強請り屋 静寂のイカロス

柚緒駆

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静寂のイカロス

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 前日からの雨も、明け方には上がっていた。私は一人、外に出てみた。晴れ上がった空と、日に照らされる濡れた地面。アスファルトで覆われた駐車場に落ち葉はなく、遠くに鳥の声が聞こえる。

 駐車場は、この総本山がホテルだったときに作られたもので、十五台が停められる。部屋数が四十あるのに少ない気がするけど、タクシーや送迎バスで来る客を見込んでいたのだろうか。

 いつも見かける教団職員の車が三台停まっていた。いや、いつもとは違う。一番隅っこのスペースに、四台目がある。職員はみんな軽自動車なのに、一台だけシルバーの大きな車。

 誰だろう、こんな車に乗ってきたのは。好奇心から近づいてみると、車の隣に人影が立っていた。

 十五、六歳かな。もうちょっと上かな。だいたい私と同い歳くらい。背は高くない。空を見ていた。思わず釣られて見上げてみたけど、空には何もない。遠目には濡れているようにも見える、柔らかそうな短い黒髪で、スタジャンを着て、ジーンズを穿いていた。眼が綺麗。肌も綺麗。お人形のように整った、でも無表情な顔を空にじっと向けている様子は、雨上がりの妖精の雰囲気があった。

 こんな所で、いったい何をしているのだろう。一人で来たのだろうか。そうは見えないけど。ちょっと迷ったものの、私は近づいて声をかけてみる事にした。

「あの」

 返事はない。それどころか、こちらに気付いてもいないみたいだ。じっと空を見続けている。

「ねえ、君、どこから来たの」

 さらに近づいて、ちょっと大きめの声をかけてみた。でも駄目だ。まるで反応がない。耳が聞こえないのかな。顔の近くで手を振ってみたけど同じ。どうしたらいいんだろう。私が一つ溜息をついたとき。

「ああ、すまんね」

 後ろからの声に驚いて振り返ると、駐車場の入り口の坂を男の人が上って来ていた。あまり上等そうじゃないヨレヨレのグレーのスーツを着て、黒いネクタイを締めた人。ボサボサの頭に、顔には無精ヒゲが生えている。教団に来る人で、こういう姿をしている人は、たいてい追い詰められて衰弱している。特に精神的に。でもこの人は違った。口の端に作り笑いを貼り付けて歩いてくる様子は、全然弱っているようには見えない。面白そう、そのときの私はそう思ってしまった。

「そいつは喋れないんだ。いや、全然喋れない訳じゃないんだが、イロイロと好き嫌いが激しくてね」
「この子の家族の人?」

「家族じゃない。まあ勤務先の上司ってヤツだな。しかしこの近辺、何もないとは聞いてたけど、本当に何もないな。杉林ばっかりで民家もない。これじゃ陸の孤島だ」

 男の人は呆れた顔でそう言った。

「そんな陸の孤島に、わざわざ何をしに来たんです?」

 私が顔をのぞき込むと、男の人は意外そうな顔を見せた。

「君、教団の人かい」
「ええ」

「出家信者かな」
「出家はしてないし、信者って訳でもないかも知れない」

「何だいそりゃ」
「一応ここの副教祖なんですよ、私」

 信じてもらえないかな、と思ったのだけれど、男の人はしばらく私の顔を見て、「ふうん」とつぶやいた。そして胸のポケットから、角がヨレヨレになった名刺を一枚取り出した。

「オレはこういう者なんだが」

 受け取った名刺には名前と役職が書いてあった。

「五味民雄さん……興信所の所長さん」
「そういう事」

「興信所って何ですか?」

 私のその問いに、五味さんは困った顔になった。

「あー、興信所知らないか」
「うん、知らない」

「何て言うかな。まあ平たく言えば私立探偵だ」
「えっ、私立探偵って本当にいるの」

 思わず口に出た言葉に、五味さんは眉を寄せた。

「いるんだよ。あ、言っとくぞ、探偵は事件の捜査とかしないからな。そういう面倒臭いのは警察の仕事だ」
「でも警察官の事も探偵って言いますよね」

「余計な事は知ってるんだな。確かに正確には探偵は警察官の事だ。だがいまどき警察官を探偵なんて呼ぶヤツはいねえよ。明治時代じゃあるまいし」

「だってホームズに書いてあったもの」
「ホームズは一般常識じゃねえからな」

 五味さんはそう言いながら、ポケットからタバコを出した。その手が止まる。

「ここタバコは吸えるのか」
「うちの教団は禁煙じゃないですよ。死んだ父様がタバコ好きだったから」

 私が答えると、五味さんは器用に片手でタバコを一本取り出して咥えた。口元が緩んでいる。

「そりゃ極楽じゃねえか」
「うちの教義に極楽はないですけどね」

「父様ってのは、先代教祖の事か」

 五味さんはライターでタバコに火を点けた。懐かしいニオイがした。

「はい。五味さんはうちの教団を調べてるんですか」
「そんな面倒臭え仕事は引き受けねえよ。ここに来たのは人捜しだ」

 私にかからないように横を向いて煙を吐きながら、五味さんは続けた。

「柴野みどりって人、知ってるか」
「碧さん? 碧さんを捜してるの?」

 それは私のよく知る名前。だからつい声が大きくなってしまった。そのせいで。

「何をしているのです!」

 建物の方から声がして、それが誰の声なのか、それが何を意味するのか、私が理解したときにはもう、走り寄ってきた風見さんは五味さんの胸倉をつかんでいた。

「私が時間を稼ぎます! 夕月様は警察を呼んでください! 急いで!」
「ああ、違うから。風見さん、違うから」

 私は泣きそうな声で風見さんを止めなければならなかった。風見さんはボーイッシュだけど童顔で、とても二十五歳には見えない。黙っていれば誰が見ても可愛い女の子。なのに物凄く気が強い。そして短気で慌てん坊だ。

 私に止められて、ようやく自分の慌てん坊さ加減に気付いたらしい風見さんは、五味さんの胸倉をつかんだままで、困ったような顔をこちらに向けてきた。

「……違うのですか?」
「違うよ。五味さんは碧さんのお客さんだよ」

「ですが、夕月様は大きな声を出されていました」
「ちょっとビックリしただけだよ」

「それは、その……申し訳ありません」
「いや、何でもいいから手を放してもらえませんかね」

 五味さんにそう言われて、風見さんは胸倉をつかむ手を渋々放した。でもその目はまだ疑っている。

「それより風見さん、渡兄様は? 放っておいていいの」
「あーっ!」

 そこでようやく気付いた風見さんは、元来た道を慌てて駆け戻ろうとした。でもその足はすぐに止まった。タイヤがアスファルトを踏む音と、モーター音。電動車椅子がこちらに向かって来る。渡兄様だ。

 いつものようにセーターにチノパン姿。細い顔がちょっと青ざめて見えるのは、セーターの色が映えているのかも知れない。渡兄様は朝陽姉様と同い年。来年は三十歳の大台だとみんなでよく笑っている。車椅子はもう十五年のベテラン。一人で乗り回せるけど、普段は風見さんがつきっきりでお世話をしている。風見さんは急いで渡兄様の後ろに回ると、車椅子のハンドルを握った。

 五味さんの前まで来ると、渡兄様はいつもと変わらない優しい笑顔で両手を動かした。

「うちの者が失礼致しました、とおっしゃっています」

 決まりの悪そうな顔で風見さんが口にした。風見さんは渡兄様のお世話係であり、同時に手話通訳でもある。私は五味さんの名刺を渡兄様に渡した。

「ハイ、これ」

 渡兄様は受け取ると、少し驚いたような顔をした。

「五味さんは、碧さんを捜してここまで来たんだって」

 風見さんの手話を見て、渡兄様はうなずく。

「柴野碧さんのご家族から依頼を受けましてね、ちょっとお話を伺いに」

 五味さんは、内ポケットから出した携帯灰皿に、タバコの灰を落としながら笑顔を見せた。渡兄様を見る目には、好奇心が見え隠れしている。兄様はまた両手を動かした。

「強制はできませんが、碧さんには伝えましょう」

 風見さんが手話を訳す。

「そりゃ助かる。上の人から言ってもらえれば話が早い」

 その言い方が、ちょっと引っかかった。

「五味さん、渡兄様の事知ってるんですか」

 すると五味さんは隠そうともせず、こう言った。

「事前に調べられる範囲の事は調べるさ。人となりまではわからんがね。天成渡さんといえば、初代教祖の息子さんだ。いまじゃ三代目教祖様を除けば教団の実質トップ、神様に一番近いところにいる人だよな」

 その言葉には皮肉の響きがあった。でも風見さんの手話を見た渡兄様は笑顔で首を振る。そして両手を動かした。

「いいえ、私など所詮イカロスですよ」

 風見さんの通訳を聞いて、五味さんは不思議そうな顔をした。

「イカロス? ギリシャ神話の?」
「頑張って飛んではいるけれど、背中の羽根は本物じゃない。所詮はロウの作り物。神にはなれない半端者」

 渡兄様が手を動かし、風見さんが訳す。五味さんは興味深そうな顔で聞いていたけど、不意に楽しそうな顔で歯を見せた。

「なるほど、そいつは人間が神様になれる『業界』ならではの発想だ」

 渡兄様も笑顔でうなずくと、手話で答えた。

「ええ、この世界も大変なんです」
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