灰色狐と猪娘

海水

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8 そうじゃなくてな

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 ブローディが領地の屋敷に帰ってきたことで、のんびりとしていた屋敷は慌ただしさを取り戻した。
 部屋という部屋、廊下という廊下、階段、果ては風呂にまで様々な花が溢れ出した。主が帰郷し、今後はこの屋敷を拠点とするのだ。当然と言える。

 だがカミラにとっては仰天の風景だったようで、花びらが浮かび、花の香りのする風呂に感激してのぼせてしまっていた。
 ブローディとお庭デートを満喫し、乙女心を鷲掴みにするような歓待を受けて気も緩んだのだろう。
 夕食もそこそこに、カミラはとりあえず運び込まれた部屋のベッドで横になっていた。ブローディはベッドの脇に座り、カミラの様子を窺っている。

「大丈夫か?」

 心配そうな顔をしたブローディはベッドに大の字になりのぼせた顔のカミラを覗く。額に冷やしたタオルを置き、やや顔が赤いカミラがふにゃふにゃと口を動かしていた。

「刺激が強すぎたか」

 ブローディはふぅとため息を漏らす。

「屋敷の使用人一同、待ちに待っておりましたから、やり過ぎたのかもしれません」

 部屋の入り口近くにいる家令がブローディの背中に声をかけた。

「馬車での移動て疲れてるしな」
「ずっと御者をやってくださいました。疲労もピークだったのでしょう。配慮が足らず申し訳ありません」

 背後で家令が頭を下げる気配を感じ、ブローディは手で制す。

「その頑張りのお礼はしないとな」
「よろしくお願い致します」
「俺かよ」

 放り投げられたブローディは苦笑した。

「カミラ様が一番お喜びになるのは、旦那様に何かをして頂く事、ですので」
「……かもな」

 家令の言葉にブローディも仕方ないという顔になる。

「では、就寝の支度をしてまいります」
「程々にな」

 家令が音もなく扉を閉め、部屋から出て行った。人の気配が消え、部屋には沈黙が降りる。

 いまカミラが寝ているのは緊急で運び込まれた部屋であって、カミラの為に用意した部屋ではない。少し体調が回復したら本来の部屋に移動する予定で、家令はその部屋の準備に消えたのだ。

 程々に、というのはカミラが喜び過ぎて倒れてしまうのを避けるためだ。何事も程々が良い。

「失態を見せてしまったであります……」

 かかっている毛布を引き上げ、顔を隠したカミラが囁くような声をあげた。

「失態なんてなかったぞ? それよりも具合はどうだ?」

 ブローディは気遣うように静かに語り掛けた。

「体が、頭が暖かいのはブローディ様がそこにいるからであります」
「じゃあ、出てい――」
「ダメであります」
「……ブレねえな」

 ブローディはカミラの額から温かくなったタオルをはがした。温いタオルを冷たい水がはいった桶に入れ、ギュッと絞る。

「俺との歳の差、分ってるか?」
「二十四歳差であります」
「……そうじゃなくてな」
「わかっているつもりで、あります」

 毛布からひょっこりと覗く黒い瞳がおそるおそるといった感じでブローディを見てくる。何を言われるのか分っているのだろう。

「俺は既に五十に近い。あと二十年も生きられないだろう。下手すりゃ十年生きて墓の下かもしれねえ。お前はまだ三十にも達してない。今の歳の三倍までは生きるだろ」
「……そうであります」
「一緒にいられる時間は、残される時間よりも遥かに短いぞ?」

 ブローディは心に引っかかって取れない言葉を口にする。
 いかな猪娘なカミラでも現実を振り返れば正気に戻る、と思ったからだ。
 案の定カミラからの返答はない。部屋の外からの鳥の声が良く聞こえた。

 ――冷静になって考えれば分ることだからな。

 ブローディはこの事でとやかく言うつもりなどなかった。自分の中で結論は出ていたのだ。これでカミラを拘束するものは無くなる。良いことづくめだ。
 寂しいなどという感情には蓋をする。
 カミラに我慢を強いたのであれば自らも我慢しなければならない。

 ――余生をのんびり過ごすと思えば……どうということは無い。

「だからなカミラ……ん?」

 諦めろ、と言いかけたブローディが微かな寝息に気がついた。まさかと思いカミラの顔を除いたブローディは固まった。

「うふふふ、ぶろーでぃーさまー、おはながきれーでしー」

 既に夢の中に突撃しているように見えるカミラの寝顔にブローディの肩はがっくりと下がった。

「肝心な時に寝るなよな」

 呆れ顔から苦笑いへとブローディの顔は変わる。

 ――人の気も知らねえですやすや寝やがって。どんだけ言いたくなかったと思ってるんだ。

 頬を抓ってやろうとブローディが手を顔に寄せた瞬間だった。

「ぐふふーだいじょーぶなのです。たくさんのおもいでがあればー」

 カミラが呟く様な寝言を言った。
 驚きを隠せないブローディはニンマリと笑みを浮かべるカミラの顔を凝視した。目は閉じているがまつ毛がピクピクと揺れている。

 ――起きてんのか?

 確かめようとしたブローディはカミラの頬に手を当てると、火照って熱い感触が指に伝わってきた。

「おもいでが、たくさん……ぐーー」

 寝言なのか不明な言葉を言い終わらないうちにカミラの呼吸が定期的に変わった。

「寝ちまったか……」

 ブローディは胸に突き刺さる痛みに唇をかみしめた。

 ――思い出が沢山ありゃ、一人残された時間を耐えられるってのか?

 にへーと緩んだ顔で眠るカミラをブローディはじっと見つめた。起きていたのかどうかはわからないが、カミラのその言葉が頭に木霊して離れない。
 頬に当てた手をすべらせ、顔の輪郭をなぞって行く。顎に手を添え、親指を唇に触れさせた。

「うひゅひゅ」

 くすぐったいのかカミラが妙な声をあげた。無邪気な様子にブローディの頬も緩む。

「無理してんだな」

 ――俺もこいつも。

「諦める事と耐える事。こいつカミラにはどっちが堪えるのか」

 ブローディは節だった親指で唇の左端から右端まで滑らせ、冷静さを取り戻そうとした。
 何をしたらカミラにとって一番なのか。
 答えを出さなければならない。

「……まぁ、ここまで来て引き返せって言ったって、お前は帰らねえだろうな」

 口もとにゆるやかな弧を描き、ブローディは一つの決断を下した。

「ぶろーでーしゃまー」

 呼応する様にカミラの寝言が応える。

「なんだよ、以心伝心じゃねえか」

 憑き物がおちた様な笑顔のブローディの囁きに、カミラの顔が嬉しそうに微笑んだ。なんだかカミラの嬉しさが分かったような気がした。

「何にもねえ部屋だが、今晩はここで寝てくれ」

 ブローディは屈みこみ、カミラの唇に触れるだけのキスをした。
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