老い花の姫

柚緒駆

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52.クモ

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 二十年前の戦争で仲間を失った者。二十年前の戦争で愛する人を失った者。二十年前の戦争を経て野盗集団に成り下がった元兵士たちに、故郷を焼かれ家族を奪われた者。亡霊騎士団の面々にはそんな過去がある。そして彼らに共通しているのは、皆この国に裏切られたと感じていること。

「なあ、ランス」

 巨漢のデムガンが焚火に薪をくべた。

「あんたは何者だ。どこから来た」

 ランスと呼ばれた顔面包帯グルグル巻きの白髪の男は、静かにただ火を見つめている。

「この身はただ、いまこの瞬間にのみ存在する。過去も未来もない」

 夕焼けが空を覆い、間もなく闇がやって来る。デムガンはムスッとした顔で、また薪をくべた。

 アルバは右の手のひらに盛り上がった傷を見つめながら言う。

「我らはウストラクト皇太子に操られていた、それは間違いないのか」

「この世界に絶対はない。だがどのみち皇太子を殺すのなら、些末な問題だろう」

 ランスの言葉が気に入らないのか、アルバは横目でにらみつけた。

「あんたは何故皇太子を殺す」

「目標は皇太子ではない。だが結論として邪魔であるなら排除するしかあるまい」

 そう答えるランスをのぞき込むジュジュの瞳。

「わたしたちは、そのための捨て駒なの?」

「そうだ。皇太子周辺は守りが堅い。それをこじ開けるには、おまえたちに命を賭して暴れてもらわなければならない」

 右肩をさすりながらそれに応じるのは、狼の顔をしたノロシ。ヘバの鎚でも失った腕は戻らなかったが、痛みはもうない。

「死ぬのは怖くないけど、無駄に死ぬのは嫌だな」

 フードをかぶる、誰にも顔を覚えられないキリカが笑った。

「死んじまったら無駄だったかどうかもわからないけどね」

「大丈夫、キリカの死は無駄にしない」

 と、ヒノフが。

「だからキリカは安心して死んでいい」

 と、ミノヨが。

「そうだな無駄にはしない。結果は残す」

 ランスのそれは決して力強い言葉ではなかったけれど、その場にいた誰もが疑わなかった。キリカは一人「えぇ……」とドン引きだったが。



 夜に包まれた森の奥の宮殿。ロン・ブラアクは寂しげにつぶやいた。

「ぴーちゃん」

 これに白い軍服のヘインティア補佐官がうなずく。

「はい、まったく仕様がないヤツです。ですがあのリムレモのこと、そう簡単に討ち取られたとは思えません。いずれ戻ってくるのではと。それより行方の知れないリンガルが気になります」

「ぴーちゃん」

「え、いや、それはちょっと可哀想では」

 そのとき、部屋の明かりが一瞬小さくなった。

 腰の剣に手をかけ、ヘインティアが周囲を見回す。

「殿下、ご用心ください」

「ぴーちゃん」

「ええ、リムレモの施したこの仕掛け、まだ生きております。ならば」

 言葉が途切れたのは、壁の一角からゴトリと音がしたため。ここには隠し扉がある。その存在を知っているということは。

 扉が開き、リンガルが顔を出した。顔だけを。いや、首と言った方が正確か。

「デン……カ」

 床に落ちて転がったリンガルの頭部は、声とも言えぬかすれた音を必死に吐き出した。

「オニ、ゲ、クダ、サイ」

「えらいもんやねえ」

 その嘲笑うような声は隠し扉の奥から。

「いくら不死者いうても、首一つになってんのに、たいした忠誠心やことで」

 最初に杖が出た。次いで褐色の顔が、棒のような木の義足が、そして全身が姿を見せる。

 ヘインティアは片刃の剣を抜き構えた。

「おまえが何者かは問わぬ。ただ一つ教えよ。この男の体はどこだ」

 しかし相手は軽薄に笑う。

「いややなあ、怒ってるのん? 自己紹介くらいするのに。わたいは『クモ』、元々この国に住んでた訳やないんやけど」

「体はどこだと聞いている!」

 怒り心頭のヘインティアに、クモはニッと白い歯を見せた。

「玄関にあるよ。そんなに大事やったら取ってきたら?」

 相手の首を狙ったヘインティアの火の出るような突き。しかしそれを紙一重でかわすと、クモは宙に舞い、頭を下にして天井に立った。その顔に浮かんだ一瞬の余裕を見逃さない。ヘインティアは天井ごと切り裂く勢いで剣を振るう。クモは思わず杖で受けた。

「うっほーぉ!」

 再び床に降り立ったクモに、ヘインティアの怒濤の連撃。上下左右の四方から刃が斬りつける。クモはこれを杖でさばくのに精一杯と見えたが、口先は快調に回っている。

「強い、強い強い、こーれは強いぞ!」

 ヘインティアは剣を一旦引き、距離を取った。息を整えねば。

 あと一歩、いや、あと拳一つ分が踏み込めない。何故だ。もう少しで剣先は届くのに。怖れているのか、この私が。まさか。もしもこれがどんな魔物であろうと、斬り伏せる自信はある。研鑽は積んだ。実力が足りないなど有り得ない。

 一方クモは息一つ乱さず笑っている。

「いやあ、これはたいしたもんやわ。生身の人間でここまで鍛え上げたヤツなんか見たことない。そこらの魔族やら精霊やらでは手も足も出ぇへんでしょうなあ」

「おまえは随分と余裕だな」

 ヘインティアは剣を構えながら、少しずつ動くクモを常に正面に立たせている。踏み込み剣を振れば首などすぐ獲れそうなのに、どうしてもそれができなかった。

 クモはまた白い歯を見せる。

「余裕はなくさんようにせんとね。そやないと自分の足下も見えへんようになるし」

 その瞬間までヘインティアは気付かなかった。足の下に銀色のクモの巣模様が広がっていることに。足が止まった。動かない。何だ、くっついている? いや、違う。

「くっつけてる訳やないんよ」

 クモは音を立てて杖をつき、ゆっくりと近付いてきた。

「くっつけても靴脱がれたら一撃くらうかも知れへんやん、それはイヤやからね」

「おのれ、暗示か」

「そうそう、クモの巣模様を見たらね、だれでも無意識に想像してしまうんよ。トンボやらチョウチョやらが捕まってるのを。まして自分の足下にそれがあったら、自分が捕まってるような錯覚を起こすんやね。その錯覚で発動する暗示をおたくさんにかけたの、気ぃつかへんかったでしょ?」

 クモが近付いて来る。あと少し、あと少しで剣の間合いに入る。たとえ足が動かなくても、手先だけの振りになっても、一撃を与えられれば。

 だがそんなヘインティアの願い虚しく、クモは剣の間合いを大きく迂回し、ロン・ブラアクへと向かった。

「殿下! お逃げください!」

 動けないヘインティアの叫びが聞こえている。だがロン・ブラアクはすでに蛇ににらまれた蛙のように、椅子から立ち上がれないでいた。

「いやあ、助かりましたわ。この辺で不死者なんかうて、お使いに出すとか王族か貴族しかおれへんやろし、思て後をつけて来たらものの見事に大当たり。面倒臭いことイヤやったんですけど、簡単に済みそうでよかったですわ、ロン・ブラアク殿下さん」

 そう言うクモの脇腹が盛り上がると、服の下から鋭い切っ先がのぞいた。徐々に姿を現わす湾曲した片刃の剣。そしてそれをつかむのは、黒く細い虫の脚。

 恐怖に身動きの取れないロン・ブラアクは、小さくつぶやくのが精一杯だった。

「ぴ……ぴーちゃん」

「それは無理ですわ。こっちも一旦引き受けた仕事なもんで」

 曲がった剣が振り上げられる。しかし。

 クモは飛び上がり、天井に手足をついた。通り過ぎる烈風の音。

「へえ、後ろ取りますか」

 クモはペロリと唇をなめた。

 いつの間にか部屋の真ん中に立っていた、肩で息をする小さな影。ヘインティアの声に希望が満ちる。

「リムレモ!」
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