『婚約破棄してくださって、心から感謝いたしますわ 〜殿下は生理的に無理でしたので、第二王子殿下と幸せになります〜

富士山麓

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25話 王宮の歪みを暴きますわ

25話 王宮の歪みを暴きますわ

 王城という場所は、見た目ほど整っていない。

 磨かれた大理石の床、曇りひとつない窓、季節ごとに入れ替えられる花々。外から見れば、そこは秩序の象徴のように見える。だが実際には、秩序とは放っておけば自然に生まれるものではない。誰かが綻びを見つけ、目立たぬうちに縫い合わせ、余計な衝突を避けるよう流れを整え続けて、ようやく形になるものだ。

 そして今、その“縫い合わせ”が追いつかなくなり始めていた。

 表立って崩れているわけではない。

 だが、文官の顔色、侍従の足取り、王妃付き女官たちの緊張の濃さ――そうしたものが、少しずつ城の中の歪みを示している。

 その日の午後、ナタリア・アイゼンシュタインは王妃からの正式な呼び出しではなく、カイルヴェルト・ローゼンハイムからのかなり率直な招きに応じて、王城西翼の一室へ足を運んでいた。

 前に使った談話室でも書庫でもない。

 今日はさらに奥まった、小さな会議室だった。装飾の少ない部屋で、長卓が一つ、壁には地図、棚には資料箱。完全に“話すため”の空間だ。

「ごきげんよう、殿下」

 ナタリアが一礼すると、カイルヴェルトはすでに着席していた椅子から立ち上がった。

「ごきげんよう、ナタリア嬢」

 今日は最初から机の上に書類が積まれている。

 嫌な予感しかしない。

「まさかと思うけれど」

 ナタリアは席に着く前に言った。

「今日は本当に働かせる気ではありませんわよね」

「そこまで露骨ではありません」

 カイルヴェルトは穏やかに答える。

「ただ、見ていただきたいものがあります」

「露骨ではないと言いながら、だいぶ近いところへ来ていらっしゃるわよ」

「ええ。自覚はあります」

 本当に、この人は時々妙なところで素直だ。

 ナタリアは小さく息をつき、椅子へ座った。

 カイルヴェルトが最初の書類を差し出す。

「人事の一覧です」

「人事」

「兄上の周辺に配置されている文官と侍従、それから最近入れ替わった補佐の記録」

 ナタリアは受け取り、ざっと目を通した。

 最初の数行で、眉がわずかに動く。

「……ずいぶん偏っているわね」

「ええ」

 カイルヴェルトは短く頷いた。

「兄上が“話しやすい者”を側に置きたがった結果です」

 なるほど。

 名前の並びを見るだけで分かる。王太子の執務周りにいるのは、能力がないとまでは言わないが、少なくとも“異を唱えにくい者”が多い。実務の骨格を支えるべき人間が外され、代わりに気分よく従う者が残っている。

 これでは、上にいる人間が少し傾いただけで全体が歪む。

「この方とこの方」

 ナタリアは二人の名前を指した。

「以前は財務畑でしょう。なぜ外したの?」

「兄上曰く、“細かすぎて話が進まない”そうです」

 ナタリアは一瞬黙り、それから紙を机へ戻した。

「細かすぎて、ね」

「ええ」

「細かく確認しなければ進めてはいけない話ばかりでしょうに」

「その通りです」

 カイルヴェルトはほとんど感情を混ぜずに答える。

 だが、その“その通りです”の中には、かなりの呆れが含まれていた。

 次に渡されたのは、支出一覧だった。

 王太子付き執務室の再編に伴う追加費用、急ぎの再手配で膨らんだ雑費、交際費として曖昧に処理されている金額。

 ナタリアは数枚めくるごとに、だんだん口数が減っていく。

 そして最後の頁を見たところで、きっぱりと言った。

「ひどいわね」

「ええ」

「ひどいの一言で済ませるのも腹立たしいくらいに」

「そこまで仰いますか」

「仰いますわよ」

 ナタリアは顔を上げる。

「これ、ただ浪費しているだけではないわ。誰も全体像を見ていないから、場当たりで穴を埋めた結果、余計な出血が増えているの」

 指先で二つの項目を示す。

「ここ。輸送の遅れを埋めるための臨時手配。その直後に、同じ相手へ礼を兼ねた追加贈答。これ、本来なら片方で済んだでしょう?」

「おそらく」

「おそらくではなく、ほぼ確実によ。話がつながっていないの」

 そう言ってから、ナタリアはふと眉を寄せる。

「……殿下、これをどこまでご存じなの?」

「私ですか?」

「ええ。どこまで把握していて、どこからを見せていないのかしらと思って」

 カイルヴェルトは少しだけ苦笑した。

「だいぶ信用されていませんね」

「今さら何を」

「もっともです」

 彼は素直に認めた。

「これは、かなりそのままです。多少整理はしてありますが、意図的に悪く見えるようにはしていません」

「でしょうね。そこまで子どもじみた真似をする方なら、もっと早く見限っていますもの」

「それは嬉しい評価です」

「褒めていませんわ」

 それでも、ナタリアの目は書類へ戻る。

 人事の偏り、支出の場当たり処理、そして書類の遅延。これらが全部一本の線でつながる。

 要するに――

 王太子周辺の実務が、感情に引っ張られている。

 本来なら、立場の高い者ほど、自分の好き嫌いと仕事の流れを切り分けなければならない。だがクラウディオは逆だ。話しやすい者、気分を害さない者、褒めてくれる者を寄せた結果、必要な確認が飛び、重要な異論が届かず、誰かが後で慌てて穴を埋める構造になっている。

 それでは持たない。

「王妃陛下は、これを?」

「全部ではありませんが、かなりの部分は把握しています」

「国王陛下は?」

「まだ、断片的に」

 ナタリアはゆっくり息をついた。

「……なるほど」

「どうご覧になりますか」

 カイルヴェルトの問いは静かだった。

 けれど、それはただの感想を求める声ではない。

 この構造をどう言語化するか。

 どう整理すれば、単なる“最近うまくいっていない”を超えて、問題として見せられるか。

 その答えを、ナタリアに求めている。

 面倒な男。

 本当に。

「一言で言うなら」

 ナタリアは資料を揃えながら言った。

「王宮の歪み、ですわね」

 カイルヴェルトの目が少しだけ鋭くなる。

「歪み」

「ええ。誰か一人が悪い、では弱いの。もちろん責任の中心は兄君にあるでしょうけれど、問題はそこだけではない」

 ナタリアは続ける。

「兄君が、自分に都合のいい人間を側へ集めた。周囲はそれを止めきれなかった。止めるより、後から直すほうへ回った。結果として、見かけの秩序は保たれたけれど、中の流れはゆがんだ」

 紙の上へ指先を置く。

「そして今、その歪みが隠しきれなくなっている」

 カイルヴェルトは黙って聞いている。

「つまりこれは、最近の失態の寄せ集めではなく、構造の問題よ。人事、支出、書類、会談。全部、同じところからひびが入っている」

 そこまで言ってから、ナタリアは顔を上げた。

「殿下は、これを兄君の資質の問題として扱いたいのかしら。それとも王太子周辺の運営の問題として扱いたいのかしら」

 カイルヴェルトは少しだけ考えた。

「……後者から入るべきでしょうね」

「ええ、そうでしょうね」

 ナタリアはあっさり同意した。

「最初から“兄君が無能だから”では、周囲は守りに入るもの。けれど“王太子周辺の運営が機能不全を起こしている”なら、整えるという大義名分で手を入れられる」

「やはり、あなたは容赦がない」

「現実的と言ってくださらない?」

「そこが怖いところです」

「怖いのに頼るのね」

「ええ、そういうことです」

 その返しがまた妙に自然で、ナタリアは小さく息をつく。

 そして、資料の一束を机へ戻した。

「……今のところ、わたくしが申し上げられるのはここまでよ」

「十分すぎます」

「でしょうね。だいぶ働かされましたもの」

 ナタリアがじろりと見ると、カイルヴェルトは珍しく、ほんの少しだけ居心地悪そうに笑った。

「そこは、否定できません」

「最初からそうおっしゃいな」

「嫌われたくなかったので」

「今さら?」

「ええ、今さら」

 一拍おいて、ナタリアはつい少しだけ笑ってしまった。

 まったく、どうしてこの人はこういうところで妙に正直なのだろう。

「殿下」

「はい」

「一つだけ忠告しておきますわ」

「何でしょう」

「王宮の歪みを正すのは結構。でも、それを“兄君の失敗を暴くこと”と混ぜたら、全部台無しになりますわよ」

 カイルヴェルトの表情が少しだけ引き締まる。

「分かっています」

「本当に?」

「ええ」

「なら結構」

 ナタリアは立ち上がった。

「それと、わたくしはここまで言っておいて何ですけれど、最終的に矢面へ立つつもりはありませんわよ」

「承知しています」

「本当に便利な女だと思っているなら、考えを改めてくださいまし」

「便利だとは思っていません」

 カイルヴェルトも立ち上がる。

 そして、珍しく少しだけ真面目な顔で続けた。

「必要な方だとは思っています」

 その言葉に、ナタリアは一瞬だけ返事を失った。

 便利、ではなく。

 必要。

 その違いを、この男は分かった上で言っている。

 ずるい言い方だわ、本当に。

「……そういうことを平然と仰るから、信用しきれないのです」

「残念です」

「残念がっている顔にも見えませんけれど」

「内心ではかなり」

「嘘ばかり」

 そう返しながらも、ナタリアの声は思ったよりやわらかかった。

 書類を見て、整理して、言葉にした。

 それだけのはずなのに、妙に疲れた気もするし、妙に肩が軽い気もする。

 たぶん――誰かが最初から“分かる相手”として話を持ってきたからだろう。

 それは少しだけ、厄介で。

 少しだけ、悪くなかった。

「では、ごきげんよう」

 ナタリアがそう言って一礼すると、カイルヴェルトも静かに礼を返した。

「ごきげんよう、ナタリア嬢」

 部屋を出てから、ナタリアはゆっくりと息を吐く。

 王宮の歪み。

 たしかにそうだ。

 問題は、失態一つひとつではない。もっと根の深い流れのゆがみだ。

 そしてそれを、自分はもう“関係ない”と言い切りながらも、完全には見て見ぬふりできない。

 その事実が、少しだけ悔しかった。

 でも。

 だからこそ、放っておくよりはましなのかもしれないとも、ほんの少しだけ思ってしまうのだった。
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