三人のスターリン

柚緒駆

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三人のスターリン

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 西暦1941年6月21日の深夜、ソヴィエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンの寝室に忍び込んだ男がいた。まだ寝入っていなかったスターリンはベッドサイドのランプの明かりの中、銃口を向けるコート姿のその男の顔を見て愕然とした。まるで自分に生き写しだったからだ。

「おまえはいったい何者だ」

 動揺を顔に浮かべながらも慌てふためいて逃げ出さなかったのは、さすが権力の頂点にある者の胆力と言うべきか。スターリンの問いに、同じ顔をした男はこう答えた。

「俺はもはや何者でもない。復讐のために顔を変え名前を変えた。存在する意味もない亡霊だ」

「亡霊がなぜ私に銃を向ける」

「向けられる心当たりはあるはずだ。ないとは言わせない。貴様は粛清という名の同胞虐殺によって俺の父を、兄を、妻や娘たちまで奪い去ったのだからな」

 この言葉に、ベッドの上のスターリンは目を見開いた。

「待て、待ってくれ。それは私の指示ではない」

「ふざけるな! たとえ貴様が命令を下していなくとも、そう実行せざるを得ない状況を作り出したのは貴様だ。いかに死んで行った者たちの名前を知らなくとも、お前の名のもとに虐殺が実行されたのは事実だ。言い逃れなど許さない」

「言い逃れをするつもりはない。だがそれは本当に私ではないのだ。何故なら、私はスターリンではないから」

 その返答は“亡霊”を激昂させた。

「そんな戯言たわごとが通じると思っているのか! 貴様がスターリンでないのなら、なぜここにいる! 俺がこの顔を手に入れた理由を言ってみろ! 俺がこの顔で寝室まで来る間、誰にもとがめられなかったのはどうしてだ! それはすべて貴様がスターリンだからだ!」

 しかしスターリンは静かな悲しみを顔に浮かべる。

「そうだ、確かにこの顔はスターリンの顔だ。私はスターリンに似ているからとここに連れてこられ、整形手術を受け、スターリンの影武者にされた。なぜだかわかるかね」

 コート姿の“亡霊”はもちろん信用などしていない。それは表情を見れば明らかだ。だが最後まで話を聞いてやろうという姿勢はうかがえる。そんな相手に、スターリンはこう言った。

「本物のスターリンは、すでに死んでいるからだよ」

 “亡霊”の目に、少なからぬ動揺が浮かんだ。銃口が少し震えている。

「それを、信じろという気か」

「君をスターリンそっくりに整形してここに送り込んだのは誰だ。イギリスかアメリカの関係者なのかも知れないが、当ては外れている。スターリンはもういない。現在のソヴィエトのボリシェビキ体制にとって、ヨシフ・スターリンとは個人を指す名前ではない。政治システムそのものなのだ」

「嘘だ! そんなデタラメで俺を騙せると思っているのか!」

「嘘か本当か、確かめる方法があると言ったら?」

 銃口をスターリンに向けたまま、しかし“亡霊”の顔には困惑が浮かんでいる。

「……どうやって確かめる」

「君が私の代わりになればいい」

「何だと」

「不思議などあるまい。スターリンはこの顔さえしていればいいのだ、別に私である必要はまったくない。君がこのソヴィエト連邦の指導者として振る舞えば、誰も困らず何の問題も起こらない。おそらくは君の指示や命令をボリシェビキは無視するだろうが、多少のワガママなら聞いてくれるかも知れない。たとえば、粛清された人々の名誉回復とかね」

 スターリンと同じ顔をした“亡霊”はまだ銃を構えてはいたが、銃口は下げた。油断をしてはいけない、だが相手の言うことがもし本当なら。心の中の葛藤が顔に浮かんでいる。父と兄の名誉が回復できたとしても、死んだ人間が生き返る訳ではない。しかしいつか自分があの街へ戻ることができるなら、それは無価値ではないのではないか。

 “亡霊”はスターリンにたずねた。

「貴様はここの生活を失っても構わないのか」

「まったく構わないさ。君もやってみればわかる。スターリンとしての生活になど、魅力も値打ちもない」

 “亡霊”はまだ迷っている。いったいどこまで信じればいいのだろうか。

 するとスターリンはベッドサイドの机の引き出しを指さした。

「ここでの生活に必要な情報は、この中のノートに書かれてある。確かめてみるかい」

 少し躊躇ちゅうちょしたものの、“亡霊”は机に近づき、引き出しを開いた。確かに中にノートが数冊入っている。取り出してページをめくれば、食堂の座席位置から食事を摂る順番、あるいは議会での模範的な返事の仕方まで、スターリンとしての生活に必要な事柄がビッシリ書かれてあった。

「それを読んでおけば、君も明日からスターリンを演じられる」

 スターリンの、いや影武者の言葉にノートを閉じ、銃をコートのポケットに戻すと、“亡霊”はため息をついた。おまえの言葉を信じよう、という意思表示である。

「あんたはここを出て、どうするつもりだ」

「故郷の村にでも戻るさ。まだ知り合いの一人や二人、生き残ってるだろうしな」

 わかった、という風に大きくうなずくと、“亡霊”は言った。

「行け。なるべく見つからないようにしろ」

「安心してくれ。逃げ道は何度も確認してるんだ、誰にも見つかりはしない」

 そう答えると今の今までスターリンだった者は、靴を履いて寝間着のまま、喜び勇んで部屋から出ていった。そして新しくスターリンとなった“亡霊”は、ベッドに腰掛けてノートを読んだ。

 一度は捨てたと思った人生、復讐さえできれば死んでも構わないとついさっきまで思っていたというのに。故郷の村に戻る、か。自分の故郷にはもう何も残っていまい。だから生きて行ける場所などないと考えていた。それが、まさかこんなところに生きる場所が残っていたとは。

 父や兄はこのことを怒るだろうか。妻や娘は薄情者とののしるだろうか。かも知れない。ただそれでも、いざ道が拓けると命が惜しくなるものだ。それに本物のスターリンがすでに死んでいるのだとすれば、復讐にもはや意味はなかろう。誰でもいいから殺さなければ気が済まないほどの殺人鬼にはなれないのだから。“亡霊”は再びため息をつくと、頬に涙を伝わせた。



 それからどれくらい時間が経ったろう。いつの間にか眠ってしまったのだ。だが彼を起こす声に“亡霊”は目を覚ました。

「起きろ、スターリン」

 慌てて体を起こし、声のした方を見れば、ソヴィエトの軍服を着た者が立っている。右手には拳銃をこちらに向けて。唖然とする“亡霊”の目の前でその軍服姿は目深に被っていた帽子を脱いだ。その顔は見間違えるはずもない、スターリンそのものだった。三人目のスターリンは言う。

「さあ命乞いをしろ、スターリン」

「待て、ちょっと待ってくれ、私はスターリンではない」

 そう言いながらも、スターリンの影武者を受け継いだ“亡霊”は絶望感を覚えていた。今この状況で自分がスターリンでないと証明する手段があるだろうか。この目の前の存在が自分と同じ理屈でここに立っているならなおのこと。

 軍服姿は苛立たしげに口元を歪める。

「そうか、ならばいますぐここで名もなき死体にしてやろう。おまえのおかげで我らロシア系ドイツ人がどれほどの辛酸をめたか想像もつくまい。おまえを殺し、私がスターリンとなる。そしてソヴィエトを内部から崩壊させてやるのだ」

「いや違うんだ、本当に私は」

 そこまで言って、“亡霊”は気づいた。どうしてさっき気づかなかったのだろう。あのスターリンは、ついさっきまでここにいた影武者は、荷物も持たず、着替えすらせず部屋の外に出て行った。それが何を意味するかを考えれば、すべての答が出るではないか。ヤツの言葉も、この引き出しの中のノートも、全部みんな最初から。

はかったな、スターリン!」

 立ち上がりコートのポケットから銃を抜いた“亡霊”の体に、一切の躊躇ためらいなく五発の銃弾が撃ち込まれた。声もなく崩れ落ちるその姿を、三人目のスターリンは冷たく見つめる。

 だがそのとき、閉じたドアの向こうから機関銃部隊が一斉掃射を行った。延々と執拗に寝室内に蜂の巣のごとき無数の穴を穿うがち、やがて静寂が訪れたとき、二つのスターリンの死体は顔すらも判別できない肉塊と化していた。

 壁の向こうから声がする。

「同志スターリン、国境警備隊より入電! ドイツ軍の領内侵攻を確認せり!」

 ときに西暦1941年、日付は6月22日に変わっていた。
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