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第七話 似合わない役目
第七話 似合わない役目
フロレッタが王宮へ入って五日目の午後、王宮から戻ってきた彼女は、まるで別人のように静かだった。
玄関広間へ入ってきたとき、最初に気づいたのは、その歩き方だ。
いつものフロレッタなら、少し弾むような足取りをする。誰かに見られていればなおさら、軽やかで可憐に見えるよう無意識に気を配る子だった。けれど今の彼女の歩みは重い。背筋は伸ばしているのに、裾をさばく余裕がない。顔色もよくなく、唇の色が少し薄い。
「フロレッタ様……」
女中が駆け寄ろうとするのを、付き添いの王宮侍女が目線だけで制した。
「本日はご休息を優先なさるよう、王妃殿下より申しつかっております」
なんて優雅で、なんて容赦のない伝言なのだろう。
休めと言われているのに、それすら王妃殿下の指示である以上、好き勝手に弱音を吐くことも許されない空気になる。
私は二階の回廊からその様子を見ていた。 フロレッタもこちらに気づいたらしく、一瞬だけ顔を上げる。
その目は、朝の露に濡れた花のように弱っていた。
けれど同時に、まだどこか拗ねた光も残っている。 自分がこんな目に遭うのはおかしい、と言いたげな、子どもじみた不満の色だ。
王宮侍女に支えられるようにして階段を上がっていく妹の背を見送りながら、私は小さく息をついた。
「お嬢様」
後ろからミレナが声をかけてくる。
「ご覧になっていたのですね」
「ええ」
「かなり、お疲れのご様子でした」
「でしょうね」
私は回廊の窓へ目をやる。
外はよく晴れている。こんなに穏やかな午後なのに、屋敷の中だけ少し空気が重い。
「今日までで何をしていたのかしら」
「執事長のお話では、礼法、王宮内規、行事暦、贈答帳簿、それから昼席と晩席の席次確認まで入っているそうです」
「五日でそこまで」
「はい」
私は少しだけ苦く笑う。
「やっぱり本気なのね、王妃殿下」
王宮はフロレッタを甘やかす気がない。 いや、正確には、ルシアン殿下が甘やかそうとしても、それ以外がそうはさせないのだろう。
王太子妃候補という立場は、恋愛の勝者というより、国家の装置に組み込まれることに近い。 選ばれた瞬間から、その器であるかを試される。
そして、フロレッタはその試験にまだ慣れていない。
夕食の席に現れた彼女は、さらにひどかった。
父はいつもの通り執務帰りの硬い表情で席につき、母は心配を隠しきれないまま微笑みを作っている。私はフロレッタの正面に座った。
着席した妹は姿勢こそ崩していないものの、目の下に薄い影が落ちていた。
「今日はずいぶん疲れているようだな」
父がスープへ手を伸ばしながら言う。
「……はい、お父様」
フロレッタの返事は小さい。
「王妃教育は想定以上に厳しいようです」
「想定していなかったのか」
父の問いは淡々としていたが、少しだけ冷たい。
フロレッタは言葉に詰まり、視線を落とした。
「その……もう少し、段階を踏んでくださるのかと……」
「お前は王宮に遊びに行ったのではない」
父は容赦がない。
「王太子妃候補として入った以上、王宮が時間を惜しむのは当然だ」
「はい……」
「できないなら、できるようになれ。できない理由を数えても意味はない」
母がそっと口を挟む。
「あなた、少しは労わってあげてくださいませ。まだ数日ですのよ」
「数日でへばるなら、この先もっと厳しい」
それも事実だった。
私はナイフとフォークを静かに動かしながら、二人のやりとりを聞いていた。
フロレッタは今にも泣きそうな顔をしている。昔なら、父だってもう少し言い方を和らげただろう。けれど今はそうしない。なぜなら彼女がもう“可愛い末娘”であるだけでは済まないからだ。
「殿下は……」
ぽつりと、フロレッタが呟いた。
父が眉を動かす。
「何だ」
「殿下は、そこまで厳しくなくてもよいと仰ってくださったのです」
ああ。
私は心の中で静かに理解する。
やはりルシアン殿下は、そう出たのね。
フロレッタにとっては、その言葉は救いに聞こえただろう。けれど、王宮全体から見れば、最悪に近い。
父の顔がほんのわずかに険しくなる。
「王妃殿下の教育方針に口を挟まれたのか」
「その……わたくしが少し疲れてしまって……殿下がご覧になって……」
「余計なことを」
父の声音は低かった。
フロレッタは肩を震わせる。
「だ、だって、殿下は心配してくださったのです」
「それが問題だ」
「お父様……?」
「王太子が王妃教育の厳しさを理解せず、感情だけで口を出せば、誰が困ると思っている」
フロレッタは答えられない。
答えられないまま、目に涙が浮かぶ。
母が見かねて優しく言う。
「フロレッタ、殿下のお気持ちはありがたいのでしょう。でも、守っていただくことと、務めを免じてもらうことは違うのよ」
「でも……」
「でも、ではない」
父が断ち切る。
「王妃教育の場で『可哀想だから緩めろ』という話になれば、お前自身が軽く見られる。王太子が守ろうとすればするほど、お前が無能だと証明される形になる」
その通りだった。
そしてたぶん、そこまでフロレッタは考えていない。
ただ苦しくて、つらくて、ルシアン殿下が手を差し伸べてくれた。それを嬉しいと思っただけなのだろう。
けれど王宮の人間たちは、そんなふうに見ない。
あの王太子妃候補は、すぐ泣いて王子を頼る。 王太子はそれを庇って母王妃に反発する。 つまり、二人とも現実が見えていない。
そう判断するはずだ。
「セラフィーナ」
不意に父が私の名を呼んだ。
「はい」
「お前なら、どうする」
食卓の空気が変わる。
フロレッタが顔を上げた。 怯えと、何か別のものが混じった目だった。 聞きたくないのに、聞かずにはいられない。そんな顔。
「どうする、とは」
「王妃教育の場で疲弊し、王太子が庇い立てした場合だ」
私は少しだけ考える。
「ありがたく思うでしょうね」
「そのあとだ」
「そのあと……」
私はカップの持ち手へ指を添えた。
「その場では礼を申し上げます。でも、次からはご遠慮いただくようお願いすると思いますわ」
フロレッタが目を見開く。
「どうして?」
問いが、思わず口から出たのだろう。
私は彼女を見る。
「庇っていただけば、その場は楽になるもの」
「なら、いいではありませんか」
「よくないのよ」
私は静かに返す。
「守られて楽をしたぶんだけ、『あの方はひとりでは務まらない』という印象が残るから」
フロレッタの唇が震える。
「でも、つらいのに……」
「つらいわよ。もちろん」
「お姉様は平気だったの?」
その問いに、私は少しだけ笑った。
「平気なわけがないでしょう」
母が小さく息を呑む。
フロレッタも、まるで意外なものを見たような顔をした。
「わたくしだって嫌だったわ。覚えることは多いし、一度の間違いを何度も指摘されるし、笑って食事をしているだけのほうがずっと楽だもの」
「……なら」
「でも、それが役目だったから」
私はまっすぐに言う。
「そして今、その役目はあなたの前にあるのよ」
沈黙が落ちる。
逃げ道のない言葉だった。
けれど、優しく取り繕っても意味がない。 フロレッタはいずれ知るのだ。 王宮では、可哀想という感情が通用する範囲は驚くほど狭いのだと。
父が低く言う。
「聞いたな」
「……はい」
「王太子に縋るなとは言わん。だが、縋った姿を他人に見せるな」
「はい……」
「守られることを喜ぶ前に、守られなくて済むようになれ」
それは厳しいが、正しい。
フロレッタは俯き、やがて小さく「はい」と繰り返した。
その夜、私は書庫へ本を返しに行く途中で、開け放たれた小さな談話室の前を通りかかった。
中から、かすかな嗚咽が聞こえた。
足を止めて覗くつもりはなかった。 けれど、声の主が分かってしまった。
フロレッタだ。
扉の陰から見えたのは、ソファに座って顔を覆う細い背中だった。侍女がひとり寄り添っている。
「フロレッタ様、少しお休みになられては」
「いや……だって、わたくし、頑張っているのに……」
しゃくりあげる声。
「どうして、みんな……わたくしが悪いみたいに……」
その言葉に、私は一瞬だけ立ち止まる。
ああ、この子は本気でそう思っているのだ。
自分は頑張っている。 つらい思いもしている。 なのに、なぜ評価されないのか、と。
でも、頑張っていることと務まることは別だ。 そして王宮が見ているのは、努力の可愛らしさではなく結果に近い。
私は音を立てないよう、その場を離れた。
可哀想だとは思う。 つらいだろうとも思う。
けれど同時に、少しだけ冷たい気持ちもある。
あなたが手に入れたかったのは、こういう場所だったのでしょう、と。
部屋へ戻ると、ミレナが湯を整えて待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お疲れですか」
「少しだけ」
私はソファへ座り、背もたれに体を預ける。
「フロレッタ様のことですか」
「分かる?」
「お顔に少し出ております」
「そう」
私は小さく笑った。
「まだ修行が足りないわね」
「お嬢様の場合、無表情に見えても、身近にいる者には分かります」
「それは困ったことだわ」
ミレナは困ったように笑う。
「それで、フロレッタ様は」
「泣いていたわ」
「……そうでしたか」
「でも、泣きたいのは本当でしょうね」
私は指先を組む。
「たぶん、今のあの子には全部が急すぎるのよ。選ばれて、持ち上げられて、王宮へ入れられて、すぐにできて当然だと言われる。夢を見ている暇もない」
「では、少しお気の毒ですね」
「ええ」
そこまでは即答できる。
「でも、それだけではないの」
「と、申しますと」
「まだ、自分が“愛された可愛い妹”のままで通れると思っている気がするのよ」
ミレナが慎重に黙る。
私は続けた。
「王宮では通らないわ。少なくとも、いつまでもは」
ルシアン殿下が庇えば庇うほど、周囲は冷える。 フロレッタが弱れば弱るほど、王妃教育は必要だと証明される。 悪循環だ。
「それにしても」
ミレナが少し迷ってから言う。
「殿下は本当に、フロレッタ様をお守りになりたいのでしょうね」
「そうでしょうね」
私は淡々と答える。
「でも、守り方を間違えているわ」
「お嬢様なら、そうなさいますか」
「しないわ」
即答した自分に、少しだけ驚く。
「少なくとも、人前ではしない」
そして、たぶんそれがルシアン殿下と私の決定的な違いだったのだろう。
私は昔から、王太子妃になるために求められるものを知っていた。だからこそ、甘い言葉より、きちんと責任を果たせるほうが価値があると理解していた。
ルシアン殿下は違う。 愛しているなら守るべきだと考えている。 その考え自体は美しいのかもしれない。
けれど王太子が王妃教育を“可哀想だから軽くしろ”と言い出すなら、それは美しさではなく幼さだ。
「似合わないのね」
私がぽつりと呟くと、ミレナが首を傾げる。
「何がでございますか」
「王太子という役目が、殿下にはまだ」
口にしてから、自分でその言葉の重さを感じる。
言いすぎだろうか。 でも、そう思ってしまった。
選ぶことと、担うことは違う。 恋することと、王になることも違う。
ルシアン殿下は、その境目をまだ本気で分かっていないのかもしれない。
夜が更けるころ、窓の外には王宮の灯りがかすかに見えた。
あの眩しい場所で、妹は疲れ果てている。 王子はたぶん、そんな彼女を守ろうとしている。 王妃はその甘さを切り捨てようとしている。
そしてその歪みは、きっと少しずつ形になる。
私は窓辺に立ったまま、冷たい夜気を吸い込む。
フロレッタには似合わない役目がある。 でもそれだけではない。
ルシアン殿下にも、似合わない役目があるのかもしれない。
そのことに本人たちが気づくのは、もう少し先だろう。
けれどたぶん、その時にはもう、ただの恋の勝ち負けでは済まなくなっている。
フロレッタが王宮へ入って五日目の午後、王宮から戻ってきた彼女は、まるで別人のように静かだった。
玄関広間へ入ってきたとき、最初に気づいたのは、その歩き方だ。
いつものフロレッタなら、少し弾むような足取りをする。誰かに見られていればなおさら、軽やかで可憐に見えるよう無意識に気を配る子だった。けれど今の彼女の歩みは重い。背筋は伸ばしているのに、裾をさばく余裕がない。顔色もよくなく、唇の色が少し薄い。
「フロレッタ様……」
女中が駆け寄ろうとするのを、付き添いの王宮侍女が目線だけで制した。
「本日はご休息を優先なさるよう、王妃殿下より申しつかっております」
なんて優雅で、なんて容赦のない伝言なのだろう。
休めと言われているのに、それすら王妃殿下の指示である以上、好き勝手に弱音を吐くことも許されない空気になる。
私は二階の回廊からその様子を見ていた。 フロレッタもこちらに気づいたらしく、一瞬だけ顔を上げる。
その目は、朝の露に濡れた花のように弱っていた。
けれど同時に、まだどこか拗ねた光も残っている。 自分がこんな目に遭うのはおかしい、と言いたげな、子どもじみた不満の色だ。
王宮侍女に支えられるようにして階段を上がっていく妹の背を見送りながら、私は小さく息をついた。
「お嬢様」
後ろからミレナが声をかけてくる。
「ご覧になっていたのですね」
「ええ」
「かなり、お疲れのご様子でした」
「でしょうね」
私は回廊の窓へ目をやる。
外はよく晴れている。こんなに穏やかな午後なのに、屋敷の中だけ少し空気が重い。
「今日までで何をしていたのかしら」
「執事長のお話では、礼法、王宮内規、行事暦、贈答帳簿、それから昼席と晩席の席次確認まで入っているそうです」
「五日でそこまで」
「はい」
私は少しだけ苦く笑う。
「やっぱり本気なのね、王妃殿下」
王宮はフロレッタを甘やかす気がない。 いや、正確には、ルシアン殿下が甘やかそうとしても、それ以外がそうはさせないのだろう。
王太子妃候補という立場は、恋愛の勝者というより、国家の装置に組み込まれることに近い。 選ばれた瞬間から、その器であるかを試される。
そして、フロレッタはその試験にまだ慣れていない。
夕食の席に現れた彼女は、さらにひどかった。
父はいつもの通り執務帰りの硬い表情で席につき、母は心配を隠しきれないまま微笑みを作っている。私はフロレッタの正面に座った。
着席した妹は姿勢こそ崩していないものの、目の下に薄い影が落ちていた。
「今日はずいぶん疲れているようだな」
父がスープへ手を伸ばしながら言う。
「……はい、お父様」
フロレッタの返事は小さい。
「王妃教育は想定以上に厳しいようです」
「想定していなかったのか」
父の問いは淡々としていたが、少しだけ冷たい。
フロレッタは言葉に詰まり、視線を落とした。
「その……もう少し、段階を踏んでくださるのかと……」
「お前は王宮に遊びに行ったのではない」
父は容赦がない。
「王太子妃候補として入った以上、王宮が時間を惜しむのは当然だ」
「はい……」
「できないなら、できるようになれ。できない理由を数えても意味はない」
母がそっと口を挟む。
「あなた、少しは労わってあげてくださいませ。まだ数日ですのよ」
「数日でへばるなら、この先もっと厳しい」
それも事実だった。
私はナイフとフォークを静かに動かしながら、二人のやりとりを聞いていた。
フロレッタは今にも泣きそうな顔をしている。昔なら、父だってもう少し言い方を和らげただろう。けれど今はそうしない。なぜなら彼女がもう“可愛い末娘”であるだけでは済まないからだ。
「殿下は……」
ぽつりと、フロレッタが呟いた。
父が眉を動かす。
「何だ」
「殿下は、そこまで厳しくなくてもよいと仰ってくださったのです」
ああ。
私は心の中で静かに理解する。
やはりルシアン殿下は、そう出たのね。
フロレッタにとっては、その言葉は救いに聞こえただろう。けれど、王宮全体から見れば、最悪に近い。
父の顔がほんのわずかに険しくなる。
「王妃殿下の教育方針に口を挟まれたのか」
「その……わたくしが少し疲れてしまって……殿下がご覧になって……」
「余計なことを」
父の声音は低かった。
フロレッタは肩を震わせる。
「だ、だって、殿下は心配してくださったのです」
「それが問題だ」
「お父様……?」
「王太子が王妃教育の厳しさを理解せず、感情だけで口を出せば、誰が困ると思っている」
フロレッタは答えられない。
答えられないまま、目に涙が浮かぶ。
母が見かねて優しく言う。
「フロレッタ、殿下のお気持ちはありがたいのでしょう。でも、守っていただくことと、務めを免じてもらうことは違うのよ」
「でも……」
「でも、ではない」
父が断ち切る。
「王妃教育の場で『可哀想だから緩めろ』という話になれば、お前自身が軽く見られる。王太子が守ろうとすればするほど、お前が無能だと証明される形になる」
その通りだった。
そしてたぶん、そこまでフロレッタは考えていない。
ただ苦しくて、つらくて、ルシアン殿下が手を差し伸べてくれた。それを嬉しいと思っただけなのだろう。
けれど王宮の人間たちは、そんなふうに見ない。
あの王太子妃候補は、すぐ泣いて王子を頼る。 王太子はそれを庇って母王妃に反発する。 つまり、二人とも現実が見えていない。
そう判断するはずだ。
「セラフィーナ」
不意に父が私の名を呼んだ。
「はい」
「お前なら、どうする」
食卓の空気が変わる。
フロレッタが顔を上げた。 怯えと、何か別のものが混じった目だった。 聞きたくないのに、聞かずにはいられない。そんな顔。
「どうする、とは」
「王妃教育の場で疲弊し、王太子が庇い立てした場合だ」
私は少しだけ考える。
「ありがたく思うでしょうね」
「そのあとだ」
「そのあと……」
私はカップの持ち手へ指を添えた。
「その場では礼を申し上げます。でも、次からはご遠慮いただくようお願いすると思いますわ」
フロレッタが目を見開く。
「どうして?」
問いが、思わず口から出たのだろう。
私は彼女を見る。
「庇っていただけば、その場は楽になるもの」
「なら、いいではありませんか」
「よくないのよ」
私は静かに返す。
「守られて楽をしたぶんだけ、『あの方はひとりでは務まらない』という印象が残るから」
フロレッタの唇が震える。
「でも、つらいのに……」
「つらいわよ。もちろん」
「お姉様は平気だったの?」
その問いに、私は少しだけ笑った。
「平気なわけがないでしょう」
母が小さく息を呑む。
フロレッタも、まるで意外なものを見たような顔をした。
「わたくしだって嫌だったわ。覚えることは多いし、一度の間違いを何度も指摘されるし、笑って食事をしているだけのほうがずっと楽だもの」
「……なら」
「でも、それが役目だったから」
私はまっすぐに言う。
「そして今、その役目はあなたの前にあるのよ」
沈黙が落ちる。
逃げ道のない言葉だった。
けれど、優しく取り繕っても意味がない。 フロレッタはいずれ知るのだ。 王宮では、可哀想という感情が通用する範囲は驚くほど狭いのだと。
父が低く言う。
「聞いたな」
「……はい」
「王太子に縋るなとは言わん。だが、縋った姿を他人に見せるな」
「はい……」
「守られることを喜ぶ前に、守られなくて済むようになれ」
それは厳しいが、正しい。
フロレッタは俯き、やがて小さく「はい」と繰り返した。
その夜、私は書庫へ本を返しに行く途中で、開け放たれた小さな談話室の前を通りかかった。
中から、かすかな嗚咽が聞こえた。
足を止めて覗くつもりはなかった。 けれど、声の主が分かってしまった。
フロレッタだ。
扉の陰から見えたのは、ソファに座って顔を覆う細い背中だった。侍女がひとり寄り添っている。
「フロレッタ様、少しお休みになられては」
「いや……だって、わたくし、頑張っているのに……」
しゃくりあげる声。
「どうして、みんな……わたくしが悪いみたいに……」
その言葉に、私は一瞬だけ立ち止まる。
ああ、この子は本気でそう思っているのだ。
自分は頑張っている。 つらい思いもしている。 なのに、なぜ評価されないのか、と。
でも、頑張っていることと務まることは別だ。 そして王宮が見ているのは、努力の可愛らしさではなく結果に近い。
私は音を立てないよう、その場を離れた。
可哀想だとは思う。 つらいだろうとも思う。
けれど同時に、少しだけ冷たい気持ちもある。
あなたが手に入れたかったのは、こういう場所だったのでしょう、と。
部屋へ戻ると、ミレナが湯を整えて待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お疲れですか」
「少しだけ」
私はソファへ座り、背もたれに体を預ける。
「フロレッタ様のことですか」
「分かる?」
「お顔に少し出ております」
「そう」
私は小さく笑った。
「まだ修行が足りないわね」
「お嬢様の場合、無表情に見えても、身近にいる者には分かります」
「それは困ったことだわ」
ミレナは困ったように笑う。
「それで、フロレッタ様は」
「泣いていたわ」
「……そうでしたか」
「でも、泣きたいのは本当でしょうね」
私は指先を組む。
「たぶん、今のあの子には全部が急すぎるのよ。選ばれて、持ち上げられて、王宮へ入れられて、すぐにできて当然だと言われる。夢を見ている暇もない」
「では、少しお気の毒ですね」
「ええ」
そこまでは即答できる。
「でも、それだけではないの」
「と、申しますと」
「まだ、自分が“愛された可愛い妹”のままで通れると思っている気がするのよ」
ミレナが慎重に黙る。
私は続けた。
「王宮では通らないわ。少なくとも、いつまでもは」
ルシアン殿下が庇えば庇うほど、周囲は冷える。 フロレッタが弱れば弱るほど、王妃教育は必要だと証明される。 悪循環だ。
「それにしても」
ミレナが少し迷ってから言う。
「殿下は本当に、フロレッタ様をお守りになりたいのでしょうね」
「そうでしょうね」
私は淡々と答える。
「でも、守り方を間違えているわ」
「お嬢様なら、そうなさいますか」
「しないわ」
即答した自分に、少しだけ驚く。
「少なくとも、人前ではしない」
そして、たぶんそれがルシアン殿下と私の決定的な違いだったのだろう。
私は昔から、王太子妃になるために求められるものを知っていた。だからこそ、甘い言葉より、きちんと責任を果たせるほうが価値があると理解していた。
ルシアン殿下は違う。 愛しているなら守るべきだと考えている。 その考え自体は美しいのかもしれない。
けれど王太子が王妃教育を“可哀想だから軽くしろ”と言い出すなら、それは美しさではなく幼さだ。
「似合わないのね」
私がぽつりと呟くと、ミレナが首を傾げる。
「何がでございますか」
「王太子という役目が、殿下にはまだ」
口にしてから、自分でその言葉の重さを感じる。
言いすぎだろうか。 でも、そう思ってしまった。
選ぶことと、担うことは違う。 恋することと、王になることも違う。
ルシアン殿下は、その境目をまだ本気で分かっていないのかもしれない。
夜が更けるころ、窓の外には王宮の灯りがかすかに見えた。
あの眩しい場所で、妹は疲れ果てている。 王子はたぶん、そんな彼女を守ろうとしている。 王妃はその甘さを切り捨てようとしている。
そしてその歪みは、きっと少しずつ形になる。
私は窓辺に立ったまま、冷たい夜気を吸い込む。
フロレッタには似合わない役目がある。 でもそれだけではない。
ルシアン殿下にも、似合わない役目があるのかもしれない。
そのことに本人たちが気づくのは、もう少し先だろう。
けれどたぶん、その時にはもう、ただの恋の勝ち負けでは済まなくなっている。
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