1 / 1
すずきん
しおりを挟む
小学校の理科の時間。木下洋子先生はいつものように優しい笑顔で、黒板に『菌』と書いた。
「よく私たちは『ばい菌』という言葉を使いますが、ばい菌という名前の生き物はいません。ばい菌と呼ばれるのは……」
そして木下先生は『細菌』と『真菌』を黒板に書き加えた。
「細菌や真菌といった小さな小さな、顕微鏡でなければ見えないような微生物の中の、さらに私たちを病気にする一部の種類の菌類です。ここまでで何かわからないことはありますか」
「はい!」
クラスで一番元気な、というか賑やかな、というかやかましい、佐野隆が手を挙げた。
「先生についてる菌は、おっぱい菌ですか」
確かに木下先生は胸周りが豊かだ。男子生徒はちょっと笑ったが、女子生徒は一斉に白い目を向けた。
「もう、佐野くん」
木下先生も困り顔。これは受けなかったなと理解はしたのだろう、隆はつまらなそうに横を向いた。窓の外を見ようとしたのだが、その目にいちばん窓側の席の鈴木吉男の姿が映った。
懸命にノートを取っている。ただ、真面目なだけで成績は良くない。体育もできないし、いつもおどおどしている陰気なヤツ。隆は特に何も考えず、思いついたことをつぶやいた。
「鈴木についてる菌はすずきんだな」
と、これが何故か受けた。男子生徒だけではなく、女子生徒も笑っている。やった、笑いが取れた。いま鈴木吉男がどんな顔をしているのかすら気にも留めず、隆は有頂天になっていた。だが。
目の前に木下先生が立った。鬼のような形相で。
「佐野くん、謝りなさい」
静まり返るクラス。しかし隆には意味がわからない。
「え、何を」
「鈴木くんにいますぐ謝りなさい!」
木下先生が怒鳴る姿など、クラスの誰も見るのは初めてだった。普段の彼女の様子からは想像もできないほどの激しい怒りに、空気が凍り付く。
だが一人、隆は違った。自分は面白いことを言っただけだ、何も悪いことはしていない。そんな反抗心がムクムクと頭をもたげる。
「嫌だよ、俺何も悪いことしてないのに何で謝らなきゃいけないんだよ!」
すると思いがけないことが起こった。あの先生が、あの優しい木下先生が、隆の顔を平手で殴ったのだ。髪を振り乱し怒り狂いながら。
「謝れ! 謝れ! 鈴木くんに謝れ!」
あまりの恐ろしさに隆は震え上がった。目には涙が浮かび、体はこわばって動けない。謝ろうにも声が出なかった。
その金縛りが解けたのは、戸が開く音に木下先生が顔を向けたから。黒い軍服のような格好をした男が五人、教室に入ってくる。その前に立ちはだかったのは木下先生。
「待ってください、これは誤解なんです」
しかし五人の先頭に立つ眼鏡の男は無表情にこう言った。
「思想健康庁の者です。自動通報により急行しました。どいていただけますか、先生」
「違うんです、あの子にはすぐ謝らせます、ですから」
「そんな話をしているのではありません」
そう言うと眼鏡の男は木下先生を突き飛ばした。同時に他の四人が隆を取り囲み、腕をつかんで無理矢理に立たせる。
「え、何、何?」
混乱している隆に眼鏡の男は告げた。
「君は今日から思想教練学校へ転校となる。親御さんには私から連絡するので心配は要らない。では行こうか」
眼鏡の男は踵を返して教室の外へと向かい、隆を連れた四人はその後に続く。
「え、ちょっと、何でだよ。嫌だ! 行きたくない! 先生! 先生助けて!」
隆の声が廊下に響く。しかし顔を出してそれを見る者はいない。木下先生は顔を両手で覆い、泣き崩れるしかなかった。
この時代、日本は独裁国家となっていた。政権を握る残虐で苛烈なその独裁者の名前は、鈴原金二郎。
「よく私たちは『ばい菌』という言葉を使いますが、ばい菌という名前の生き物はいません。ばい菌と呼ばれるのは……」
そして木下先生は『細菌』と『真菌』を黒板に書き加えた。
「細菌や真菌といった小さな小さな、顕微鏡でなければ見えないような微生物の中の、さらに私たちを病気にする一部の種類の菌類です。ここまでで何かわからないことはありますか」
「はい!」
クラスで一番元気な、というか賑やかな、というかやかましい、佐野隆が手を挙げた。
「先生についてる菌は、おっぱい菌ですか」
確かに木下先生は胸周りが豊かだ。男子生徒はちょっと笑ったが、女子生徒は一斉に白い目を向けた。
「もう、佐野くん」
木下先生も困り顔。これは受けなかったなと理解はしたのだろう、隆はつまらなそうに横を向いた。窓の外を見ようとしたのだが、その目にいちばん窓側の席の鈴木吉男の姿が映った。
懸命にノートを取っている。ただ、真面目なだけで成績は良くない。体育もできないし、いつもおどおどしている陰気なヤツ。隆は特に何も考えず、思いついたことをつぶやいた。
「鈴木についてる菌はすずきんだな」
と、これが何故か受けた。男子生徒だけではなく、女子生徒も笑っている。やった、笑いが取れた。いま鈴木吉男がどんな顔をしているのかすら気にも留めず、隆は有頂天になっていた。だが。
目の前に木下先生が立った。鬼のような形相で。
「佐野くん、謝りなさい」
静まり返るクラス。しかし隆には意味がわからない。
「え、何を」
「鈴木くんにいますぐ謝りなさい!」
木下先生が怒鳴る姿など、クラスの誰も見るのは初めてだった。普段の彼女の様子からは想像もできないほどの激しい怒りに、空気が凍り付く。
だが一人、隆は違った。自分は面白いことを言っただけだ、何も悪いことはしていない。そんな反抗心がムクムクと頭をもたげる。
「嫌だよ、俺何も悪いことしてないのに何で謝らなきゃいけないんだよ!」
すると思いがけないことが起こった。あの先生が、あの優しい木下先生が、隆の顔を平手で殴ったのだ。髪を振り乱し怒り狂いながら。
「謝れ! 謝れ! 鈴木くんに謝れ!」
あまりの恐ろしさに隆は震え上がった。目には涙が浮かび、体はこわばって動けない。謝ろうにも声が出なかった。
その金縛りが解けたのは、戸が開く音に木下先生が顔を向けたから。黒い軍服のような格好をした男が五人、教室に入ってくる。その前に立ちはだかったのは木下先生。
「待ってください、これは誤解なんです」
しかし五人の先頭に立つ眼鏡の男は無表情にこう言った。
「思想健康庁の者です。自動通報により急行しました。どいていただけますか、先生」
「違うんです、あの子にはすぐ謝らせます、ですから」
「そんな話をしているのではありません」
そう言うと眼鏡の男は木下先生を突き飛ばした。同時に他の四人が隆を取り囲み、腕をつかんで無理矢理に立たせる。
「え、何、何?」
混乱している隆に眼鏡の男は告げた。
「君は今日から思想教練学校へ転校となる。親御さんには私から連絡するので心配は要らない。では行こうか」
眼鏡の男は踵を返して教室の外へと向かい、隆を連れた四人はその後に続く。
「え、ちょっと、何でだよ。嫌だ! 行きたくない! 先生! 先生助けて!」
隆の声が廊下に響く。しかし顔を出してそれを見る者はいない。木下先生は顔を両手で覆い、泣き崩れるしかなかった。
この時代、日本は独裁国家となっていた。政権を握る残虐で苛烈なその独裁者の名前は、鈴原金二郎。
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
意味がわかると怖い話
邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き
基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。
※完結としますが、追加次第随時更新※
YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*)
お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕
https://youtube.com/@yuachanRio
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今更家族だなんて言われても
広川朔二
ライト文芸
父は母に皿を投げつけ、母は俺を邪魔者扱いし、祖父母は見て見ぬふりをした。
家族に愛された記憶など一つもない。
高校卒業と同時に家を出て、ようやく手に入れた静かな生活。
しかしある日、母の訃報と共に現れたのは、かつて俺を捨てた“父”だった――。
金を無心され、拒絶し、それでも迫ってくる血縁という鎖。
だが俺は、もう縛られない。
「家族を捨てたのは、そっちだろ」
穏やかな怒りが胸に満ちる、爽快で静かな断絶の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる