そしたら、結婚してあげる。

握斗

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そしたら、結婚してあげる。

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  一体、どういうつもりなのか。
  張り切ってカートを押す彼の背中を睨みながら、私は考える。

  同棲し始めて二、三年。四年だったっけな?包丁で怪我をしては諦め、お肉を焦がしては諦め、玉ねぎが目に沁みては諦め。そんな料理の神様に見放されたような彼が、久々に二人とも休みの日曜日、「今日の夕飯は僕が作ってもいい?」なんて。どういう風の吹き回し?って言うの?流石に、いきなりそんなことを言われたから、こっちも笑った。まぁ、家事をしてくれる気になったのならありがたいけど、ちょっと気味が悪い。

  ぼんやり彼を眺めていたら、その場からしばらく動いていないことに気がついた。手には彼の天敵の玉ねぎと、皮が全く上手に剥けない人参が握られている。すごく真剣な顔つきで何か考えている。
  呆れてきた。声を掛けてみよう。
  「明生?どした?」
  「ん?いやぁ、カレーに人参って入ってたっけなぁって思って」
  ほんとに呆れた。あれほどの好物に入っている食材すら覚えていないなんて。
  彼の手からライバル達を取り上げてかごに放り込んだ。
  「明生、カレーに人参は入ってるの。わかった?」
  「はぁい」
  あんなに好きだった気の抜けた返事も、今ではただ鬱陶しいだけ。もうずいぶん前からそう思っていた気がするけど、やっぱり鬱陶しかった。
  ときめきすら忘れてしまった自分にため息が出てしまう。
  「茜ぇ、ごめんって」
  彼は私のため息にだけはやたらと敏感だ。
  「何がよ?」
  「僕がもたもたしてるばっかりに…」
  また呆れさせられた。「家事については期待なんてしてないの!今のは複雑なため息なの!」…って、心の中では叫んでいるけど。否定するのも面倒だから、またため息で済ませる。
  「茜ぇ、ごめんってぇ」

  なんとか買い物を済ませて帰ってきた。突然の雨で、私が持っていた折りたたみ傘で相合傘をした。狭い一つ屋根の下で隠れるように歩きながら彼の温もりを感じた。ちょっとドキドキした―ような気がした!まぁ、私にもまだ彼への想いは残っていたとみえる。
  さて、夕飯までは時間があるから、包丁の握り方くらいは彼に教えておくか。めんどくさがったって逃がさないんだからっ。

  そんなこんなで夕飯の仕込み時。
  「手、震えてるよ。落ち着いて、明生」
  私は、今に指をバッサリと切りそうな彼をヒヤヒヤしながら見守った。まったく、どうして男はこんなにも指先が不器用なのか。人参の皮くらいさっさと剥けないの?…なんて思ってはいるけれど、手は出せない。彼が一人でやってみると言って聞かないのだ。

  彼が包丁を置いた。人参の皮はまだ半分以上、残ったままだ。
  「どぉした?まだ残ってるぞぉ?」
  「ちょっと待ってよぉ。ちょっと休憩させて…」
  時刻はもう午後六時を回った。かれこれ一時間ちょっと人参と格闘している。
  「もう、日が暮れちゃう!もう暮れてるけど!私も手伝う!いいね?」
  「…はぁい」
  よし!やっと諦めた!お腹も空いているんだし、さっさと終わらせちゃお!

  彼が気を利かせてラジオをつけてくれた。心躍るボサノバ、流行りのポップス、なんて言っているのかさっぱりわからないボーカロイドなどなど。いつもどおりのキッチンが、なんだか今日は楽しい。
  それに、隣に明生がいる。
  不器用な手元にヒヤヒヤ、イライラしながらも、初めて二人で料理を作っていることが嬉しい。ついつい作業の手も早くなる。
  「やっぱり茜は仕事が早いなぁ。無駄がないよね」
  彼が私の機嫌を取るように言った。私は、ちょっと彼を突っつきたくなった。
  「私は別に早くないよ?明生の仕事が遅いだけよ」
  そんなぁ、と言う彼の横顔を覗く。なんだかんだで彼も楽しそうだ。
  …やっぱり私、明生の笑顔を見ると落ち着くんだよなぁ。
  「えぇ?そう言ってくれると嬉しいよ」
  「…え?」
  「僕の笑顔にそんな効能があったなんてね!」
  うわぁ、なんてこった!無意識に喋っていた!
  「はぁ!?別にっ!冗談に決まってんじゃんっ!間に受けないでよねっ!」
  とは言っても、もう遅いだろうなぁ…。顔が熱い熱い…。私、嘘も下手だし…。
  堪らず、じゃが芋を手早くぶつ切りにした。
  そんな私の明らかな照れ隠しに、彼は優しく笑った。
  「冗談でも嬉しいよ?」
  ドキッ。
  「茜がそう思ってくれてるなら嬉しいよ。なんだか、明日からもっと頑張れそうかな」
  ドキドキ。
  「僕だって茜の笑顔、落ち着くよ?かわいいし。すごく好き」
  バクバク。
  「僕さ、いつか茜と―」
  …あぁ、もうっ!
  「こらっ!手が止まってるぞぉ!さっさとやるっ!」
  彼に振り向いて声を上げた。たぶん、真っ赤。私の顔。
  私の目を見つめて、彼が微笑んだ。
  「はぁい」

  午後七時過ぎ、スパイスを効かせた、『二人で作った』カレー完成!ちょっとイビツな野菜達も…まぁ、ほぼ初めてにしては上出来としよう。彼がちぎったレタスに私が切ったプチトマトを盛ったサラダも食卓に並んだ。ついこの前買い替えたLEDの暖かい灯りが、料理をますます美味しそうに見せている。同居して初めて二人で買ったレトロな木の机も、なんだか今日は喜んでいるみたいだ。
  「どうかな?出来栄えは」
  彼が控えめに聞いてきた。そんなの言わずもがなよ。ホントのことは言わないけど。
  「まぁ、良しとしよう!」
  やればできるじゃん!…とは、恥ずかしくて言えないけど。
  「なら良かった!安心したよぉ」
  「でも、まだまだこれからよ?今度は一人で!できるようにならなくちゃ」
  「はぁい」
  また気の抜けた返事。やっぱり呆れるけど、ため息はつかなかった。また彼が心配するから。だから微笑んだ。心から。
  「何か可笑しかったかな?」
  彼も笑いながら聞いた。
  「何も?でも面白いの。とっても」
  やっぱり落ち着く。きっと彼も同じ。それがまた、なぜか可笑しくて笑った。

  他愛もない話しをいつもよりたくさんした。
  カレーの味は、なんだかいつもと違った気がした。なんだか、彼らしい味がした。
  まだ雨の音は聞こえているけど、お腹もいっぱい、体はホカホカだ。
  いつになく満ち足りた気分。二人で協力して買い物して、料理して、それを食べて。『小さな幸せ』とはこういうことか…!
  「美味しかったねぇ」
  彼が感想を乞うように言った。もちろん私も同感。大きめに頷いた。
  「あのね?今日、夕飯を作りたいって言ったのはね…」
  そうだ、すっかり忘れていた。どんな風の吹き回しかっ!って思っていたんだった。
  「そうそう、気になってたのよ。突然あんなこと言い出すんだもん。ビックリしたわ。で?どうして?」
  すると彼は、照れたように頭を掻いて、心を決めたように息を吸い込んだ。


  「今日で、付き合って十年だから」


  また笑ってしまった。
  「あれ?何か可笑しかったかな?」
  彼もまた笑った。
  なんだか男女逆転したみたい。いちいち日付とか、何年付き合ったかすら覚えていなかった!って言うか、明生、女々しい!記憶力いい!細かい!らしいけど!やっぱり女々しい!でも嬉しい!なんだか今、すっごく幸せ!
  自分でも訳がわからなくなって、彼に抱き着いた。
  驚いた声と、その後の優しい笑い声。
  こうやって一緒にずっと笑っているのも悪くないかも。
  あーあ。明生、いつプロポーズしてくれるかなぁ…なんて。待ってちゃダメか!私が引っ張らなくちゃ!

  じゃあ、その時は…。

  「明生?」
  「ん?」
  「…なんでもない!けど、早く一人でカレーくらい作れるようになってよ!」
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