61 / 84
王の契約
しおりを挟む
暗闇に、声がする。
「我らは魔族。真の魔族。ジクリフェルとは袂を分かちし者」
「力を欲するなら契約せよ。望みを言え。対価を示せ」
「我らを納得させよ。納得すれば力を貸してやる」
「くだらぬ望みならば、この場で食い殺してやるがな」
飛び交う嘲笑を浴びながら、その若い男は静かに言った。
「対価には、国を一つくれてやろう」
笑い声が止んだ。闇に広がるのは、困惑。しかし、臆することなく男は続けた。
「永遠にとは言わぬ。いずれ青璧の巨人が目覚めよう。それまでだ。それまでの間、余に服従せよ。世界を手に入れるために力を貸せ。それが望みだ」
「……聞かせよ、人の王子」
闇の中からの、つぶやくような問いかけ。
「何故我ら魔族に近付く。何故ザンビエンに頼まぬのか」
まだ王位に就く前の若きゲンゼルは、この問いにこう答えた。
「魔獣ザンビエンとグレンジア王家との血の盟約に、『遊び』はない。リーンの母泉と帝国の守護、それ以外にザンビエンの力を借りる事はできぬ。余が王位に就き、聖剣リンドヘルドを手にするためには、ザンビエン以外の力が必要なのだ」
「だがそこまでして望んだ国を、おまえは対価に差し出すと言う」
「余は国を望んでいる訳ではない。アルハグラの一国を守るのに汲々とするつもりなどない。言ったはずだ、世界を手に入れると。そのために力を貸せと」
「ならば青璧の巨人が目覚めても、世界を欲すれば良いのではないか」
「リンドヘルドなしで世界は得られん。巨人の目覚めるまでに世界を手にできねば、それは余に天運がなかったという事。天運なき者が玉座にしがみく価値などない」
闇はしばし沈黙した。そして。
「生意気な小僧よな」
その声が聞こえると、ゲンゼルの足下に二つの輝きが湧き立ち、中から小さな人影が現れた。おどけた道化の姿をしている。闇の声は言う。
「ソトン、アトン、力を貸してやれ。契約せよ。そして対価を得るのだ」
二人の道化は仰々しく一礼をして見せた。
「ではではよろしく、末短く」
「面倒臭いけど、仕方がない」
ゲンゼルはしばらく二人を見つめると、口元に笑みを浮かべた。
「良かろう、契約成立だ」
すると道化たちは目を丸くする。
「あれあれ、いいの? 信じるの?」
「おやおや、チョロいね。安易だね」
しかしゲンゼルは堂々と二人に背を向けた。
「おまえたちが使えなければ、それもまた余に天運がなかったという事だ。行くぞ」
そう言って歩き出す。二人の道化は顔を見合わせたが、すぐに後を追った。
「ソトン、アトン。契約だ、すべてをくれてやろう」
するとソトンがゲンゼルの右腕に取り付いた。
「はいな!」
そしてアトンが左腕に取り付く。
「ほいな!」
その瞬間、ギーア=タムールは聖剣を振るった。青い刃が四つに分かれて飛び、四方向からゲンゼルに斬りかかる。明確な理由があった訳ではない。しかし戦士としての直感が危険だと声を上げている。
果たして、それは正解だった。リンドヘルドの四つの断片は、ゲンゼルの周囲でピタリと動きを止めた。固定されたと言うべきだろうか。
ソトンとアトンの二人の道化は、体を溶かすようにゲンゼルの腕に染み込んで行き、その部分が黒くなる。やがて道化の姿が消えると、黒は全身に広がり、顔も体も、そして鎧までもが漆黒に染まった。
空中で固定されているリンドヘルドの四つの断片に直線の亀裂が走り、それぞれが十六片に分かれた。合計六十四片の青い刃は回転すると、見えない頸木から解き放たれて宙を舞い、再び黒いゲンゼルに襲いかかる。
バリンッ! 何かが裂けるような音がした。
六十四片のリンドヘルドの断片は、まるで花吹雪のように舞い散ったかと思うと、地面に落ちる前にギーア=タムールの手元へと帰還し、再び聖剣を形作る。
「なるほど、魔族に食われたか」
リンドヘルドの切っ先を向けるギーア=タムールの言葉に、黒いゲンゼルは顔を向けた。そして、ニンマリと笑う。
「失敬な。食われてなどおらぬわ」
「ほう、人としての意識が残っているのか」
「おうさ、残っておるともよ。余はいまでもゲンゼルであるぞ」
だがそのヘラヘラした話し方は、とてもあのゲンゼル王のものとは思えない。
「余は魔族と一体化した事により、帝王として一段進化したのである。凄いぞ、ビックリするぞ。もはや漠水帝などと呼ばれる存在ではないのだ」
「なるほど。では、いまのおまえは何なのだろうな」
やや呆れた感を出しながら、ギーア=タムールは笑う。すると、黒いゲンゼルもニッと黒い歯を見せて笑った。
「余の事はこう呼べ。『暗愚帝』とな」
ランプの灯る薄暗い部屋の入り口に立ったリーリアに対し、ランシャはベッドの隅っこから怯えた視線を向ける。
「大丈夫ですよ」
リーリアは微笑んだ。
「私はもう、いなくなりますから。いままでありがとう……さようなら」
そっと静かにドアを閉じ、振り返ったリーリアの目に、光の列が浮かんだ。暗い通路にランプを手にした奉賛隊の面々が並んでいる。思わず感極まりそうになったが、涙を堪え、笑顔で灯火の中を歩く。光の列は宿の通路を抜け、玄関を通り、外にまで連なっていた。
外ではタルアンが、隊長に書状と、首にかけていたペンダントを渡している。王族が身に着ける物としては、みすぼらしいと言っても良いほどに、小さな石のペンダント。
「亡き母の形見なのだ」
タルアンは言う。
「これと、この書状を父上に見せれば、報奨金はもらえるはず。絶対の保証ができないのは心苦しいところなのだが、たぶん大丈夫だと思う」
隊長は受け取ると、無言で頭を下げた。その背後ではバーミュラが、沈痛の面持ちで立っている。タルアンは言葉をかけようとして、やめた。そして出て来た妹に向き直る。
「もういいのか」
「はい」
笑顔でうなずくリーリアに、タルアンもうなずき返した。
「準備はお済みですかな」
その声に後ろを振り返れば、ダリアム・ゴーントレーの姿。
「ああ、すべて終わった。連れて行ってくれ」
タルアン王子の言葉を受けて、ダリアムは右手を天に突き上げた。
「ならば、いざ参らん、氷の山脈へ!」
タルアンとリーリア、そしてダリアムの姿は音もなく消え去る。バーミュラは、がっくりと両膝をついた。
次の瞬間、三人の姿は暗い夜空に浮かんでいた。
「うぉあっ!」
タルアンは思わずダリアムにしがみつく。
「落ち、落ち、落ちるっ」
「ご心配なく。落ちは致しません」
ダリアムは落ち着いているものの、しきりに周囲を見渡している。その気になればラミロア・ベルチアの力で飛べるリーリアは、さすがに平然としているが、不審げな表情を隠さない。
「何故こんなところで止まるのですか。ここは氷の山脈ではありませんよね」
「そのようですな」
「な、何っ、どういう事だ、ダリアム」
タルアンは、下を見ないようにしながら問い質した。しかしダリアムも首をひねる。
「それがわかれば苦労はございません。精霊の力、あるいは魔族の力、もしくはフーブの力、ここではそのどれをも感じないにも関わらず、我々は前に進めなくなっているのです」
「前に進めない? どうして」
と、リーリアが。ダリアムは答える。
「何者かの意志が、邪魔をしているのでしょうな」
「何故だ、いったい誰が」
と、タルアンが。ダリアムはまた答える。
「この状況を考えれば、想定される答は一つしかございますまい」
魔人は空を見上げた。月が浮かんでいる。月だけが浮かんでいる。星はない。そしてさっきまで空に見えていた、白い巨大な天使の姿も。
突然、ダリアムの右手から白い刃が伸びた。魔剣レキンシェルが唸りを上げ、周囲の何もない空間を斬り刻まんばかりに奔る。何も起きない、かに見えた。だが一瞬の後、夜の壁が幾何学的に崩落し、その向こうには、白い巨大な逆三角錐。
リーリアは息を呑み、タルアンはかそけき悲鳴を上げた。すぐそこに、天使がいる。
白く長大な二本の腕が伸び、三人を捕まえようとした。ダリアムはリーリアとタルアンを連れて急上昇、しかし天使はその巨体に似合わぬ軽快さで追ってくる。
「うぉおっ、ど、どうするんだ、おい」
タルアンはしがみつき、並んで飛ぶリーリアも苦しげだ。ダリアム・ゴーントレーは言う。
「戦ってどうにかなる相手ではありませんからな。ただ逃げるだけです」
天使は歌った。世にも美しく、世にも恐ろしい声で。ダリアムは顔をしかめた。
「黙れ、天界に従属したつもりなどない!」
叫びながら、魔剣レキンシェルを振った。無数の氷の矢が天使へと飛び、全身に針山の如く突き刺さった。ただの氷ではない。ザンビエンの呪いの氷でできた矢だ。簡単に溶けはしない。溶かせるものではない。そのはずなのだが。
天使に動揺はなく、躊躇すらない。その体を貫いたはずの無数の矢は、あっという間に霧消した。
「ならば!」
ダリアムの大きく開いた口から火炎が吐き出される。それは燃える竜巻となり、天使を巻き込む。しかし竜巻を裂くように中から六枚の白い翼が突き出すと、ただそれだけで炎は四散した。人智を超越せし天界の使徒は、速度を落とすことなく追いかけてくる。
「しからば、やむを得ん」
再び上空を振り仰ぐ魔人。
「言霊よ、開け」
三人の背後に迫る、天使の両手。ダリアムはその短い言葉を発した。
「流星」
オレンジ色の閃光が奔る。衝撃波とともに天空から降ってきた、燃える巨大な岩塊が天使を直撃、ついにその足を止めた。けれど。天使は落ちない。絶大なる力で岩塊を受け止めている。それを振り返る事なく、ダリアムは次なる言葉を発した。
「流星群」
天使に向けて、第二、第三、第四の星が降る。そのたびに天使は高度を下げ、続く第五、第六、第七の星を受けて、とうとう地上へと落下した。ダリアムにしがみつきながらそれを見ていた、タルアン王子は目を丸くする。
「お、おい! やったのか、もしかして天使をやっつけたのか!」
だが魔人ダリアム・ゴーントレーは、苦々しい表情で先を急いだ。
「残念ながら、ただの時間稼ぎです。じきに追いついて参りましょう」
ここまでの事をして、時間稼ぎにしかならないのか。タルアンもリーリアも、絶句するのみ。天使から十分な距離を取って、ダリアムはまた空間を跳躍した。氷の山脈に向かって。
「我らは魔族。真の魔族。ジクリフェルとは袂を分かちし者」
「力を欲するなら契約せよ。望みを言え。対価を示せ」
「我らを納得させよ。納得すれば力を貸してやる」
「くだらぬ望みならば、この場で食い殺してやるがな」
飛び交う嘲笑を浴びながら、その若い男は静かに言った。
「対価には、国を一つくれてやろう」
笑い声が止んだ。闇に広がるのは、困惑。しかし、臆することなく男は続けた。
「永遠にとは言わぬ。いずれ青璧の巨人が目覚めよう。それまでだ。それまでの間、余に服従せよ。世界を手に入れるために力を貸せ。それが望みだ」
「……聞かせよ、人の王子」
闇の中からの、つぶやくような問いかけ。
「何故我ら魔族に近付く。何故ザンビエンに頼まぬのか」
まだ王位に就く前の若きゲンゼルは、この問いにこう答えた。
「魔獣ザンビエンとグレンジア王家との血の盟約に、『遊び』はない。リーンの母泉と帝国の守護、それ以外にザンビエンの力を借りる事はできぬ。余が王位に就き、聖剣リンドヘルドを手にするためには、ザンビエン以外の力が必要なのだ」
「だがそこまでして望んだ国を、おまえは対価に差し出すと言う」
「余は国を望んでいる訳ではない。アルハグラの一国を守るのに汲々とするつもりなどない。言ったはずだ、世界を手に入れると。そのために力を貸せと」
「ならば青璧の巨人が目覚めても、世界を欲すれば良いのではないか」
「リンドヘルドなしで世界は得られん。巨人の目覚めるまでに世界を手にできねば、それは余に天運がなかったという事。天運なき者が玉座にしがみく価値などない」
闇はしばし沈黙した。そして。
「生意気な小僧よな」
その声が聞こえると、ゲンゼルの足下に二つの輝きが湧き立ち、中から小さな人影が現れた。おどけた道化の姿をしている。闇の声は言う。
「ソトン、アトン、力を貸してやれ。契約せよ。そして対価を得るのだ」
二人の道化は仰々しく一礼をして見せた。
「ではではよろしく、末短く」
「面倒臭いけど、仕方がない」
ゲンゼルはしばらく二人を見つめると、口元に笑みを浮かべた。
「良かろう、契約成立だ」
すると道化たちは目を丸くする。
「あれあれ、いいの? 信じるの?」
「おやおや、チョロいね。安易だね」
しかしゲンゼルは堂々と二人に背を向けた。
「おまえたちが使えなければ、それもまた余に天運がなかったという事だ。行くぞ」
そう言って歩き出す。二人の道化は顔を見合わせたが、すぐに後を追った。
「ソトン、アトン。契約だ、すべてをくれてやろう」
するとソトンがゲンゼルの右腕に取り付いた。
「はいな!」
そしてアトンが左腕に取り付く。
「ほいな!」
その瞬間、ギーア=タムールは聖剣を振るった。青い刃が四つに分かれて飛び、四方向からゲンゼルに斬りかかる。明確な理由があった訳ではない。しかし戦士としての直感が危険だと声を上げている。
果たして、それは正解だった。リンドヘルドの四つの断片は、ゲンゼルの周囲でピタリと動きを止めた。固定されたと言うべきだろうか。
ソトンとアトンの二人の道化は、体を溶かすようにゲンゼルの腕に染み込んで行き、その部分が黒くなる。やがて道化の姿が消えると、黒は全身に広がり、顔も体も、そして鎧までもが漆黒に染まった。
空中で固定されているリンドヘルドの四つの断片に直線の亀裂が走り、それぞれが十六片に分かれた。合計六十四片の青い刃は回転すると、見えない頸木から解き放たれて宙を舞い、再び黒いゲンゼルに襲いかかる。
バリンッ! 何かが裂けるような音がした。
六十四片のリンドヘルドの断片は、まるで花吹雪のように舞い散ったかと思うと、地面に落ちる前にギーア=タムールの手元へと帰還し、再び聖剣を形作る。
「なるほど、魔族に食われたか」
リンドヘルドの切っ先を向けるギーア=タムールの言葉に、黒いゲンゼルは顔を向けた。そして、ニンマリと笑う。
「失敬な。食われてなどおらぬわ」
「ほう、人としての意識が残っているのか」
「おうさ、残っておるともよ。余はいまでもゲンゼルであるぞ」
だがそのヘラヘラした話し方は、とてもあのゲンゼル王のものとは思えない。
「余は魔族と一体化した事により、帝王として一段進化したのである。凄いぞ、ビックリするぞ。もはや漠水帝などと呼ばれる存在ではないのだ」
「なるほど。では、いまのおまえは何なのだろうな」
やや呆れた感を出しながら、ギーア=タムールは笑う。すると、黒いゲンゼルもニッと黒い歯を見せて笑った。
「余の事はこう呼べ。『暗愚帝』とな」
ランプの灯る薄暗い部屋の入り口に立ったリーリアに対し、ランシャはベッドの隅っこから怯えた視線を向ける。
「大丈夫ですよ」
リーリアは微笑んだ。
「私はもう、いなくなりますから。いままでありがとう……さようなら」
そっと静かにドアを閉じ、振り返ったリーリアの目に、光の列が浮かんだ。暗い通路にランプを手にした奉賛隊の面々が並んでいる。思わず感極まりそうになったが、涙を堪え、笑顔で灯火の中を歩く。光の列は宿の通路を抜け、玄関を通り、外にまで連なっていた。
外ではタルアンが、隊長に書状と、首にかけていたペンダントを渡している。王族が身に着ける物としては、みすぼらしいと言っても良いほどに、小さな石のペンダント。
「亡き母の形見なのだ」
タルアンは言う。
「これと、この書状を父上に見せれば、報奨金はもらえるはず。絶対の保証ができないのは心苦しいところなのだが、たぶん大丈夫だと思う」
隊長は受け取ると、無言で頭を下げた。その背後ではバーミュラが、沈痛の面持ちで立っている。タルアンは言葉をかけようとして、やめた。そして出て来た妹に向き直る。
「もういいのか」
「はい」
笑顔でうなずくリーリアに、タルアンもうなずき返した。
「準備はお済みですかな」
その声に後ろを振り返れば、ダリアム・ゴーントレーの姿。
「ああ、すべて終わった。連れて行ってくれ」
タルアン王子の言葉を受けて、ダリアムは右手を天に突き上げた。
「ならば、いざ参らん、氷の山脈へ!」
タルアンとリーリア、そしてダリアムの姿は音もなく消え去る。バーミュラは、がっくりと両膝をついた。
次の瞬間、三人の姿は暗い夜空に浮かんでいた。
「うぉあっ!」
タルアンは思わずダリアムにしがみつく。
「落ち、落ち、落ちるっ」
「ご心配なく。落ちは致しません」
ダリアムは落ち着いているものの、しきりに周囲を見渡している。その気になればラミロア・ベルチアの力で飛べるリーリアは、さすがに平然としているが、不審げな表情を隠さない。
「何故こんなところで止まるのですか。ここは氷の山脈ではありませんよね」
「そのようですな」
「な、何っ、どういう事だ、ダリアム」
タルアンは、下を見ないようにしながら問い質した。しかしダリアムも首をひねる。
「それがわかれば苦労はございません。精霊の力、あるいは魔族の力、もしくはフーブの力、ここではそのどれをも感じないにも関わらず、我々は前に進めなくなっているのです」
「前に進めない? どうして」
と、リーリアが。ダリアムは答える。
「何者かの意志が、邪魔をしているのでしょうな」
「何故だ、いったい誰が」
と、タルアンが。ダリアムはまた答える。
「この状況を考えれば、想定される答は一つしかございますまい」
魔人は空を見上げた。月が浮かんでいる。月だけが浮かんでいる。星はない。そしてさっきまで空に見えていた、白い巨大な天使の姿も。
突然、ダリアムの右手から白い刃が伸びた。魔剣レキンシェルが唸りを上げ、周囲の何もない空間を斬り刻まんばかりに奔る。何も起きない、かに見えた。だが一瞬の後、夜の壁が幾何学的に崩落し、その向こうには、白い巨大な逆三角錐。
リーリアは息を呑み、タルアンはかそけき悲鳴を上げた。すぐそこに、天使がいる。
白く長大な二本の腕が伸び、三人を捕まえようとした。ダリアムはリーリアとタルアンを連れて急上昇、しかし天使はその巨体に似合わぬ軽快さで追ってくる。
「うぉおっ、ど、どうするんだ、おい」
タルアンはしがみつき、並んで飛ぶリーリアも苦しげだ。ダリアム・ゴーントレーは言う。
「戦ってどうにかなる相手ではありませんからな。ただ逃げるだけです」
天使は歌った。世にも美しく、世にも恐ろしい声で。ダリアムは顔をしかめた。
「黙れ、天界に従属したつもりなどない!」
叫びながら、魔剣レキンシェルを振った。無数の氷の矢が天使へと飛び、全身に針山の如く突き刺さった。ただの氷ではない。ザンビエンの呪いの氷でできた矢だ。簡単に溶けはしない。溶かせるものではない。そのはずなのだが。
天使に動揺はなく、躊躇すらない。その体を貫いたはずの無数の矢は、あっという間に霧消した。
「ならば!」
ダリアムの大きく開いた口から火炎が吐き出される。それは燃える竜巻となり、天使を巻き込む。しかし竜巻を裂くように中から六枚の白い翼が突き出すと、ただそれだけで炎は四散した。人智を超越せし天界の使徒は、速度を落とすことなく追いかけてくる。
「しからば、やむを得ん」
再び上空を振り仰ぐ魔人。
「言霊よ、開け」
三人の背後に迫る、天使の両手。ダリアムはその短い言葉を発した。
「流星」
オレンジ色の閃光が奔る。衝撃波とともに天空から降ってきた、燃える巨大な岩塊が天使を直撃、ついにその足を止めた。けれど。天使は落ちない。絶大なる力で岩塊を受け止めている。それを振り返る事なく、ダリアムは次なる言葉を発した。
「流星群」
天使に向けて、第二、第三、第四の星が降る。そのたびに天使は高度を下げ、続く第五、第六、第七の星を受けて、とうとう地上へと落下した。ダリアムにしがみつきながらそれを見ていた、タルアン王子は目を丸くする。
「お、おい! やったのか、もしかして天使をやっつけたのか!」
だが魔人ダリアム・ゴーントレーは、苦々しい表情で先を急いだ。
「残念ながら、ただの時間稼ぎです。じきに追いついて参りましょう」
ここまでの事をして、時間稼ぎにしかならないのか。タルアンもリーリアも、絶句するのみ。天使から十分な距離を取って、ダリアムはまた空間を跳躍した。氷の山脈に向かって。
0
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる