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輪郭を消してくれ
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都営地下鉄大江戸線の内窓に映る痩せた貧相な上半身、薄幸の不請顔にだらしなく伸びた黒髪、その全てが私であることに気づくまでやや時間がかかった。
昨晩から眠れていないぼんやりとした頭が重い。無理にでも眠ろうと思っても眠りは訪れない。両手を顔に当てて撫で、椅子に深く凭れてしばらく窓に映る私を見つめる。暗闇が流れ、線路を通過していく轟音が響く。
思考が沼に沈むように停止していき、体が内から温まって熱を持ち、そろそろ眠りが訪れそうなところで目的の駅がアナウンスされ、疲れが増した気がして電車を降りた。
勝どき駅の改札を抜け、A2b出口の階段を上がると灰色の空が広がっていて今にも雨が降りそうだった。八十年代に建てられたビルがそのまま同化していきそうなこの薄灰色の空は、どこまでも同じ色調をして雲の輪郭のひとつもない全くの均一な広がり方をしていた。街を包む空気はいつもより質量を増したように重く感じられ、道行く人の背は心持曲がって見え、車も本来の速度が思うように出ない様子でちょっとした憂結さえ窺えた。晩秋らしい悲風は高層マンションの隙間を音を立てて過ぎ、冬が近いことを知らせていた。
待ち合わせまでにはまだ三十分ほど時間があった。
階段口に立ったまま、何カ月も洗っていないシャツの袖に鼻をあてて嗅ぎ、咳をした。勢いの余った痰が手の平に飛んだ。その茶色をした塊に、今朝飲んだ水道水の味のするカフェオレを思い出したが、すぐに握り揉んで手に馴染ませた。痰は糸を引いて冷気を帯び、嫌な音をたてた。
*
いつか台場で同じような空模様を見た。
確か晩夏の残暑が厳しい頃で、その日の記録的な豪雨は昼が下がると霧雨に変わった。何層もの曇り空が太陽の光を遮り、まだ日の暮れない時間帯であったのに一帯に電光を灯した。鈍色の空は海に自身を映して全く同じ色彩を与え、奥に立ち並ぶ大企業のビル群の外観はもちろんのこと、その本来の威厳や奢りまでも呑み込んでいた。オフィスから漏れる蛍光灯の微弱な抵抗も虚しかった。
普段は恋仲の男女が寄り添って座る海浜公園の砂浜もその日は閑散として、傘を差して歩く者さえいなかった。
矢前(やまえ)と私はその小さい砂浜の真ん中に立って灰青色の海と乱立するビルとぼやけた光を纏うレインボーブリッジを見ていた。私たちが傘を差していたのかどうかは覚えていない。とにかく私も矢前もその公園の木々と変わらない程度には全身が濡れていた。煙草も雨があたらないように注意しながら身を屈めて吸わねばならなかった。
目前の景観をぼんやり見ているとモネの大聖堂の絵が薄く引き伸ばされて現れた。聖堂のくすんだ青とその筆触がそう想起させたのに違いないのだが、きっと一般的な絵画鑑賞を採って全体の構図や背景との色彩関係を意識して見比べたら何ひとつ似ているところはないのだろう。モネの本当の美術史的な評価がどのようなものかは知らないが、しかしこの美しい眺めが彼を思い出させたのだからそれで十分だった。
視界から輪郭線が消えていき、単色に、チューブから出したそのままの色に向かうように景色が溶けていく中、私たちが立つこの砂浜の白さだけが際立って感じられた。この全ての様子をきっと矢前なら先人に劣らず優れた絵画として描き切るだろう、そう思うと私は安心した。
「魚が飛んだ」と矢前は言った。
雨を餌とみたのか、その後何度も魚が水面の上に跳ね上がった。ずいぶん高く飛ぶ魚もいた。どの魚も鯉のような格好をしていた。
「ここに詩情が乗るかだな」と矢前は前方を見たまま言った。
*
私は階段口横の歩道の端に寄り、鼻から大きく息を吸い込んで秋と冬の匂いを確かめた。まだ依然どちらの匂いも感じられたものの冬のそれが強まっているのは明らかだった。物悲しい中にも暖かみと優しさを含む秋と違って、冬が何にも無感動であるように感じられるのは、寒さを強める曇り空の無彩色にそういう印象があるからであろう、そんなことを考えながら私はポケットから残り少なくなった煙草を出し、ゆっくり味わいながら喫んだ。
目の前の交差点は車の往来の激しい二つの大通りから成っていて、重なるエンジン音がうるさい。向かいに広場のようなものがあったので、私はそこまで行って奥に置かれていたベンチに腰を下ろして膝を抱えるように足をあげた。群青色の古びたスニーカーの泥が目立つ。泥は生地の奥部まで染み込んで白みを帯びている。その部分を人差し指と親指で何度も押し揉む。段々と摩擦で指の感覚が無くなっていき、手首から先が私から分離しているように思える。
スエードの生地感が気に入って一年前にリサイクルショップで購入した安物の靴だったが、今やそういった古物でさえ手が出ないほど金銭的に追い込まれていた。私はそうした現実を何かにつけて思い出さねばならなかった。今着ている服も売ってお金にしなければならない。昔の彼女にもらった品良い革靴や家電製品も全部売ってしまおう。しかしいったいそれでいくらの金になるのだろう。このような煩累を思うだけで吐き気がしたが、こうでもしないと生きてはいけないのだと思う。
誰かが笑った気がして私は顔を上げた。そしてまた頭を垂れて靴の泥に触った。
半年間続けた仕事を三ヶ月前に辞め、他に仕事を探す気になれずにぼんやりしていると一ヶ月が経った。煙草をマルボロからエコーに変えたりと少々の節約をしてもどうにもならず、家賃が払えなくなって来月には家を失う。残ったものはそれなりの大学を卒業したという事実とそれに伴う肥大化したプライドと四百万円の奨学金返済義務だけであった。
貧乏な四人家族の長男である私は、経済的な事情で高校進学も危ぶまれた。それでもなんとか地方有数の公立進学校から東京の大学に進み、生活費などはアルバイト代で賄いながら学費は奨学金を頼って卒業することができた。矢前の影響で美学美術史学を専攻したため、この就職難の時世に悠長なことだと祖母らに揶揄されつつも、結局は通信業界最大手の元国営企業に内定したことで彼らは血相を変えて喜んだ。
ここまでは良かった。万事が好調だった。
しかし結局私はその一流企業の内定を辞退し、小さい自営の美術画廊で勤めることにした。その決断に両親は表面上は納得したようにみせたがその心までは知れず、両祖父母に至っては気が狂うほどに落胆し涙していた。
私も何の理由もなしに自分を必要としてくれた企業の内定を辞退したわけではない。その美術画廊には私しか社員がおらず、不況に負けじと体を酷使して働く社長の力になりたかったのだ。それに実はこちらの理由の方が本当なのだが、矢前のことが頭にあった。私の美術商としての経験が、彼を芸術家として陽のあたる場所へ導くための端緒となるよう決断したのだった。
だが結局は不遇な扱いに耐えきれず半年で退社した。社長は最後に、人は信じるものじゃないよ、と言った。その後その美術画廊は社長の肉親や親類の力を借りて経営を維持しているらしい。
仕事を辞めてすぐの頃の私は陽気なものだった。半年で会社を辞めると辛抱の足りない人間だと評され転職もしにくくなるなどの忠告は仲間内からも嫌というほど受けたがそんなことはどうでもよかった。家族には済まないが生きていければそれでいいと思っていたし、昔から心の隅にあった「小説を書く」ということに時間を割けるのだから、それで一発当ててやる、そんな風に考えていた。矢前のことに関しても、現在の日本における画家という職業はその才能や実力よりも業界政治に力を入れねばならないことを知って、それならば私の小説で矢前のことを書いて彼の芸術、本物の芸術というものを知ってもらうほうがよっぽど世間の彼への関心は高まる、そう思った。しかしいざ、机に向かって文章を書き始めるとその稚拙と乱筆たるや噴飯もので我慢ならず、そして何よりあれこれ書くことがあったはずなのに形にしてみれば途中でそれが取るに足らない枝葉のことのように思えてきてそれ以上書くのが馬鹿らしくなった。最初の一週間は頭に浮かんだいくつもの話を形にしようと試みたが、全て最初の数枚で心は折れ、一つの物語も終末を迎えることはなかった。三歳の頃からの幼馴染である矢前のことを何も分かっていないような気さえしてきて滅入り、私はとうとう書くのを止めた。
それからはぼんやりと自分の行く末を考えて過ごした。貧しい家族、愛すべき両親の老後、人付き合いの下手な妹、そして自身の来月からの生活。髪を靡く春風のように事態が果てへと急いでいくような気がした。しっかりお金を稼いで実家への送金をせずには帰る場所さえない。それでもどうしても再び就職する気にはなれなかった。再び人と関わり合って労働せねばならないことを思うと前の仕事のことが頭に浮かんできて恐ろしくなった。
白んでいたスニーカーの泥は気がつけば茶色くなって群青色に馴染んでいた。
私は立てた両膝を寄せて額を乗せ、目を瞑った。車が過ぎる音だけが耳の内部の壁で反響し、現代音楽の真っ暗な未来を思わせた。
もう何度思い悩んだか知れないこの先への不安がスニーカーの足先からゆっくりと上ってくるような気がして堪らない気持ちになった。小心の故、努めれば何とでもできるこの状況を甚大な問題として気を病み、幼少から慣れてきたはずの困窮にもここまでは知らぬと未知の惨苦に臆し、それでも働こうとしないこの脳みそと袂を連ねることができない自分の若き身体を思って、私は憂鬱になった。
立ち上がって広場を出ると駅とは逆のほうに歩道を進んだ。大きく迂回するため、適当な角で右に曲がって小道に入り、またしばらく進んで右折した。人通りの少ない道だった。
駐車場の入り口付近で缶コーヒーを買い、石段に腰を下ろして飲んだ。目前の排水溝の周りには秋色の枯葉が少しあった。木々の痩せ具合からみればこの何倍もの落ち葉があっておかしくなかった。触れれば脆く崩れゆく薄く乾いた枯葉も重なり合って塊となれば、その同情を禁じ得ない儚さを少しは緩和できようものの、きっと今朝方に近隣住人が清掃をしたのであろう、数えるほどしか落ちていなかった。
*
今朝早く、吐瀉物とそれに似た人が集まる渋谷の道玄坂の辺りには落ち葉とゴミが沢山あった。カラスが無尽にゴミを漁り街全体を飛び回る中、私は女と腕を組んで歩いていた。
朝のうちは清々しい秋晴れが街に陽を投げ、漫ろ寒い明け方の唯一の希望になった。遊び明かした若者が駅に向かって坂を下り、落ち葉を掻き集める初老の女が坂を上り、そのどちらにも陽が差した。スーツの上の最近着始めたばかりのコートを気にかけ、両手で前を重ねて寒さを避ける男盛りの会社員も、休日出勤の憂さを曙光に溶かして薄めた。
君と腕を組めるなんて光栄だよ、と私が言うと女はすぐに腕を解いた。私は快くなって女に微笑を見せて前を向いた。
「ねえ、時計はどうしたの? 鞄?」女は立ち止って不安そうに言った。
確かに私は昨晩していたはずの腕時計をしていなかった。立ち止って鞄の中を探したが見当たらなかった。
「戻ろ、きっとホテルよ」
そう言って来た道を引き返そうとする女を私は制止した。
「いいよ、大したものじゃない。それに君は時間が無いだろう、会社に遅れてしまうよ」
「そうね、日曜日なのに。じゃあ私は行くわ」
「いや、僕もいくよ、もう時計はいいんだ」
「そう」
女は笑った。晩秋の澄んだ空気の中、女のひどく荒れた肌に陽が差すと微笑みは一層美しさを増した。
「君とずっと一緒にいたい心の表れだよ」
「後で取りに行きなよ」女は私に先立って歩いた。
しかしなぜ女は私が時計をしていないことに気がついたのだろう。不思議に思いながら私は半蔵門線の改札まで見送った。
「今度があるのか知らないけれど、またね」
そう言うと女は長い髪を耳にかけ、颯爽と階段を下りていった。
そして私はJRの方に向かうふりをして時計を取りに道玄坂を上った。きっと最後の女だ、と思った。そしてその女につかった金額が頭を過って憂欝がすぐに戻ってきた。
私は中指と人差し指を鼻の下に当てて匂いを嗅いだ。
*
ふと今朝のことを思い出しながら落ち葉を手に取り、それを嗅ぐふりをして鼻に寄せ、もう一度中指と人指し指の匂いを嗅いだ。まだ私の脳の奥を絞り捻る力がその匂いには残っていた。枯葉の土臭い香ばしさと合わさって匂やかな女の荒れた肌が頭に浮かんだ。
ズボンのポケットで携帯が震えて電話の着信を知らせた。
「お前、そういえば背広着てきたか」
今まさに眠りから覚めたようなくぐもった声で電話口の矢前は言った。
「いや、全く」私はそう答えて自分の格好を見た。
「入れないの?」
「大丈夫だと思う。今はもう別にそういう風潮もないだろうし、チケットも安かったから。出口、A2bだよな、着いたけど」
数分後にA2bの出口に着き、辺りを見回したが矢前の姿はなかった。もう一度ぐるりと一周、ゆっくりと辺りを望んだ。
三十分ほど前にここに着いた時と、鉛色の空も車の量も向かいの広場の静寂も何ひとつとして変化はない。横を通り過ぎる老婆でさえ三十分前も同じように腰を屈めて過ぎていったように思える。深呼吸をしても寸分変わりない初冬の匂いが鼻を抜けて肺に落ちていく。鼓動の度にじわじわと血管から染み出す憂欝も変わりなく、まさにその憂欝こそが時間の不可逆性を私に再考させて無為な逡巡に導いていく。
この悪況はこの先も変わらない。想像し得る未来の全てに通じている。もう私は何も成し得ず、どこに向かうこともできない。矢前のように、才能と強い意志を持っていればこのような憂欝に悩むこともないのだろうが、私には最初から何もなかった。
横断歩道の向こうで信号待ちをする群衆の中にもう一人の私が立っている。卑しい微笑を浮かべて、何かを言っている。
「不憫に思われたいのだろう」確かにそう聞こえた。
いつからだろう、こうして自分に責められるようになったのは。物心がつく頃には目の前にいたような気がする。何かを嘆いたり、自分を慰めたりするときには決まって現れ、鼻で笑う。その度に私は自身に失望し、情けない思いをする。私はもちろん恵まれている。もっと過酷な人生を強いられる人はいるだろう。だからといってこの憂欝が憂鬱でないことにはならない。どうしようもない吐き気と頭痛に何年悩まされていることか。それなのになぜこうも私は彼に言い訳をし、許しを乞わなければならないのだろう。
信号が青に変わるともう一人の私は消え、代わりに矢前が現れた。群衆の中でも明らかに異様な、邪悪で恐ろしい圧力をもって迫ってくるその男こそ矢前である。
数年前まで坊主頭だった彼の髪は今は肩まで伸びている。それをジェルか、もしくは風呂に入らないことから生まれる油で後ろに撫でつけ、側頭部の毛は耳にかけている。黄ばんだ白いシャツに、サイズ違いの大きいグレーのスーツを着ている。タイは締めておらず、ベルトもしていない。靴はウイングチップの黒い革靴を模したゴム製の低廉そうなものを履いている。
私より二十センチほど背の低い彼は、そのスーツがいかにも大きいことを強調した。それでも近くまで来ると彼の見事なまでに整った顔立ちに、外見的な不格好さの全てを忘れさせる力があることを教えられた。奥まった彫りの深い目に鋭敏に尖った鼻筋、浅黒い肌はそれでも艶やかだった。
沈み込んだ目は炯々とし、懇篤も慈悲も感じられない冷酷さをもって私を見下していた。いや、私だけでなくこの世のほとんど全てを睥睨しているようだった。その悪魔的な眼光は七年前に彼の母親が亡くなってからさらに強まったように思う。私は彼の感情が窺い知れることのないその目を小学校に上がる以前の幼い頃から怖れていた。
「格好いいな、スーツ」と私は二の腕あたりの生地を掴みながら言った。それは冬物の素材だった。ああ、と言って彼は手に持ったアサヒの缶ビールを飲み乾した。そして目を細めて缶のゴミ箱を見つけ丁寧に捨てると、何も言わずに私の足元を見遣った。
我々はホールに向かって晴海通りを南下した。
バッハのコンサートだと矢前は言っていたが、詳しいことは何も聞いていなかった。また彼がクラシックに関心があることも知らなかった。
「バッハは好きなのか」と私は思わず質問した。
「ああ」矢前はひとつ咳払いをした。
前方から風が吹いても彼の固まった髪は靡かなかった。彼はポケットからチケットを二枚取り出して一枚を私に渡した。
「もともとは友達のカップルにプレゼントするつもりで二枚買ったんだが、今日は用事があるらしい。俺が酔った時に迷惑をかけたような記憶があるから」
やがて目の前に大きな橋が見えた。橋の横には屋根の付いた動く歩道もあった。この橋が何という名の橋で、何という川に架かっているのかは知らない。川は深くて暗い黒緑色をしていて汚らしさよりはむしろ底の無い恐怖を見る者に与えていた。それが陽の差さないさらに黒みを増した空のせいだとは断言できないが、台場で見た、空に溶けゆく海の美しさはここにはなかった。
台場に一緒に行った時のことを矢前に尋ねようかと思った。あの日二人で見た暗黒の空とビル群が象徴する社会と無垢な海、それらを雨が上から塗り潰して消していったあの美しさを矢前は覚えているのだろうか。
そのとき我々はビールを片手に持ち、煙草を吸って海を見ていた。砂がサンダルの中に入ってきて不快だったから私は下を向いてサンダルを脱ぎ、砂の感触を確かめた。矢前は黒いスニーカーを履いている。他にもう一人サンダルを履いた人の足が見える。
そうだ、女もそこにいた。
見知らぬ女は後ろに立って透明のビニール傘を我々の上に差していた。顔も格好も思い出せない。おおよその年齢さえ言えない。もしかしたら老婆かもしれないし、少女かもしれない。女は私の知り合いでもなく矢前の知り合いでもなかった。突然、女はそこにいたのだ。女はいつから近くにいて、そしてそれからいつ別れたのか。そんな遠い昔のことではないはずなのにどうしてこうも思い出せないのだろう。私は夢を見ていたのかもしれないと思った。そう思わせるだけの美しい風景があったから。
「川とかいいよなあ、川とかってなんか、いいよなあ」
矢前は橋の欄干に手をかけながら穏やかな口調で言った。
私はしばらく何も言わなかった。
第一生命ホールの前まで来て、開演にはまだ時間があるからということで川沿いにあるテラスで我々は煙草を吸った。
私がポケットから煙草を取りだすと矢前は驚いた。
「お前がエコー吸うとはな」そう言って矢前はマルボロを吸った。
川に沿った幅五メートルほどの歩道は綺麗に舗装され、カップルが歩くにも子連れの家族が歩くにも適していた。こんな曇天の中でも我々の横を多くの人が通った。中には我々の近くまで寄ってくる小学生に満たない幼子もいたが、母親がすぐに駆け寄ってきてそれを制し、すみません、と言って去った。
「きっとお前を見てお母さんは危ないと思ったんだよ。目も怖いしな」と私は言った。
風が強くなって前髪が私の視線を遮った。いくらか雨の匂いもそれに混じっている。雨と街の冷やかさを思うと寒さが増した。
「髪伸びたな。男前のフィリピン人みたいに見えるよ」
私がそう言うと、矢前は垂れた髪を耳にかけて笑った。
「でもお前がエコー吸うとはな」
時間が来たので建物の中に入り、入口でチケットと引き換えにパンフレットを受け取ってホールに入ると内部は予想以上に広く大きかった。人の入りも良く、後席はほとんど埋まっていて前席も左部か右部のどちらかしか空席が無いほどだった。我々は前席左部の左端に腰を下ろした。左端に矢前、一席空けて私が座った。
開演にはまだ時間があり、会場は人の声で騒々しかった。見れば旧友との再会を喜んでいるきらいがそこかしこであって、昔の仲間が偶然居合わせたか、それともこのコンサートを再会の場としているのか、とにかく今日の出会いに歓喜している団体が多く見受けられた。彼らの清潔感のある身綺麗な格好とは対照的に、端の席では薄汚れたマウンテンパーカを脱がずにいるような年を取った男らもいた。少女もいれば老漢もおり、ノイズミュージックのように雑然混淆としたこの会場に私はかえって安心した。
場内の喧騒に耳を澄まして舞台をぼんやり眺めていた私は、手に先ほどもらったパンフレットを持っていることを思い出した。しっかりと製本されたそのパンフレットを開くと、どうやら声楽がコンサートのメインでバッハの教会カンタータのうちの数曲を演奏するらしい。最初の見開きには指揮者と代表者の短い挨拶文が、その後にプログラムと演奏者の略歴と紹介、そしてそこから最後に渡って演奏曲の説明と歌詞の翻訳が書かれてある。
ドイツ語の歌詞の日本語訳は非常に分かりやすく書かれていた。ドイツ語の音やリズム、本来の意味内容、そういったものは解すに至らないが、翻訳でも私には、それも現在の私にとってはずいぶん慰めとなるものだった。例えばカンタータ第百八十番のレチタティーヴォでは「この世で価値があるとされているものは、つまらないガラクタに過ぎないのです」と歌われ、我々を慰撫し包み込んでくれる。願っても手に入らない長方形の紙の枚数に齷齪する我らが若き体を信心が浄化するのは本当なのだ。ブランドの虜となる善良な民よ、自分自身が資本主義の家畜(ブランド)そのものになることの醜さにそろそろ気づかなければならない時がきている。
主は何を見、何を見ないのか。病める心の庇護者たる方は我々の痛みを顧みてはくれない。貴様の導く先に例え光があったとて、その楽園が何であれ、私は何も望みはしないのに一体どこへ向かうというのか。束の間の苦しみが永遠の幸福に変わる時、私の憂欝は浮かばれるのか。憂鬱のすぐそばで勝ちえた優越や愛情や魂の鼓動はそれ無しに本来の感情として成立するのか。
頭に燃え盛る火に薪を焼べるように詩が入ってくるのが分かる。それと同時にその様をどこかから含み笑いを浮かべて蔑み見るもう一人の私がいる。それに気づくと薪は灰になり詩は記号となって果てる。きっとこの自分ともう一人の自分の図式的な関係は永遠に続いていくのであろう、それはもう永存する楽園よりももっと永く。
男性の声楽隊が舞台の下座から登場し、大きな拍手が起こった。いつの間にか会場は静まり返り、そして舞台だけに光が当てられて客席は暗くなっていた。女性の声楽隊がパートごとに続き、楽器演奏者が舞台の左右から疎らに配置につくと、さらに大きな拍手の中を指揮者が登場した。名のある指揮者らしく、濃紺のダブルのブレザーに金のボタンを光らせながら溢れんばかりの自信を表情にみせて客席に一礼した。長く伸びた白髪まじりの髪のうねりを艶の出る整髪剤で押さえつけ、よく肥えた俗体を揺らし、柔和な笑みを隠さないその様は、糸にかかった餌にゆるりと忍び寄る蜘蛛のようで卑しかった。
咳払いのひとつもない静寂の中、観客の息遣いさえ聞こえるほどの緊張が会場を覆う。
指揮者が穏やかに手を上げ演奏が始まった。
三十人以上いる声楽が指揮者を見つめて眉をしかめ、歌詞が書かれた冊子にちらと目をやりながら腹から声を出している。また楽器の演奏者は全部で十人程しかいないのに、それから出る音は拡張器か何かで大きくされたように力強い。各々が自らの役割を自信を持って全力で演じている。空気の振動の波が目視できるぐらいにはっきりと私や他の観客ひとりひとりに届いていく。
アルトの女性の中に美しい人がいた。肩下まで伸びた髪の一部を後ろで結い、前髪は右目のあたりで分けられて暗茶色が光沢をもっている。大きく口を開けて苦しそうに発声する時の頬は影になっていて、眉は垂れ、幼く見える目が何かを乞うように光に反射して潤んでいる。長身で、か細い体つきをし、皆と揃ったロングの黒いスカートに白いブラウスを着ている。そのブラウスから艶めかしい首が伸びて淑美に色めいている。
昨夜から一睡もしていない私は演奏が始まって早々に眠気を感じ、美しい女を注視することでなんとか持ちこたえようとしていた。エネルギーに満ちた彼女とは対照的に私からは精力が抜けていき、足の裏の感覚が弱まってくる。スニーカーを脱いで足を冷やしても瞼は重みを増していく。目の前ではなお美しい女が悲壮な目元を震わせている。
この人が最後の女だったらどうだったか……
*
昨晩のこと、憂さは時間を追うごとに重みを増していき、ついには耐え切れなくなって私は寝床から出て数少ない友人に声をかけた。その友人たちというのも気の置けない仲というわけではなく、しばらくぶりに連絡をしたのであるが、土曜の夜だというのに四人ほどが快く集まってくれることになった。現在の家を引き払う時に荷物を実家に送る代金と家を失ってから数週間は漫画喫茶などで夜露を凌げるだけの代金を差し引いてもまだ今日友人たちと酒を酌み交わすだけの金はあった。しかし孤独をこうして一時的にでも和らげることができるのも今日が最後だろう。
私は一週間ぶりに風呂に入り、慌てて服を着て渋谷の街に出掛けた。
友人たちは大学生の頃と何も変わっておらず、穏やかでいて私は安心した。一人は不動産関係に勤務し、二人は広告関係に、もう一人はカメラマンを目指すべく外苑前のスタジオに勤めている。彼らの仕事の内容や愚痴、小さな達成感など、社会人一年目らしい思いを聞いている間、私は自分が心から楽しんでいることを感じた。上司にこういう風に評価された、取引先に気に入られた、社内の別の部署からスカウトされている、残業代がつけられない、次から次に出てくる話題に共感できなくとも彼らの真剣な話しぶりや高揚感に私は満足した。直向きに何かに取り組めることはきっと本当に幸せなことなのだ。
そして一通り彼らの近況を聞くと、カメラマン見習いが私に、お前仕事辞めたらしいな、どうすんの、と言った。私は五杯目のビールを空にして、わざとらしい驚きを顔に出し、え、まあ、うーん、などと的を射ない返事をした。他の者が、え、辞めたの、と笑い、カメラマン見習いがどこで聞いたか私の事情を彼らに話した。彼らは嬉しそうに私と彼を交互に見、悪意のない相槌を打った。カメラマンは私の気を害さないよう時々ユーモアを交えて雄弁に話した。それは要点を外さず、事実からそう遠くはない具体性をもっていた。目を輝かせてそれを聞いた残りの三人は皮肉を交えずに私を讃え、相変わらずで安心したよ、と言った。私は運ばれてきた安い日本酒の熱燗を早口に飲みながら、この若さを仕事に奪われてたんじゃ惜しいからね、と言ってトイレに立った。自分の言葉がトイレまでの通路で反芻されて、だから友達なんかできやしないんだと悲しくなった。
用もないのに便座に腰かけ、回り始めたアルコールが急激に醒めていくのを感じて私は女に電話をかけた。誰でも良かったのだが、どうせなら、と四年間も恋慕の情が冷めなかった憎たらしい女を選んだ。他の仕様の無い数人の男に熱を上げてきたその女は、こちらからの連絡に応えたことはないのだが、今日はツーコールで電話に出た。聞けば代官山で会社の先輩数人と食事をしていたらしく、もう解散するので少しなら会ってもいい、とのことだった。0時に宮益坂の辺りで落ち合うことにして電話を切った。
席に戻り、彼らの大丈夫か、などの心配をあしらって四千円を机の上に置いた。先に帰ることを詫びて、もう会うことのないだろう友人に最後の笑みを投げ、店を出た。
外は冷たい風が吹いて大層寒かった。雨が当たったかと思い、センター街の街灯に目を向けたが気のせいだった。酔った覚束ない足を引いて駅に急ぐ若者に紛れて私も急いだ。土曜の夜の喧騒に気が確かになって宮益坂のビックカメラの前で女を待った。
0時を少し過ぎた頃に女は現れた。学生の頃よりずいぶん髪が伸びていた。それなりに細い体にやや丸い顔が覗くのは前と変わりないが、顔の肌の荒れ具合が極端にひどく、私は驚いた。
「あはは、あなた浮浪者みたいだね」と笑う女の顔は明らかに疲れが出ていた。
一杯ぐらい飲んで帰ろうと私が言うと、もうずいぶん飲んだし、明日も会社だから、と女は言った。じゃあコーヒーでも、と言ったそばから私は、ホテルでぐっすり寝るのはどうだと言った。
もともと私たちに深い男女の間柄はなく、ただ四年間私の恋心を相手に伝え続けただけであって、またこの時の私は憂さによる放心忘我の阿呆面のまま、相手の軽口に笑みさえ返せない状態だったこともあってか、女は了解した。
「でも何もしないよ。朝も六時半にはここを出なきゃいけないし。それでもいい?」
「ああ、何だって、大丈夫だよ」
小雨が降っているような気がしたがそれも勘違いだった。私たちはコンビニに寄ってビールを半ダースとお茶と煙草を買い、女が携帯の充電器もほしいと言ったからそれも買ってやり、道玄坂のホテルへと向かった。どこでもいい、と女は言ったが私はどうせならきれいなところがいいだろうと思って、一帯の中でも料金の高いところを選んだ。
先に料金を払い、お金を出す素振りをする女を無視してエレベーターで五階へ向かう時、さっきのコンビニでの買い物を含めて二万円ほど使ったことを思った。その前の酒代の四千円を加えれば二万四千円だ。今日家を出る前にした計算に従うと、もうこれでは退去するときに荷物を実家に送る代金さえ残っていない。そういうことに対して無頼に振る舞えたなら良かったのだが、そういう本質は自身でどうにかできることではなく、落ち込んで押し黙る以外に迫りくる憂欝に相対することはできなかった。
私はお金もこの女もどうだっていいからもう家に帰ってベッドに突っ伏したいと思った。まだ今なら心地の良い寝床があるのだから。
女の会社の忙しさについて空で聞いて、それが私を形式的に褒めそやすような話に繋がってもまだ全うな返事もできずに相手の気遣いを無下にした。
そうして部屋に入るとその明るい装飾と卑しいイメージに今日溜め込んだ分の憂欝が腹底から込み上がってきて私はトイレに行って吐いた。トイレの外から女が、大丈夫? と言った。ああ、と私は答えて、指を喉の奥に刺してもう一度吐いた。
私たちは大きいソファーの両端の左右ぎりぎりのところに座って、テレビを見た。私の体調を思ってか、女はそれからしばらく何も言わなかった。テレビでは見たこともないクイズ番組が流れ、いち視聴者が答えられるはずのない難しい問題が出されていた。USBの正式名称さえ分からなかった。その中で唯一答えられる問題が出た。出題者が、ゴーギャンの最晩年の傑作で、タヒチでの生活云々…と読み上げる中、私は大声で、我々はどこで、ああ、どこから来たのか、そして我々は、ああ…、と言った。するとテレビの中の京都大学の学生が「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」と詰まることなく述べた。女は笑った。
その後は答えられる問題は何ひとつ出ず、結局、ゴーギャンの問題を答えた京大の学生が優勝して番組が終わった。
私は二本目のビールを飲んで煙草を吸った。女は最近発売されたクールの新しい細い煙草を吸っていた。
テレビでは次の番組が始まっていた。流行りの商品を紹介するような番組だった。その中でロボットのプラモデルが紹介された時、女は大きな声を出した。
最大手のおもちゃメーカーに勤めるこの女は丁度その商品を扱う部署で働いているらしいのだが、この番組で取り上げられることを知らなかった。これはね、と嬉しそうに話す女は活き活きとしていた。
しかしその商品に関して話し終わると女の顔色が急変した。
「もう、限界なの」
女は話しながら泣いた。
女の所属する部署は八年間も女性がいなかった。社内の営業の中でも最も数字を出している部署で、男性原理の頑健なその体制は肉体的にも精神的にも社員を追いつめた。過去にいた女性も三年ともたずに別の部署に異動していった。朝七時半に出勤し、深夜0時に帰ることができれば良いほうで、遅い時は深夜二時まで勤務した後、食事に連れていかれる。残業代も暗黙の規定で一日二時間しかつけることができず、休日も月に四日あれば良い方だという。
「でもね、それはいいの、別に。働くのは好きだし、お金もある程度はもらえてるから。でも営業でしょ、女っていうのはある意味つかえるのよ、だから上司にもいろいろ連れていかれるの。それで結果も出てるのよ、結構」
女は思い出したように細い煙草を手に取った。そして鼻を啜った。
「でもそうやって女としての仕事もすごく多いんだけど、そうじゃないところもあるわけ。雑務も力仕事も部署の人数じゃやり切れないほどあって。それで私も別に女として扱ってもらいたいわけじゃないから出来る限りのことはやるのよ。でもそうすると、それが当たり前になって、女だからって甘えるな、みたいなことになってくわけ」
事の詳細までは分からないし、私にはちゃんとした企業で勤めた経験がない分イメージもぼんやりしていたが、女の口調をみていて、さぞ大変なんだろうと思った。きっと私の想像よりもずっと厳しい環境で働いているのだろう。私は神妙な面持ちで相槌を打つのを忘れなかった。三本目のビールを冷蔵庫に取りに行くことさえ遠慮した。
女は黙った。垂れた髪を右手で鼻の近くまで寄せて嗅いだ。膝を立ててソファーの上に足を乗せ、私の方を向いた。そして荒れた肌を隠すように俯いて両手で髪を前方に梳いた。
私も黙ったまま女を見つめた。横目でテレビを見ると、少し前に映画館で上映されていたアメリカのSF映画が流れていた。その映画に日本人の俳優も出ていることから、日本も宣伝に力を入れていたことを思い出した。ついこの間まで劇場公開していたのにもうテレビで放送されているんだなと思った。
「ねえ、あなたって、将来の目標とかってあるの。将来というか長期的な目標というか」
ストッキングに覆われた自分の足を触りながら女は俯いたままの姿勢で言った。私はテレビの方を見た。画面には何か考えているような面持ちをしながら、昔、船の帆先で女を後ろから抱きしめていた俳優がいた。彼は今、画面の中で独楽を回している。
私は考えた。まず彼女の質問意図、それは本当に小生の夢なり願いなりを聞きたいのか。我が愚行の所以を確かめて自身の将来設計に役立てようと思ったのか。それとも見聞きしたこの愚款の様を自分の島に帰って明日にでも笑い草にしたいのか。きっとそうではない。女は私が話した後に自分自身の将来の目標を私に言って聞かせたいのである。同期に比べて苦労の多い自分がここまで落ち込み疲れた、それを慰めるべく先の不確定な幸せを誰かに言って自身を斟酌したいのだ。
それはそうとしても、私は答えに困った。ない、と答えるのはあまり簡便で面白くない。しかし現実的な自分の末路を想起することはあっても、今後何がしたい、どうなりたい、ということまで頭が回っていなかった。だから今までの自分が少しでも心に描いた未来を思い出してみた。やがてふと、小説家、という言葉が浮かんできて私は思わず吹き出した。あの腑抜けた文章を読んでくれる聖者はどこにいよう。
「僕はね、君と結婚したいよ。本当にそれ以外には何だって思いつかない。君は何かあるのかい、そういった夢みたいなものは」
「まあかわいらしい」
女は冷たく私を見た。そしてすぐにテレビの方を見遣った。
「今日ね、会社の先輩に聞かれたの、十年目かな、その人は。お前は最終的に何をやりたいのかって。採用試験以来だった、そんなの。それで私は考えた、そして正直に答えたわ。結婚して子供を産みたいって」
女は未だ着ていた上着を脱いだ。橙色の電灯のせいで赤く見える女の腕を見て、私は自分の手と見比べた。私の手と指先は格段に美しかった。
「女性らしい、良い答えじゃないか」
「即近の目標ならいくらでもあるのよ。問屋をいくつか私一人で受け持ちたいし、集客の見込めない子供向けのイベントでも必ず目に見えるような成果を上げてみせるから私にある程度任せてもらえるようになりたいし。でも最終的に、なんて今は何にも分からないじゃない、想像だってできないわ。何、私は社長になりたいとでも言えばよかったわけ?」女は嫌らしい安っぽい目をしていた。
「結局、『それなら会社辞めろ、それが最終的な目標なら今してることはなんの意味もねえだろ。婚活でもしろよ、ははは』だって」
「へえ、面白いね。安直というか、なんだろ、趣味の悪い冗談が好きなのかな、その人は」私は笑った。
「冗談じゃないのよ、ちょっと面倒臭い人なの」と言って女も笑った。
「まあ体育会系の部署だからそういう目標みたいなのが好きなのよ。私もね、いつものように、はいはいって笑って聞いていれば良かったんだけど、今日はどうしても耐えられなくてさ、言い返しちゃったの。結構熱弁を揮ったわ。最後に、考え方の違いでしかないと思いますが、って言うと相手もそうだな、って。そういうところはかわいいの」
女はきっとこの先何年もこの会社に勤めるのだろう。そしてその中で巡り合った器量に富んだ男と結婚して子供を産むのだろう。それからの生活を想像して私は羨ましくなった。
私は溜息をひとつ吐いて立ち上がり、伸びをして、風呂に入ってくるよ、と言った。
「先に君が入るかい」
「ううん、私は入らなくていいや。明日朝自分の家で入るから」
私は二度頷いた。きっと化粧も落とさないのだろう。肌の荒れ様を隠そうとする虚飾はなんともその肌以上に汚らしかった。
風呂を出ると映画は終末に向かっているようだった。二つの団体が雪山で争い、銃撃や爆発が当たり前のように起こっていた。
「この映画面白いの?」と携帯電話を触りながら女が言った。
「ああ、面白いよ」と私は適当に答えた。
女のビールが空いたので私は立ち上がって、もう一本勧めたが女は断った。それで三本目の自分のビールを冷蔵庫から取って飲んだ。
「私は同類だと思っているのよ、あなたのこと」と女は出し抜けに言った。私は思わずはにかんで、ありがとう、と言った。
「本当よ。大企業の内定を蹴ってこうして今ホームレス目前の状況をまわりからかわいそうに思われて、それでもそんな自分がかわいいという思いもあれば、新卒の権利が消えた二十三歳という年を相対的に見て将来に不安を覚えたり。私やあなたの苦労なんて止めようと思えばいつだって止められるのにね。尊敬するわ」
こういった女の気遣いを私は好きでも嫌いでもなかった。そもそもこれはいったい誰のための気遣いなのだろうか。
「レベルが違うよ。第一、君は器用だし、僕は全く真面目だ、出発点がそもそも違うんだ。うまく言えないけどさ」
女は目を細めて悲しそうな顔をした。そしてすぐ、口角を上げて冷たく笑った。
*
大きな拍手があって、場内は明るくなった。
指揮者が深々と客席に一礼して下手に退く。登場とは反対の順序で演奏者が左右に散り、続いて声楽隊が女性から先に左に消える。舞台の右上の壁面を見れば、休憩二十分という表示がある。なるほど明るくなった理由がはっきりした。
矢前は席を立った。トイレにでも行くのだろう。
束の間の睡眠で私は明らかに元気になった。たちまちに会場の喧騒が公演前よりも大きくなった。がやりがやりと聞こえてくる。そして私はコンサートよりこの雑多な騒がしさを聞きに来たのだなあと思って堪え切れない笑いに顔を歪めた。がやりがやりと、可笑しかった。
暇を欠くため、私は客席をじっくりと見回し、飽くと再び冊子を開いて歌詞を読んだ。その私を含む全てが公演前と変わりなかった。冊子に書かれた歌詞も当たり前のことだが、全く変わらずに、優しい言葉を投げかけた。意味はひとつも分からない気がしたが、私は幸せだった。
ぼんやりと安心を噛んでいると、二十分が過ぎ、ブザーとともに場内が暗くなった。
そのうち男性声楽隊が入場し拍手が起こった。そして先と同様の順序で他の者が入場した。それまでと違うのは二つ隣に矢前がいないことだった。彼はまだ帰ってきていなかった。
カンタータの四十五番が始まった。うつらうつら聞いていたために、先ほどの曲との違いを感じられなかったが、出だしの部分は先の曲のほうがよかったような気がする。
声楽が一区切りついて、バイオリンの音に耳を澄ましていると、その美しい女がおもむろに前方へと歩いて進み、指揮者と向かい合った。そして彼女のソロパートが始まった。
彼女は一段と苦しそうに眉間を寄せて声を出した。彼女の肌が荒れてきたような気がして私はまた夢と現を彷徨った。眠りに落ちる瞬間、女が笑って私の家から去る映像が浮かんだ。ずっと昔のことだった。女は後ろ手でゆっくりとドアを閉めた。ココナッツの甘い匂いと忘れていったピアスが私の部屋に残った。
*
女はベッドに俯せになって携帯を見ている。女の頭の上には室内の明かりや温度を調整するボタンのついたパネルが緑色に光っている。私はソファーに座ってテレビと女とを交互に見ている。時間がゆっくりと進んでいく。女は何も話さず、こちらを向きもしない。部屋には映画の音声だけが響いている。
目の前のテーブルが振動して携帯の着信を知らせた。矢前からだった。
「明日の演奏、十四時四十五分開場十五時開演なんだが、駅からそこまでどれぐらいかかるかも分からない」
私は笑って立ち上がった。女がちらとこちらを見た。何だそれ、と言いながら私は洗面所へ移動した。
「場所は第一生命ホールってとこ」
「最寄りはどこ? 道は調べておくよ」
「ああ、確か、ん、ああ、勝どき、だったけな、そんな感じ」
「わかった、じゃあ調べてメールする」
「あ、何時頃待ち合わせるかとか」
「それも調べるから。お前が松戸からどの電車乗ればいいかとかまでメールするよ」
そう私が言うと、矢前は鼻で笑った。ぷすっと美味そうに煙草を吸う音が洩れた。そういえば彼は特に美味そうに煙草を吸う。私は煙草を取りに部屋に戻った。
「じゃあ、そこにいるクソ女にもよろしくな」
矢前の嘲笑が心地よかった。
「はは、よくわかったな。後でメールするよ」そう言って私は電話を切った。
矢前に触発されて吸った煙草は美味くなかった。明らかに吸い過ぎているのが分かる灰皿の吸殻を見、今日吸った本数をおおよそ数えてみてまたぬるりと胃の中のものが逆流してくるのを感じた。目を瞑って唾液を呑み込み、ビールを一気に空にした。そして、そろそろ寝ようか、と女に言った。女は、うん、と言って布団に潜り込んだ。
「服も着替えなくていいのかい」
「うん、ちょっと寝て帰るだけだから」
「まあでも歯磨きぐらいはしてから寝よう」
洗面所の鏡に向かって二人並んで歯を磨いた。たまに目が合って笑ってしまうようなこの風景が一般的な幸福というものに最も近いのではないかと私は思った。
私たちは吸いたくもない煙草を最後に吸ってベッドに入った。電気を消しても頭上のパネルだけは緑色に光って、気味悪く天井を照らしていた。しばらくして私は横目で女を見たが、女は目を大きく開けたまま天井を見ていた。だから私もそうした。
私は電車でのうたた寝などを除けば誰かが横にいる時に眠れたことがない。それが男であれ女であれ、何に対するものか分からない緊張が私の睡眠を彼方の月まで追いやるのだ。幼少の頃から眠るのが嫌いだったから、多分睡眠のほうが私を避けるようになったのだろう。今日も眠ることはできない。女の寝息が聞こえればすぐにトイレに籠って本でも読もう、そう思っていた。
すると女は体をすり寄せてきた。そして私の左の肩の上に頭を乗せた。生温かい吐息が首を撫で、鼻から洩れる呼吸のリズムが私の全身に伝わった。急に上体を起こした女は私の左腕を取って自分の枕にし、満足そうに小さく笑って、私の首筋に音を立てて口付けた。
そのまましばらくすると女は眠った。すうすうと愛らしい息をして、時々体をびくんと震わせながら夢を見ていた。
私は休まった。久しぶりに休息を得たような気がした。
できることなら私もこのまま眠ってしまいたかった。夢の中で過去の悪行や裏切りの数々を懺悔したかった。が、三十分を過ぎても一向に眠りの気配は感じられず、ついに私は起きて本を読むことにした。
女の目を覚まさぬように上体を起こし首の下からゆっくりと腕を引いて抜いていく。首下を腕が通過し、手首が通過しようとするところで女ははっきりと目を開けた。私は微笑んで、ごめんと謝った。女は私の首に手を回し、唇を求めた。その厚く芳醇な唇が私の乾燥した下唇をゆっくりと吸った。
しばらく私たちは互いの唇の感触を確かめた。青虫のように柔らかい表面をした唇を、潰して殺さないように丁寧に吸っては舐めた。
女は唇を離し、私の顔を一瞥して、再び私の左肩に頭を乗せた。
「ちょっと寝ちゃってた」
そう言うと女は左手を私の体に這わせて私の陽物に触れた。
「ねえ、なんで反応しないの?」と女は鋭い目で私を見た。
「しないって約束したからだよ」
「そうよ、絶対しない」
そう言うと女は私の陽物を愛撫した。
最初興奮の外にいたそれもみるみると恥ずかしげもなく膨らんだ。ふふ、と嫌らしく笑って女は手を離し、こちらに背を向けた。
私は立ち上がってテーブルの上の本を取りにいこうとしたが、女は芝居がかった声で、後ろから抱きしめて、と言った。私は言う通りにした。
女の柔らかな髪は二年前と同じ匂いがした。ココナッツのようなしつこい甘さと、シャンプーらしい爽やかさが入り混じっていて、私の思い出を駆け回った。その時も丁度今のような、程度の軽い慰め合いをこの女と演じていたが、突然他の男から電話で呼ばれて女は私の家を去った。部屋にはココナッツの匂いと女のピアスだけが残った。
私の鼻息が耳に触れる度、女は過剰に反応して、小さく声を洩らす。私はその耳を舌で撫でる。女の喘ぎは大きくなる。時間をかけて丹念に耳から首筋に舌を這わせては吸う。女が顔をこちらに向けたとき、私たちは慎みの無い陋劣な口付けをした。その口付けが逆側の耳に移る時、私は右手で女の胸に触れた。そしてそのままスカートの中に手が及んだ時、女はそれを防いだ。
私は女の顔を見た。緑の光に影を落とした無表情がある。
女の制止を振り切って陰部に手を伸べた。
甲高い喘ぎがみるみる大きくなる。ストッキングと下着が引っ掛かって私の腕がだるくなってくる。脱がしていいかと聞くと、膝までなら、と言う。自由になった右手は勢いを増す。
陰部が液体に満ち、そして膣内に少しの空間ができた時、その液体は大量に外に溢れだして寝具を湿らせた。
女は初めてのことに驚いた。そして私もある意味驚いた。
この女の液体は異様に甘い匂いを放つ。汁粉のようであり、ココナッツのようでもあり、それでいてイメージと切り離してもただそれだけで完全に官能的だった。
私は指を鼻に近づけて匂いを嗅いだ。女は必死にそれを止めようとする。私はそれでも匂い続けて、しまいには感覚が疲れた。脳の一部がぐっと絞られるような気がした。
「このままの状態で、脱がなくていいならしてもいいよ」と女は私を嘲た。
ストッキングと下着で足を開くことができないのは見れば分かる。それでも構わない、と私は言ったが、陽物は戦意を失い、萎えきっていた。
「何? それ私の役目なの?」女は不機嫌そうにみせて言い、陽物を握った。
避妊具はつけたほうがいいか聞くと、どっちでもいいと答えるので私は避妊具をつけた。
挿入する際になって女は、パネルの電気も消して、と言った。私は女に覆い被さるような体勢になって緑色の電気を消した。
部屋の中には一縷の光もなく、そこには何もなかった。目が慣れても何も浮かんでくることのない暗さだった。手探りで女の陰部を確かめて事に及んだ。
何も見えない暗闇のどこかで女が、うんうんと言う。私の腹部に女の膝所のストッキングが一定の調子で当たる。それのせいで体位を変えるのが億劫になり何分もそのまま運動を続ける。
暗闇のせいだと思うのだが、私の運動はもはや運動そのものになった。この女が一人の人間であることを忘れていった。
膣の締め付けも段々と緩くなって感触が薄れていく。汗が額や蟀谷から流れて女の服の上に滴る。きっと高価な服なのだろう。
「気持ち良くないでしょ」喘ぎながら女は冷静な声を保とうとして言った。
「ねえ、気持ち良くないんでしょって」
「いや、そんなことはない」
その後も女は同じようなことを何度も言った。
いけないんでしょ、いつもはこんなことないんでしょ。
私は暗闇とどこぞから聞こえるその声に脅迫されて意地になって運動を続ける。拭っても拭っても汗が噴き出して目に入ってくる。腰と開いた股関節が軋んで痛む。太腿から膝にかけての筋が重みを増していく。
私は目を閉じて暗闇を暗闇で防ぎ、この女の顔や仕草を思い出そうとした。
初めて会った日の夕陽、大学の裏道、夕陽に良く似た色のかわいいワンピース、肩上のショートボブヘアー、赤黄色に反射する綺麗な頬、今の荒れた肌からは想像できないきめ細やかなその頬、女は笑っている。私の部屋、ビールを飲む女、外したピアス、ベッドで向かい合った時の潤んだ目、後悔の色を隠さないその淫らな目、電話の音、家のドアを後ろ手で閉めて女は去った。
つやつや光る口元、控えた小さな鼻、少し垂れた大きな目、柔らかい耳に弾力ある肌、その全部がつながって顔が完成されていく。
「何か言って」突然女は弱々しい声で言った。
女の顔は瞼の裏で瓦解した。
目を開けると再び暗闇が訪れた。思考は止まり、暗闇と陽物の前後運動だけが部屋に残った。
「ねえ、何か喋ってよ」女の声は哀しみを帯びる。
私は肩で息をしている。汗は止まることを知らない。
「ねえお願い、何か言ってよ」
女はいよいよ泣き出した。
嗚咽と喘ぎの中、何度も、お願い、と言った。私は何も言葉が出てこないことに驚いた。何ひとつとして喉から音が洩れてこない。
理由は知らないが、このどこにでもいそうな女は、卑しくも私の言動を司る着想を与えていた。私の書く文章は全て女か矢前に宛てられたものだった。そしてこれからもそうなのだと思っていた。しかしこの一回の運動で、たった一回の卑小な運動でその着想が失われていく。こうして私は小さくも誇り高い所業の源を忘失していく。私が彼女にしてやれることなど最初から何もなかったのだ。
そのうちに陽物が力を失くしていくことを感じた。私は焦って息を呑んだ。それは女のベソよりも大きく響いた。筋力の限界がみえている中でも前後運動を止めるわけにはいかなかった。
呼吸が乱れて息苦しい。私は全神経を自分の陽物に集中した。
悲鳴を上げる筋肉と嗚咽を漏らす女。
「なんでなんにも言ってくれないの」と女が言ったとき、私は果てた。
そのままの状態で、陽物が萎え果てても私は動くことができなかった。
息が弾んでいつもの呼吸ができない中、私は女の顔に触れた。涙か私の汗か分からない水滴が女の顔に広がっていた。
私は女の上に俯せた。女の膝が私の脇腹を締めつけた。
「ごめんね」と女は言った。
「ごめん。もう二度としないよ」と私は息絶え絶えに言った。
パネルの電気をつけ、女は洗面所に行ってからすぐに布団に入った。私も避妊具を外して横になった。女はこちらに背を向けた。
数分もすると女の寝息が聞こえてきた。仕事が忙しく睡眠もなかなか取れないで余程疲れていたのだろう、悪いことをした、と思った。
胃腸を逆流しようと汚物が動き回って気分が悪く、いよいよ頭痛がひどくなった。私は女を起こさぬよう立ち上がって煙草と灰皿、お茶と本を持ってトイレに入った。可能な限り胃の中のものを吐き戻し、洗面所で嗽をしてから戻って便座に腰を下ろした。全身が気だるく重かったが目を瞑っても眠れそうにはなかった。コーヒーが飲みたくなったが、部屋に行って女を起こしてしまうのも気が引けた。諦めてお茶を飲み、本を読むことにした。午前四時、一時間半もすれば女は起きる。その時にコーヒーを飲もう。
便座の上に足を上げ、何度目か知れないゾラの『制作』を読んだ。二年前に矢前から借りてそのままにしている。膝が震えるところの描写など、かわいらしくユーモラスなところがあってそこにたどり着くのを楽しみに読む。主人公の画家クロードを、ひいてはその元になったセザンヌを矢前に重ねて読み進める癖がついた。デカダンの矢前はゴッホのほうがそぐわしく思えるがこの小説においてはクロードに似つかわしいところがある。そして僭越ながら小説家サンドーズを、ひいてはゾラ本人を私に重ねて読む。サンドーズがクロードに与える愛情を、そしてまたゾラがセザンヌに宛てた皮肉から洩れる侮蔑込めた親しみを、私は矢前に対して抱いている。憎らしい程の親愛の情をもって彼を見、芸術の師として彼を仰いだ。人間らしい生活を放棄した破滅的な矢前の生活をどうにかしてやりたいと心より願う積年の思いが溢れて私の目頭が熱くなった。
三歳で初めてできた友達だった。同じマンションの二つ隣に住んでいた。彼は高校生の時に母親を亡くし、それからは芸術に没頭してそれ以外のものを捨てた。高校を卒業すると美大に進学しろというまわりの勧めを断り、裸一貫で上京した。東京で家もない状態で流浪しながらなんとかアルバイトを見つけて家を借り貧乏な生活を今まで続けている。その金銭的に苦しい中でも彼は独学で美術史や絵画手法を研究し、それを表現に活かした。
彼は昔から、そして今でも援助を乞わない。家族や友人と会うことさえなく、どれほどの貧困状態が続いても誰にも助けを求めない。私とは会うというのが不思議なくらい彼は芸術以外のほとんど全てを拒絶した。
私は彼を救わねばならない。彼の圧倒的な才覚から生まれる作品を明るみに出さねばならない。それが使命のように感ぜられる。それなのにどうだ、私は無職でいてもうすぐ家を失う。もしかしたら矢前の家の世話になるかもしれない。実力と努力を棚に上げて小説の中の小説家に自分を重ねて現を抜かし、差し伸べなければならない手を、逆に差し伸べられているではないか。
恥ずかしく、苛立った気持ちが水に垂らした墨汁のように全身に広がってきた。本の内容もろくに頭に入ってこなかった。私は諦めて煙草に火をつけた。
鼻の前まで近づいた中指と人差し指から女のあの甘い匂いがして、私の熱は急に冷めていった。甘ったるくて嗅ぎ続けると気分が悪くなるような匂いだった。私は煙草を吸うのも忘れてその匂いを嗅いだ。煙草の灰が長くなって床に落ちた。
気がつけば時が進み、女を起こさねばならない時間になった。
トイレから外に出ると部屋中に女の膣液の甘い匂いが広がっていた。
私は女に近づき、ゆっくりと布団に入った。女はそれに気づいて眠そうな目を細く開け、ううん、と言って私の唇を吸った。
もう五時半だと言うと女は枕元の携帯を確かめて、もう少し寝ると言ってそのまま目を閉じた。しばらく私はその寝顔を見た。内に巻いた髪のせいで気づかなかったが女の顔の輪郭は特徴的だった。影で演出する写実的な肖像画の顔と違って細い線ではっきりとした輪郭が顎から首まで描かれているように見えた。どこまでがその荒れた顔なのか強調するような輪郭線だった。
私は再び眠り始めた女の鼻の下に指を近づけたが、女は反応しなかった。柔らかい髪に指を通しても寝息は続いた。
暗い部屋を少し明るくして矢前にメールを打った。そしてコーヒーを飲みたかったことを思い出し、冷蔵庫近くの棚を調べるとカフェオレしかなかったのでそれをつくった。
女がゆっくりと起きてきて目を擦りながらソファーに座った。出来たばかりのカフェオレを女の前に置いて、カフェオレ淹れたよ、と言った。
「ありがとう。やさしいね」
女は化粧の取れかかった薄い目尻を優しく下げた。
時間は六時を回り、女は化粧を直した。女が飲む前に私はカフェオレを飲んだ。水道水の味がした。
女は手鏡を見て化粧を直しながら、私の今日の予定を尋ねた。それに答えると矢前のことを聞きたがったので私は長々と話した。
女は手鏡をぽんと閉じ、そう、と笑って帰りの支度をした。私も冷蔵庫の余ったビールを鞄につめて、そして無意識に時計を忘れて玄関に向かった。
女は最後に私の腕を掴んで引き寄せ、キスをした。
女は結局カフェオレを一口も飲まなかった。
*
誰かが肩を叩いた。鳴り響く声楽が恐ろしくはっきり聞こえてきて私は目を開けた。
「出よう」
そう言うと矢前は演奏中にもかかわらず近くの左側の扉から外に出た。いつの間に彼は戻ってきていたのだろう。
私は目を擦りながら数分間席に座ったままでいた。やっと眠気から覚めてきたところで立ち上がり、最後にアルトの美しい女を見遣った。私が直立したままじっとしていたせいか、美しい女は横目でこちらを見た。私は出来る限りの感謝を込めて彼女に微笑み、会場を出た。
最初に入った扉の前に着くと矢前がパンフレットを読んでいた。入り口の横のスピーカーから中の演奏が聞こえてきた。そばに立っていた五十歳ぐらいの女が、チケットの半券をお持ちでしたら再入場できますので、とわざわざ言いに来た。私が、ありがとうございます、と言うと、彼女は優しく微笑み、元の場所に戻った。矢前はその女性をしばらく見続けていた。
外は一段と寒くなっていた。風が強く吹いていよいよ冬を感じさせた。ほんの微弱ながら雨も風に混じって頬に触れた。見上げれば街灯の光が霧雨に反射してぼやけていた。台場の雨よりももっと細かい雨だった。十七時を過ぎて、どこにあったか知れない太陽が見えないところから見えないところへ消えていった。
私たちはテラスで煙草を吸った。ビールを持っていることを思い出して、いるか? と聞くと矢前は受け取った。もう一本取り出して私も飲んだ。喉が渇いていたので美味かった。ぬるいビールも体内では熱を奪い、風が吹く度に体が震えた。矢前は何ともないのか、ぼんやり川を眺めていた。その冷え切った目元は諦めにも似たある種の救われない絶望を内に含んでいた。
絵を描いても誰に見せるでもなく、また賞などに応募するわけでもなく、彼はただ芸術の中に真理を求めた。東京に来たわけも、同じ思いを持つ人を探して議論を交わし、その中で本来的な芸術の意義を見つめたかったからだった。しかしその同志は見つからず孤独の中を彼は突き進んだ。その目は色濃く彼の苦悩を映していた。
「声楽の中に一人若くてきれいな人がいたよな」と私は言った。
彼は黒くなっていく川を眺めながら、知らない、と言った。もう川沿いの歩道には家族連れも仲の良さそうな男女もいなかった。
我々は煙草を二本吸い終わるとやがてあてもなく歩いた。
会話もないままに大通りを渡り、小道に入ったり出たりした。そのうちに空は完全に黒く塗り潰されて夜になった。埋立地が都市化する速度と今日の陽の落ちる速度を思って駟が隙を過ぐるようだと感じながら、一方即座には快方に向かわない私の悪況を思って仕方なく笑った。
三十分ほど歩いた頃、急に雨は強くなった。私たちはシャッターの閉まった店の軒下に入り、腰を下ろした。雨の音を聞いていると、幼い頃、豪雨の中を傘も差さずに矢前と二人で遊び回ったことを思い出した。まだ自転車の補助輪が外れたばかりの時分で、私は赤色の、矢前は黄色の自転車に乗っていた。形は全く同じもので多分親同士が合わせて同じものを買い与えたのだろう。豪雨に気づいた私たちはひっそりと家を抜け出しマンションの前の駐車場を自転車で走った。私より補助輪を早く外した矢前は運転が上手かった。私は何度も転びそうになったが必死に彼についていった。それに飽きると自転車を降りて大きな水溜りに飛び込んで転がった。普段怒られることほどやっていて楽しいことはなかった。しかし大きな笑い声が雨に吸い込まれると私は後に親に怒られることが恐ろしくなって弱音を吐いた。矢前はいつも大丈夫だ、と言って私を導いた。私は彼の真似ばかりしていたように思う。いつか彼が居間から父親の煙草を持ってきた時も、私は止めておこうと言ったが彼は聞かずにそのフィルターを抜き取り、中身の葉をベッドに撒き散らした。私はそれにつられて一本だけ分解したが彼は何本もばらばらにした。その後当然私たちはこっぴどく怒られて泣いたが、口の立つ彼はそれを私のせいにした。私はどうしていいか分からずに何度も謝った。
そんなことをふと思い出したから彼に話したが、彼は全く覚えていないと言った。
「悪いことをしたら全部俺のせい。お前は褒められてばかりだったように思うよ」
「覚えてないな」と矢前は興味のない声で言った。
「じゃあ、かまきりを捕まえた時のことは?」と私が聞くと彼は首を傾げた。
「俺のほうが大きなかまきりを捕まえたのにお前は自分の小さなかまきりのほうがきれいで格好いいし、しかも雄だからって言って俺をけなしたんだよ。俺のかまきりは雌だったから」
矢前は笑った。そんな覚えはないと言って立ち上がった。雨が少し弱まったのを見て彼は歩き出した。私も昔のようにそれについていった。
大通りを渡り、道なりに進むと八丁堀駅があった。私たちはそこから上野にいき、常磐線に乗って千葉の松戸にある矢前の家に向かった。
松戸に向かう電車では機嫌が悪いのか、私が何を言っても彼は返事をしなかった。それもよくあることだったから私は適当に今朝の女について少し話した。すると彼は突然苛立った口調で言った。
「お前の悩み、まあ悩みではないかもしれないが、その後ろ向きで平均台を渡るような心情はいつも同じだな。もう俺らは二十三歳になったんだ」
私は彼が何を言おうとしているのか分からなかったが、その声色で彼の不機嫌が知れた。
「端女につかう時間がどれほどのもんだっていうんだ。そんな暇はないだろう。もう大人なんだから。恥ずかしく思わないのが不思議でならない」
彼の女性蔑視はいつものことであったがその卑下が私に及んだのは今日が初めてだった。心に不愉快な気持ちが芽生えたが、彼の言う通り、私は現を抜かし女にかまけて自らの怠惰を認めないようにしていたのかもしれない。私は言葉を返さなかった。それからは会話もなく、車内の雑音を聞きながら目を瞑って眠るふりをした。瞼の裏の暗闇が今朝のホテルの暗闇を思い出させて女の啜り泣く声が聞こえてきた。あの女はなぜ泣いたのだろう。その声はあの台場での雨と波の音に似ているような気がした。
松戸駅から一駅のところに矢前の家はあった。常に鍵を開けっぱなしにしているというドアを開くと煙草と埃の匂いが鼻を衝いた。
それにしても彼の部屋は汚かった。今まで見たどの家より物が散乱し、床を埋めていた。靴を脱いで入ることさえ気が引けた。部屋には画材とウイスキーボトル、脱ぎ散らかした服、それに大きな虫かごがあった。
矢前は上着を脱ぐと床に投げ、ああ、と息を出して今日一日の疲れを見せた。椅子に座り、湯呑みにウイスキーをなみなみ注いで飲んだ。以前から彼はよく酒を飲んだが、常時飲み続けるようになったのは知らなかった。彼はもう一度、ああ、と苛立った声を出した。
私は座らずに部屋の中を物色した。東京に来てからは年に数回しか矢前と会うことはできなかったが、会えば必ず彼の家に行き、そして彼の絵を観るのが習慣としてあった。今回も服やゴミを掻き分けて絵を一枚ずつ観た。やはり彼の油絵は私に興奮と不安を与える力をもっていることが知れた。例えば静物、花の絵であっても細部まできちんと描かれながら、その後に輪郭をぼかしたり、はたまた風に揺れる動きを演出するような曖昧な線や模様が主題のまわりに、もしくはそれに重なるように描かれていて、破壊的な美しさがそこにはあった。この絵の途中の段階ではもっと明らかな遠近法を用いていただろうし、主題がもつ視覚的な美しさも直接的に描かれていたことは確認できるが、それに勝る彼の破壊的思想が侵略していく様を後に見なければならない。視覚が捉える対象物の美しさを残しながらと言えば聞こえはいいが、その実、それの内奥にある本質に彼の美意識が反応してその表面的な見栄えを破壊し、彼が言ういわゆる「詩情」を内在させて新たな価値を見せつけ、それこそが対象物の本当の姿であると言わんばかりに観る者の無理解を侮蔑するのである。
しかし気づいたことは部屋にあるどの絵も以前に観たことがあった。不思議に思ってもう一度全ての絵を観返し、修正されているところを探したが見当たらない。
おもむろに矢前は立ち上がり、物臭そうに部屋の隅にあった紙袋の中から画用紙を数枚とスケッチブックを出して私に渡した。それらは全て素描だった。手、顔、花、木、そして先人の作品を模写したもの。それらは習作に違いないのだが、素描の枠を超えてひとつの作品として力をもち、油彩に劣らぬ自信を誇っている。私は床に隙間を見つけて座り、それらを観た。
「完璧なデッサンの上に、より輪郭線をはっきりさせて水彩で詩情を乗せていく。それが二十七歳ぐらいまでに完成すればと思ってる。油彩はそのあとだな」再び椅子に座って髪を掻き上げながら矢前は言った。
私はしばらく絵を観、横目で部屋中にある埃や髪の毛を見遣った。夏であれば数えきれない数の害虫が潜んでいそうな部屋の荒れ様に嫌な気持ちになった。
「お前が元気でこうして作業を続けているのを知れると嬉しいよ」
私がそう言うと、矢前は何も言わずに溜息に似た音を喉から出してウイスキーを飲んだ。そして首をひねり、口を開いた。
「俺はさ、今や孤独なんて超越して自分が自分に絶望してる中で遊んでるんだ。凡庸さが本質の隠れ蓑になってることに気づかない徒党を組みたがる皆さん、彼らに一生退屈の刑に処されるなんてまっぴらなんだよ。こんなにも魅力的な地上で、感情の流れに波乗りすることを許されたのに、人生とは白ける女に気を遣う一日だなんて、そんなわけないだろう」
私は何も答えなかった。
「安心を脅かされて己の保証を主張する連中に鈍麻された俺の感情、なんと醜い奴さんの安心のために気を遣い続けなければならなかったか。きっとお前には分からないし、それはそれで良いと思う」
彼は俯いて自身の言葉を確かめるように頷いた。
「それがね、しかし俺の表現の方法になっている。自我が芽生え、年を重ねてようやく確固たる個性というものが誰しもに表れるように、表現にもそれがあって、俺はどうしても破壊的なイメージを選ぶしかなかった。最初から他に選択肢はなかったじゃないか」
一瞬、彼の亡くなった母親の顔が浮かんだ。彼とよく似た目をしてどこか怖い印象があった。彼は通夜の時、剃刀で頭を丸めてきて、ただじっと床を見つめて椅子にかけていた。その姿が弔問客の涙を誘ったが私は底知れぬ恐怖を感じた。彼に飲み込まれてしまう、と思った。その感情が何を指すのかは知れないが、確かにおぞましかった。そんなことを思い出しながら天井の電灯を見遣って、私はまだ何も言わなかった。
矢前は煙草に火をつけた。長い間何も言わず、煙草を吸い終わるとただじっと動かないでいた。それから彼はエルンストの『慈善週間または七大元素』を読み始めた。そしてたまに声を出して笑った。
「お台場の雨、綺麗だったよな」本に目を落としたまま矢前は言った。
「輪郭と色彩、あのモチーフこそが絵画の根源だよ、全く」
床のどこを見ているのか分からない目線に気持ちの入らない声だった。
始終考えていたことであったために、私の中の驚きと喜びが共鳴した。あの風景の美しさが夢でなく現実として確かにあって、間違いなく矢前の心を打つものがあったのだと知れると、あの雨の一滴々々が色彩を帯び、乱立するビルや海の輪郭を奪っていく様が鮮明に思い出された。女の差す傘は私たちを隔離し守ろうとした。目の前の社会が溶けて消えていく中でも確かに私たちは独立した存在としてそこにいた。
それ以上言葉を継ぐ様子のない矢前を見て、私は姿勢を正して質問した。
「女がいたよな。砂浜で俺らの後ろに立ってた」
「ああ。ばばあだろ」矢前は口元を緩ませた。
彼は悩むことなくばばあと言い放った。きっと具体的な像を思い浮かべているのだろう。そこで私は中年の女や老婆の顔をその女に当てはめてみたがどうも現実味を帯びてこない。何度思い出そうとしても私の頭に浮かんでくるのは今朝の肌の荒れた女の顔だった。
「もっと若くなかった?」と私が言うと矢前は天井の方を見遣ったが何も言わなかった。
「分からないけど。何度思い出そうとしても俺は今朝まで一緒にいた女の顔がぴったりくるような気がして、それ以上思い出せないんだ。俯いているから表情までは読み取れないけど、本当にあいつがそこにいたような気がするんだよ」
「いや、絶対ばばあだな。コンサートホールの入り口にいた、最後に声をかけてきた人いるだろ、再入場云々言ってた、あんな顔だったよ」
矢前の言うその女の顔をまるで思い出すことができずに砂浜の女は未だ顔の詳細を得なかった。
「いや、でもさ、どっちにしても、女だろ」と矢前が言った。冷笑を存分に込めた言い方だった。
私は同意した。が、同時にその言葉に対して矢前とは逆の視点に立っていることを思った。それは間違いなく女ではあった。そして女としてそこにいた。加えて言えばそれは女としてそこにいなければならなかった。
「その昨日の女は彼女か」
「いや、違う。でもやってる最中ずっと滝に打たれてるような気分だったよ」
私がそう言うと矢前は笑った。
「じゃあ、お台場の女はそいつだったのかもな」
椅子に座る矢前の笑顔があの時の砂浜の矢前の顔に重なる。そして砂浜の私もそれを見てつられて笑う。しかし後ろで傘を差す肌の荒れた女はどうやら悲愁の色を浮かべて密やかに泣いている。ホテルのベッドで嗚咽を洩らす女の顔が浮かび上がり、やっと暗闇が晴れた。
なるほど全く同じ顔をして泣いていたのだと知れた。
女はじっと私を見ている。悪いことをしたと思った。それでも憐れまれているのは私の方だった。女の歪んだ顔と潤んだ目が、美醜を兼ねる本来の人間性を私の中に保護し、ある時には絶対的な憩いとして存在した。矢前はそれを知らない。あるいはそれを放棄した。
「そうだよ、それはきっと俺にとっては今朝の女だったんだ。そしてお前にとってはきっと、」と言いかけたところで私は口を噤んだ。
しかしそれで矢前は悟ったらしかった。
「俺はそれを失うべくして失っているし、導かれるように孤独に全身を傾けた。そして孤独に弄られ踏みつけられることの全てを許してきた。その孤独やその他唾棄され得るあらゆる不幸に身を委ねて、その見返りにちっぽけな着想を得てきた。実際ここ数年、女に頼ったことも期待したことも、深い関係をもったこともない。やつらは全く美しくなんてなかったから」
彼の言葉は事実だった。七年前に彼の母は死んだ。
私は俯いて指の匂いを嗅いだ。肌の暖かな匂いと煙草の匂いが錯乱していた。しかしその最も底の部分にまだ女の匂いがあった。それは私を憫察しては突き放した。私は常に女が去りゆくことを思って心穏やかでなかった。いつまでも傘を差して私を守ってもらいたかった。
矢前の頭に浮かぶ台場の景観と私の想像するそれは同じなのだろうかと私は疑問に思った。
もし私の想像がその通りであれば彼は台場の美しさを完全には描けないように思われた。どれほどの技術と彼独自の思想をもってしてもそれで欠けるところを補えると思えない。彼は女が後ろにいたことは知っても、女が傘を差していたことを知らないのだ。雨に溶かされない自分、風景の中で消失しない自分、彼はそれさえも拒否したのだった。
沸々と音を立てて起こる優越を私は自身の中にみた。そして暁解を得た。それは矢前があの雨の台場の美しさを描けないことに本人が気づいていないということに対するものだった。彼の自己肯定に影を見つけて私は相対的に自分の優位を獲得した。しかし私はこの感情の流れの異様さを訝しんだ。台場の景観を見て、矢前ならこの美しさを描き切れると思ったことで安心を覚えたのに、その全く逆の立場に立ってなお一層安堵を感じて自信を得るということは私を苦しめた。彼の作品に期待し、私の人生を傾けてきたはずなのに、なぜこうも彼の至らぬ点に対して私の自信が湧き上がってくるのか、それが分からなかった。ひどく縺れ合い、ところどころで固く結ばれていた糸がゆっくりと解かれていくような気がした。これはただ私の自信が回復し、憂欝が薄まっただけのことではない。何かもっと根本にある、幼少から付き纏っていた嫌疑の姿が明るみに出ようとしていた。
その時、何か白いものが動いた。玄関近くの壁際に置かれた虫かごから何かがこちらを見ている。私は立ち上がって虫かごの近くに寄った。するとそれは真っ赤な丸い目をした白い蛇であった。蛇は巣の中に身を隠していたので今まで気づかれなかった。細い頭首を真っ直ぐに伸ばし、赤い目でこちらを見て何度も舌を出した。人から譲り受けたというその蛇は実体のない仮象の姿をした何かに見えた。脱皮をした跡も面妖さを引き立たせていた。
「そいつな、よく巣から首出してじっとこっちを見てんだ。でもたまにそれが恐ろしくなる時があるよ」
白い皮膚に内側の赤い血管のようなものが透けている。その蛇を見ていると確かに赤くて丸い目の深さが知れない。目は電灯に反射して光り、私の目を射る。何かに似ていると思った。私は常にこの目に怯えているような気がした。それがいつも遠方から私を嘲る仮の私自身の目であることに気づくのに時間はかからなかった。もう一人の私はこの吸い込まれそうな奥深い目をして私を監視し続けていた。しかしそのおどろおどろしい目になぜか今は怯えより懐かしさを覚えた。この目に悪意はなく、悲哀を帯びたある種の絶望があるだけだった。
突然頭の中にはっきりとした映像としてコンサート後のテラスでの光景が思い出された。川を眺める矢前の目。この蛇の目はなるほど、矢前の目であった。目が合うと瞬く間にその奥に引き込み、絶望の淵へと突き落とす彼の眼光は全くそのままこの蛇に認められた。彼の目はきっと幼少の頃、それも記憶が定かでないほど昔に、私の強烈な劣等感を生んだのだろう。そしてそれはいつぞやもう一人の私、仮象の私というものに姿を変えてこれまで私を監視し続けた。私を見下し、嘲笑ったあのもう一人の私は、竹馬の友である矢前本人だった。
私は振り返って矢前を見た。彼は煙草を吹かして本を読んでいた。私が凝視しても彼はこちらに目を向けなかった。
彼の体が薄らと光を帯びてきたように見えた。その光は彼の体を覆い、朝靄に差す陽の光のように眩く輝くと、徐々に彼の体を飲み込んだ。こうして自信の権化はその輪郭を奪われて消失した。やはり女は矢前の上には傘を差さなかった。雨は彼を溶かして美しい景観の一部に変えた。彼はひとつの作品になって消失した。
私は安心を勝ち取りながら、それに寂しい孤独が含まれることを知って涙が出た。いつか傘の下で、彼と私とそして女とで溶けていく風景を見られる日がくることを願った。
蛇は静止していた。その姿は何も変わっていなかった。それ以降、私は彼について考えるのを止めた。
私たちはずいぶん疲弊していたから、それからはほとんど何も話さずに時を過ごした。矢前は本を読み、マルボロを吸い、ウイスキーを飲んだ。私は蛇を見、エコーを吸い、あらゆる画集を読んだ。もう心に浮かぶものは何もなかった。
気がつけば日曜日が終わって月曜日の朝の光がすぐそこまで来ていた。空が白んできた様子が窓から知れた。私は部屋のロフト部分を借り、タオルケットや寝袋、着られるだけの服を借りて寝床に就いた。床は硬く背中の骨が当たって痛んだ。鼠の糞が目の前に転がっていたが気にならなかった。
「十一時に家を出て仕事に行くから」と言って矢前は電気を消した。
私はぼんやりと時計が進む音を聞いた。どんな映像も頭に浮かばなかった。鬱々とすることも嬉々とすることもなく、穏やかでいた。
足が温まって眠りが訪れそうなとき、矢前は口を開いた。
「お前小説書いてるのか」
真っ直ぐ向かってきていた睡眠が目の前で立ち止って笑い、私の周りを旋回した。目を開けると天井の壁紙の模様が暗い中でもはっきりと見られた。そういえば私は小説というものが自分には書けないということを三週間も前に知ったのだった。そして今日、その意義さえ失ったことに今更気がついた。
「ああ、毎日少しずつだけど、書いてはいるよ」と私は嘘をついた。眠そうな声を殊更強調するような声色の返事になった。
「うまくいくといいな」
「いかないよ」
心の中でもう一度、うまくいくことはないんだよと呟いた。
眠りに吸い込まれていく時、私は女のことを考えた。今まで関係をもった女を一人ずつ想像しようとしたが、みな肌が荒れているような気がした。そして誰しもが砂浜に立って傘を差していた。矢前に傘を差さないのなら私たちも傘を捨てて雨にさらされればよかった。いったいその輪郭で何を確かにしなければならなかったか。みなで一緒に景観に溶けて消えてしまえば良かっただろう。私がそう言うと女が笑って砂浜から去っていく。ドアを後ろ手で閉める。それを追いかけるかどうか、迷っている時に私は眠りに落ちた。
白い光が差して私が目を開けた時には昼の十二時を過ぎていた。矢前は仕事に出てもう部屋にはいなかった。硬い床で痛くなった背中を起こして私はロフトから下に降りた。少し頭痛がした。
雑然とした部屋にはだいたい昨日と同じ位置に同じものがあった。しかしそれが変わっていたとしても私は気がつかなかっただろうし、気がついても気を病むことはないだろうと思えた。今日は月曜日で、昨日は日曜日だった。変わるべきものが変わり、変わらぬべきものが変わらないのはしかし私の心を落ち着かせるけれど、この部屋のように、そしてあの台場の雨の景観のように、対象の輪郭が曖昧になれば些細な物事から苦渋を取り出さなくて済むようになるのだろう。そうして私と矢前の境界もそのはっきりとした輪郭が消え、色彩を帯びていけば……。
私は深呼吸をして埃の混じった空気を肺に溜めてゆっくりと吐き出した。冷蔵庫にあったコーラを湯呑みに注いで椅子に腰かけ、煙草を吸った。コーラは炭酸が抜けて嫌な甘さだけが残っていた。机の上には矢前の新品のマルボロがあった。
虫かごを見ると蛇が巣から首を出していた。一層赤みを増したような目をして蛇は何度もピンクの舌を出し入れした。首を引っ込めたり動こうとしたりする気配はなく、ただ凛と佇んでいた。
私は気の抜けたコーラを飲み乾し煙草を吸い終わると借りていた服を脱いで、帰る支度をした。その間も蛇は姿勢を変えることなくずっと私を見ていた。
十二時半を過ぎた時、私は矢前の新品のマルボロを自分の鞄に入れて家を出た。
空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、澄んだ空気に陽が染み渡った。太陽は赤くて丸い蛇の目をしている。補色をなす弱い緑の空、その遠くで私と矢前が肩を組んで笑っている。二人とも幼き頃のように屈託のない笑顔をしている。私はあまりに悲しかった。指の匂いを嗅いだが女の匂いはもうなかった。指からは太陽の匂いだけがした。
矢前のマルボロをくすねたのは私でなくこの指なんだ。この指が、この女が勝手に盗んだのだ、と私は叫んだ。そう叫ぶしかなかった。
そうして私の憂鬱は永遠の輪郭を手に入れた。
昨晩から眠れていないぼんやりとした頭が重い。無理にでも眠ろうと思っても眠りは訪れない。両手を顔に当てて撫で、椅子に深く凭れてしばらく窓に映る私を見つめる。暗闇が流れ、線路を通過していく轟音が響く。
思考が沼に沈むように停止していき、体が内から温まって熱を持ち、そろそろ眠りが訪れそうなところで目的の駅がアナウンスされ、疲れが増した気がして電車を降りた。
勝どき駅の改札を抜け、A2b出口の階段を上がると灰色の空が広がっていて今にも雨が降りそうだった。八十年代に建てられたビルがそのまま同化していきそうなこの薄灰色の空は、どこまでも同じ色調をして雲の輪郭のひとつもない全くの均一な広がり方をしていた。街を包む空気はいつもより質量を増したように重く感じられ、道行く人の背は心持曲がって見え、車も本来の速度が思うように出ない様子でちょっとした憂結さえ窺えた。晩秋らしい悲風は高層マンションの隙間を音を立てて過ぎ、冬が近いことを知らせていた。
待ち合わせまでにはまだ三十分ほど時間があった。
階段口に立ったまま、何カ月も洗っていないシャツの袖に鼻をあてて嗅ぎ、咳をした。勢いの余った痰が手の平に飛んだ。その茶色をした塊に、今朝飲んだ水道水の味のするカフェオレを思い出したが、すぐに握り揉んで手に馴染ませた。痰は糸を引いて冷気を帯び、嫌な音をたてた。
*
いつか台場で同じような空模様を見た。
確か晩夏の残暑が厳しい頃で、その日の記録的な豪雨は昼が下がると霧雨に変わった。何層もの曇り空が太陽の光を遮り、まだ日の暮れない時間帯であったのに一帯に電光を灯した。鈍色の空は海に自身を映して全く同じ色彩を与え、奥に立ち並ぶ大企業のビル群の外観はもちろんのこと、その本来の威厳や奢りまでも呑み込んでいた。オフィスから漏れる蛍光灯の微弱な抵抗も虚しかった。
普段は恋仲の男女が寄り添って座る海浜公園の砂浜もその日は閑散として、傘を差して歩く者さえいなかった。
矢前(やまえ)と私はその小さい砂浜の真ん中に立って灰青色の海と乱立するビルとぼやけた光を纏うレインボーブリッジを見ていた。私たちが傘を差していたのかどうかは覚えていない。とにかく私も矢前もその公園の木々と変わらない程度には全身が濡れていた。煙草も雨があたらないように注意しながら身を屈めて吸わねばならなかった。
目前の景観をぼんやり見ているとモネの大聖堂の絵が薄く引き伸ばされて現れた。聖堂のくすんだ青とその筆触がそう想起させたのに違いないのだが、きっと一般的な絵画鑑賞を採って全体の構図や背景との色彩関係を意識して見比べたら何ひとつ似ているところはないのだろう。モネの本当の美術史的な評価がどのようなものかは知らないが、しかしこの美しい眺めが彼を思い出させたのだからそれで十分だった。
視界から輪郭線が消えていき、単色に、チューブから出したそのままの色に向かうように景色が溶けていく中、私たちが立つこの砂浜の白さだけが際立って感じられた。この全ての様子をきっと矢前なら先人に劣らず優れた絵画として描き切るだろう、そう思うと私は安心した。
「魚が飛んだ」と矢前は言った。
雨を餌とみたのか、その後何度も魚が水面の上に跳ね上がった。ずいぶん高く飛ぶ魚もいた。どの魚も鯉のような格好をしていた。
「ここに詩情が乗るかだな」と矢前は前方を見たまま言った。
*
私は階段口横の歩道の端に寄り、鼻から大きく息を吸い込んで秋と冬の匂いを確かめた。まだ依然どちらの匂いも感じられたものの冬のそれが強まっているのは明らかだった。物悲しい中にも暖かみと優しさを含む秋と違って、冬が何にも無感動であるように感じられるのは、寒さを強める曇り空の無彩色にそういう印象があるからであろう、そんなことを考えながら私はポケットから残り少なくなった煙草を出し、ゆっくり味わいながら喫んだ。
目の前の交差点は車の往来の激しい二つの大通りから成っていて、重なるエンジン音がうるさい。向かいに広場のようなものがあったので、私はそこまで行って奥に置かれていたベンチに腰を下ろして膝を抱えるように足をあげた。群青色の古びたスニーカーの泥が目立つ。泥は生地の奥部まで染み込んで白みを帯びている。その部分を人差し指と親指で何度も押し揉む。段々と摩擦で指の感覚が無くなっていき、手首から先が私から分離しているように思える。
スエードの生地感が気に入って一年前にリサイクルショップで購入した安物の靴だったが、今やそういった古物でさえ手が出ないほど金銭的に追い込まれていた。私はそうした現実を何かにつけて思い出さねばならなかった。今着ている服も売ってお金にしなければならない。昔の彼女にもらった品良い革靴や家電製品も全部売ってしまおう。しかしいったいそれでいくらの金になるのだろう。このような煩累を思うだけで吐き気がしたが、こうでもしないと生きてはいけないのだと思う。
誰かが笑った気がして私は顔を上げた。そしてまた頭を垂れて靴の泥に触った。
半年間続けた仕事を三ヶ月前に辞め、他に仕事を探す気になれずにぼんやりしていると一ヶ月が経った。煙草をマルボロからエコーに変えたりと少々の節約をしてもどうにもならず、家賃が払えなくなって来月には家を失う。残ったものはそれなりの大学を卒業したという事実とそれに伴う肥大化したプライドと四百万円の奨学金返済義務だけであった。
貧乏な四人家族の長男である私は、経済的な事情で高校進学も危ぶまれた。それでもなんとか地方有数の公立進学校から東京の大学に進み、生活費などはアルバイト代で賄いながら学費は奨学金を頼って卒業することができた。矢前の影響で美学美術史学を専攻したため、この就職難の時世に悠長なことだと祖母らに揶揄されつつも、結局は通信業界最大手の元国営企業に内定したことで彼らは血相を変えて喜んだ。
ここまでは良かった。万事が好調だった。
しかし結局私はその一流企業の内定を辞退し、小さい自営の美術画廊で勤めることにした。その決断に両親は表面上は納得したようにみせたがその心までは知れず、両祖父母に至っては気が狂うほどに落胆し涙していた。
私も何の理由もなしに自分を必要としてくれた企業の内定を辞退したわけではない。その美術画廊には私しか社員がおらず、不況に負けじと体を酷使して働く社長の力になりたかったのだ。それに実はこちらの理由の方が本当なのだが、矢前のことが頭にあった。私の美術商としての経験が、彼を芸術家として陽のあたる場所へ導くための端緒となるよう決断したのだった。
だが結局は不遇な扱いに耐えきれず半年で退社した。社長は最後に、人は信じるものじゃないよ、と言った。その後その美術画廊は社長の肉親や親類の力を借りて経営を維持しているらしい。
仕事を辞めてすぐの頃の私は陽気なものだった。半年で会社を辞めると辛抱の足りない人間だと評され転職もしにくくなるなどの忠告は仲間内からも嫌というほど受けたがそんなことはどうでもよかった。家族には済まないが生きていければそれでいいと思っていたし、昔から心の隅にあった「小説を書く」ということに時間を割けるのだから、それで一発当ててやる、そんな風に考えていた。矢前のことに関しても、現在の日本における画家という職業はその才能や実力よりも業界政治に力を入れねばならないことを知って、それならば私の小説で矢前のことを書いて彼の芸術、本物の芸術というものを知ってもらうほうがよっぽど世間の彼への関心は高まる、そう思った。しかしいざ、机に向かって文章を書き始めるとその稚拙と乱筆たるや噴飯もので我慢ならず、そして何よりあれこれ書くことがあったはずなのに形にしてみれば途中でそれが取るに足らない枝葉のことのように思えてきてそれ以上書くのが馬鹿らしくなった。最初の一週間は頭に浮かんだいくつもの話を形にしようと試みたが、全て最初の数枚で心は折れ、一つの物語も終末を迎えることはなかった。三歳の頃からの幼馴染である矢前のことを何も分かっていないような気さえしてきて滅入り、私はとうとう書くのを止めた。
それからはぼんやりと自分の行く末を考えて過ごした。貧しい家族、愛すべき両親の老後、人付き合いの下手な妹、そして自身の来月からの生活。髪を靡く春風のように事態が果てへと急いでいくような気がした。しっかりお金を稼いで実家への送金をせずには帰る場所さえない。それでもどうしても再び就職する気にはなれなかった。再び人と関わり合って労働せねばならないことを思うと前の仕事のことが頭に浮かんできて恐ろしくなった。
白んでいたスニーカーの泥は気がつけば茶色くなって群青色に馴染んでいた。
私は立てた両膝を寄せて額を乗せ、目を瞑った。車が過ぎる音だけが耳の内部の壁で反響し、現代音楽の真っ暗な未来を思わせた。
もう何度思い悩んだか知れないこの先への不安がスニーカーの足先からゆっくりと上ってくるような気がして堪らない気持ちになった。小心の故、努めれば何とでもできるこの状況を甚大な問題として気を病み、幼少から慣れてきたはずの困窮にもここまでは知らぬと未知の惨苦に臆し、それでも働こうとしないこの脳みそと袂を連ねることができない自分の若き身体を思って、私は憂鬱になった。
立ち上がって広場を出ると駅とは逆のほうに歩道を進んだ。大きく迂回するため、適当な角で右に曲がって小道に入り、またしばらく進んで右折した。人通りの少ない道だった。
駐車場の入り口付近で缶コーヒーを買い、石段に腰を下ろして飲んだ。目前の排水溝の周りには秋色の枯葉が少しあった。木々の痩せ具合からみればこの何倍もの落ち葉があっておかしくなかった。触れれば脆く崩れゆく薄く乾いた枯葉も重なり合って塊となれば、その同情を禁じ得ない儚さを少しは緩和できようものの、きっと今朝方に近隣住人が清掃をしたのであろう、数えるほどしか落ちていなかった。
*
今朝早く、吐瀉物とそれに似た人が集まる渋谷の道玄坂の辺りには落ち葉とゴミが沢山あった。カラスが無尽にゴミを漁り街全体を飛び回る中、私は女と腕を組んで歩いていた。
朝のうちは清々しい秋晴れが街に陽を投げ、漫ろ寒い明け方の唯一の希望になった。遊び明かした若者が駅に向かって坂を下り、落ち葉を掻き集める初老の女が坂を上り、そのどちらにも陽が差した。スーツの上の最近着始めたばかりのコートを気にかけ、両手で前を重ねて寒さを避ける男盛りの会社員も、休日出勤の憂さを曙光に溶かして薄めた。
君と腕を組めるなんて光栄だよ、と私が言うと女はすぐに腕を解いた。私は快くなって女に微笑を見せて前を向いた。
「ねえ、時計はどうしたの? 鞄?」女は立ち止って不安そうに言った。
確かに私は昨晩していたはずの腕時計をしていなかった。立ち止って鞄の中を探したが見当たらなかった。
「戻ろ、きっとホテルよ」
そう言って来た道を引き返そうとする女を私は制止した。
「いいよ、大したものじゃない。それに君は時間が無いだろう、会社に遅れてしまうよ」
「そうね、日曜日なのに。じゃあ私は行くわ」
「いや、僕もいくよ、もう時計はいいんだ」
「そう」
女は笑った。晩秋の澄んだ空気の中、女のひどく荒れた肌に陽が差すと微笑みは一層美しさを増した。
「君とずっと一緒にいたい心の表れだよ」
「後で取りに行きなよ」女は私に先立って歩いた。
しかしなぜ女は私が時計をしていないことに気がついたのだろう。不思議に思いながら私は半蔵門線の改札まで見送った。
「今度があるのか知らないけれど、またね」
そう言うと女は長い髪を耳にかけ、颯爽と階段を下りていった。
そして私はJRの方に向かうふりをして時計を取りに道玄坂を上った。きっと最後の女だ、と思った。そしてその女につかった金額が頭を過って憂欝がすぐに戻ってきた。
私は中指と人差し指を鼻の下に当てて匂いを嗅いだ。
*
ふと今朝のことを思い出しながら落ち葉を手に取り、それを嗅ぐふりをして鼻に寄せ、もう一度中指と人指し指の匂いを嗅いだ。まだ私の脳の奥を絞り捻る力がその匂いには残っていた。枯葉の土臭い香ばしさと合わさって匂やかな女の荒れた肌が頭に浮かんだ。
ズボンのポケットで携帯が震えて電話の着信を知らせた。
「お前、そういえば背広着てきたか」
今まさに眠りから覚めたようなくぐもった声で電話口の矢前は言った。
「いや、全く」私はそう答えて自分の格好を見た。
「入れないの?」
「大丈夫だと思う。今はもう別にそういう風潮もないだろうし、チケットも安かったから。出口、A2bだよな、着いたけど」
数分後にA2bの出口に着き、辺りを見回したが矢前の姿はなかった。もう一度ぐるりと一周、ゆっくりと辺りを望んだ。
三十分ほど前にここに着いた時と、鉛色の空も車の量も向かいの広場の静寂も何ひとつとして変化はない。横を通り過ぎる老婆でさえ三十分前も同じように腰を屈めて過ぎていったように思える。深呼吸をしても寸分変わりない初冬の匂いが鼻を抜けて肺に落ちていく。鼓動の度にじわじわと血管から染み出す憂欝も変わりなく、まさにその憂欝こそが時間の不可逆性を私に再考させて無為な逡巡に導いていく。
この悪況はこの先も変わらない。想像し得る未来の全てに通じている。もう私は何も成し得ず、どこに向かうこともできない。矢前のように、才能と強い意志を持っていればこのような憂欝に悩むこともないのだろうが、私には最初から何もなかった。
横断歩道の向こうで信号待ちをする群衆の中にもう一人の私が立っている。卑しい微笑を浮かべて、何かを言っている。
「不憫に思われたいのだろう」確かにそう聞こえた。
いつからだろう、こうして自分に責められるようになったのは。物心がつく頃には目の前にいたような気がする。何かを嘆いたり、自分を慰めたりするときには決まって現れ、鼻で笑う。その度に私は自身に失望し、情けない思いをする。私はもちろん恵まれている。もっと過酷な人生を強いられる人はいるだろう。だからといってこの憂欝が憂鬱でないことにはならない。どうしようもない吐き気と頭痛に何年悩まされていることか。それなのになぜこうも私は彼に言い訳をし、許しを乞わなければならないのだろう。
信号が青に変わるともう一人の私は消え、代わりに矢前が現れた。群衆の中でも明らかに異様な、邪悪で恐ろしい圧力をもって迫ってくるその男こそ矢前である。
数年前まで坊主頭だった彼の髪は今は肩まで伸びている。それをジェルか、もしくは風呂に入らないことから生まれる油で後ろに撫でつけ、側頭部の毛は耳にかけている。黄ばんだ白いシャツに、サイズ違いの大きいグレーのスーツを着ている。タイは締めておらず、ベルトもしていない。靴はウイングチップの黒い革靴を模したゴム製の低廉そうなものを履いている。
私より二十センチほど背の低い彼は、そのスーツがいかにも大きいことを強調した。それでも近くまで来ると彼の見事なまでに整った顔立ちに、外見的な不格好さの全てを忘れさせる力があることを教えられた。奥まった彫りの深い目に鋭敏に尖った鼻筋、浅黒い肌はそれでも艶やかだった。
沈み込んだ目は炯々とし、懇篤も慈悲も感じられない冷酷さをもって私を見下していた。いや、私だけでなくこの世のほとんど全てを睥睨しているようだった。その悪魔的な眼光は七年前に彼の母親が亡くなってからさらに強まったように思う。私は彼の感情が窺い知れることのないその目を小学校に上がる以前の幼い頃から怖れていた。
「格好いいな、スーツ」と私は二の腕あたりの生地を掴みながら言った。それは冬物の素材だった。ああ、と言って彼は手に持ったアサヒの缶ビールを飲み乾した。そして目を細めて缶のゴミ箱を見つけ丁寧に捨てると、何も言わずに私の足元を見遣った。
我々はホールに向かって晴海通りを南下した。
バッハのコンサートだと矢前は言っていたが、詳しいことは何も聞いていなかった。また彼がクラシックに関心があることも知らなかった。
「バッハは好きなのか」と私は思わず質問した。
「ああ」矢前はひとつ咳払いをした。
前方から風が吹いても彼の固まった髪は靡かなかった。彼はポケットからチケットを二枚取り出して一枚を私に渡した。
「もともとは友達のカップルにプレゼントするつもりで二枚買ったんだが、今日は用事があるらしい。俺が酔った時に迷惑をかけたような記憶があるから」
やがて目の前に大きな橋が見えた。橋の横には屋根の付いた動く歩道もあった。この橋が何という名の橋で、何という川に架かっているのかは知らない。川は深くて暗い黒緑色をしていて汚らしさよりはむしろ底の無い恐怖を見る者に与えていた。それが陽の差さないさらに黒みを増した空のせいだとは断言できないが、台場で見た、空に溶けゆく海の美しさはここにはなかった。
台場に一緒に行った時のことを矢前に尋ねようかと思った。あの日二人で見た暗黒の空とビル群が象徴する社会と無垢な海、それらを雨が上から塗り潰して消していったあの美しさを矢前は覚えているのだろうか。
そのとき我々はビールを片手に持ち、煙草を吸って海を見ていた。砂がサンダルの中に入ってきて不快だったから私は下を向いてサンダルを脱ぎ、砂の感触を確かめた。矢前は黒いスニーカーを履いている。他にもう一人サンダルを履いた人の足が見える。
そうだ、女もそこにいた。
見知らぬ女は後ろに立って透明のビニール傘を我々の上に差していた。顔も格好も思い出せない。おおよその年齢さえ言えない。もしかしたら老婆かもしれないし、少女かもしれない。女は私の知り合いでもなく矢前の知り合いでもなかった。突然、女はそこにいたのだ。女はいつから近くにいて、そしてそれからいつ別れたのか。そんな遠い昔のことではないはずなのにどうしてこうも思い出せないのだろう。私は夢を見ていたのかもしれないと思った。そう思わせるだけの美しい風景があったから。
「川とかいいよなあ、川とかってなんか、いいよなあ」
矢前は橋の欄干に手をかけながら穏やかな口調で言った。
私はしばらく何も言わなかった。
第一生命ホールの前まで来て、開演にはまだ時間があるからということで川沿いにあるテラスで我々は煙草を吸った。
私がポケットから煙草を取りだすと矢前は驚いた。
「お前がエコー吸うとはな」そう言って矢前はマルボロを吸った。
川に沿った幅五メートルほどの歩道は綺麗に舗装され、カップルが歩くにも子連れの家族が歩くにも適していた。こんな曇天の中でも我々の横を多くの人が通った。中には我々の近くまで寄ってくる小学生に満たない幼子もいたが、母親がすぐに駆け寄ってきてそれを制し、すみません、と言って去った。
「きっとお前を見てお母さんは危ないと思ったんだよ。目も怖いしな」と私は言った。
風が強くなって前髪が私の視線を遮った。いくらか雨の匂いもそれに混じっている。雨と街の冷やかさを思うと寒さが増した。
「髪伸びたな。男前のフィリピン人みたいに見えるよ」
私がそう言うと、矢前は垂れた髪を耳にかけて笑った。
「でもお前がエコー吸うとはな」
時間が来たので建物の中に入り、入口でチケットと引き換えにパンフレットを受け取ってホールに入ると内部は予想以上に広く大きかった。人の入りも良く、後席はほとんど埋まっていて前席も左部か右部のどちらかしか空席が無いほどだった。我々は前席左部の左端に腰を下ろした。左端に矢前、一席空けて私が座った。
開演にはまだ時間があり、会場は人の声で騒々しかった。見れば旧友との再会を喜んでいるきらいがそこかしこであって、昔の仲間が偶然居合わせたか、それともこのコンサートを再会の場としているのか、とにかく今日の出会いに歓喜している団体が多く見受けられた。彼らの清潔感のある身綺麗な格好とは対照的に、端の席では薄汚れたマウンテンパーカを脱がずにいるような年を取った男らもいた。少女もいれば老漢もおり、ノイズミュージックのように雑然混淆としたこの会場に私はかえって安心した。
場内の喧騒に耳を澄まして舞台をぼんやり眺めていた私は、手に先ほどもらったパンフレットを持っていることを思い出した。しっかりと製本されたそのパンフレットを開くと、どうやら声楽がコンサートのメインでバッハの教会カンタータのうちの数曲を演奏するらしい。最初の見開きには指揮者と代表者の短い挨拶文が、その後にプログラムと演奏者の略歴と紹介、そしてそこから最後に渡って演奏曲の説明と歌詞の翻訳が書かれてある。
ドイツ語の歌詞の日本語訳は非常に分かりやすく書かれていた。ドイツ語の音やリズム、本来の意味内容、そういったものは解すに至らないが、翻訳でも私には、それも現在の私にとってはずいぶん慰めとなるものだった。例えばカンタータ第百八十番のレチタティーヴォでは「この世で価値があるとされているものは、つまらないガラクタに過ぎないのです」と歌われ、我々を慰撫し包み込んでくれる。願っても手に入らない長方形の紙の枚数に齷齪する我らが若き体を信心が浄化するのは本当なのだ。ブランドの虜となる善良な民よ、自分自身が資本主義の家畜(ブランド)そのものになることの醜さにそろそろ気づかなければならない時がきている。
主は何を見、何を見ないのか。病める心の庇護者たる方は我々の痛みを顧みてはくれない。貴様の導く先に例え光があったとて、その楽園が何であれ、私は何も望みはしないのに一体どこへ向かうというのか。束の間の苦しみが永遠の幸福に変わる時、私の憂欝は浮かばれるのか。憂鬱のすぐそばで勝ちえた優越や愛情や魂の鼓動はそれ無しに本来の感情として成立するのか。
頭に燃え盛る火に薪を焼べるように詩が入ってくるのが分かる。それと同時にその様をどこかから含み笑いを浮かべて蔑み見るもう一人の私がいる。それに気づくと薪は灰になり詩は記号となって果てる。きっとこの自分ともう一人の自分の図式的な関係は永遠に続いていくのであろう、それはもう永存する楽園よりももっと永く。
男性の声楽隊が舞台の下座から登場し、大きな拍手が起こった。いつの間にか会場は静まり返り、そして舞台だけに光が当てられて客席は暗くなっていた。女性の声楽隊がパートごとに続き、楽器演奏者が舞台の左右から疎らに配置につくと、さらに大きな拍手の中を指揮者が登場した。名のある指揮者らしく、濃紺のダブルのブレザーに金のボタンを光らせながら溢れんばかりの自信を表情にみせて客席に一礼した。長く伸びた白髪まじりの髪のうねりを艶の出る整髪剤で押さえつけ、よく肥えた俗体を揺らし、柔和な笑みを隠さないその様は、糸にかかった餌にゆるりと忍び寄る蜘蛛のようで卑しかった。
咳払いのひとつもない静寂の中、観客の息遣いさえ聞こえるほどの緊張が会場を覆う。
指揮者が穏やかに手を上げ演奏が始まった。
三十人以上いる声楽が指揮者を見つめて眉をしかめ、歌詞が書かれた冊子にちらと目をやりながら腹から声を出している。また楽器の演奏者は全部で十人程しかいないのに、それから出る音は拡張器か何かで大きくされたように力強い。各々が自らの役割を自信を持って全力で演じている。空気の振動の波が目視できるぐらいにはっきりと私や他の観客ひとりひとりに届いていく。
アルトの女性の中に美しい人がいた。肩下まで伸びた髪の一部を後ろで結い、前髪は右目のあたりで分けられて暗茶色が光沢をもっている。大きく口を開けて苦しそうに発声する時の頬は影になっていて、眉は垂れ、幼く見える目が何かを乞うように光に反射して潤んでいる。長身で、か細い体つきをし、皆と揃ったロングの黒いスカートに白いブラウスを着ている。そのブラウスから艶めかしい首が伸びて淑美に色めいている。
昨夜から一睡もしていない私は演奏が始まって早々に眠気を感じ、美しい女を注視することでなんとか持ちこたえようとしていた。エネルギーに満ちた彼女とは対照的に私からは精力が抜けていき、足の裏の感覚が弱まってくる。スニーカーを脱いで足を冷やしても瞼は重みを増していく。目の前ではなお美しい女が悲壮な目元を震わせている。
この人が最後の女だったらどうだったか……
*
昨晩のこと、憂さは時間を追うごとに重みを増していき、ついには耐え切れなくなって私は寝床から出て数少ない友人に声をかけた。その友人たちというのも気の置けない仲というわけではなく、しばらくぶりに連絡をしたのであるが、土曜の夜だというのに四人ほどが快く集まってくれることになった。現在の家を引き払う時に荷物を実家に送る代金と家を失ってから数週間は漫画喫茶などで夜露を凌げるだけの代金を差し引いてもまだ今日友人たちと酒を酌み交わすだけの金はあった。しかし孤独をこうして一時的にでも和らげることができるのも今日が最後だろう。
私は一週間ぶりに風呂に入り、慌てて服を着て渋谷の街に出掛けた。
友人たちは大学生の頃と何も変わっておらず、穏やかでいて私は安心した。一人は不動産関係に勤務し、二人は広告関係に、もう一人はカメラマンを目指すべく外苑前のスタジオに勤めている。彼らの仕事の内容や愚痴、小さな達成感など、社会人一年目らしい思いを聞いている間、私は自分が心から楽しんでいることを感じた。上司にこういう風に評価された、取引先に気に入られた、社内の別の部署からスカウトされている、残業代がつけられない、次から次に出てくる話題に共感できなくとも彼らの真剣な話しぶりや高揚感に私は満足した。直向きに何かに取り組めることはきっと本当に幸せなことなのだ。
そして一通り彼らの近況を聞くと、カメラマン見習いが私に、お前仕事辞めたらしいな、どうすんの、と言った。私は五杯目のビールを空にして、わざとらしい驚きを顔に出し、え、まあ、うーん、などと的を射ない返事をした。他の者が、え、辞めたの、と笑い、カメラマン見習いがどこで聞いたか私の事情を彼らに話した。彼らは嬉しそうに私と彼を交互に見、悪意のない相槌を打った。カメラマンは私の気を害さないよう時々ユーモアを交えて雄弁に話した。それは要点を外さず、事実からそう遠くはない具体性をもっていた。目を輝かせてそれを聞いた残りの三人は皮肉を交えずに私を讃え、相変わらずで安心したよ、と言った。私は運ばれてきた安い日本酒の熱燗を早口に飲みながら、この若さを仕事に奪われてたんじゃ惜しいからね、と言ってトイレに立った。自分の言葉がトイレまでの通路で反芻されて、だから友達なんかできやしないんだと悲しくなった。
用もないのに便座に腰かけ、回り始めたアルコールが急激に醒めていくのを感じて私は女に電話をかけた。誰でも良かったのだが、どうせなら、と四年間も恋慕の情が冷めなかった憎たらしい女を選んだ。他の仕様の無い数人の男に熱を上げてきたその女は、こちらからの連絡に応えたことはないのだが、今日はツーコールで電話に出た。聞けば代官山で会社の先輩数人と食事をしていたらしく、もう解散するので少しなら会ってもいい、とのことだった。0時に宮益坂の辺りで落ち合うことにして電話を切った。
席に戻り、彼らの大丈夫か、などの心配をあしらって四千円を机の上に置いた。先に帰ることを詫びて、もう会うことのないだろう友人に最後の笑みを投げ、店を出た。
外は冷たい風が吹いて大層寒かった。雨が当たったかと思い、センター街の街灯に目を向けたが気のせいだった。酔った覚束ない足を引いて駅に急ぐ若者に紛れて私も急いだ。土曜の夜の喧騒に気が確かになって宮益坂のビックカメラの前で女を待った。
0時を少し過ぎた頃に女は現れた。学生の頃よりずいぶん髪が伸びていた。それなりに細い体にやや丸い顔が覗くのは前と変わりないが、顔の肌の荒れ具合が極端にひどく、私は驚いた。
「あはは、あなた浮浪者みたいだね」と笑う女の顔は明らかに疲れが出ていた。
一杯ぐらい飲んで帰ろうと私が言うと、もうずいぶん飲んだし、明日も会社だから、と女は言った。じゃあコーヒーでも、と言ったそばから私は、ホテルでぐっすり寝るのはどうだと言った。
もともと私たちに深い男女の間柄はなく、ただ四年間私の恋心を相手に伝え続けただけであって、またこの時の私は憂さによる放心忘我の阿呆面のまま、相手の軽口に笑みさえ返せない状態だったこともあってか、女は了解した。
「でも何もしないよ。朝も六時半にはここを出なきゃいけないし。それでもいい?」
「ああ、何だって、大丈夫だよ」
小雨が降っているような気がしたがそれも勘違いだった。私たちはコンビニに寄ってビールを半ダースとお茶と煙草を買い、女が携帯の充電器もほしいと言ったからそれも買ってやり、道玄坂のホテルへと向かった。どこでもいい、と女は言ったが私はどうせならきれいなところがいいだろうと思って、一帯の中でも料金の高いところを選んだ。
先に料金を払い、お金を出す素振りをする女を無視してエレベーターで五階へ向かう時、さっきのコンビニでの買い物を含めて二万円ほど使ったことを思った。その前の酒代の四千円を加えれば二万四千円だ。今日家を出る前にした計算に従うと、もうこれでは退去するときに荷物を実家に送る代金さえ残っていない。そういうことに対して無頼に振る舞えたなら良かったのだが、そういう本質は自身でどうにかできることではなく、落ち込んで押し黙る以外に迫りくる憂欝に相対することはできなかった。
私はお金もこの女もどうだっていいからもう家に帰ってベッドに突っ伏したいと思った。まだ今なら心地の良い寝床があるのだから。
女の会社の忙しさについて空で聞いて、それが私を形式的に褒めそやすような話に繋がってもまだ全うな返事もできずに相手の気遣いを無下にした。
そうして部屋に入るとその明るい装飾と卑しいイメージに今日溜め込んだ分の憂欝が腹底から込み上がってきて私はトイレに行って吐いた。トイレの外から女が、大丈夫? と言った。ああ、と私は答えて、指を喉の奥に刺してもう一度吐いた。
私たちは大きいソファーの両端の左右ぎりぎりのところに座って、テレビを見た。私の体調を思ってか、女はそれからしばらく何も言わなかった。テレビでは見たこともないクイズ番組が流れ、いち視聴者が答えられるはずのない難しい問題が出されていた。USBの正式名称さえ分からなかった。その中で唯一答えられる問題が出た。出題者が、ゴーギャンの最晩年の傑作で、タヒチでの生活云々…と読み上げる中、私は大声で、我々はどこで、ああ、どこから来たのか、そして我々は、ああ…、と言った。するとテレビの中の京都大学の学生が「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」と詰まることなく述べた。女は笑った。
その後は答えられる問題は何ひとつ出ず、結局、ゴーギャンの問題を答えた京大の学生が優勝して番組が終わった。
私は二本目のビールを飲んで煙草を吸った。女は最近発売されたクールの新しい細い煙草を吸っていた。
テレビでは次の番組が始まっていた。流行りの商品を紹介するような番組だった。その中でロボットのプラモデルが紹介された時、女は大きな声を出した。
最大手のおもちゃメーカーに勤めるこの女は丁度その商品を扱う部署で働いているらしいのだが、この番組で取り上げられることを知らなかった。これはね、と嬉しそうに話す女は活き活きとしていた。
しかしその商品に関して話し終わると女の顔色が急変した。
「もう、限界なの」
女は話しながら泣いた。
女の所属する部署は八年間も女性がいなかった。社内の営業の中でも最も数字を出している部署で、男性原理の頑健なその体制は肉体的にも精神的にも社員を追いつめた。過去にいた女性も三年ともたずに別の部署に異動していった。朝七時半に出勤し、深夜0時に帰ることができれば良いほうで、遅い時は深夜二時まで勤務した後、食事に連れていかれる。残業代も暗黙の規定で一日二時間しかつけることができず、休日も月に四日あれば良い方だという。
「でもね、それはいいの、別に。働くのは好きだし、お金もある程度はもらえてるから。でも営業でしょ、女っていうのはある意味つかえるのよ、だから上司にもいろいろ連れていかれるの。それで結果も出てるのよ、結構」
女は思い出したように細い煙草を手に取った。そして鼻を啜った。
「でもそうやって女としての仕事もすごく多いんだけど、そうじゃないところもあるわけ。雑務も力仕事も部署の人数じゃやり切れないほどあって。それで私も別に女として扱ってもらいたいわけじゃないから出来る限りのことはやるのよ。でもそうすると、それが当たり前になって、女だからって甘えるな、みたいなことになってくわけ」
事の詳細までは分からないし、私にはちゃんとした企業で勤めた経験がない分イメージもぼんやりしていたが、女の口調をみていて、さぞ大変なんだろうと思った。きっと私の想像よりもずっと厳しい環境で働いているのだろう。私は神妙な面持ちで相槌を打つのを忘れなかった。三本目のビールを冷蔵庫に取りに行くことさえ遠慮した。
女は黙った。垂れた髪を右手で鼻の近くまで寄せて嗅いだ。膝を立ててソファーの上に足を乗せ、私の方を向いた。そして荒れた肌を隠すように俯いて両手で髪を前方に梳いた。
私も黙ったまま女を見つめた。横目でテレビを見ると、少し前に映画館で上映されていたアメリカのSF映画が流れていた。その映画に日本人の俳優も出ていることから、日本も宣伝に力を入れていたことを思い出した。ついこの間まで劇場公開していたのにもうテレビで放送されているんだなと思った。
「ねえ、あなたって、将来の目標とかってあるの。将来というか長期的な目標というか」
ストッキングに覆われた自分の足を触りながら女は俯いたままの姿勢で言った。私はテレビの方を見た。画面には何か考えているような面持ちをしながら、昔、船の帆先で女を後ろから抱きしめていた俳優がいた。彼は今、画面の中で独楽を回している。
私は考えた。まず彼女の質問意図、それは本当に小生の夢なり願いなりを聞きたいのか。我が愚行の所以を確かめて自身の将来設計に役立てようと思ったのか。それとも見聞きしたこの愚款の様を自分の島に帰って明日にでも笑い草にしたいのか。きっとそうではない。女は私が話した後に自分自身の将来の目標を私に言って聞かせたいのである。同期に比べて苦労の多い自分がここまで落ち込み疲れた、それを慰めるべく先の不確定な幸せを誰かに言って自身を斟酌したいのだ。
それはそうとしても、私は答えに困った。ない、と答えるのはあまり簡便で面白くない。しかし現実的な自分の末路を想起することはあっても、今後何がしたい、どうなりたい、ということまで頭が回っていなかった。だから今までの自分が少しでも心に描いた未来を思い出してみた。やがてふと、小説家、という言葉が浮かんできて私は思わず吹き出した。あの腑抜けた文章を読んでくれる聖者はどこにいよう。
「僕はね、君と結婚したいよ。本当にそれ以外には何だって思いつかない。君は何かあるのかい、そういった夢みたいなものは」
「まあかわいらしい」
女は冷たく私を見た。そしてすぐにテレビの方を見遣った。
「今日ね、会社の先輩に聞かれたの、十年目かな、その人は。お前は最終的に何をやりたいのかって。採用試験以来だった、そんなの。それで私は考えた、そして正直に答えたわ。結婚して子供を産みたいって」
女は未だ着ていた上着を脱いだ。橙色の電灯のせいで赤く見える女の腕を見て、私は自分の手と見比べた。私の手と指先は格段に美しかった。
「女性らしい、良い答えじゃないか」
「即近の目標ならいくらでもあるのよ。問屋をいくつか私一人で受け持ちたいし、集客の見込めない子供向けのイベントでも必ず目に見えるような成果を上げてみせるから私にある程度任せてもらえるようになりたいし。でも最終的に、なんて今は何にも分からないじゃない、想像だってできないわ。何、私は社長になりたいとでも言えばよかったわけ?」女は嫌らしい安っぽい目をしていた。
「結局、『それなら会社辞めろ、それが最終的な目標なら今してることはなんの意味もねえだろ。婚活でもしろよ、ははは』だって」
「へえ、面白いね。安直というか、なんだろ、趣味の悪い冗談が好きなのかな、その人は」私は笑った。
「冗談じゃないのよ、ちょっと面倒臭い人なの」と言って女も笑った。
「まあ体育会系の部署だからそういう目標みたいなのが好きなのよ。私もね、いつものように、はいはいって笑って聞いていれば良かったんだけど、今日はどうしても耐えられなくてさ、言い返しちゃったの。結構熱弁を揮ったわ。最後に、考え方の違いでしかないと思いますが、って言うと相手もそうだな、って。そういうところはかわいいの」
女はきっとこの先何年もこの会社に勤めるのだろう。そしてその中で巡り合った器量に富んだ男と結婚して子供を産むのだろう。それからの生活を想像して私は羨ましくなった。
私は溜息をひとつ吐いて立ち上がり、伸びをして、風呂に入ってくるよ、と言った。
「先に君が入るかい」
「ううん、私は入らなくていいや。明日朝自分の家で入るから」
私は二度頷いた。きっと化粧も落とさないのだろう。肌の荒れ様を隠そうとする虚飾はなんともその肌以上に汚らしかった。
風呂を出ると映画は終末に向かっているようだった。二つの団体が雪山で争い、銃撃や爆発が当たり前のように起こっていた。
「この映画面白いの?」と携帯電話を触りながら女が言った。
「ああ、面白いよ」と私は適当に答えた。
女のビールが空いたので私は立ち上がって、もう一本勧めたが女は断った。それで三本目の自分のビールを冷蔵庫から取って飲んだ。
「私は同類だと思っているのよ、あなたのこと」と女は出し抜けに言った。私は思わずはにかんで、ありがとう、と言った。
「本当よ。大企業の内定を蹴ってこうして今ホームレス目前の状況をまわりからかわいそうに思われて、それでもそんな自分がかわいいという思いもあれば、新卒の権利が消えた二十三歳という年を相対的に見て将来に不安を覚えたり。私やあなたの苦労なんて止めようと思えばいつだって止められるのにね。尊敬するわ」
こういった女の気遣いを私は好きでも嫌いでもなかった。そもそもこれはいったい誰のための気遣いなのだろうか。
「レベルが違うよ。第一、君は器用だし、僕は全く真面目だ、出発点がそもそも違うんだ。うまく言えないけどさ」
女は目を細めて悲しそうな顔をした。そしてすぐ、口角を上げて冷たく笑った。
*
大きな拍手があって、場内は明るくなった。
指揮者が深々と客席に一礼して下手に退く。登場とは反対の順序で演奏者が左右に散り、続いて声楽隊が女性から先に左に消える。舞台の右上の壁面を見れば、休憩二十分という表示がある。なるほど明るくなった理由がはっきりした。
矢前は席を立った。トイレにでも行くのだろう。
束の間の睡眠で私は明らかに元気になった。たちまちに会場の喧騒が公演前よりも大きくなった。がやりがやりと聞こえてくる。そして私はコンサートよりこの雑多な騒がしさを聞きに来たのだなあと思って堪え切れない笑いに顔を歪めた。がやりがやりと、可笑しかった。
暇を欠くため、私は客席をじっくりと見回し、飽くと再び冊子を開いて歌詞を読んだ。その私を含む全てが公演前と変わりなかった。冊子に書かれた歌詞も当たり前のことだが、全く変わらずに、優しい言葉を投げかけた。意味はひとつも分からない気がしたが、私は幸せだった。
ぼんやりと安心を噛んでいると、二十分が過ぎ、ブザーとともに場内が暗くなった。
そのうち男性声楽隊が入場し拍手が起こった。そして先と同様の順序で他の者が入場した。それまでと違うのは二つ隣に矢前がいないことだった。彼はまだ帰ってきていなかった。
カンタータの四十五番が始まった。うつらうつら聞いていたために、先ほどの曲との違いを感じられなかったが、出だしの部分は先の曲のほうがよかったような気がする。
声楽が一区切りついて、バイオリンの音に耳を澄ましていると、その美しい女がおもむろに前方へと歩いて進み、指揮者と向かい合った。そして彼女のソロパートが始まった。
彼女は一段と苦しそうに眉間を寄せて声を出した。彼女の肌が荒れてきたような気がして私はまた夢と現を彷徨った。眠りに落ちる瞬間、女が笑って私の家から去る映像が浮かんだ。ずっと昔のことだった。女は後ろ手でゆっくりとドアを閉めた。ココナッツの甘い匂いと忘れていったピアスが私の部屋に残った。
*
女はベッドに俯せになって携帯を見ている。女の頭の上には室内の明かりや温度を調整するボタンのついたパネルが緑色に光っている。私はソファーに座ってテレビと女とを交互に見ている。時間がゆっくりと進んでいく。女は何も話さず、こちらを向きもしない。部屋には映画の音声だけが響いている。
目の前のテーブルが振動して携帯の着信を知らせた。矢前からだった。
「明日の演奏、十四時四十五分開場十五時開演なんだが、駅からそこまでどれぐらいかかるかも分からない」
私は笑って立ち上がった。女がちらとこちらを見た。何だそれ、と言いながら私は洗面所へ移動した。
「場所は第一生命ホールってとこ」
「最寄りはどこ? 道は調べておくよ」
「ああ、確か、ん、ああ、勝どき、だったけな、そんな感じ」
「わかった、じゃあ調べてメールする」
「あ、何時頃待ち合わせるかとか」
「それも調べるから。お前が松戸からどの電車乗ればいいかとかまでメールするよ」
そう私が言うと、矢前は鼻で笑った。ぷすっと美味そうに煙草を吸う音が洩れた。そういえば彼は特に美味そうに煙草を吸う。私は煙草を取りに部屋に戻った。
「じゃあ、そこにいるクソ女にもよろしくな」
矢前の嘲笑が心地よかった。
「はは、よくわかったな。後でメールするよ」そう言って私は電話を切った。
矢前に触発されて吸った煙草は美味くなかった。明らかに吸い過ぎているのが分かる灰皿の吸殻を見、今日吸った本数をおおよそ数えてみてまたぬるりと胃の中のものが逆流してくるのを感じた。目を瞑って唾液を呑み込み、ビールを一気に空にした。そして、そろそろ寝ようか、と女に言った。女は、うん、と言って布団に潜り込んだ。
「服も着替えなくていいのかい」
「うん、ちょっと寝て帰るだけだから」
「まあでも歯磨きぐらいはしてから寝よう」
洗面所の鏡に向かって二人並んで歯を磨いた。たまに目が合って笑ってしまうようなこの風景が一般的な幸福というものに最も近いのではないかと私は思った。
私たちは吸いたくもない煙草を最後に吸ってベッドに入った。電気を消しても頭上のパネルだけは緑色に光って、気味悪く天井を照らしていた。しばらくして私は横目で女を見たが、女は目を大きく開けたまま天井を見ていた。だから私もそうした。
私は電車でのうたた寝などを除けば誰かが横にいる時に眠れたことがない。それが男であれ女であれ、何に対するものか分からない緊張が私の睡眠を彼方の月まで追いやるのだ。幼少の頃から眠るのが嫌いだったから、多分睡眠のほうが私を避けるようになったのだろう。今日も眠ることはできない。女の寝息が聞こえればすぐにトイレに籠って本でも読もう、そう思っていた。
すると女は体をすり寄せてきた。そして私の左の肩の上に頭を乗せた。生温かい吐息が首を撫で、鼻から洩れる呼吸のリズムが私の全身に伝わった。急に上体を起こした女は私の左腕を取って自分の枕にし、満足そうに小さく笑って、私の首筋に音を立てて口付けた。
そのまましばらくすると女は眠った。すうすうと愛らしい息をして、時々体をびくんと震わせながら夢を見ていた。
私は休まった。久しぶりに休息を得たような気がした。
できることなら私もこのまま眠ってしまいたかった。夢の中で過去の悪行や裏切りの数々を懺悔したかった。が、三十分を過ぎても一向に眠りの気配は感じられず、ついに私は起きて本を読むことにした。
女の目を覚まさぬように上体を起こし首の下からゆっくりと腕を引いて抜いていく。首下を腕が通過し、手首が通過しようとするところで女ははっきりと目を開けた。私は微笑んで、ごめんと謝った。女は私の首に手を回し、唇を求めた。その厚く芳醇な唇が私の乾燥した下唇をゆっくりと吸った。
しばらく私たちは互いの唇の感触を確かめた。青虫のように柔らかい表面をした唇を、潰して殺さないように丁寧に吸っては舐めた。
女は唇を離し、私の顔を一瞥して、再び私の左肩に頭を乗せた。
「ちょっと寝ちゃってた」
そう言うと女は左手を私の体に這わせて私の陽物に触れた。
「ねえ、なんで反応しないの?」と女は鋭い目で私を見た。
「しないって約束したからだよ」
「そうよ、絶対しない」
そう言うと女は私の陽物を愛撫した。
最初興奮の外にいたそれもみるみると恥ずかしげもなく膨らんだ。ふふ、と嫌らしく笑って女は手を離し、こちらに背を向けた。
私は立ち上がってテーブルの上の本を取りにいこうとしたが、女は芝居がかった声で、後ろから抱きしめて、と言った。私は言う通りにした。
女の柔らかな髪は二年前と同じ匂いがした。ココナッツのようなしつこい甘さと、シャンプーらしい爽やかさが入り混じっていて、私の思い出を駆け回った。その時も丁度今のような、程度の軽い慰め合いをこの女と演じていたが、突然他の男から電話で呼ばれて女は私の家を去った。部屋にはココナッツの匂いと女のピアスだけが残った。
私の鼻息が耳に触れる度、女は過剰に反応して、小さく声を洩らす。私はその耳を舌で撫でる。女の喘ぎは大きくなる。時間をかけて丹念に耳から首筋に舌を這わせては吸う。女が顔をこちらに向けたとき、私たちは慎みの無い陋劣な口付けをした。その口付けが逆側の耳に移る時、私は右手で女の胸に触れた。そしてそのままスカートの中に手が及んだ時、女はそれを防いだ。
私は女の顔を見た。緑の光に影を落とした無表情がある。
女の制止を振り切って陰部に手を伸べた。
甲高い喘ぎがみるみる大きくなる。ストッキングと下着が引っ掛かって私の腕がだるくなってくる。脱がしていいかと聞くと、膝までなら、と言う。自由になった右手は勢いを増す。
陰部が液体に満ち、そして膣内に少しの空間ができた時、その液体は大量に外に溢れだして寝具を湿らせた。
女は初めてのことに驚いた。そして私もある意味驚いた。
この女の液体は異様に甘い匂いを放つ。汁粉のようであり、ココナッツのようでもあり、それでいてイメージと切り離してもただそれだけで完全に官能的だった。
私は指を鼻に近づけて匂いを嗅いだ。女は必死にそれを止めようとする。私はそれでも匂い続けて、しまいには感覚が疲れた。脳の一部がぐっと絞られるような気がした。
「このままの状態で、脱がなくていいならしてもいいよ」と女は私を嘲た。
ストッキングと下着で足を開くことができないのは見れば分かる。それでも構わない、と私は言ったが、陽物は戦意を失い、萎えきっていた。
「何? それ私の役目なの?」女は不機嫌そうにみせて言い、陽物を握った。
避妊具はつけたほうがいいか聞くと、どっちでもいいと答えるので私は避妊具をつけた。
挿入する際になって女は、パネルの電気も消して、と言った。私は女に覆い被さるような体勢になって緑色の電気を消した。
部屋の中には一縷の光もなく、そこには何もなかった。目が慣れても何も浮かんでくることのない暗さだった。手探りで女の陰部を確かめて事に及んだ。
何も見えない暗闇のどこかで女が、うんうんと言う。私の腹部に女の膝所のストッキングが一定の調子で当たる。それのせいで体位を変えるのが億劫になり何分もそのまま運動を続ける。
暗闇のせいだと思うのだが、私の運動はもはや運動そのものになった。この女が一人の人間であることを忘れていった。
膣の締め付けも段々と緩くなって感触が薄れていく。汗が額や蟀谷から流れて女の服の上に滴る。きっと高価な服なのだろう。
「気持ち良くないでしょ」喘ぎながら女は冷静な声を保とうとして言った。
「ねえ、気持ち良くないんでしょって」
「いや、そんなことはない」
その後も女は同じようなことを何度も言った。
いけないんでしょ、いつもはこんなことないんでしょ。
私は暗闇とどこぞから聞こえるその声に脅迫されて意地になって運動を続ける。拭っても拭っても汗が噴き出して目に入ってくる。腰と開いた股関節が軋んで痛む。太腿から膝にかけての筋が重みを増していく。
私は目を閉じて暗闇を暗闇で防ぎ、この女の顔や仕草を思い出そうとした。
初めて会った日の夕陽、大学の裏道、夕陽に良く似た色のかわいいワンピース、肩上のショートボブヘアー、赤黄色に反射する綺麗な頬、今の荒れた肌からは想像できないきめ細やかなその頬、女は笑っている。私の部屋、ビールを飲む女、外したピアス、ベッドで向かい合った時の潤んだ目、後悔の色を隠さないその淫らな目、電話の音、家のドアを後ろ手で閉めて女は去った。
つやつや光る口元、控えた小さな鼻、少し垂れた大きな目、柔らかい耳に弾力ある肌、その全部がつながって顔が完成されていく。
「何か言って」突然女は弱々しい声で言った。
女の顔は瞼の裏で瓦解した。
目を開けると再び暗闇が訪れた。思考は止まり、暗闇と陽物の前後運動だけが部屋に残った。
「ねえ、何か喋ってよ」女の声は哀しみを帯びる。
私は肩で息をしている。汗は止まることを知らない。
「ねえお願い、何か言ってよ」
女はいよいよ泣き出した。
嗚咽と喘ぎの中、何度も、お願い、と言った。私は何も言葉が出てこないことに驚いた。何ひとつとして喉から音が洩れてこない。
理由は知らないが、このどこにでもいそうな女は、卑しくも私の言動を司る着想を与えていた。私の書く文章は全て女か矢前に宛てられたものだった。そしてこれからもそうなのだと思っていた。しかしこの一回の運動で、たった一回の卑小な運動でその着想が失われていく。こうして私は小さくも誇り高い所業の源を忘失していく。私が彼女にしてやれることなど最初から何もなかったのだ。
そのうちに陽物が力を失くしていくことを感じた。私は焦って息を呑んだ。それは女のベソよりも大きく響いた。筋力の限界がみえている中でも前後運動を止めるわけにはいかなかった。
呼吸が乱れて息苦しい。私は全神経を自分の陽物に集中した。
悲鳴を上げる筋肉と嗚咽を漏らす女。
「なんでなんにも言ってくれないの」と女が言ったとき、私は果てた。
そのままの状態で、陽物が萎え果てても私は動くことができなかった。
息が弾んでいつもの呼吸ができない中、私は女の顔に触れた。涙か私の汗か分からない水滴が女の顔に広がっていた。
私は女の上に俯せた。女の膝が私の脇腹を締めつけた。
「ごめんね」と女は言った。
「ごめん。もう二度としないよ」と私は息絶え絶えに言った。
パネルの電気をつけ、女は洗面所に行ってからすぐに布団に入った。私も避妊具を外して横になった。女はこちらに背を向けた。
数分もすると女の寝息が聞こえてきた。仕事が忙しく睡眠もなかなか取れないで余程疲れていたのだろう、悪いことをした、と思った。
胃腸を逆流しようと汚物が動き回って気分が悪く、いよいよ頭痛がひどくなった。私は女を起こさぬよう立ち上がって煙草と灰皿、お茶と本を持ってトイレに入った。可能な限り胃の中のものを吐き戻し、洗面所で嗽をしてから戻って便座に腰を下ろした。全身が気だるく重かったが目を瞑っても眠れそうにはなかった。コーヒーが飲みたくなったが、部屋に行って女を起こしてしまうのも気が引けた。諦めてお茶を飲み、本を読むことにした。午前四時、一時間半もすれば女は起きる。その時にコーヒーを飲もう。
便座の上に足を上げ、何度目か知れないゾラの『制作』を読んだ。二年前に矢前から借りてそのままにしている。膝が震えるところの描写など、かわいらしくユーモラスなところがあってそこにたどり着くのを楽しみに読む。主人公の画家クロードを、ひいてはその元になったセザンヌを矢前に重ねて読み進める癖がついた。デカダンの矢前はゴッホのほうがそぐわしく思えるがこの小説においてはクロードに似つかわしいところがある。そして僭越ながら小説家サンドーズを、ひいてはゾラ本人を私に重ねて読む。サンドーズがクロードに与える愛情を、そしてまたゾラがセザンヌに宛てた皮肉から洩れる侮蔑込めた親しみを、私は矢前に対して抱いている。憎らしい程の親愛の情をもって彼を見、芸術の師として彼を仰いだ。人間らしい生活を放棄した破滅的な矢前の生活をどうにかしてやりたいと心より願う積年の思いが溢れて私の目頭が熱くなった。
三歳で初めてできた友達だった。同じマンションの二つ隣に住んでいた。彼は高校生の時に母親を亡くし、それからは芸術に没頭してそれ以外のものを捨てた。高校を卒業すると美大に進学しろというまわりの勧めを断り、裸一貫で上京した。東京で家もない状態で流浪しながらなんとかアルバイトを見つけて家を借り貧乏な生活を今まで続けている。その金銭的に苦しい中でも彼は独学で美術史や絵画手法を研究し、それを表現に活かした。
彼は昔から、そして今でも援助を乞わない。家族や友人と会うことさえなく、どれほどの貧困状態が続いても誰にも助けを求めない。私とは会うというのが不思議なくらい彼は芸術以外のほとんど全てを拒絶した。
私は彼を救わねばならない。彼の圧倒的な才覚から生まれる作品を明るみに出さねばならない。それが使命のように感ぜられる。それなのにどうだ、私は無職でいてもうすぐ家を失う。もしかしたら矢前の家の世話になるかもしれない。実力と努力を棚に上げて小説の中の小説家に自分を重ねて現を抜かし、差し伸べなければならない手を、逆に差し伸べられているではないか。
恥ずかしく、苛立った気持ちが水に垂らした墨汁のように全身に広がってきた。本の内容もろくに頭に入ってこなかった。私は諦めて煙草に火をつけた。
鼻の前まで近づいた中指と人差し指から女のあの甘い匂いがして、私の熱は急に冷めていった。甘ったるくて嗅ぎ続けると気分が悪くなるような匂いだった。私は煙草を吸うのも忘れてその匂いを嗅いだ。煙草の灰が長くなって床に落ちた。
気がつけば時が進み、女を起こさねばならない時間になった。
トイレから外に出ると部屋中に女の膣液の甘い匂いが広がっていた。
私は女に近づき、ゆっくりと布団に入った。女はそれに気づいて眠そうな目を細く開け、ううん、と言って私の唇を吸った。
もう五時半だと言うと女は枕元の携帯を確かめて、もう少し寝ると言ってそのまま目を閉じた。しばらく私はその寝顔を見た。内に巻いた髪のせいで気づかなかったが女の顔の輪郭は特徴的だった。影で演出する写実的な肖像画の顔と違って細い線ではっきりとした輪郭が顎から首まで描かれているように見えた。どこまでがその荒れた顔なのか強調するような輪郭線だった。
私は再び眠り始めた女の鼻の下に指を近づけたが、女は反応しなかった。柔らかい髪に指を通しても寝息は続いた。
暗い部屋を少し明るくして矢前にメールを打った。そしてコーヒーを飲みたかったことを思い出し、冷蔵庫近くの棚を調べるとカフェオレしかなかったのでそれをつくった。
女がゆっくりと起きてきて目を擦りながらソファーに座った。出来たばかりのカフェオレを女の前に置いて、カフェオレ淹れたよ、と言った。
「ありがとう。やさしいね」
女は化粧の取れかかった薄い目尻を優しく下げた。
時間は六時を回り、女は化粧を直した。女が飲む前に私はカフェオレを飲んだ。水道水の味がした。
女は手鏡を見て化粧を直しながら、私の今日の予定を尋ねた。それに答えると矢前のことを聞きたがったので私は長々と話した。
女は手鏡をぽんと閉じ、そう、と笑って帰りの支度をした。私も冷蔵庫の余ったビールを鞄につめて、そして無意識に時計を忘れて玄関に向かった。
女は最後に私の腕を掴んで引き寄せ、キスをした。
女は結局カフェオレを一口も飲まなかった。
*
誰かが肩を叩いた。鳴り響く声楽が恐ろしくはっきり聞こえてきて私は目を開けた。
「出よう」
そう言うと矢前は演奏中にもかかわらず近くの左側の扉から外に出た。いつの間に彼は戻ってきていたのだろう。
私は目を擦りながら数分間席に座ったままでいた。やっと眠気から覚めてきたところで立ち上がり、最後にアルトの美しい女を見遣った。私が直立したままじっとしていたせいか、美しい女は横目でこちらを見た。私は出来る限りの感謝を込めて彼女に微笑み、会場を出た。
最初に入った扉の前に着くと矢前がパンフレットを読んでいた。入り口の横のスピーカーから中の演奏が聞こえてきた。そばに立っていた五十歳ぐらいの女が、チケットの半券をお持ちでしたら再入場できますので、とわざわざ言いに来た。私が、ありがとうございます、と言うと、彼女は優しく微笑み、元の場所に戻った。矢前はその女性をしばらく見続けていた。
外は一段と寒くなっていた。風が強く吹いていよいよ冬を感じさせた。ほんの微弱ながら雨も風に混じって頬に触れた。見上げれば街灯の光が霧雨に反射してぼやけていた。台場の雨よりももっと細かい雨だった。十七時を過ぎて、どこにあったか知れない太陽が見えないところから見えないところへ消えていった。
私たちはテラスで煙草を吸った。ビールを持っていることを思い出して、いるか? と聞くと矢前は受け取った。もう一本取り出して私も飲んだ。喉が渇いていたので美味かった。ぬるいビールも体内では熱を奪い、風が吹く度に体が震えた。矢前は何ともないのか、ぼんやり川を眺めていた。その冷え切った目元は諦めにも似たある種の救われない絶望を内に含んでいた。
絵を描いても誰に見せるでもなく、また賞などに応募するわけでもなく、彼はただ芸術の中に真理を求めた。東京に来たわけも、同じ思いを持つ人を探して議論を交わし、その中で本来的な芸術の意義を見つめたかったからだった。しかしその同志は見つからず孤独の中を彼は突き進んだ。その目は色濃く彼の苦悩を映していた。
「声楽の中に一人若くてきれいな人がいたよな」と私は言った。
彼は黒くなっていく川を眺めながら、知らない、と言った。もう川沿いの歩道には家族連れも仲の良さそうな男女もいなかった。
我々は煙草を二本吸い終わるとやがてあてもなく歩いた。
会話もないままに大通りを渡り、小道に入ったり出たりした。そのうちに空は完全に黒く塗り潰されて夜になった。埋立地が都市化する速度と今日の陽の落ちる速度を思って駟が隙を過ぐるようだと感じながら、一方即座には快方に向かわない私の悪況を思って仕方なく笑った。
三十分ほど歩いた頃、急に雨は強くなった。私たちはシャッターの閉まった店の軒下に入り、腰を下ろした。雨の音を聞いていると、幼い頃、豪雨の中を傘も差さずに矢前と二人で遊び回ったことを思い出した。まだ自転車の補助輪が外れたばかりの時分で、私は赤色の、矢前は黄色の自転車に乗っていた。形は全く同じもので多分親同士が合わせて同じものを買い与えたのだろう。豪雨に気づいた私たちはひっそりと家を抜け出しマンションの前の駐車場を自転車で走った。私より補助輪を早く外した矢前は運転が上手かった。私は何度も転びそうになったが必死に彼についていった。それに飽きると自転車を降りて大きな水溜りに飛び込んで転がった。普段怒られることほどやっていて楽しいことはなかった。しかし大きな笑い声が雨に吸い込まれると私は後に親に怒られることが恐ろしくなって弱音を吐いた。矢前はいつも大丈夫だ、と言って私を導いた。私は彼の真似ばかりしていたように思う。いつか彼が居間から父親の煙草を持ってきた時も、私は止めておこうと言ったが彼は聞かずにそのフィルターを抜き取り、中身の葉をベッドに撒き散らした。私はそれにつられて一本だけ分解したが彼は何本もばらばらにした。その後当然私たちはこっぴどく怒られて泣いたが、口の立つ彼はそれを私のせいにした。私はどうしていいか分からずに何度も謝った。
そんなことをふと思い出したから彼に話したが、彼は全く覚えていないと言った。
「悪いことをしたら全部俺のせい。お前は褒められてばかりだったように思うよ」
「覚えてないな」と矢前は興味のない声で言った。
「じゃあ、かまきりを捕まえた時のことは?」と私が聞くと彼は首を傾げた。
「俺のほうが大きなかまきりを捕まえたのにお前は自分の小さなかまきりのほうがきれいで格好いいし、しかも雄だからって言って俺をけなしたんだよ。俺のかまきりは雌だったから」
矢前は笑った。そんな覚えはないと言って立ち上がった。雨が少し弱まったのを見て彼は歩き出した。私も昔のようにそれについていった。
大通りを渡り、道なりに進むと八丁堀駅があった。私たちはそこから上野にいき、常磐線に乗って千葉の松戸にある矢前の家に向かった。
松戸に向かう電車では機嫌が悪いのか、私が何を言っても彼は返事をしなかった。それもよくあることだったから私は適当に今朝の女について少し話した。すると彼は突然苛立った口調で言った。
「お前の悩み、まあ悩みではないかもしれないが、その後ろ向きで平均台を渡るような心情はいつも同じだな。もう俺らは二十三歳になったんだ」
私は彼が何を言おうとしているのか分からなかったが、その声色で彼の不機嫌が知れた。
「端女につかう時間がどれほどのもんだっていうんだ。そんな暇はないだろう。もう大人なんだから。恥ずかしく思わないのが不思議でならない」
彼の女性蔑視はいつものことであったがその卑下が私に及んだのは今日が初めてだった。心に不愉快な気持ちが芽生えたが、彼の言う通り、私は現を抜かし女にかまけて自らの怠惰を認めないようにしていたのかもしれない。私は言葉を返さなかった。それからは会話もなく、車内の雑音を聞きながら目を瞑って眠るふりをした。瞼の裏の暗闇が今朝のホテルの暗闇を思い出させて女の啜り泣く声が聞こえてきた。あの女はなぜ泣いたのだろう。その声はあの台場での雨と波の音に似ているような気がした。
松戸駅から一駅のところに矢前の家はあった。常に鍵を開けっぱなしにしているというドアを開くと煙草と埃の匂いが鼻を衝いた。
それにしても彼の部屋は汚かった。今まで見たどの家より物が散乱し、床を埋めていた。靴を脱いで入ることさえ気が引けた。部屋には画材とウイスキーボトル、脱ぎ散らかした服、それに大きな虫かごがあった。
矢前は上着を脱ぐと床に投げ、ああ、と息を出して今日一日の疲れを見せた。椅子に座り、湯呑みにウイスキーをなみなみ注いで飲んだ。以前から彼はよく酒を飲んだが、常時飲み続けるようになったのは知らなかった。彼はもう一度、ああ、と苛立った声を出した。
私は座らずに部屋の中を物色した。東京に来てからは年に数回しか矢前と会うことはできなかったが、会えば必ず彼の家に行き、そして彼の絵を観るのが習慣としてあった。今回も服やゴミを掻き分けて絵を一枚ずつ観た。やはり彼の油絵は私に興奮と不安を与える力をもっていることが知れた。例えば静物、花の絵であっても細部まできちんと描かれながら、その後に輪郭をぼかしたり、はたまた風に揺れる動きを演出するような曖昧な線や模様が主題のまわりに、もしくはそれに重なるように描かれていて、破壊的な美しさがそこにはあった。この絵の途中の段階ではもっと明らかな遠近法を用いていただろうし、主題がもつ視覚的な美しさも直接的に描かれていたことは確認できるが、それに勝る彼の破壊的思想が侵略していく様を後に見なければならない。視覚が捉える対象物の美しさを残しながらと言えば聞こえはいいが、その実、それの内奥にある本質に彼の美意識が反応してその表面的な見栄えを破壊し、彼が言ういわゆる「詩情」を内在させて新たな価値を見せつけ、それこそが対象物の本当の姿であると言わんばかりに観る者の無理解を侮蔑するのである。
しかし気づいたことは部屋にあるどの絵も以前に観たことがあった。不思議に思ってもう一度全ての絵を観返し、修正されているところを探したが見当たらない。
おもむろに矢前は立ち上がり、物臭そうに部屋の隅にあった紙袋の中から画用紙を数枚とスケッチブックを出して私に渡した。それらは全て素描だった。手、顔、花、木、そして先人の作品を模写したもの。それらは習作に違いないのだが、素描の枠を超えてひとつの作品として力をもち、油彩に劣らぬ自信を誇っている。私は床に隙間を見つけて座り、それらを観た。
「完璧なデッサンの上に、より輪郭線をはっきりさせて水彩で詩情を乗せていく。それが二十七歳ぐらいまでに完成すればと思ってる。油彩はそのあとだな」再び椅子に座って髪を掻き上げながら矢前は言った。
私はしばらく絵を観、横目で部屋中にある埃や髪の毛を見遣った。夏であれば数えきれない数の害虫が潜んでいそうな部屋の荒れ様に嫌な気持ちになった。
「お前が元気でこうして作業を続けているのを知れると嬉しいよ」
私がそう言うと、矢前は何も言わずに溜息に似た音を喉から出してウイスキーを飲んだ。そして首をひねり、口を開いた。
「俺はさ、今や孤独なんて超越して自分が自分に絶望してる中で遊んでるんだ。凡庸さが本質の隠れ蓑になってることに気づかない徒党を組みたがる皆さん、彼らに一生退屈の刑に処されるなんてまっぴらなんだよ。こんなにも魅力的な地上で、感情の流れに波乗りすることを許されたのに、人生とは白ける女に気を遣う一日だなんて、そんなわけないだろう」
私は何も答えなかった。
「安心を脅かされて己の保証を主張する連中に鈍麻された俺の感情、なんと醜い奴さんの安心のために気を遣い続けなければならなかったか。きっとお前には分からないし、それはそれで良いと思う」
彼は俯いて自身の言葉を確かめるように頷いた。
「それがね、しかし俺の表現の方法になっている。自我が芽生え、年を重ねてようやく確固たる個性というものが誰しもに表れるように、表現にもそれがあって、俺はどうしても破壊的なイメージを選ぶしかなかった。最初から他に選択肢はなかったじゃないか」
一瞬、彼の亡くなった母親の顔が浮かんだ。彼とよく似た目をしてどこか怖い印象があった。彼は通夜の時、剃刀で頭を丸めてきて、ただじっと床を見つめて椅子にかけていた。その姿が弔問客の涙を誘ったが私は底知れぬ恐怖を感じた。彼に飲み込まれてしまう、と思った。その感情が何を指すのかは知れないが、確かにおぞましかった。そんなことを思い出しながら天井の電灯を見遣って、私はまだ何も言わなかった。
矢前は煙草に火をつけた。長い間何も言わず、煙草を吸い終わるとただじっと動かないでいた。それから彼はエルンストの『慈善週間または七大元素』を読み始めた。そしてたまに声を出して笑った。
「お台場の雨、綺麗だったよな」本に目を落としたまま矢前は言った。
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始終考えていたことであったために、私の中の驚きと喜びが共鳴した。あの風景の美しさが夢でなく現実として確かにあって、間違いなく矢前の心を打つものがあったのだと知れると、あの雨の一滴々々が色彩を帯び、乱立するビルや海の輪郭を奪っていく様が鮮明に思い出された。女の差す傘は私たちを隔離し守ろうとした。目の前の社会が溶けて消えていく中でも確かに私たちは独立した存在としてそこにいた。
それ以上言葉を継ぐ様子のない矢前を見て、私は姿勢を正して質問した。
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「ああ。ばばあだろ」矢前は口元を緩ませた。
彼は悩むことなくばばあと言い放った。きっと具体的な像を思い浮かべているのだろう。そこで私は中年の女や老婆の顔をその女に当てはめてみたがどうも現実味を帯びてこない。何度思い出そうとしても私の頭に浮かんでくるのは今朝の肌の荒れた女の顔だった。
「もっと若くなかった?」と私が言うと矢前は天井の方を見遣ったが何も言わなかった。
「分からないけど。何度思い出そうとしても俺は今朝まで一緒にいた女の顔がぴったりくるような気がして、それ以上思い出せないんだ。俯いているから表情までは読み取れないけど、本当にあいつがそこにいたような気がするんだよ」
「いや、絶対ばばあだな。コンサートホールの入り口にいた、最後に声をかけてきた人いるだろ、再入場云々言ってた、あんな顔だったよ」
矢前の言うその女の顔をまるで思い出すことができずに砂浜の女は未だ顔の詳細を得なかった。
「いや、でもさ、どっちにしても、女だろ」と矢前が言った。冷笑を存分に込めた言い方だった。
私は同意した。が、同時にその言葉に対して矢前とは逆の視点に立っていることを思った。それは間違いなく女ではあった。そして女としてそこにいた。加えて言えばそれは女としてそこにいなければならなかった。
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なるほど全く同じ顔をして泣いていたのだと知れた。
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「そうだよ、それはきっと俺にとっては今朝の女だったんだ。そしてお前にとってはきっと、」と言いかけたところで私は口を噤んだ。
しかしそれで矢前は悟ったらしかった。
「俺はそれを失うべくして失っているし、導かれるように孤独に全身を傾けた。そして孤独に弄られ踏みつけられることの全てを許してきた。その孤独やその他唾棄され得るあらゆる不幸に身を委ねて、その見返りにちっぽけな着想を得てきた。実際ここ数年、女に頼ったことも期待したことも、深い関係をもったこともない。やつらは全く美しくなんてなかったから」
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私は俯いて指の匂いを嗅いだ。肌の暖かな匂いと煙草の匂いが錯乱していた。しかしその最も底の部分にまだ女の匂いがあった。それは私を憫察しては突き放した。私は常に女が去りゆくことを思って心穏やかでなかった。いつまでも傘を差して私を守ってもらいたかった。
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その時、何か白いものが動いた。玄関近くの壁際に置かれた虫かごから何かがこちらを見ている。私は立ち上がって虫かごの近くに寄った。するとそれは真っ赤な丸い目をした白い蛇であった。蛇は巣の中に身を隠していたので今まで気づかれなかった。細い頭首を真っ直ぐに伸ばし、赤い目でこちらを見て何度も舌を出した。人から譲り受けたというその蛇は実体のない仮象の姿をした何かに見えた。脱皮をした跡も面妖さを引き立たせていた。
「そいつな、よく巣から首出してじっとこっちを見てんだ。でもたまにそれが恐ろしくなる時があるよ」
白い皮膚に内側の赤い血管のようなものが透けている。その蛇を見ていると確かに赤くて丸い目の深さが知れない。目は電灯に反射して光り、私の目を射る。何かに似ていると思った。私は常にこの目に怯えているような気がした。それがいつも遠方から私を嘲る仮の私自身の目であることに気づくのに時間はかからなかった。もう一人の私はこの吸い込まれそうな奥深い目をして私を監視し続けていた。しかしそのおどろおどろしい目になぜか今は怯えより懐かしさを覚えた。この目に悪意はなく、悲哀を帯びたある種の絶望があるだけだった。
突然頭の中にはっきりとした映像としてコンサート後のテラスでの光景が思い出された。川を眺める矢前の目。この蛇の目はなるほど、矢前の目であった。目が合うと瞬く間にその奥に引き込み、絶望の淵へと突き落とす彼の眼光は全くそのままこの蛇に認められた。彼の目はきっと幼少の頃、それも記憶が定かでないほど昔に、私の強烈な劣等感を生んだのだろう。そしてそれはいつぞやもう一人の私、仮象の私というものに姿を変えてこれまで私を監視し続けた。私を見下し、嘲笑ったあのもう一人の私は、竹馬の友である矢前本人だった。
私は振り返って矢前を見た。彼は煙草を吹かして本を読んでいた。私が凝視しても彼はこちらに目を向けなかった。
彼の体が薄らと光を帯びてきたように見えた。その光は彼の体を覆い、朝靄に差す陽の光のように眩く輝くと、徐々に彼の体を飲み込んだ。こうして自信の権化はその輪郭を奪われて消失した。やはり女は矢前の上には傘を差さなかった。雨は彼を溶かして美しい景観の一部に変えた。彼はひとつの作品になって消失した。
私は安心を勝ち取りながら、それに寂しい孤独が含まれることを知って涙が出た。いつか傘の下で、彼と私とそして女とで溶けていく風景を見られる日がくることを願った。
蛇は静止していた。その姿は何も変わっていなかった。それ以降、私は彼について考えるのを止めた。
私たちはずいぶん疲弊していたから、それからはほとんど何も話さずに時を過ごした。矢前は本を読み、マルボロを吸い、ウイスキーを飲んだ。私は蛇を見、エコーを吸い、あらゆる画集を読んだ。もう心に浮かぶものは何もなかった。
気がつけば日曜日が終わって月曜日の朝の光がすぐそこまで来ていた。空が白んできた様子が窓から知れた。私は部屋のロフト部分を借り、タオルケットや寝袋、着られるだけの服を借りて寝床に就いた。床は硬く背中の骨が当たって痛んだ。鼠の糞が目の前に転がっていたが気にならなかった。
「十一時に家を出て仕事に行くから」と言って矢前は電気を消した。
私はぼんやりと時計が進む音を聞いた。どんな映像も頭に浮かばなかった。鬱々とすることも嬉々とすることもなく、穏やかでいた。
足が温まって眠りが訪れそうなとき、矢前は口を開いた。
「お前小説書いてるのか」
真っ直ぐ向かってきていた睡眠が目の前で立ち止って笑い、私の周りを旋回した。目を開けると天井の壁紙の模様が暗い中でもはっきりと見られた。そういえば私は小説というものが自分には書けないということを三週間も前に知ったのだった。そして今日、その意義さえ失ったことに今更気がついた。
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「うまくいくといいな」
「いかないよ」
心の中でもう一度、うまくいくことはないんだよと呟いた。
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白い光が差して私が目を開けた時には昼の十二時を過ぎていた。矢前は仕事に出てもう部屋にはいなかった。硬い床で痛くなった背中を起こして私はロフトから下に降りた。少し頭痛がした。
雑然とした部屋にはだいたい昨日と同じ位置に同じものがあった。しかしそれが変わっていたとしても私は気がつかなかっただろうし、気がついても気を病むことはないだろうと思えた。今日は月曜日で、昨日は日曜日だった。変わるべきものが変わり、変わらぬべきものが変わらないのはしかし私の心を落ち着かせるけれど、この部屋のように、そしてあの台場の雨の景観のように、対象の輪郭が曖昧になれば些細な物事から苦渋を取り出さなくて済むようになるのだろう。そうして私と矢前の境界もそのはっきりとした輪郭が消え、色彩を帯びていけば……。
私は深呼吸をして埃の混じった空気を肺に溜めてゆっくりと吐き出した。冷蔵庫にあったコーラを湯呑みに注いで椅子に腰かけ、煙草を吸った。コーラは炭酸が抜けて嫌な甘さだけが残っていた。机の上には矢前の新品のマルボロがあった。
虫かごを見ると蛇が巣から首を出していた。一層赤みを増したような目をして蛇は何度もピンクの舌を出し入れした。首を引っ込めたり動こうとしたりする気配はなく、ただ凛と佇んでいた。
私は気の抜けたコーラを飲み乾し煙草を吸い終わると借りていた服を脱いで、帰る支度をした。その間も蛇は姿勢を変えることなくずっと私を見ていた。
十二時半を過ぎた時、私は矢前の新品のマルボロを自分の鞄に入れて家を出た。
空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、澄んだ空気に陽が染み渡った。太陽は赤くて丸い蛇の目をしている。補色をなす弱い緑の空、その遠くで私と矢前が肩を組んで笑っている。二人とも幼き頃のように屈託のない笑顔をしている。私はあまりに悲しかった。指の匂いを嗅いだが女の匂いはもうなかった。指からは太陽の匂いだけがした。
矢前のマルボロをくすねたのは私でなくこの指なんだ。この指が、この女が勝手に盗んだのだ、と私は叫んだ。そう叫ぶしかなかった。
そうして私の憂鬱は永遠の輪郭を手に入れた。
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「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
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