掌編集「十二の月虹」

涼格朱銀

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きみに会うための440円 ――Red

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 朝早く、まだ辺りが暗い頃に、私は駅に辿り着いた。近くに何にもないところにある寂しい駅だったが、そのわりには立派な駅舎で、切符の自販券売機や自動改札もあれば、改札の側の窓口には一応駅員もいた。明らかに居眠りをしていたが。
 自動改札の隣にはキオスクらしきところがあったが、まだシャッターが閉まっていた。

 私は券売機のところに行って、その上に掲示されている路線図で行き先の駅を見つけ、金額を調べた。320円だった。財布にはちょうど、百円玉3枚と十円玉2枚があったので、それを券売機に入れて切符を買う。
 そして、その切符を自動改札に通そうとすると、警報ランプが付いてフラップドアが閉まった。
 何が起きたか理解できず、呆気にとられていると、窓口で眠そうにしていた駅員がのそのそと起き上がってこちらにやってきて、いかにも面倒くさそうに、自動改札のどこだかをなにやらいじり始めた。そして、言う。
「ああ、お客さん。これじゃ金額不足ですね。440円ですよ」
 私が購入した切符は320円だった。さきほど路線図で調べた時にはそれで合っていると思ったのだが、こうして改札に止められている以上、私が間違っていたのかもしれない。
「そうなんですか。では、不足分を払えばいいんですか?」
「いえ。券売機で切符を買い直してください。この切符は返金します」
 駅員はそう言うと、窓口の裏に戻っていった。私もその窓口の方へと行く。しばらくすると、駅員が百円玉3枚と十円玉2枚をトレイに載せてよこしたので、私はそれを受け取った。そして、改めて切符の券売機に向かった。
 すぐに440円の切符のボタンを見つけたので、財布から千円札を取り出して、券販機に入れようとする。しかし、札を入れるところがない。
 私は窓口に戻って駅員に言った。
「あの、あの機械ではお札、使えないんですか?」
「使えないですよ」
「では、両替してもらえませんか? 千円札ですけど」
「できません」
 駅員にあっさりと返事をされて、私は一瞬、言葉に詰まった。まさか、断られるとは思っていなかった。
「できないって、どういう……」
「両替はできません」
 なんという、やる気のない駅員だろうと私は思ったが、ともかくわかったことは、ここでこの駅員と言い争っても無駄そう、ということだった。まともに話し合いのできる相手ではない。
 となると、キオスクだか、千円札の使える自販機を見つけるだかして、千円札を崩すことを考える必要があるが、キオスクはまだ開いておらず、周囲に自販機は見当たらない。コンビニなどは、もしかしたら近くにあるのかもしれないが、少なくとも私は知らない。わりと手詰まりである。

 こうなったら、とりあえず320円の切符で行けるところまで行き、そこで降りて、改めて目的地の駅までの切符を買った方がいいかもしれない。無駄にお金がかかってしまうが、ここでキオスクが開くのを待つよりマシだろう。札の使えない駅なんて他にそうそうないだろうし。そうでなくても、自販機くらいはありそうなもんである。とにかくここから移動してしまえば、なんとかなる気がする。
 そう思い、改めて320円の切符を買い、改札をくぐろうとする。しかし、さきほどと同じようにランプが付き、フラップドアが閉まった。そしてやはり同じように、眠そうな駅員がだるそうにやってきて、改札をいじりながら言った。
「お客さん。金額不足ですよ。440円の切符をご購入ください」
 私は言った。
「いや、とにかく320円で行けるところまで行きたいんです」
「それはできません。440円の切符をご購入ください」
「いやだから、私は320円で行ける駅に行きたいんです。そこで降りますから、通してもらえないですか?」
「それはできません。440円の切符をご購入ください」
 駅員は私には取り合おうとせず、さきほどと同じように窓口の奥へ戻り、320円を返して寄越した。私はそれを受け取る以外になかった。

 私は、手の中の320円を見つめながら、その場に突っ立つほかなかった。
 このまま、キオスクが開くまで、ずっとこうしていなければならないのだろうか。そもそもキオスクで千円札が使えるのだろうか。普通は千円札が使えない店はそうないが、こんな変な駅なら充分あり得る。そうなると、待っていても無駄ということになる。かといって、別の駅に移動することもできない。

 絶望的な気分に沈んでいると、駅に、スーツ姿の男がやってきた。知らない人にいきなり頼み事をするのはためらわれたが、こうなるとそうも言っていられない。
「すいません、ちょっと」
 私は、切符を買おうとしている男に話しかけた。
「なんです?」
「実は、千円札を両替して欲しいんです。切符が買えなくて……」
 男は不審そうに私を眺めたが、券売機に札入れがないのに気付くと、なるほど、といった顔をした。
「構いませんよ。百円玉10枚でいいですか?」
「ええ、ええ。それで構いません。本当に助かります」
 私は千円札を渡し、男から百円玉10枚を受け取った。良かった。これで問題解決である。私は男が切符を買い、改札の奥へと入っていくのを見届けてから、券売機に百円玉を5枚入れ、440円のボタンを押した。
 ……が、券は出てこなかった。どうなってるんだと思って券売機を隅々まで確認すると、「つり銭切れ」のランプが付いていた。
 私は駅員を呼んだ。駅員は相変わらずだるそうにしていたが、ともかくやってきた。
 私は言った。
「釣り銭切れランプが付いているのですが」
「ええ」
「なんとかなりませんか?」
「なんともなりません。ちょうどの金額でご購入ください」
「あの、もう、おつりは要らないですから、500円で440円の切符を売ってもらえないですか?」
「それはできません」
「なぜです?」
「切符はこの券売機でお買い求めいただくことしかできません。そして、この券売機は釣り銭切れの状態でお釣りが発生すると、券が出ないのです」
 そう言うと、駅員はよろよろと窓口の奥へと帰っていった。

 私は様々な感情を通り越して、なんだか笑いたくなってきた。笑う以外にこの状況でどうすればいいというのか、馬鹿馬鹿しい。これは現実なのか。本当に先進国、ニッポンで起きている出来事なのだろうか。何が先進国だ。使えない券売機なんか作りやがって。
 気付くと私は本当に声を出して笑っていた。笑いながら涙も出てきた。駅員は注意するでもなく、私をほったらかしてくれた。その点だけは褒めてやってもいい、などと、私は心の端でヤケ気味に思ったりした。

 どれだけそうしていただろうか。辺りはだんだん赤くなり、朝焼けで周囲は真っ赤になっていた。
 そのとき、ガラガラとシャッターの開く音がした。キオスクが開いたのだ。
 だが、私は何にも感じなかった。どうせこのキオスクも、札は使えないし、釣りも出ないんだろう。もはやこんなポンコツ駅に、何も期待など出来ない。
 とは思いつつも、とりあえず私は涙を拭い、小銭入れから百円玉を2枚取り出して握りしめ、キオスクに行ってみた。店員のおばちゃんが挨拶する。
 私の心は空っぽで、希望のひとかけらも残っていなかったが、虚ろな気持ちのまま、新聞立てに並んでいる各種スポーツ新聞を眺めた。130円のがあったので、それを手に取り、200円出してみた。
 すると、おばちゃんは計算する素振りすら見せず、即座に五十円玉1枚と十円玉2枚を差し出し、とびきりの笑顔で「はい、ありがとうー」と宣った。その背中には後光が差していた。
 私は今日、初めて本物のプロと出会った。お釣りをくれる。なんという素晴らしい神の業か。

 信じがたいことに、私の右手にはスポーツ新聞、左手の中には五十円玉1枚と、十円玉2枚があった。そして、小銭入れには百円玉11枚と、十円玉2枚がある。つまり、440円が調達できたのである。
 しかし、まだ私の中には疑念が渦巻いていた。今度は、十円玉を受け付けなかったりするんじゃないのか。
 ともかく、ここまで辿り着いた以上、こうなったらやるだけである。私は券売機の前に仁王立ちし、百円玉4枚を投入し、そして、十円玉を一枚ずつ、慎重に入れていった。

 ――入った。

 私は恐る恐る、440円のボタンを押した。

 券は出てこなかった。

 見ると、440円のボタンに赤いランプが付いていた。そのランプの下には「売り切れ」と書いてあった。
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