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4章

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 「アタシさぁ、「アレ?こんな歌作ったかなぁ」って思っちゃったよ。
  そしたら、ようちゃんが歌ってるんだもん。びっくりしちゃったヨ!」
 
 美月さんことみっちゃんの、ピーチサワーのジョッキを持ち笑いながらの言葉が
店内に響いた。
   今回、みっちゃんは音響の担当だったので、客席に作ったブースで機械を
操作して音出しをしていたのだ。
 ここは、劇場の近くの居酒屋の座敷席。
 初日の公演が無事に終わったので、とりあえずのお疲れさんという事で、
若い劇団員達8人くらいで飲みに来た。
 「でもさ、ようちゃん。何で[悪女]なの?」
 きょとんとした目でみっちゃんが聞いてきた。
   みっちゃんはクリンとした瞳でショートカットで、微笑むといい笑顔をする
女の子だ。
僕とは同い年なので、いろいろと話すうちにいつの間にか
「ようちゃん」と呼ばれている。
 
 「なんで?・・・それは・・・なんでかと言うと・・・・」
 みっちゃんは、うん?とまっすぐな眼差しでこっちを見てきた。
 「センス?かなぁ・・・・」
 「ばぁかじゃないのアンタ! 何がセンス? 十年早いわ!
  いや、二十年早いわ!」
 隣にいた菊池さんが、太い腕で背中をバンバン叩きながら怒ってきた。
 のを見てみっちゃんはコロコロ笑う。
 「でもあれだよね。最初の舞台転換の後でさ、寿司屋さんが
  タワーの後ろからジャーンプで戻ってきたよね?」
 と川村さんがニヤニヤして告げた。
 「しょうがないっスよ。あのままだったら、寿司屋出てこなかったですヨ」
 「そうしたら、奥村どこ行った!って田丸さんが舞台のそでに来る
  トコだったよね」
 「そんな事あったらそのまま外に逃げますよ。」
 「じゃあ、寿司が届かないだろ?」
   「そこはあれじゃないですか、残った役者さんが[お寿司届かないねえ]って
  言い続けてもらえれば」
 
 そこからみんなの話は、寿司屋が舞台に取り残し。の他にも、細かい転換で
ミスがあった。舞台監督の増井さんは大丈夫か? 
 今回は転換が多くて、舞台監督としてきちんと仕切れていないんじゃないか。
という方向になっていった。
 どうやら、何十年もやってるベテラン団員達と若手の団員達の間には、
考え方とか思いとかに違いがあるみたいだ。今までのやり方を重視するベテランと、
革新的な事もやってみたいし、自分達世代の発言も重要視してほしい若手と――。
 
 僕は、正直な所よく分からなかった。
 確かにおっさん達に怒られるのはムカつく。でもそれに立ち向かえる
だけの技術があるかと言われると、無い。
 まあどうせ自分は映画の世界に行くための腰かけ気分での劇団員だし、
劇団ってこういう事もあるんだなぁ。いろいろ大変だなぁ。と思っていたら、
ドスンと背中を叩かれた。
 何?とそっちを見たら湯座さんだ。赤い顔で血走った目つきだ。
 
 「こら寿司屋ぁ。勝手に歌なんか歌うな」こりゃ面倒だ。
 「エ? 歌ってました・・・っけ」
 「歌ってたろぉ?♪あーくーにょーになーるなら。だっけ?」
 「あくじょ。です。ちょっと音程も違いますよ」
 「んなのどうでもいいんだヨ。この野郎。
  いいなぁ、好き勝手やりやがって。
  アタシはトラップの時さ、一個も好きな事出来なかったんだぞ」
 「なんかスイマセン」
 「そうだよオマエ。湯座ちゃんの言う通りだよ。
  オマエがアドリブなんて百年早いってさっきみんなで言ってたんだよ」
 と面倒な展開でさらに面倒な菊池さんが入ってきた。
 「あれ? 百年でしたっけ? さっきは十年って言ってなかったでした?」
 「うるさいね。とにかく生意気なんだよ。奥村のくせに」
 「それジャイアンが[のび太のくせに]って言うのと一緒じゃないスか」
 「オマエなんかのび太のレベルでも無いんだ。
  のび太の鼻くそみたいなヤツなんだよ!」
 「ヒャハハハ!のび太の鼻くそっていいね」
 湯座さんのツボにはまったみたいだ。
 
 先輩と話すといろいろ勉強になる。今日は、新しい悪口言葉を教えてもらった。


 翌日の朝、目が覚めて、普段と変わらずに食パンで朝食を食べた。
 
 歯を磨いて、顔をアワアワにして髭を剃っている時、鏡に映った自分の顔を
眺めつつ、
 「あ。こうやって寿司屋の兄ちゃんを演じる人として髭を剃るのは最後なんだ」
 と気が付いた。
 そう考えると、今さっき歯を磨いたのもパンを齧ったのも寿司屋として最後だった
わけだ。何も考えずにやってたけど、もうちょっとしみじみと歯を磨けば良かった。
と少し後悔してしまった。
 
 「きれいな口紅」の千秋楽の日。
 朝に集合し、全員でミーティングした後、皆は個々に散る。
 そんな中、客席に座った笠野さんと増井さんが深刻そうな表情で話しをしていた。
何の話かはよく分からないが、笠野さんが一方的に喋って、増井さんが聞き役に
徹している。
 正直言って、増井さんがそんな聞き役になるなんて初めて見た。
 「笠野さん、増井さんから見ると装置の師匠みたいなものだからねぇ。」
 ふっと横を見ると、松岡さんが心配そうにそれを見ていた。
 しばらくして話し終えると、増井さんは今度は田丸さんと何やらボソボソと
客席で話しはじめ、それが終わると皆に号令をかけて、場面転換の稽古をやると
言い出した。
 楽日の最後の一回の上演の為に、場面転換の稽古をやるって事がどれだけ
前例のない事か分からなかったけど、ベテランの船井さんや駒込さんがそれを
聞いた時に、ちょっと不満そうな表情をしていたのは見ていて分かる。
 
 昨日の二度の上演で小さな失敗のあった場面転換の稽古は、時間ギリギリまで
続き、それを見守る増井さんの目つきは険しかった。
 

 そして、最後の上演の幕が開く。
 
 この、演劇っていう表現方法は、どういうものなのだろうかと
未だに分からない。
 僕は、時にはタワーを回したり、時には寿司屋として演じたり、
一人の群衆として演じたりしている。
 でも、「主演女優の船井さんの為」とは思わないし、
「演出の田丸さんの為」とも思っていない。
 だからって、それが自己表現かと言われても、そんなに自分が表現できている
とも思えない。
 ただ、スムーズにタワーが回って転換出来た時、悪女を歌いながら
寿司桶を持って袖に帰って行く時、なんだかとても気持ちがいい時がある。
 それは、「うまくお客を騙せることが出来た」と思う瞬間なのかもしれない。
 そう考えると「演劇やってます」ってなんか文化的な感じがするけど、
やってる事は詐欺師とあまり変わりないかもな、と思ったりもした。
 
 楽日の最後の寿司屋の登場。鼻歌は、「雨上がりの夜空に」でやってみた。
 
 ♪どうしたんだ ヘヘイベイベー バッテリーはビンビンだぜー 
 ピンポーン。お待たせしましたぁー。

 という感じで。
 エ?セリフ? あー、そういえば喋ったなぁ。どうだったんだろう?
 うまく演じられたのか、お客さんの心に残る寿司屋になったのかは分からない。
セリフが飛んだり気持ちが途切れたりといった分かりやすいミスは無かったけど、
失敗しないなら成功かというとそういうわけでも無いんだなというのは、
おぼろげながら分かってきた。

 
 最後の場面の一つ前。
 現代での船井さんが、娘夫婦とケンカして家を出て、駅に行った時への簡単な
転換場面の時のことだ。
 娘の家での口論してそこを飛び出すシーンから暗くなり、船井さんが
ピンスポットで照らされて・・・
 独り立っている。しかし、持っているはずの家出する荷物が無い。
 舞台袖では、小道具担当がせっぱつまった顔で
 「どうしよう!荷物置き忘れちゃった!」
 と大きなボストンバッグを持って慌てている。
 小道具がボストンバッグを所定の場所に置いておき、それを暗くなって
袖に下がった船井さんが持って出ていくはずだったが、その場所にバッグを
置き忘れたみたいだ。
 でも荷物が無いと「ただ家を出ただけ」になって、ラストで田舎に帰るという
決意を喋るがそれが伝わらない。
 小道具の訴えを聞く増井さんも奥歯を噛み締めている―。
 
 その時、バッとバッグに手が伸びてそれを奪った。
 見ると、ゴリラの駒込さんだ。駒込さんは手に持ったバッグを、
船井さんの長女役の前に出して
 「恵理子、出る時にこれ持っていけ。で、
  「お母さん荷物忘れたでしょ?」って渡してからセリフ言え」
 そう早口で指示を出す。
 確かにこれから駅に長女が来るので、そこで荷物を渡せばなんとか辻褄は合う。
 長女役の恵理子さんも頷いて、自分の出た時にさりげなくセリフを足して
バッグを渡し、なんとか被害を最小限にはごまかせた。
 でもしかし・・・そこまで、開演するギリギリまで稽古をしていた転換場面は、
全てうまくいっていたのに、稽古しなかった駅の場面で、ただバッグを置いておく
だけなのにミスが起きてしまうなんて・・・
 
 舞台って本当に生ものだ。
 だからどんなトラブルが起きるか全く分からないんだという事を僕は実感した。
 

 ラストシーンを終えて、カーテンコール。
 役者が横一直線に並ぶ。僕は前回のトラップワイフもそうだったが、
今回も脇役なので舞台のはじっこで頭を下げる。
 ペコリと下げた頭の上をウィーンと微かなモーター音をたてて緞帳が降りてくる
のを感じると、ああもうお終いなんだなぁという寂しさがわいてきた。
 前に、吉田さんが言っていた寂しさってこういう事なのかなぁ。
 
 そこから楽屋に戻り、Gパンとシャツに着替えて舞台装置のバラシの作業に
入ったけど、なんだか前回の「トラップワイフ」よりも、「早くバラシてやろう」
という気持ちが強かった。
 なんだか、ゆっくり作業をやっていると、寂しさで気持ちが満タンになって、
ヘタしたら涙が出るかもしれなかったから。
 そんな気分を紛らわせるために、少しでも早く。と思ったのかもしれない。
 ふと見ると、笠野さんも寂しそうな表情で倒される装置を眺めていた・・・
はずもなくて、バールを持って作業している水木さんに、段取りが悪いだの
何やってんだだのと文句を吐き続けている。
 文句言うんなら自分もやりゃあいいじゃんか。このおっさんにそんな繊細な
感傷は無いのかと考えていたら、ジロリとこっちを見た笠野さんと目が合って
しまい、
 「お前なにぼーっとしてんだよ!」と距離があるのに文句言われてしまった。
 本当に食えないおっさんだ。


 グラスがカチャカチャとぶつかり合う音が稽古場のあちこちで鳴っている。
 打ち上げが始まった。
 すぐに席を立って移動する人がいたり、早くも差し入れでもらった日本酒の封を
破りにかかるヤツまでいる。
 でもこの終わった雰囲気や感じは、まるで前回のトラップワイフの時の打ち上げの
再現ビデオみたいだ。
 それでもやっぱり打ち上げはいいもんだ。
 賑やかな中、僕は増井さんがトラックを置いて戻って来るのを待っていた。
来たら、リハでタワーが回らなかった事や、本番中にタワーの裏に取り残された事を
 「本当に大変だったんスよ」とビール飲みながら話そうと思っていたのだ。
 
 が、来ない。
 道路が混んでいるのか、それとも仕事の方で急な用事が出来たのか――。
 増井さんはオシボリとかナプキンとか紙製品を卸す問屋の仕事なので、
急にお客さんに呼び出される事もよくある。
 「増井さん、遅いっスね。仕事ですかね」何気なく松岡さんに呟いてみた。
 「たぶん、来ないと思うぞ」松岡さんのメガネの中の目は曇っていた。
 「え? 何でですか? 急な仕事とかですか?」
 「いや違くてさ――」
 松岡さんが出来るだけ他の団員に聞かれないように身を屈めて小声で言ってくる。
 「――増井さんさ、金曜日のリハの後、吐いちゃったらしいからな」
 え?何で?体調悪いのか?と思った僕の表情を読んで、松岡さんは言葉を続けた。
 「ほら。リハで転換がめちゃくちゃだったでしょ? だからあれで公演がうまく
  出来るのかってプレッシャーでだと思うよ。ましてや今回は笠野さんが装置
  やってて、いろいろ増井さんに言ってきたしね」
 「でも、吐いたとかそんな事全然言ってませんでしたけど」
 「公演中に舞台監督がプレッシャーで吐いたなんてみんな知ったら不安に
  なっちゃうからね。私には言ってたよ。
  「まっちゃん俺昨日吐いちゃったよ」って」
 じゃあ・・・そんな状態で公演を仕切っていたのか。
 「ほら。役者さんは稽古場で何度も稽古出来るけど、裏方って現場行ってからが
  勝負なんですよ。劇場行っての変更もあるし、何が起こるか分からないしね」
 今回の公演がまさにそうだ。田丸さんはもちろんだけど、笠野さんや増井さんや
小道具担当や役者達なんかの様々な想いが交錯して、転換も多く様々なトラブルが
発生した。
 それを時間も無い中で処理していかないといけなかったのだ。
 でも、お客さんは、主演の船井さんや役者達の顔を見て名前を知ったけど、
今回の舞台監督の名前すら覚えようともしないだろう。
 役者達は観に来た人に花束をもらえるけど、舞台監督に「良い舞台を監督して
くれてありがとう」ってバラの花1本でも持ってきてくれるお客さんなんかいない。
 今この打ち上げでも、船井さんの周りにはお疲れ様ですって何人もの劇団員が
グラスを持って近寄ってきて主演女優をねぎらっている。
 でも増井さんは疲れ切って一人で家に帰ってしまった。
 この公演で一番キツイ思いをしたのに、同じ劇団員ですらも誰もそれを知らない。
たぶん、田丸さんでさえも知らない。

 こんな事ってあっていいのか? こんな事があったのに、なんでみんな平気な顔で
酒を飲めるんだ?
 「裏方ってね、大人の遊びなのよ」
 そういう美代子さんの言葉が蘇って来た。
 僕は、その言葉の意味が、ちょびっとだけ分かったような気がした。
 
 その日の打ち上げは、なんだか役者で出演した人たちとお疲れさんですと
一緒に飲む気分になれず、稽古場の隅でビールを持ちながら床に座り込み、
ずっと松岡さんと語り合っていた。
 今回の場面転換の事や増井さんの事や芝居の裏方の事を話していたのだが、
ビールを空にしてだんだん酔っ払ってきた松岡さんがペンキの塗り方や色の
合わせ方について熱く語り始め、僕はハイハイと頷きながらメンドくせえなぁと
思い、全く聞いていないような感じで「きれいな口紅」の打ち上げは終わっていった。
 
 
 
 
 

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