上 下
40 / 73

40話 皇帝の剣

しおりを挟む
 化粧室から戻るとき、ロンダリア国王陛下は少し悲しげな笑みを浮かべられた。

「王宮では用足しにまで侍従がついて来るのだ。いかに世間知らずの愚昧であっても、己の尻くらい拭けるというのに。よくあんな息苦しさを我慢できたものだと、ここに来て思うことしばしばだ」

「なるほど。ご領主様は狙ってはいないのでしょうが、結果として陛下には過ごしやすい環境であると」

 陛下の少し後ろを歩くタクミ殿は当たり前のように会話しているが、相手は国王であらせられる。いつ無礼千万と怒り出されるかと、ヒヤヒヤしてしまう。

 国王陛下はうなずかれた。

「そうだな、ここは本当に過ごしやすい。だが、それはリアマール侯爵に甘えているだけなのだろう」

 そして不意に立ち止まられる。

「朕はいずれ王宮に戻らねばならぬ」

 このお言葉は胸に迫った。国王が王宮に戻るのは、一見当たり前のようにも思える。だがロンダリア王は、忠臣たちが帰還を待ちわびる場所に戻る訳ではない。悪意ある貴族たちがうごめく闇に身を投じなければならないのだ。十五歳の少年がそんなことを考え、決断せねばならない状況に追い込まれている。何の力も持たぬ私は、それをただ傍観するしかない。

 ところがたぐいまれなる力を持っているはずのタクミ殿は、いともあっさりとこう返してしまった。

「そうですね、陛下には王宮に戻ってドルード公と戦っていただかないと」

 何と残酷な言葉を! いまそれを言うのか、さすがに私も腹が立ったのだが、振り返る国王陛下の笑顔に言葉が出ない。

 陛下は少し困った顔で、しかし親愛のこもった笑みでこうおっしゃられた。

「それができれば苦労はないが」

「できますよ」

 平然と、いつも通りまったく平然とタクミ・カワヤ殿は答える。

「もし陛下が何もできないただの十五歳の子供なら、こんな酷いことは言いません。でも陛下にはできますから。僕が保証します。できるとさえ信じれば、陛下はこの国を変えられるんです」

 そしていたずら小僧のような顔で、ニッと笑った。

「まあ、僕のことが信用できないのであれば仕方ありませんが」

「不思議な男だ」

 国王陛下のつぶやきは、私の心にもスッと入って来る。

「年齢は朕とさして変わらぬはずなのに、どうしてそなたの言葉はこうも心強く胸を打つのだろう」

「そりゃ占い師ですから。舌先三寸で生きてるようなものですしね。そう思うだろう、タルドマン」

 いきなりこちらに話を振られて、私は「あ、そ、えっと」としか口に出てこない。そんな私に国王陛下は優しく微笑みかけると、一つため息をついた。

「ならば、その舌先に騙されてみよう。それで、朕が王都に戻るにはまず何をすればいい」

「理想を言えば、音楽隊が欲しいですね」

 音楽隊? 政治の話をしているはずではなかったか。これについては国王陛下も同意見であらせられたのだろう、目を丸くしている。

「音楽隊、だと。そんなものどうするのだ」

「無論、大行進をするんです。ご領主様は顔が広いですからね、近隣の貴族領から音楽家をかき集めて、軍隊も並べて、首都まで盛大な行進をしながら、真正面から凱旋するのもいいかもしれません」

「それでは、ドルード公らの敵意をあおることにならぬか」

 国王陛下のご心配はもっともだと私も思う。しかしタクミ殿はまるで意に介さない。

「煽りましょう、どんどん煽るんです。それで対抗でもしてくれば儲けもの、逆に意気消沈するようなら、そこからかさにかかって相手の勢力を削ればいい。少なくとも向こうは国王陛下が王宮に戻って来るならコソコソ潜り込むだろうと思っているはずです、ならば正義はこちらにありというところを広く国民に見せつけなければ」

 さしもの国王陛下も、これには少々及び腰であらせられるようだ。

「それは……いささか勇気が求められるな」

「でも、どう転んだって勇気は必要でしょう。その勇気を高らかに掲げるんです。あなたがいったい誰の王様なのかを国中の人々に思い出させるために」


◇ ◇ ◇


「いったい誰のための皇帝なのか、わからなくなっています」

 ギルミアス帝国の聖女皇帝サリーナリー・ハジッタ陛下は、眼前で繰り広げられている馬上槍試合から目をそらして、隣に座るこの身に沈んだ顔を向けられた。

「コルストック伯爵、私は怖いのです」

 小さな声で、しかししっかりとした口調で話す皇帝陛下には、強い意志を感じる。

「この馬上槍試合はハンデラ・ルベンヘッテが組んだもよおし、午後からは同じくルベンヘッテが主催する射撃大会に出向かねばなりません。もはや私の行動はルベンヘッテに支配されつつあります。いずれただの傀儡かいらいとなる日も遠くないでしょう」

「陛下の周囲はこの流れに抗わないのですか」

 いささか恐れ多いこの問いに、皇帝陛下は首を振られた。

「もはや私の周囲に、ハンデラ・ルベンヘッテに異を唱えられる者は残っておりません。噂ではルベンヘッテの二番目の息子を私の皇配と推す声があるらしいのですが、それを咎める者すらいないのです。私は……すべてを諦めつつあります」

「いいえ、まだです。まだ諦めるには早すぎます、陛下」

 私は悲しみに打ちひしがれる十七歳の少女を抱きしめたくて、それを必死で堪えた。

「少なくとも、このカリアナ・レンバルトは皇帝陛下のお味方です。何があっても陛下の剣となりましょう。お約束いたします。ルベンヘッテ家の栄華も永遠には続きません。必ずや陛下の御意思がギルミアスの民に届く日が参ります。もう少しお待ちくださいませ」

 とても希望に満ちた顔とは言えなかったが、それでも陛下は笑顔を作って見せてくださった。まだ時間と機会はある。いまのうちに逆転の布石を打たねば。



 とは言うものの、一気に形勢を変える逆転の布石などというものが、おいそれと打てるはずがない。そもそも一人でジタバタ暴れて何がどうなるものでもあるまい。変化を起こすにはまず地道に味方を増やさねばならないし、味方を増やすにはこちら側につく利点を用意しなくてはならない。いったいどこから手を付ければいいのだ。

 そんな思いでやって来たのは、とある森のはずれ。近くの平原ではハンデラ・ルベンヘッテが主催する射撃大会が行われている。あちらこちらから銃声が聞こえていた。

「ここで間違いはないのですか」

 同行する騎士団長ザインクにたずねれば、いつものように慇懃いんぎんに一礼を返して来る。

「ルン・ジラルドの指定はこの場所で間違いございません」

 あの長い赤毛のルン・ジラルドには、王国の公爵ハースガルド家に向かう使者としての役目を与えた。本人が是非にと言うから任せたのに、その前に私に見せたい物があるとここへ呼び出したのだ。

 ルベンヘッテに見つかれば、イロイロと勘ぐられるやも知れない。いったい何故こんなところに呼び出したのか。しかも当人はなかなか現れない。私が苛立ちを隠せなくなったとき、不意に茂みをついてルン・ジラルドが飛び出してきた。

 森の獣かと身構えている私にルン・ジラルドは笑顔を向ける。

「やあ、どうも。伯爵様、よく来てくださいました」

「いったい何の用なのです。あなたには使者としての」

「まあまあ伯爵様、用事はすぐに済みます。まずはこれをご覧ください」

 と、手にした物を見せる。

「これが何だかわかりますか」

「……銃、ですか」

 そう、それは銃に見えた。だがよく見知った火縄銃ではない。火縄はないし、全体にゴツゴツと無骨な姿をしている。ルン・ジラルドは我が意を得たりとばかりにうなずいた。

「そうなんです。これは銃です。私の国では自動小銃と呼ばれておりまして、火縄の要らない特殊な弾丸を使用し、一秒間に十発ほどの連射ができます」

 これにザインクが不審の目を向ける。

「一秒に十発だと、そんな馬鹿なことが」

「では論より証拠、お見せしましょう」

 ルン・ジラルドは言うが早いか自動小銃を構え、手近な木に銃口を向ける。そして。

 タタタタッ、軽快な発射音と共に木の幹がえぐれ穴が開く。

「ご覧のように一発あたりの破壊力では火縄銃に劣りますが、鎧を貫通し人間を倒すには十分な性能を有しています。何より弾丸を装填するのに必要な時間は、火縄銃の数十分の一です。これがあれば極めて効率的に兵が運用できるとは思いませんか?」

「何が言いたいのです」

 本当に、ルン・ジラルドが何を言いたいのか理解できなかった。確かにこの自動小銃は凄い兵器なのかも知れない。しかし、だから何だというのか。

 ルン・ジラルドはこちらの目の奥をしばし見つめ、何やらおかしそうに微笑んだ。

「この自動小銃をまずは百丁、弾丸を十万発ご用意しましょう。もちろんタダとは参りません。お代はいただきますが、格安にて提供させていただきます。いかがですか」

「……私にこれを買えと言うのですか」

「ええ、そうです。伯爵様が皇帝陛下の剣たらんとお考えなら、まずはご自身がお力を持つことです。他の貴族たちが手出しできないほどの力を。なお自動小銃と弾丸の追加発注は随時受け付けておりますので、いつでもどうぞ」

 そう言って微笑むルン・ジラルドは、まるで親しげな死神のように見えた。
しおりを挟む

処理中です...