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26話 雨の夜
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「ロンダリア王は間もなく排除される。心配には及ばぬよ」
竜牙堂の三階にある小さな暗い部屋で、王国貴族のドルード公爵アイメン・ザイメンは不機嫌そうに酒をあおった。おそらくは計画が上手く進んでいないのだろう。この館の主、帝国貴族のヌミラ侯爵ハンデラ・ルベンヘッテも同じ考えらしく、口元に苦笑を浮かべている。
「別に心配などしてはいないが、物事には時勢というものがある。なるべく早い方が助かるな」
「そちらこそどうなのだ、皇帝の懐柔はできそうなのか」
ザイメンの言葉にルベンヘッテは自信に満ちた様子で、グラスに入った琥珀色の酒を揺らした。
「我が国の聖女皇帝は国民からの人気が極めて高いのでな。首を挿げ替えるほど簡単ではないが、卿も見ただろう。私の招待を断り切れずに舞踏会に顔を見せているのだ、なあに、我ら改革派の思想に染め上げるまで、さほどの時間はかからぬさ」
これにザイメンは面白くなさそうな顔でまた酒をあおる。
「ならば、次の展開もそろそろ用意しなくてはな」
「そうだな、ではこのような筋書きはどうだろう」
ルベンヘッテはグラスをテーブルに置く。そこには地図が広げられており、グラスの下にはグリムナントの文字が。
「帝国領から武装過激派が王国領内に侵入、グリムナント家を襲撃して壊滅させる。王国側は近隣諸侯の軍勢を集めこれを撃退、その後貴族議会で帝国に対する宣戦布告を要求するのだ。これなら世論も一気に傾く」
「悪くはない。壊滅したグリムナントの領土は功績のあった貴族に分け与えるとしよう。だが、実際のところグリムナント家の兵力は王国内でも五指に入る規模だ。簡単に壊滅はさせられんぞ」
ザイメンの指摘に、ルベンヘッテは微笑んだ。
「真正面から挑むのは確かに簡単ではなかろう。だが先に頭を潰せば大兵力も瓦解する。そうだな、ボイディア卿」
入り口脇に立つ私にルベンヘッテは視線を向けた。
「左様です。どんな軍隊も先に頭を潰せば烏合の衆、恐れるには足りません。されどグリムナントを襲撃するのであれば、同時にハースガルド公爵家も落とすべきでしょう。後顧の憂いが断たれますので」
しかし私の言葉に、ザイメンは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「ハースガルドなどどうでもいい。あんな小貴族、無視しても何もできはせぬ」
「そうだな、ボイディア卿は少々神経質に過ぎるやも知れん」
ルベンヘッテも小さく苦笑した。
やれやれ、まだ教育が足りないか。私は両目に力を込めた。その瞬間ルベンヘッテとザイメンの目から意思の光が消える。
「ハースガルドは最重要標的だ。グリムナントを攻めるのなら、必ずハースガルドを滅ぼさねばならない」
私がそう言うと、ルベンヘッテとザイメンは震えながらうなずく。
「ハースガルド……最重要」
「ハースガルド……滅ぼす」
そして私は両目に込めていた力を緩めた。途端、ルベンヘッテとザイメンの目に意思の光が戻って来る。
ルベンヘッテは言った。
「グリムナント領内にはハースガルド公爵家があったな。さてどうするか」
ザイメンはこう答える。
「無論壊滅させねばなるまい。後顧の憂いを絶たねばな」
何とか話は軌道に乗ったか。まったく国盗りも楽ではない。
と、そのとき背後の扉の向こう側に気配が動いた。レンズか。私が静かに扉を開けて部屋を退出すると、廊下でレンズがしょげかえっている。
「どうした。何かあったか」
「ネズミを逃がした。カリアナ・レンバルトの飼ってるヤツ」
ああ、さっきカリアナの後ろにいたアレか。確か騎士団長だったな。
「珍しいこともあるものだな。そんなに手強かったか」
しかしレンズは首を振る。
「変なのが助けに入らなきゃ倒せてた」
「変なの?」
「大将の知り合いみたいだった。ルン・ジラルドって言ってたけど」
ルン・ジラルド。その名前は私の顔をこわばらせるには十分衝撃的だった。
何故。どうしてヤツがこの世界にいる。タクミ・カワヤの未来予知にルンの存在はなかったはずだ。
「大将……?」
心配げなレンズに笑みを返す。だが頬の辺りが引きつっているのは自分でもわかった。
「大丈夫だ、計画は順調に進んでいる」
そう、すべては順調だ。しかしルンが出てきたとなれば、それも考え直さねばならないかも知れない。あらゆることを急いだ方がいいのだろうか。この世界もなかなか一筋縄では行かないものだな。
◇ ◇ ◇
雨の夜は意味もなく不安に襲われます。雷が鳴ったりすれば尚のこと。空の黒雲の上で悪魔が唸り声を上げている、なんて子供みたいなことを考えている訳ではないのですが。
この雨の下、真っ暗闇の中で濡れた体を震わせている人がいるかも知れません。いないのかも知れませんが、もしいたらと考えるだけで胸が苦しくなります。小さな子供の頃、誰もいない何も見えない闇の中を、恐怖にかられて走ったことが思い出されるからでしょうか。
「朝まで何も起きませんように」
思わずつぶやいてしまいましたが、これは誰に向かっての言葉なのでしょう。神様でしょうか。もしそうなら、旦那様に聞かれたときに嫌な顔をされてしまいますね。神様も悪魔も信じておられない旦那様はよくこうおっしゃっています。
「人に苦難を与えるのも、人を幸せにするのも、いつも人だ」
そう考えるのが一番正しいのかも知れません。でも私は思うのです。人の目には見えない誰かが自分のすぐ隣にいて、いつも見守ってくれていたらと。そう考えるだけで寂しさが少しまぎれる気がするのですが、もしかしたらちょっと変なのかも。
そんなことを考えながら、寝る前にランタンを持って家の戸締りを確認して回っていると、あちこちから音が聞こえます。たいていは風の音か、建物が軋む音です。でも今夜は少し違いました。
離れの入口に近づいたとき。
とんとんとん。
誰かが弱々しく扉を叩いているような音が。
でももう夜中、それもこんな雨が降り雷が鳴っている天候なのに、お客様が来るとは思えません。きっと風の音です。でも。
とんとんとん。
それは規則的な、意思のある叩き方に思えてなりませんでした。
とんとんとん。
「誰ですか。誰かいるんですか」
声をかけても返事はありません。なのに。
とんとんとん。
謎の音はまだ扉を叩きます。
「いったい何なんですか、もう」
「何だろうねえ」
「ひいっ!」
悲鳴を上げそうになりながら振り返ると、先生が笑顔で立っていました。
「とりあえず開けてみようか」
そう言うとスタスタ入口の扉に近づいて開けてしまいました。その向こうにランタンの光が映し出す小さな影。
「キミは……リコットだね」
リコットという名前を、私はすぐに思い出せませんでした。あの東の町から先生のことをインチキだと難癖つけに来た女の人が連れていた女の子、そう思い出したときにはもう先生が中に入れて扉を閉めていました。
「ステラ、何か拭くものないかな。びしょ濡れだ」
「あ、はい。すぐ持ってきます」
私は洗濯室に向かって走りました。手ぬぐいとバケツが必要です。あと子供用の着替えはありませんが、小さめの寝間着があれば持ってきましょう。
竜牙堂の三階にある小さな暗い部屋で、王国貴族のドルード公爵アイメン・ザイメンは不機嫌そうに酒をあおった。おそらくは計画が上手く進んでいないのだろう。この館の主、帝国貴族のヌミラ侯爵ハンデラ・ルベンヘッテも同じ考えらしく、口元に苦笑を浮かべている。
「別に心配などしてはいないが、物事には時勢というものがある。なるべく早い方が助かるな」
「そちらこそどうなのだ、皇帝の懐柔はできそうなのか」
ザイメンの言葉にルベンヘッテは自信に満ちた様子で、グラスに入った琥珀色の酒を揺らした。
「我が国の聖女皇帝は国民からの人気が極めて高いのでな。首を挿げ替えるほど簡単ではないが、卿も見ただろう。私の招待を断り切れずに舞踏会に顔を見せているのだ、なあに、我ら改革派の思想に染め上げるまで、さほどの時間はかからぬさ」
これにザイメンは面白くなさそうな顔でまた酒をあおる。
「ならば、次の展開もそろそろ用意しなくてはな」
「そうだな、ではこのような筋書きはどうだろう」
ルベンヘッテはグラスをテーブルに置く。そこには地図が広げられており、グラスの下にはグリムナントの文字が。
「帝国領から武装過激派が王国領内に侵入、グリムナント家を襲撃して壊滅させる。王国側は近隣諸侯の軍勢を集めこれを撃退、その後貴族議会で帝国に対する宣戦布告を要求するのだ。これなら世論も一気に傾く」
「悪くはない。壊滅したグリムナントの領土は功績のあった貴族に分け与えるとしよう。だが、実際のところグリムナント家の兵力は王国内でも五指に入る規模だ。簡単に壊滅はさせられんぞ」
ザイメンの指摘に、ルベンヘッテは微笑んだ。
「真正面から挑むのは確かに簡単ではなかろう。だが先に頭を潰せば大兵力も瓦解する。そうだな、ボイディア卿」
入り口脇に立つ私にルベンヘッテは視線を向けた。
「左様です。どんな軍隊も先に頭を潰せば烏合の衆、恐れるには足りません。されどグリムナントを襲撃するのであれば、同時にハースガルド公爵家も落とすべきでしょう。後顧の憂いが断たれますので」
しかし私の言葉に、ザイメンは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「ハースガルドなどどうでもいい。あんな小貴族、無視しても何もできはせぬ」
「そうだな、ボイディア卿は少々神経質に過ぎるやも知れん」
ルベンヘッテも小さく苦笑した。
やれやれ、まだ教育が足りないか。私は両目に力を込めた。その瞬間ルベンヘッテとザイメンの目から意思の光が消える。
「ハースガルドは最重要標的だ。グリムナントを攻めるのなら、必ずハースガルドを滅ぼさねばならない」
私がそう言うと、ルベンヘッテとザイメンは震えながらうなずく。
「ハースガルド……最重要」
「ハースガルド……滅ぼす」
そして私は両目に込めていた力を緩めた。途端、ルベンヘッテとザイメンの目に意思の光が戻って来る。
ルベンヘッテは言った。
「グリムナント領内にはハースガルド公爵家があったな。さてどうするか」
ザイメンはこう答える。
「無論壊滅させねばなるまい。後顧の憂いを絶たねばな」
何とか話は軌道に乗ったか。まったく国盗りも楽ではない。
と、そのとき背後の扉の向こう側に気配が動いた。レンズか。私が静かに扉を開けて部屋を退出すると、廊下でレンズがしょげかえっている。
「どうした。何かあったか」
「ネズミを逃がした。カリアナ・レンバルトの飼ってるヤツ」
ああ、さっきカリアナの後ろにいたアレか。確か騎士団長だったな。
「珍しいこともあるものだな。そんなに手強かったか」
しかしレンズは首を振る。
「変なのが助けに入らなきゃ倒せてた」
「変なの?」
「大将の知り合いみたいだった。ルン・ジラルドって言ってたけど」
ルン・ジラルド。その名前は私の顔をこわばらせるには十分衝撃的だった。
何故。どうしてヤツがこの世界にいる。タクミ・カワヤの未来予知にルンの存在はなかったはずだ。
「大将……?」
心配げなレンズに笑みを返す。だが頬の辺りが引きつっているのは自分でもわかった。
「大丈夫だ、計画は順調に進んでいる」
そう、すべては順調だ。しかしルンが出てきたとなれば、それも考え直さねばならないかも知れない。あらゆることを急いだ方がいいのだろうか。この世界もなかなか一筋縄では行かないものだな。
◇ ◇ ◇
雨の夜は意味もなく不安に襲われます。雷が鳴ったりすれば尚のこと。空の黒雲の上で悪魔が唸り声を上げている、なんて子供みたいなことを考えている訳ではないのですが。
この雨の下、真っ暗闇の中で濡れた体を震わせている人がいるかも知れません。いないのかも知れませんが、もしいたらと考えるだけで胸が苦しくなります。小さな子供の頃、誰もいない何も見えない闇の中を、恐怖にかられて走ったことが思い出されるからでしょうか。
「朝まで何も起きませんように」
思わずつぶやいてしまいましたが、これは誰に向かっての言葉なのでしょう。神様でしょうか。もしそうなら、旦那様に聞かれたときに嫌な顔をされてしまいますね。神様も悪魔も信じておられない旦那様はよくこうおっしゃっています。
「人に苦難を与えるのも、人を幸せにするのも、いつも人だ」
そう考えるのが一番正しいのかも知れません。でも私は思うのです。人の目には見えない誰かが自分のすぐ隣にいて、いつも見守ってくれていたらと。そう考えるだけで寂しさが少しまぎれる気がするのですが、もしかしたらちょっと変なのかも。
そんなことを考えながら、寝る前にランタンを持って家の戸締りを確認して回っていると、あちこちから音が聞こえます。たいていは風の音か、建物が軋む音です。でも今夜は少し違いました。
離れの入口に近づいたとき。
とんとんとん。
誰かが弱々しく扉を叩いているような音が。
でももう夜中、それもこんな雨が降り雷が鳴っている天候なのに、お客様が来るとは思えません。きっと風の音です。でも。
とんとんとん。
それは規則的な、意思のある叩き方に思えてなりませんでした。
とんとんとん。
「誰ですか。誰かいるんですか」
声をかけても返事はありません。なのに。
とんとんとん。
謎の音はまだ扉を叩きます。
「いったい何なんですか、もう」
「何だろうねえ」
「ひいっ!」
悲鳴を上げそうになりながら振り返ると、先生が笑顔で立っていました。
「とりあえず開けてみようか」
そう言うとスタスタ入口の扉に近づいて開けてしまいました。その向こうにランタンの光が映し出す小さな影。
「キミは……リコットだね」
リコットという名前を、私はすぐに思い出せませんでした。あの東の町から先生のことをインチキだと難癖つけに来た女の人が連れていた女の子、そう思い出したときにはもう先生が中に入れて扉を閉めていました。
「ステラ、何か拭くものないかな。びしょ濡れだ」
「あ、はい。すぐ持ってきます」
私は洗濯室に向かって走りました。手ぬぐいとバケツが必要です。あと子供用の着替えはありませんが、小さめの寝間着があれば持ってきましょう。
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