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第13話 普通の暮らし

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 白い朝日に包まれたキッチンで、雪乃は小次郎のために朝食を作る幸福の中にいた。

 小次郎はシャワーを浴びている。

 鰆の西京焼ときんぴら、出汁巻卵に糠漬、そして豆腐となめこ、ネギの味噌汁。
 雪乃は味噌汁の味見を入念にしていた。

 「うん、これで良しっと」

 エプロン姿の雪乃の心は躍っていた。


 自分のマンションに男を招き入れたのは小次郎が初めてだった。
 男たちはここへ来たがったが、雪乃はそれを許さなかった。

 セックスをする時はいつもホテルか男の家だった。
 ここは雪乃と真也の聖域だったからだ。
 そして小次郎を雪乃は自らここへ誘った。


 小次郎がバスローブを着てシャワーから出て来た。

 「おはよう、小次郎。ご飯にしようよ、ありあわせだけど」
 「おはよう、雪乃。すごくいい香りがするね?」

 雪乃は小次郎にキスをした。

 「さあ、食べましょう。
 あっ、ちょっと待って」

 雪乃は小次郎の手からタオルを取ると、それで小次郎の拭き残した髪を拭いた。

 「もうー、まだ濡れているじゃない。子供みたいなんだからー」

 雪乃は嬉しそうに小次郎の頭を拭いた。
 それはまるで長年連れ添った夫婦のように。


 「いただきます」

 ふたりは手を合わせ、同時に味噌汁を啜ると顔を見合わせて笑った。

 「同じだね、食べる順番が」
 「旨いな? この味噌汁。料亭の味がするよ」
 「料亭だなんて大袈裟よ。でもお味噌はね、金沢からのお取り寄せなの。美味しいでしょう? このお味噌」

 小次郎は静かに頷いた。

 雪乃はこのまま死んでもいいとさえ思った。
 雪乃がずっと欲しかった物、それがこの朝の風景だった。
 好きな男のために洗濯をし、食事を作り、男の靴を磨く・・・。
 そして夜は一緒に昔のサイレント映画を観ながらお酒を楽しみ、男に抱かれて穏やかに眠る暮らし。
 それが雪乃の夢だった。


 テレビは点けなかった。
 朝から悲惨なニュースを見たくはなかったからだ。

 透明感のある小野リサのボサノバが、清々しい朝の始まりを演出している。
 



 小次郎はスーツに着替え、出掛けようとしていた。

 「ねえ、今度はいつ会えるの?」
 「日曜の午後かな?」
 「イヤ、日曜まで待てない!」
 「だって夜は雪乃が仕事だろ? 経営者なんだからしっかりやらないと」
 「だったら休む、お店なんか休んじゃうもん」

 雪乃は女子高生のように駄々をこねる素振りをして甘えてみせた。
 小次郎はそんな雪乃をやさしく抱き締めた。


 雪乃は小次郎に家のスペアキーを渡した。

 「これ、この家の合鍵。
 いつでもここに来ていいからね?」

 小次郎は鍵を自分のキーケースに収めた。

 「じゃあ行ってくるよ」
 「いってらっしゃい。気を付けてね、あ、な、た」

 雪乃は「あなた」というその言葉に、乙女のように顔を赤く染めた。
 雪乃は小次郎に口を尖らせ、キスをせがんだ。

 「行ってきますのチューは?」

 小次郎は雪乃にやさしくキスをした。

 だがその時、小次郎が酷く寂しそうな顔をしていたのを雪乃は知らない。
 雪乃はしあわせの絶頂にいた。

 ふたりの試練が、これから始まろうとしていた。
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