ナタリアの表情は晴れやかだった。
悲しくないわけではないのだろう。あれだけ長く定められていた未来が変わったのだ。面倒もあるし、気力を使うこともある。
けれどそれでも、彼女は明らかに自由になっていた。
「お嬢様」
「何かしら」
「王宮のほうは、少し大変なことになっているかもしれませんね」
ナタリアは目を細めた。
「でしょうね」
「やはりそう思われますか」
「だって、今まで整っていたものが急に整わなくなるのですもの。気づかないほうがおかしいわ」
あまりにもさらりと言うので、エマは思わず瞬きをした。
「……お嬢様が整えていらしたのですものね」
「全部ではないわ」
ナタリアは冷静に訂正する。
「全部ではないけれど、かなりの部分ではあるでしょうね。少なくとも、殿下が“ご自分で自然にできている”と思い込んでいた範囲の半分以上は」
それはなかなか辛辣な評価だったが、エマは否定しなかった。
むしろ控えめだとすら思った。
「少しは、お困りになればよろしいのです」
ナタリアは報告書へ視線を戻しながら言う。
「今まで何が支えになっていたか、失ってから知るのも勉強でしょう」
その口調は穏やかで、怒りに任せたものではなかった。
ただ、本当にそう思っているだけだ。
王宮では今も、クラウディオが自分の仕事がうまく回らないことに苛立っているかもしれない。
けれどナタリアにしてみれば、それは自業自得だった。
気づかないまま当然のように享受していた支えが消えた。
ならば、自分の足で立つ苦労くらい知るべきだ。
「それに」
ナタリアはふと口元を緩めた。
「わたくしはもう、あの方のために段取りを整える必要がありませんもの」
その一言は、何よりも軽やかだった。
王太子の執務室では、ようやく王妃の呼び出しから戻ったクラウディオが、さらに苛立ちを募らせていた。
「どうしてまだ片づいていない!」
先ほどより声が大きい。
しかも王妃に釘を刺されたあとだからか、余計に機嫌が悪い。
侍従たちは視線を交わし合いながら、誰が説明するかを押しつけ合っているような空気だった。
結局、補佐官が一歩前へ出る。
「殿下。片づいていないのではございません。確認すべき順と手間があるのです」
「前ならこんなに手間取らなかった」
「前は、事前に整えられていたからです」
言ってしまった、と思った。
部屋の空気が止まる。
クラウディオが補佐官を見た。
「……何が言いたい」
補佐官は一瞬だけ迷ったが、もう引き返せなかった。
「ナタリア様がいらしたころは、必要な確認事項、相手家の事情、返答の文面、贈答の意味合いまで、事前にかなり整えられておりました」
静まり返る執務室。
若い文官たちは、いっそ祈るような顔をしている。
「ですから殿下は、最終判断だけで済んでおられたのです」
クラウディオの顔色が変わる。
「それでは、まるで僕が何もしていなかったようではないか」
「そうは申しません」
補佐官はできるだけ平板に言った。
「ですが、今までと同じように進めるには、今までと同じ準備が必要だということです」
クラウディオは何も言わなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
腹が立ったのだろう。侮辱されたと感じたのかもしれない。だが同時に、その言葉を完全には否定できない程度には、身に覚えもあったはずだ。
ナタリアが、さりげなく、しかし当然のように、自分の隣で物事を整えていた記憶。
必要なときにはすでに資料があり、会談前には注意点がまとめられ、式典では失敗しないよう根回しが済んでいた記憶。
それらを今まで“当然”として受け取っていたことに、ほんの少しだけ気づきかける。
だが、その気づきはまだ浅かった。
「……ならば、誰かがやればいい」
クラウディオはそう言った。
「ナタリアがやっていたことなら、他の者にもできるだろう」
その言葉に、補佐官は目を伏せた。
できる者はいるかもしれない。
だが、あの公爵令嬢ほどの精度で、あの王太子の機嫌まで損ねずに、あそこまで先回りして整えられる者が、そう簡単に見つかるものか。
その夜、王宮ではまだ灯りが消えなかった。
文官たちは書類を抱え、侍従たちは走り回り、女官たちは予定の綻びを縫い合わせるように調整を続けていた。
ただ一人。
その綻びをずっと目立たぬよう縫い留めてきた人間だけが、そこにいない。
そしてその不在は、すでに誰の目にも明らかになりつつあった。
殿下のお仕事が消えたわけではない。
殿下のお仕事を“殿下ができているように見せていた何か”が、消えたのだ。
その違いに、王宮はようやく気づき始めていた。
あなたにおすすめの小説
「お産の手伝いなど下女の仕事だ」と追放された産婆令嬢、公爵夫人の難産を、誰も取り上げられなかった
Lihito
ファンタジー
産婆の技を「まやかし」と蔑んだ宮廷医師に婚約を破棄され、王都を追われたフィリーネ。
山あいの町で医師カールと出会い、産婆不在の地で母子の命を守り始める。
やがて王都では逆子の分娩に失敗した元婚約者が信頼を失い、若い女性医師マルガレーテが自らの意志でフィリーネを訪ねてくる。
三日間の実技指導で産婆術を託されたマルガレーテは王都に戻り、その報告が医学院を動かす。
産婆術は正式な医療技術と認定され、元婚約者は資格を剥奪された。
命を迎える手は、静かな町で今日も温かい。
最後なので全部言わせていただきます
れいも
恋愛
伯爵令嬢としてできる限りのことをせよ、という父親の言葉を遂行しようとしたローレシア。
だが、気付けばローレシアの努力と苦労は、無駄となってしまった。
ローレシアを罵倒する父親に、ついに彼女は切れた。
そうして父親に、今までの鬱憤をぶちまけるのだった。
※ざまあ展開はありません。
また、カテゴリー設定がどれに該当するか分からないため、一番近そうな「恋愛」(婚約破棄を含むため)にしております。
私は不要とされた~一番近くにいたのは、誰だったのか~
ゆめ@マンドラゴラ
恋愛
彼の幼馴染は、いつも当然のように隣にいた。
「私が一番、彼のことを分かっている」
そう言い切る彼女の隣で、婚約者は何も言わない。
その沈黙が、すべての答えのように思えた。
だから私は、身を引いた。
――はずだった。
一番近くにいたのは、本当に彼女だったのか。
「不要とされた」シリーズ第三弾。
あら?幼馴染との真実の愛が大事だったのではありませんでしたっけ???
睡蓮
恋愛
王宮に仕える身分であるザルバは、自身の婚約者としてユフィーレアとの関係を選んだ。しかし彼は後に、幼馴染であるアナとの関係に夢中になってしまい、それを真実の愛だと言い張ってユフィーレアの事を婚約破棄してしまう。それですべては丸く収まると考えていたザルバだったものの、実はユフィーレアは時の第一王子であるユーグレンと接点があり、婚約破棄を王宮に対する大いなる罪であると突き付けられることとなり…。
ごきげんよう、元婚約者様
藍田ひびき
恋愛
「最後にお会いしたのは、貴方から婚約破棄を言い渡された日ですね――」
ローゼンハイン侯爵令嬢クリスティーネからアレクシス王太子へと送られてきた手紙は、そんな書き出しから始まっていた。アレクシスはフュルスト男爵令嬢グレーテに入れ込み、クリスティーネとの婚約を一方的に破棄した過去があったのだ。
手紙は語る。クリスティーネの思いと、アレクシスが辿るであろう末路を。
※ 3/29 王太子視点、男爵令嬢視点を追加しました。
※ 3/25 誤字修正しました。
※ なろうにも投稿しています。
私を捨てた公爵が、すべてを知った時にはもう手遅れでした
唯崎りいち
恋愛
呪いに侵された令嬢は、婚約者である公爵から「出来損ない」と蔑まれ、婚約を破棄される。
人を傷つけてしまう力を恐れ、彼女は人里離れた森で静かに生きることを選んだ。
それでも――かつて愛した人が死にかけていると知った時、彼女は自らの命を削り、その命を救う。
想いを告げることもなく、すべてを置いて去った彼女。
やがて真実を知った公爵は、彼女を求めて森へ向かうが――
そこにいたのは、別の男に手を取られ、幸せそうに微笑む彼女の姿だった。
すれ違いの果てに、ようやく手に入れた幸せと、すべてを失った男の後悔の物語。