案山子の帝王

柚緒駆

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82 幸福の天秤

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 太陽の南中から一時間ほど経過し、気温が上がる。よく晴れたエリア・レイクスの昼下がり。風はない。彼方の湖面が輝いている。

 大通りに面した一等地にある貴金属店は、派手な装飾の一切ない質素な佇まい。だがDの民御用達。貧しい者はもちろんの事、仮に金を持ってはいても、Dの民にあらずんば客にあらず。厳重なセキュリティが敷かれ、店の前を通る者の大半は、敷地に立ち入る事すら叶わない。

 そんな店先に、突如鳴り響くクラクションとスキル音。歩道を歩いていた人々が慌てて逃げ出す。大型のバンが突っ込んで来たのだ。

 店のセキュリティシステムが反応する。駐車場の隅の地面が持ち上がったと思うと、中から小型のビーム砲塔が現われ、バンが敷地に侵入する直前に砲撃を加えた。窓ガラスが溶け、ボンネットに大穴が空く。だがバンのスピードはほとんど落ちない。バッテリーが燃え上がり、火だるまになったバンが店の入り口自動ドアに衝突した。

 すると通行人の中から、どこから出したのか自動小銃を手にした者たちが四人、店の入り口に向かって駆け出した。しかし砲塔は撃たない。ロックがかかっている。それは彼らがDの民のIDを持っているから。もちろん巧妙に偽造された、AIを短時間騙せればそれで用済みの使い捨てIDだ。

 店は慌てて防犯シャッターを下ろそうとするが、入り口に突っ込んだバンが邪魔になっている。テロリスト――ただの強盗かも知れないけれど――たちは余裕を持って入り口へ向かっていた。そこに。

 黒い鉄塊が落ちてきた。

 分銅型の、いや巨大な分銅その物であるそれは、平らな底面で、まるで図ったかのように、綺麗に四人を一度で潰した。轟音と震動が広がる。

 その場に居た人々は、呆然と天を見上げた。青空に浮かぶ、視界いっぱいに広がる影。陽光を陰らせるほどの大きな皿が二枚、間をつなぐ湾曲した棒が一本と、棒の真ん中に結ばれた紐。紐の先端は真っ直ぐ上に伸び、青空の中に消えている。

 天秤だ。人々は思った。嘘のように巨大な天秤が、自分たちの頭の上に吊るされている。それはゆっくりと回転した。そして不意に傾く。また皿から分銅が一つ落下した。しばらくして、足の下に震動が走る。ここに至り、人々は理解した。誰なのかはわからないが、きっと誰かが潰されたのだと。次は自分の番かも知れないと。エリア・レイクスにパニックが生じた。


 天空から神の如く地上を見下ろす巨大な天秤。それをエリア・レイクスの外から眺めながら、黒いスーツに黒いネクタイを着けた初老の男は、小さくため息をついた。

「見事成功……かな」

 不満がある訳ではない。カオスの皆で話し合って決めた、『遺産』を用いて世界に混沌をもたらすという方針に異論がある訳でもない。心臓もない、血も流れない、生きていないのに動く死体。存在しないはずの存在。何者でもなく何もない、空っぽの矛盾に満ちた者たち。そんな自分たちに存在意義があるとするなら、それは世界の秩序を護る事ではなかろう。それはわかっている。だがそれでも。

 穴の開いた胸に去来する、この虚無感はどうしたものか。満たされぬ心のやり場に困る。あの青年を犠牲にする事で、本当に混沌がもたらされるのか。それが本当に我らの目指した事なのか。心が揺らいでいた。そこに。

――信じよ

 頭の中に声が聞こえた。

「何だ」

 周囲を見回す。だが誰も居ない。

「……気のせい、か?」

――己を信じられぬ者が、どうして他人の信頼を勝ち得ようか

 また頭の中に声。男は警戒した。しかし、やはり周囲には誰も居ない。周囲には。男はハッと気付き、真上を見上げた。

 黄金色の機械の体が、六本の腕を広げて浮かんでいる。

「何、者、だ」

 男の体は、金縛りに遭ったかのように動かなくなってしまった。静かに降りてくる光。黄金に輝く三面六臂。真正面を向く美しい顔が微笑む。

「心あるが故に哀れなる者よ。その虚ろな闇を埋めてやろう」

 そして一本の腕を男に近づけ、人差し指で額に触れた。その瞬間、男の表情に爆発する歓喜。荒野に響き渡る悦楽の叫び。

「あ、あああ、あああああああっ!」

 黄金の存在、ヌ=ルマナは言った。

「我らは幸福の名の下におまえを支配する」


 エリア・アマゾンの事件からまだ二十四時間も経っていない。カオスのメンバーが十二人と聞いた時点で、この状況を想定していなかった訳ではないのだが、単に思いついただけでは空論に等しい。パンドラは修理中であり、そして3Jたちは休息を取れていなかった。

 いや、体力だけならまだ何とかなる。だが一度切れた緊張の糸を再び繋ぎ直すのは、いかな3Jといえど簡単ではない。そういう面では彼も超人ではないのだ。

 デルファイの北の街ダランガン。昆虫人インセクターの暮らすこの街の外れの教会で、エリア・レイクスに巨大な天秤が出現したとのベルからの一報を受け、3Jは迷った。とは言え、放っておく訳にも行かない。立ち上がろうとする彼を、天井から聞こえてきた声が止める。

「お待ち」

 天井の暗がりの中から、巨大な老婆の顔が逆さにぶら下がる。

「どこへ行く気だい」
「俺をエリア・レイクスに送れ」

 3Jの言葉に、ダラニ・ダラは呆れた。

「馬鹿言うんじゃないよ。おまえボロボロじゃないか。犬死にする気かい」
「放っておけば厄介事が増えるだけだ」

「アタシゃ送る気はないからね。どうしても行きたきゃ、歩いて行きな」

 すると3Jは立ち上がり、ドアに向かう。ダラニ・ダラは舌打ちした。

「まったくコイツだけはホントに意地っ張りだね。いったい誰に似た……」

 ダラニ・ダラは何かに気付いたようだ。3Jに声をかける。

「いま連絡が来たよ。ウッドマン・ジャックが用があるってさ。どうするね」

 そしてニッと笑う。

「ジャックのところまでなら、送ってやらんでもないが」

 3Jはドアの前で振り返り、小さくため息をついた。

「送れ」


 天空の巨大な天秤の皿が傾く。そこから落ちる分銅は、神の怒りを体現するが如く、人を、車を、建物を、次々に押し潰して行った。逃げ惑う人々は探した、安全な場所を。そんな場所があるのか。ある。一つだけ。地下街だ。地下深くなら分銅は落ちてこない。

 地下街の入り口に殺到する人々。しかしもう入り口近くまで人が溢れ返り、中に入れない。小さな子供を抱きかかえた父親が叫ぶ。

「頼む、子供だけでも入れてくれ!」

 だが親子は突き飛ばされ、歩道に押し倒された。父親の視界に空が映る。天秤の浮かぶ高い空が。皿が傾き、音もなく分銅が落下する。それは真っ直ぐに、間違いなく明確な意思の下に地下道の入り口を目指して落ちてきた。

 斬。空中で四つに分かれる鉄の分銅。

 それと同時に四つの丸い暗闇が宙に浮かび、落ちてきた分銅の欠片をその中に飲み込む。

 いったい何が起こったのか。人々は空を見上げた。そして気付いた。地下街への入り口の脇にある、中層ビルの屋上に巨大な老婆が立っている事に。そのさらに上には小さな人影。黒のドレスらしき姿が、背中の翼を羽ばたかせながら飛んでいる。天使のように。

 天秤の皿が傾く。分銅は黒い天使をめがけて落ちてきた。対する天使はロケットのように急上昇すると両腕を振るった。分銅がまた四つに斬られ、地上に落下する前に丸い暗闇に飲み込まれる。

 人々は、ただ息を呑んでその様子を見つめていた。


「あー、面倒臭え」

 黒のドレスをひるがえしながら文句を垂れるのは、リキキマ。

「いちいち斬らなきゃいけないのか? そのまま飲み込みゃいいじゃねえか」

 ビルの屋上のダラニ・ダラが言い返した。

「アタシゃ乙女だからね。デカいのは無理だよ」
「シモネタかよ」

 眉をひそめるリキキマに、ダラニ・ダラは諭すように話す。

「アレが到着するまで、もうしばらくは前振りだ。派手にやっとくれ」
「ハイハイわかりましたよ。ったく」

 そこに落ちてくる巨大な鉄の分銅。リキキマの両手は刃となり、派手に八つに斬り分けた。


 混乱の極み。エリア・レイクス行政庁は、まさにその状態であった。天空の巨大な天秤の皿は、行政庁ビルの上にも影を落とす。いつこのビルに分銅が落ちてくるやも知れない。それを知った職員の反応は二つに分かれた。住民の避難を優先する者と逃げ出す者とに。

 どちらか一方ならば、返って簡単であったろう。しかしくしの歯が欠けたように、人の居る部署と居ない部署がモザイク状態になった挙げ句、部署間の連絡がつかなくなってしまった。

 これに行政庁長官は非常事態を宣言、すべてのシステムの決定権を自分のデスクに集約し、避難誘導の陣頭指揮に当たった。とはいえ回転する天秤の下に入る領域だけで、百万人近くの人口がある。避難所に誘導する訳にも行かないし、シェルターは工事が始まったばかりだ。

 とにかく分銅の下より外か、地下街に誘導するしかないのだが、避難経路は一本ではない。無数に分かれた道路の避難誘導が正確になされているかどうか、判断するには手が足りない。

「ああもう、どうすればいいんだ!」

 長官の頭がパンクしそうになったそのとき。突然五つの人影が現われた。ドアから入って来た訳ではない。何の予兆もなく、いきなり目の前に出現したのだ。思わずデスクの引き出しを開けて銃を取り出したものの、その一番前に立つ男の姿に、慌てて銃を下ろした。

「君は」
「お久しぶりです、長官」

 微笑むその顔は間違いない、エリア・エージャンのジュピトル・ジュピトリス。
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