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第10章 過去の執念と秀才の破滅

131時間目 彼女

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 彼女は孤独だった。

 親の愛を不十分に、必要最低限しか与えられず、むしろ、いらないものだと、必要ないものだと言われて育ってきた。

 親が二十歳で産んでこの地に落ちた彼女は、キラキラと薄汚く光るドレスやネックレスを身にまとった母親と定期的に来るチャラい金髪の男の後ろ姿をただ見送るしか出来ない。

 彼女はいつだって、空腹と愛に飢えていた。

 幼少の頃から湯煎や簡単な調理はひと通りでき、一人の静か過ぎる部屋で黙々とものを口にする。

 幼稚園や保育園といった施設には行けず、鳥かごのような一室のなかで、彼女はボロボロの児童本と短いクレヨンで絵を描くのみ。

 彼女に掃除という概念はなく、カサカサと床や壁を這う何かの音に気が付きながらも、何かの生き物だとは知っていても、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり。
そんな日々は彼女が小学生になるまで続いた。

 彼女が六歳のある日の夏の日だった。

 うだるような暑さが部屋に充満するも、彼女に環境を変える方法はない。彼女に機械のことは調理関係しか分からなかったから。

 彼女の親は三日ほど帰って来なかった。

 転々と違う男がやって来ては親と共に出て行くも最近自我が芽生え始めた彼女には男たちの共通点を見抜いた。

 それは、全員欲望に溢れた目をしていることだった。

(あついよ……)

 彼女は必死で生きようと試みる。ダラダラに伸びた髪を掴みながら、必死で床を這う。

 どこまで這ったのだろうか。彼女の目にはドアが写っているのにも関わらず、手を伸ばすことすら出来ない。

(しんじゃ、う)

 彼女の命は重なる暑さで失われそうになっていた。
目の前のドアからダンダンと激しいノック音が聞こえてきた。

「──さん! 近隣の住人からあなたの部屋から異臭がするとクレームが入っています! ──さん!」

 女性の声と共にノック音は続く。彼女はこれが生きるための最後のチャンスだと判断した。

(ここ、に、います)

 声にだそうとしても声が出ない彼女。その思いは虚しく、届くことはなかった。彼女の意識はそこで途切れた。

「──さん! 入りますからね! うわぁぁぁあ! ちょっと! や……さん!」

 彼女が再び目を覚ますと管で繋がれ、真っ白なベッドに横たわっていた。

「あっ、目を覚ましました。宮浦みやうらさんー!」

 笑顔が素敵な看護師が呼んだ宮浦の名前。

 数分後、私服姿の女性が入ってきた。

「ねぇ、お嬢ちゃん。──さんの子よね?」

 近くにあったパイプ椅子に腰掛けた三十代後半の女性は、にっこりと微笑んで聞いてきた。

 その問いに彼女はこくりと頷く。

「おかあさんの、ところにかえりたく、ないです」

 彼女は本音を言わない子だった。しかし、このときからすでに彼女は壊れかけていた。

「そっか。お嬢ちゃん、帰りたくないんだね。あのね、お嬢ちゃん。提案があるんだけどね。もし、お嬢ちゃんさえよければ、私と一緒に暮らさない?」

 彼女には難しいことは分からないが本能的にこの人は安全だと分かっていた。その誘いを受けて、彼女は女性から名前を貰うことになる。

「お嬢ちゃん、名前はなんて言うの?」

「わからない」

「そっか。じゃあ、私の名前を少しあげるね、で、火曜日だから……。お嬢ちゃん、カナって名前はどうかな?」

「か、な?」

「そう、カナ。宮浦カナ。うん。いい名前じゃない?」

「かな。いいなまえ」

 彼女──カナは、このとき、初めて愛を知った。

 その気づきが彼女の新たな人生の始まりでもあった。
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