老い花の姫

柚緒駆

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50.銀色の光

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 食事は消化の良い物を、と言われたのだが、構わず手当たり次第に食べた。体の中が空っぽだったからだ。こんな状態でお粥なんて食わされたら、かえって死にそうだしな。

 とにかく腹に詰め込めるだけ詰め込み終わった頃、もう日は沈み空には三日月が浮かんでいる。ここは砂漠の帝国じゃない。なのにあいつは何をしているのか。

 下女たちは下がり、バレアナ姫も食事に向かった。このところあまり食事を摂っていないとマレットに聞いたのだが、少しは安心してくれたろうか。

 寝室には俺一人。いや、もう一人いるな。

「フルデンス、いるんだろ」

 部屋の中を埋め尽くすような黒い大蛇が浮かび上がる。その頭の上、フルデンスは扇で口元を隠し笑った。

「同盟を結ぶそうではないか。少しはりて利口になったか」

「ああ、もうあんなのと戦うのは懲り懲りだね。それより礼を言っとかなきゃな」

「礼だと?」

「おまえが助けてくれたんだろう。そうでなきゃ俺は死んでた」

 フルデンスは面白くなさそうに扇を閉じる。

「気色の悪いことよ。弱気の虫でも出て来たのかえ」

「弱気は出してる場合じゃないよな。これから先、しち面倒臭いんだから」

「言っておくが、今度あの風の大精霊と戦う羽目になれば、わらわはシャリティを連れて逃げるやも知れぬぞ。そなたたちの敵には回らぬと契約したが、逃げないとは約束していないからの」

「わかってるさ。俺がお荷物になれば、だろ」

「フン、わかっておれば良い」

 フルデンスは窓の外の三日月に目をやった。

「公国を興すのか」

「ああ、それが一番いいと思う」

 俺の返事にフルデンスは疑惑の眼差しを向ける。

「本当にできると思っているのか」

「いまの段階では五分五分だろうな。理想としては……」

「ウストラクト皇太子とロン・ブラアクが相打ちになってくれれば、か?」

「そう上手くは行かないよなあ」

「行く訳があるか」

「だけど公国が興せれば、シャリティは大公位継承権第一位だぞ。おまえにとっても悪い話じゃないだろう」

 東方の魔王は俺をじっと見つめた。

「大国の王位継承権にすがって無為に時間を過ごすより、小国なれども主であれば、と言いたいのか」

「王族なんて気位が高いだけの地方領主だしな。結局はただのお役人だよ。小さくても国家の君主となれば、本質が物を言う」

「つまりそなたはバレアナにその本質を見ている訳か」

「シャリティはこれからの努力次第ってとこかな」

 フルデンスの顔に不敵な笑みが浮かぶ。

「そう簡単に大公位を譲り渡すつもりはないか」

「そんな顔するなって。別にシャリティを否定してる訳じゃないんだから。ただな」

「ただ何だ。足りないものでもあるというのか」

「用兵はミトラがいるし、政治はゼンチルダが支えてくれるだろう。だけど自信と威厳と決断力は自分で磨かなきゃな。魔族に護られてる間は大公の座は譲れない」

「わらわを前によくそんなことが言える」

 不満げに眉を寄せるフルデンスに俺は笑った。

「これでも信用してんだぜ。おまえは何があっても、シャリティだけは護ってくれるだろうってな」

「気など遣わずとも良いわ」

「本当だよ。いざとなればシャリティの後ろに隠れりゃ何とかなる訳だから、これがあるのとないのとじゃ大違いさ」

「食えぬヤツよ、まったく。……何だ、眠っておるのか」

 いや、まだ眠ってはいない、と口にしたつもりだったんだが。

 ランシャが月を見上げている。俺はまた夢の中に落ちていた。



 陽はもう完全に落ちた。山道をこれ以上馬で進んでも、ただ危険なだけで意味がない。宿のある村までたどり着ければ良かったのだが、まあ野宿も慣れていない訳ではないのだ、久しぶりに焚火を起こすか。リンガルは道の端に馬をつなぎ、落ち葉と小枝を探した。

 夜目は利く。三日月程度でも明かりがあれば、さすがに細かい作業は無理だが焚火の用意くらいは困らない。

 明日の朝早くに出発すれば、夕方までにはロン・ブラアクの宮殿にたどり着けるだろう。たどり着いた後のことを考えると多少気は重いのだが、それでも本来自分のいるべき場所に戻れるのは気持ちが浮き立つ。ヘインティアは元気だろうか。

 いや、浮かれている場合ではない。命じられた仕事を果たすまでは気を抜くな。リンガルは腰を伸ばして深呼吸した。この辺りに山賊が出るという話は聞かないが、用心に越した事はない。別に山賊如きを怖れている訳ではないが、その、アレだ。アレ……あれ?

 森の奥に明かりが見える。この辺りに人が住んでいただろうか。

 頭の奥で本能が警告を発している。近付くな、と。しかし同時に好奇心が背中を押す。何かが起こっているのかも知れないぞ、と。こんな山奥で何が起こるというのだ、そんな気持ちもあったのだが、結局リンガルは確かめてみることにした。

 山の斜面を登りながら、なるべく足音を立てないよう少しずつ近付いて行く。焚火の明かりかと思っていたのだが、炎が揺らぐ様子が見えない。ランタンか。いや、違うな。

 そうこうしているうちに、手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来た。何だろう、これは。満月のように静かな、不思議な銀色の輝き。まるで誰かを待つかのように、宙に浮かんでじっと留まっている。

 触れてみたい。湧き上がる欲求はリンガルの足を急かせた。本能が頭の中で警戒の半鐘をジャンジャン鳴らせているのに、まるっきり聞こえない。だがその足が止まった。立ち止まった訳ではない。動きたいのに動けないのだ。リンガルの視線が足下に落ちたとき。

 銀色の光の中、地面に落ちている丸い物が三つ。しばらくはわからなかった。それが人間の頭部であるとは。そして気付いた。地面に張られた、クモの巣のような粘着物に足が絡め取られていることに。リンガルは理解した。

「食われた?」

「そうやよ。よう気ぃついたねえ」

 それは頭上、銀色の輝きより上の闇からの声。

「この辺には山賊はおらへんて聞いてたから、どうしょうかと思てたんやけど、助かったわぁ。三人も食べたらお腹いっぱいやし、おたくは無理して食べんでもええんやけど、まあ、もののついでいうんもあるしね」

 リンガルは何とか足を引き抜こうとしたのだが、クモの巣の粘着性が強力で身動きが取れない。頭上の声は嗤う。

「悪いヤツを殺すより、ちょっとだけ罪の意識が刺激されるけど、ごめんねえ、運命やと思て諦めて。楽に殺したげるから」

「ふざける……」

 リンガルが顔を上げ闇の中をにらみつける。その胸を、心臓の位置を、背中から剣が貫いた。刀身の大きく湾曲した片刃の剣。声を発する暇もなく息絶えるリンガル。

 倒れたリンガルの体から剣が引き抜かれると、上の闇の中から気配が降りて来た。頭を下に、足を上にして、左足の義足から細い細い透明な糸を伸ばしている。褐色の口元からのぞく白い歯。

「ほんなら、いただきましょかね」

 地面に張られていたクモの巣を消し、逆さまのまま倒れた獲物の体に手を伸ばした、その瞬間。

 リンガルは飛び起きた。そして無言で背を向けると、猛スピードで山の斜面を駆け下りて行く。

 後に残された義足の人食いは、しばらくポカンとした顔を見せていた。

「不死者ですか。こんなとこにもおるもんやねえ。まあええわ」

 そして、小さく苦笑する。

「どうせ逃げられへんし」
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