パラレルワールド

夢喰

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パラレルワールド

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パラレルワールド

「歯ブラシは、きっともういっか──」

朝の光が斜めに差し込む洗面所で、彼女は小さくつぶやいた。彼の部屋に泊まるたびに置いていたピンクの歯ブラシ。それを今日、持ち帰るべきか迷った末に、もう考えるのをやめた。

今日も彼はベッドの中で、静かに眠っている。少し開いた唇と、布団からのぞく指先。その無防備さに胸が締めつけられるけれど、それはもう“愛おしさ”ではなかった。

洗面台の鏡に映った自分の顔が、ひどく遠く感じた。



彼はお金がない。でも、心だけはとても豊かだった。いつも優しくて、すこし頼りなくて、それでも彼女のことを何より大事にしてくれた。

「なぁ、明日さ、公園行こう。桜、まだ残ってるかな」

そんな風に、ささやかなデートの予定を嬉しそうに話していた彼。コンビニのコーヒーを手に、寒い公園のベンチでくっつきながら話した将来のこと。あれがすべてだった。

休みの日にはふたりでカフェ巡り、古着屋を冷やかし、公園で鳩を眺めて時間を溶かす。夜は彼の狭いアパートでNetflixを流しっぱなしにして、ベッドの上でゴロゴロ。

彼の寝顔を見るのが好きだった。微笑んだような顔。くしゃっとした前髪。小さな寝言。

「ずっとこのままでもいいな」
彼がそう言ったとき、彼女も微笑んで「うん」と応えた。
でもその「うん」は、もう彼女の中では遠い記憶になっていた。



彼女の心は、いつからか揺れていた。

偶然出会った、その人は少し大人だった。話す内容も、身につける物も、生活のリズムも違った。会話には深みがあって、価値観にも芯があった。少し高級なバーでワイングラスを傾けながら、彼とはしなかった未来の話をしていた。

彼とは、たった500円のコーヒーを悩みながら買ったのに。
その人とは、1万円のディナーでも、時間が止まるように心地よかった。

「好きになってしまったんだ……君じゃなくて、違う人を」

罪悪感はあった。でも同時に、その気持ちに逆らえなかった。



スマホを開くと、「おやすみ」のメッセージが来ていた。
彼からの、いつもの優しいスタンプ付きのLINE。
それに、返信はできなかった。

「スタンプも、もういっか……」

通知は消していない。でも開くのが怖くて、手が止まる。
そして、目に入るのは “送信取り消しされました” の文字。

「なにを言いかけたんだろう……」

彼も、どこかで気づいているのかもしれない。
彼女の心が、ここにいないことを。



彼女の中には、今ふたつの気持ちがある。
ひとつは彼への情。思い出、習慣、安心感。
もうひとつは、新しい誰かへの期待。未来、刺激、そして違う世界。

「パラレルワールドみたいに、ふたつに分かれて……壊れそう」

彼女の手の中で、その感情たちはぶつかり合って、崩れかけていた。



夜、彼の部屋に戻ると、彼はいつものように迎えてくれた。
「おかえり」も、「寒かった?」も、変わらない。
だけど彼女は、上手く笑えなかった。

彼は気づいている。でも、何も言わない。
それが余計に苦しかった。

ベッドの中、背を向けて眠ろうとした彼女に、彼がぽつりと呟いた。

「……好きだよ。ずっと」

その声が優しすぎて、彼女は涙をこらえきれなかった。



朝になって、彼女は玄関で立ち止まる。
リュックの中に、いつもの歯ブラシ。
取り出して、また戻して、そしてつぶやいた。

「ごめんね……ほんとに、ごめん」

背後で、彼が立っていた。

目が合った。

彼は何も言わなかった。
ただ、泣いている彼女を、まっすぐに見つめていた。



二人の物語は、そこまでだった。

もう戻れない。でも、確かに愛した。

愛とか恋とか、全部幻だったのかもしれない。
けれどその幻を、たしかにふたりは生きていた。

まるでパラレルワールドのように
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