上 下
2 / 24

第2話 果たされぬ約束

しおりを挟む
 「ねえ、何を作っているの?」

 高校生だった雪乃は、フライパンを巧みに操る大学生の真也に見惚れていた。

 「雪乃にこれを食べさせたくてね? 紋甲イカとオクラのペペロンチーノだよ。
 結構うまいんだぜ、このパスタ」
 「いい香り、美味しそうー、早く食べたーい!」

 雪乃は真也の背中に抱き着き、甘えてみせた。

 「こらこら、料理が出来ないじゃないか?
 パスタはね、時間との勝負なんだ、特にこのペペロンチーノは」
 「つまんないのー、もっと真也にベタベタしたーい」
 「わかったわかった、もう少しだからな。テーブルを片付けて置いてくれないか?」
 「はーい」

 雪乃はしあわせだった。
 学校が終わると、いつも真也のアパートへ直行した。
 当時、真也は大学生で、都内の老舗イタリアンの店で調理補助のバイトをしていた。
 彼の将来の夢は自分のイタリアンレストランを持つことだった。


 「大学を卒業したら、ジェノバの三ツ星レストランで勉強しようと思うんだ」
 「じゃあ私も連れてって、私も行きたい、真也とジェノバへ」
 「そうだな? 雪乃と一緒にジェノバで暮らすか? それもいいかもな?」

 いつしかそれが雪乃と真也の共通の夢になっていた。


 雪乃はイタリア行きの資金を貯めるためにコンビニでバイトを始めた。
 だが、コンビニの時給では到底追いつかないのが現実だった。
 そこで雪乃はキャバクラでキャバ嬢をして働くことにした。18歳だと偽って。
 
 キャバクラはお金になった。
 通帳を見るのがどんどん楽しくなっていった。
 預金残高が増える度、真也とのジェノバでの生活が近づくのが実感出来た。



 真也が卒業間近になった頃、雪乃は真也に通帳と印鑑を渡した。

 「どう? すごいでしょ? こんなに働いたんだよ、私。
 ねえ、これだけあれば行けるよね? ジェノバ」

 真也は喜んでくれると雪乃は思っていた。
 真也のために貯めたお金だ。お客に胸を触られたり、タバコ臭いハゲオヤジとも同伴もした。
 古株の先輩キャバ嬢に妬まれ、ロッカーのドレスを切り刻まれたりもされたが、それにも耐えた。
 そうして貯めたお金だった。
 だが、真也の反応は意外なものだった。

 「がんばったんだね、こんなにたくさん。
 辛かっただろう? 雪乃。
 でも、これは受け取れないよ、君が稼いだ大切なお金だ、その気持ちだけ貰っておくよ」

 そう言って、真也は通帳と印鑑を雪乃に返した。

 「いいんだよ、真也にあげる。
 だって、真也のために貯めたお金なんだよ。
 ね、だからこのお金で一緒にジェノバに行こうよ」
 「ごめん、雪乃。ジェノバへは俺ひとりで行くことにしたんだ。
 どうなるかわからない俺の修業に、雪乃をつき合わせるわけにはいかないよ」
 「大丈夫だよ、私、真也の邪魔はしないから。
 真也と一緒にいたいの、ただそれだけなの。
 お願い、私を置いて行かないで! ジェノバに一緒に連れて行って!」

 

 成田の北ウイングに真也を見送りに行った時、真也は雪乃に言った。

 「雪乃、俺は必ず一流のシェフになって戻ってくる。
 それまで待っていてくれ。そしてふたりで日本一旨い、イタリアンの店をやろう。
 名前はもう決めているんだ」

 真也は雪乃に紙切れを渡した。


         Cucina Yukino's


 「雪乃のためのお店だ。
 俺と雪乃のための夢のRistoranteだよ」

 雪乃は泣いた。
 成田の出国ゲートが涙の海で沈んでしまうくらいに。

 「じゃあ、行ってくるよ」

 真也は雪乃を強く抱きしめ、キスをした。
 そして彼は右手を高く挙げ、振り返ることもせずにエスカレーターを降りて行った。



 そしてそれっきり、真也は日本に戻ることはなかった。
 彼はジェノバで死んでしまったからだ。


 仕事を終え、バイクでアパートへ帰る途中の事故だったらしい。
 交通事故だった。
 
 やさしくてイケメンで、いつも真也と一緒にいるだけで穏やかな自分でいることが出来た。
 いつも彼の香りに包まれ、癒されていた。


 雪乃の時間はこの時から止まってしまった。

 どんなに美味しい食事をしても、どんなに素敵な男に抱かれても、雪乃の心はそれに追いつくことが出来なかった。

 雪乃は心をなくした着せ替え人形のようだった。
しおりを挟む

処理中です...