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第2話 婚約指輪を投げつけて
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夜明けの光が宿舎の窓から差し込み、セレーナの頬を優しく照らした。涙の痕はすでに乾き、残っているのは冷たい決意だけだった。二周目。私はもう一度、この世界を生きている。最初の人生で味わった絶望と苦痛、そして無惨な最期。それらすべてを乗り越えて、今ここに立っている。
「アンナ」
セレーナの呼び声に、侍女のアンナが慌てて部屋に入ってきた。目を赤く腫らし、一晩中泣いていたのがわかる。
「セレーナ様! お休みになれたのですか? 朝食をお持ちいたしましょうか?」
「ありがとう。でも今は食べられないわ。それより、私の荷物をまとめてちょうだい。今日中に王都を出る」
アンナは目を見開いた。
「今日中に……ですか? でも、辺境伯様はまだ王都にいらっしゃいますわ。お父様にご相談を……」
「父上には私が話す。アンナ、お願い。私の言う通りにして」
セレーナの声には、これまでにない力強さがあった。アンナは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「はい、セレーナ様。お任せください」
アンナが荷造りを始める間に、セレーナは机に向かった。ペンを手に取り、羊皮紙に文字を走らせる。まず父宛ての手紙。婚約破棄の事実と、自分が先に辺境へ戻ることを伝える内容だ。そしてもう一枚。カイ・アルテミス宛ての手紙を書いた。
『カイ卿へ
昨夜は貴重なお時間をいただき、感謝しております。特に『お前など必要ない』というお言葉は、生涯忘れることはないでしょう。ただ一点、訂正させていただきます。必要とされなかったのは私ではなく、貴方の浅はかな判断の方です。
婚約指輪は、後ほどお返し申し上げます。
セレーナ・フォン・リヒトハイム』
最後に署名を入れ、封筒に収める。冷たい笑みがこぼれた。最初の人生では、婚約破棄に涙を流し、ただひたすらに傷つき、王都を追い出されるように去った。しかし今回は違う。私は彼らに、後悔という名の毒を飲ませてやる。
「セレーナ様、荷物はまとめ終わりましたわ」
「ありがとう、アンナ。それから……私の部屋にある小さな木箱を持ってきて。机の引き出しの中よ」
アンナが言われた通りに箱を持ってくる。セレーナは蓋を開け、中に入った銀の指輪を取り出した。昨日まで、これが幸せの象徴だと思っていた。カイ卿から贈られた婚約指輪。宝石は入っていないが、繊細な彫刻が施された美しい指輪だった。
「これを持って、アルテミス公爵邸へ行くわ」
「えっ? まだお会いになるおつもりですか? あの酷い男に!」
「会うのではない。返却するのよ。婚約指輪を、正式に」
セレーナは指輪を握りしめ、宿舎を出た。アンナが慌てて後を追う。王都の街はすでに活気に満ちており、商人たちが店を開け、馬車が行き交っている。しかしセレーナの目には、その華やかな街並みも以前とは違って映った。ここは私の居場所ではない。この帝国の都は、私の敵が支配する場所だ。
公爵邸に到着すると、門番がセレーナを一瞬で認めた。昨夜の舞踏会で、婚約破棄された令嬢として有名になっていたのだ。
「リヒトハイム令嬢……? 何のご用で?」
「カイ卿に、大切なものを返却しに参りました。お伝えください」
門番は渋々ながらも中へと入っていった。数分後、戻ってきた門番は冷たい表情で言った。
「カイ卿はお忙しいとのこと。令嬢の用件は私に預けてください」
「いいえ。直接、カイ卿にお渡しします。それが礼儀というものでしょう?」
セレーナは毅然とした態度で言い返す。門番は困惑した表情を浮かべながらも、再び中へと消えた。
待つこと十分。ようやく、カイ卿が姿を現した。昨夜と同じ金髪に、白い軍服を身にまとっている。少佐としての威厳を漂わせていたが、セレーナにはその虚勢が手に取るようにわかった。
「何の用だ? まだ何か言いたいことがあるのか?」
カイ卿の声には、明らかな侮蔑が込められていた。周囲には使用人たちが集まり、好奇の視線を向けてくる。セレーナはその視線を味方につけるように、大きな声で言った。
「カイ卿。昨夜は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
周囲がざわめく。婚約破棄された令嬢が、なぜ礼を言うのか。カイ卿も一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに冷笑を浮かべる。
「礼など不要だ。早く帰れ。辺境の田舎へ」
「もちろんです。ただその前に、これを返却させていただきます」
セレーナは握りしめていた指輪を掲げた。銀の指輪が朝日を受けてきらめく。
「婚約指輪ですね。カイ卿が昨夜、薔薇園で投げ捨てたもの。幸い、私が拾ってまいりました」
「……拾ったのか? 情けない。捨てたものなど、拾う必要はない」
「いいえ。これは私の誇りです。カイ卿にとっては塵のような存在でも、私にとっては大切な思い出なのです。だからこそ、正式に返却いたします」
セレーナは指輪を掲げたまま、カイ卿に一歩近づいた。周囲のざわめきが大きくなる。カイ卿は不快そうに眉をひそめる。
「何をする気だ?」
「これです」
セレーナは全身の力を込めて、指輪をカイ卿の顔面めがけて投げつけた。銀の指輪は弧を描き、カイ卿の頬をかすめて地面に落ちる。
「っ!」
カイ卿が驚愕の声を漏らす。周囲が一瞬静まり返った後、ざわめきが広がった。使用人たちは目を丸くしてセレーナを見つめている。
「カイ・アルテミス卿。あなたが私を塵のように扱ったように、この指輪も塵と化しました。婚約など、最初からなかったことにしましょう。ただし一つ、覚えておいてください」
セレーナはカイ卿の目の前まで近づき、静かだがはっきりとした声で言った。
「あなたが今日、私を捨てたこと。その選択が、いつかあなた自身を滅ぼす日が来るでしょう。私はその日を、楽しみに待っています」
「何を……!」
カイ卿が怒りで顔を歪める。しかしセレーナはすでに背を向けていた。
「アンナ、行きましょう。この場所には、これ以上いる価値はありません」
セレーナは堂々と公爵邸を後にした。背後からカイ卿の怒声が聞こえてくるが、気にしない。周囲の使用人たちの視線が、同情から驚嘆へと変わっているのがわかった。婚約破棄された令嬢が、逆に公爵家の御曹司を辱めた。この噂は、半日もしないうちに王都中に広まるだろう。
宿舎に戻ると、すぐに父宛ての手紙を門番に託した。そして荷物をまとめ、馬車を手配させた。辺境への旅は長く、少なくとも二週間はかかる。一刻も早く王都を離れなければ。
「セレーナ様、本当に大丈夫なのですか? お父様が心配しておられますわ」
アンナが心配そうに尋ねる。セレーナは静かに頷いた。
「大丈夫よ、アンナ。むしろ、これで全てがうまくいくわ。父上には、私が先に辺境に戻り、領地の準備を整えておくと伝えておいて。王都での用件が済んだら、すぐに合流するようにと」
「はい……でも、カイ卿があのようなことを……」
「あの男のことは、もう私の心の中にはありません。ただの通過点よ」
嘘ではなかった。カイ卿への怒りはある。しかし、それ以上に強いのは、この二周目の人生を無駄にしないという決意だった。最初の人生で、私はカイ卿とアルテミス公爵家の策略にまんまと嵌められ、父を失い、自分も命を落とした。しかし今回は違う。私は彼らの策略を知っている。そして、彼らが最も恐れる存在と出会うことも知っている。
敵国の将軍。鬼将軍と恐れられる男。最初の人生では、彼と関わることはなかった。辺境で静かに暮らしていた私は、帝国と敵国の戦いにも無関心だった。しかし二周目の記憶によれば、この先数ヶ月で帝国と敵国との間で大規模な戦いが勃発する。そしてその戦いの中で、私は鬼将軍と出会うのだ。
「アンナ、荷物は全部まとめた?」
「はい、全て準備できましたわ。馬車も到着しております」
「では行きましょう。王都アルテミスに別れを告げる時です」
セレーナは宿舎を後にし、馬車に乗り込んだ。馬車が走り出すと、窓から王都の街並みが流れていく。華やかな宮殿、高貴な貴族たちの館、そしてアルテミス公爵邸の尖塔。すべてが、かつての自分にとって憧れの対象だった。しかし今では、ただの虚構に過ぎない。
馬車は王都の門をくぐり、街道へと出る。辺境へ向かう長い旅路の始まりだった。セレーナは窓から外を眺めながら、静かに呟いた。
「カイ・アルテミス。あなたは私を塵だと言う。では、この塵がどのようにあなたを飲み込むか、よく見ていてください」
二周目の人生。私はもう、誰かの駒にはならない。自分の意思で、自分の力で、道を切り開いていく。そして、あの鬼将軍との出会いが、私の運命を大きく変えることになるとは、この時点ではまだ知らなかった。
街道を進む馬車の中で、セレーナは父からの手紙をもう一度読み返した。そこには、辺境での生活についての記述があった。特に、国境近くにある古い城塞について触れられていた。
『この城塞は、かつて帝国と敵国が激戦を繰り広げた地である。今は平和が訪れているが、依然として戦略的に重要な位置にあるため、将来的には再び争いの舞台となるかもしれない』
この文章に、セレーナは胸を高鳴らせた。最初の人生では、父がこの城塞への赴任を命じられたとき、私は王都での生活を夢見て反対した。しかし今回は違う。私はこの城塞へ行く。そして、そこで鬼将軍と出会うのだ。
「アンナ、父上には必ず伝えてください。私は辺境で待っていると」
「はい、セレーナ様。必ず」
アンナの声は、少しだけ安心した響きを帯びていた。セレーナの変化に気づいているのだろう。婚約破棄のショックから立ち直り、むしろ新たな決意に満ちていることに。
馬車は街道をひた走る。王都の喧騒が遠ざかり、代わりに緑豊かな田園風景が広がっていく。帝国の中心から離れれば離れるほど、セレーナの心は軽くなっていく。ここは私の戦場ではない。私の戦場は、もっと先にある。
三日後、馬車は小さな町に到着した。ここで一泊し、翌朝再び出発する予定だった。宿屋で夕食をとっていると、隣の席の商人たちの会話が耳に入った。
「……でな、また敵国の兵士が国境を越えてきたらしいぜ。今度は小さな村を襲って、食料を略奪していったそうだ」
「またかよ。帝国軍は何をしてるんだ?」
「それがな、帝国軍の将軍が交代するらしいんだよ。前任者は病気で引退して、後任は……誰だと思う?」
「誰だよ?」
「鬼将軍だそうだ。敵国で一番恐れられている将軍が、国境の守備を任されるらしい」
セレーナの手が止まった。鬼将軍。噂には聞いていたが、まさか本当に国境に赴任してくるとは。最初の人生では、この情報は入ってこなかった。あるいは、私が無関心だったのかもしれない。
「鬼将軍って、あの冷血な将軍か? 捕虜を皆殺しにするって噂の……」
「そうだそうだ。でもな、噂によると、あの将軍、実は……」
商人の話はそこで途切れ、別の話題に移った。セレーナは静かに食事を続けながら、心の中で呟いた。
鬼将軍。あなたが私の運命を変える鍵となる存在なのか。それとも、ただの通過点なのか。いずれにせよ、私はあなたと出会う。そして、この二周目の人生を、絶対に無駄にはしない。
翌朝、馬車は再び街道を走り始めた。セレーナは窓から外を眺めながら、静かに決意を新たにする。カイ卿への復讐。父を守ること。そして、未知なる運命との出会い。すべてが、この旅路の先で待っている。
「アンナ、もう少しで辺境ね」
「はい、セレーナ様。あと五日ほどで、伯爵領に到着いたしますわ」
「……そうね。でも、私たちは伯爵領には行かないわ」
アンナが驚いた表情を見せる。
「えっ? ではどこへ?」
「国境の城塞へ行くの。父上が赴任する場所よ」
「そんな……危険ですわ! 敵国との国境なんて!」
「危険だからこそ、価値があるのよ、アンナ」
セレーナは静かに微笑んだ。最初の人生では、私は安全な場所ばかりを選んで、結局すべてを失った。しかし今回は違う。危険な場所こそが、私に真の力を与えてくれる。そして、鬼将軍との出会いが、私の運命を変える鍵となる。
馬車は街道をひた走る。セレーナの胸の中では、静かなる炎が燃え盛っていた。婚約破棄された令嬢の逆襲は、ここから始まる。そして、その先には誰もが予想しない展開が待ち受けていた。
(続く)
「アンナ」
セレーナの呼び声に、侍女のアンナが慌てて部屋に入ってきた。目を赤く腫らし、一晩中泣いていたのがわかる。
「セレーナ様! お休みになれたのですか? 朝食をお持ちいたしましょうか?」
「ありがとう。でも今は食べられないわ。それより、私の荷物をまとめてちょうだい。今日中に王都を出る」
アンナは目を見開いた。
「今日中に……ですか? でも、辺境伯様はまだ王都にいらっしゃいますわ。お父様にご相談を……」
「父上には私が話す。アンナ、お願い。私の言う通りにして」
セレーナの声には、これまでにない力強さがあった。アンナは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「はい、セレーナ様。お任せください」
アンナが荷造りを始める間に、セレーナは机に向かった。ペンを手に取り、羊皮紙に文字を走らせる。まず父宛ての手紙。婚約破棄の事実と、自分が先に辺境へ戻ることを伝える内容だ。そしてもう一枚。カイ・アルテミス宛ての手紙を書いた。
『カイ卿へ
昨夜は貴重なお時間をいただき、感謝しております。特に『お前など必要ない』というお言葉は、生涯忘れることはないでしょう。ただ一点、訂正させていただきます。必要とされなかったのは私ではなく、貴方の浅はかな判断の方です。
婚約指輪は、後ほどお返し申し上げます。
セレーナ・フォン・リヒトハイム』
最後に署名を入れ、封筒に収める。冷たい笑みがこぼれた。最初の人生では、婚約破棄に涙を流し、ただひたすらに傷つき、王都を追い出されるように去った。しかし今回は違う。私は彼らに、後悔という名の毒を飲ませてやる。
「セレーナ様、荷物はまとめ終わりましたわ」
「ありがとう、アンナ。それから……私の部屋にある小さな木箱を持ってきて。机の引き出しの中よ」
アンナが言われた通りに箱を持ってくる。セレーナは蓋を開け、中に入った銀の指輪を取り出した。昨日まで、これが幸せの象徴だと思っていた。カイ卿から贈られた婚約指輪。宝石は入っていないが、繊細な彫刻が施された美しい指輪だった。
「これを持って、アルテミス公爵邸へ行くわ」
「えっ? まだお会いになるおつもりですか? あの酷い男に!」
「会うのではない。返却するのよ。婚約指輪を、正式に」
セレーナは指輪を握りしめ、宿舎を出た。アンナが慌てて後を追う。王都の街はすでに活気に満ちており、商人たちが店を開け、馬車が行き交っている。しかしセレーナの目には、その華やかな街並みも以前とは違って映った。ここは私の居場所ではない。この帝国の都は、私の敵が支配する場所だ。
公爵邸に到着すると、門番がセレーナを一瞬で認めた。昨夜の舞踏会で、婚約破棄された令嬢として有名になっていたのだ。
「リヒトハイム令嬢……? 何のご用で?」
「カイ卿に、大切なものを返却しに参りました。お伝えください」
門番は渋々ながらも中へと入っていった。数分後、戻ってきた門番は冷たい表情で言った。
「カイ卿はお忙しいとのこと。令嬢の用件は私に預けてください」
「いいえ。直接、カイ卿にお渡しします。それが礼儀というものでしょう?」
セレーナは毅然とした態度で言い返す。門番は困惑した表情を浮かべながらも、再び中へと消えた。
待つこと十分。ようやく、カイ卿が姿を現した。昨夜と同じ金髪に、白い軍服を身にまとっている。少佐としての威厳を漂わせていたが、セレーナにはその虚勢が手に取るようにわかった。
「何の用だ? まだ何か言いたいことがあるのか?」
カイ卿の声には、明らかな侮蔑が込められていた。周囲には使用人たちが集まり、好奇の視線を向けてくる。セレーナはその視線を味方につけるように、大きな声で言った。
「カイ卿。昨夜は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
周囲がざわめく。婚約破棄された令嬢が、なぜ礼を言うのか。カイ卿も一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに冷笑を浮かべる。
「礼など不要だ。早く帰れ。辺境の田舎へ」
「もちろんです。ただその前に、これを返却させていただきます」
セレーナは握りしめていた指輪を掲げた。銀の指輪が朝日を受けてきらめく。
「婚約指輪ですね。カイ卿が昨夜、薔薇園で投げ捨てたもの。幸い、私が拾ってまいりました」
「……拾ったのか? 情けない。捨てたものなど、拾う必要はない」
「いいえ。これは私の誇りです。カイ卿にとっては塵のような存在でも、私にとっては大切な思い出なのです。だからこそ、正式に返却いたします」
セレーナは指輪を掲げたまま、カイ卿に一歩近づいた。周囲のざわめきが大きくなる。カイ卿は不快そうに眉をひそめる。
「何をする気だ?」
「これです」
セレーナは全身の力を込めて、指輪をカイ卿の顔面めがけて投げつけた。銀の指輪は弧を描き、カイ卿の頬をかすめて地面に落ちる。
「っ!」
カイ卿が驚愕の声を漏らす。周囲が一瞬静まり返った後、ざわめきが広がった。使用人たちは目を丸くしてセレーナを見つめている。
「カイ・アルテミス卿。あなたが私を塵のように扱ったように、この指輪も塵と化しました。婚約など、最初からなかったことにしましょう。ただし一つ、覚えておいてください」
セレーナはカイ卿の目の前まで近づき、静かだがはっきりとした声で言った。
「あなたが今日、私を捨てたこと。その選択が、いつかあなた自身を滅ぼす日が来るでしょう。私はその日を、楽しみに待っています」
「何を……!」
カイ卿が怒りで顔を歪める。しかしセレーナはすでに背を向けていた。
「アンナ、行きましょう。この場所には、これ以上いる価値はありません」
セレーナは堂々と公爵邸を後にした。背後からカイ卿の怒声が聞こえてくるが、気にしない。周囲の使用人たちの視線が、同情から驚嘆へと変わっているのがわかった。婚約破棄された令嬢が、逆に公爵家の御曹司を辱めた。この噂は、半日もしないうちに王都中に広まるだろう。
宿舎に戻ると、すぐに父宛ての手紙を門番に託した。そして荷物をまとめ、馬車を手配させた。辺境への旅は長く、少なくとも二週間はかかる。一刻も早く王都を離れなければ。
「セレーナ様、本当に大丈夫なのですか? お父様が心配しておられますわ」
アンナが心配そうに尋ねる。セレーナは静かに頷いた。
「大丈夫よ、アンナ。むしろ、これで全てがうまくいくわ。父上には、私が先に辺境に戻り、領地の準備を整えておくと伝えておいて。王都での用件が済んだら、すぐに合流するようにと」
「はい……でも、カイ卿があのようなことを……」
「あの男のことは、もう私の心の中にはありません。ただの通過点よ」
嘘ではなかった。カイ卿への怒りはある。しかし、それ以上に強いのは、この二周目の人生を無駄にしないという決意だった。最初の人生で、私はカイ卿とアルテミス公爵家の策略にまんまと嵌められ、父を失い、自分も命を落とした。しかし今回は違う。私は彼らの策略を知っている。そして、彼らが最も恐れる存在と出会うことも知っている。
敵国の将軍。鬼将軍と恐れられる男。最初の人生では、彼と関わることはなかった。辺境で静かに暮らしていた私は、帝国と敵国の戦いにも無関心だった。しかし二周目の記憶によれば、この先数ヶ月で帝国と敵国との間で大規模な戦いが勃発する。そしてその戦いの中で、私は鬼将軍と出会うのだ。
「アンナ、荷物は全部まとめた?」
「はい、全て準備できましたわ。馬車も到着しております」
「では行きましょう。王都アルテミスに別れを告げる時です」
セレーナは宿舎を後にし、馬車に乗り込んだ。馬車が走り出すと、窓から王都の街並みが流れていく。華やかな宮殿、高貴な貴族たちの館、そしてアルテミス公爵邸の尖塔。すべてが、かつての自分にとって憧れの対象だった。しかし今では、ただの虚構に過ぎない。
馬車は王都の門をくぐり、街道へと出る。辺境へ向かう長い旅路の始まりだった。セレーナは窓から外を眺めながら、静かに呟いた。
「カイ・アルテミス。あなたは私を塵だと言う。では、この塵がどのようにあなたを飲み込むか、よく見ていてください」
二周目の人生。私はもう、誰かの駒にはならない。自分の意思で、自分の力で、道を切り開いていく。そして、あの鬼将軍との出会いが、私の運命を大きく変えることになるとは、この時点ではまだ知らなかった。
街道を進む馬車の中で、セレーナは父からの手紙をもう一度読み返した。そこには、辺境での生活についての記述があった。特に、国境近くにある古い城塞について触れられていた。
『この城塞は、かつて帝国と敵国が激戦を繰り広げた地である。今は平和が訪れているが、依然として戦略的に重要な位置にあるため、将来的には再び争いの舞台となるかもしれない』
この文章に、セレーナは胸を高鳴らせた。最初の人生では、父がこの城塞への赴任を命じられたとき、私は王都での生活を夢見て反対した。しかし今回は違う。私はこの城塞へ行く。そして、そこで鬼将軍と出会うのだ。
「アンナ、父上には必ず伝えてください。私は辺境で待っていると」
「はい、セレーナ様。必ず」
アンナの声は、少しだけ安心した響きを帯びていた。セレーナの変化に気づいているのだろう。婚約破棄のショックから立ち直り、むしろ新たな決意に満ちていることに。
馬車は街道をひた走る。王都の喧騒が遠ざかり、代わりに緑豊かな田園風景が広がっていく。帝国の中心から離れれば離れるほど、セレーナの心は軽くなっていく。ここは私の戦場ではない。私の戦場は、もっと先にある。
三日後、馬車は小さな町に到着した。ここで一泊し、翌朝再び出発する予定だった。宿屋で夕食をとっていると、隣の席の商人たちの会話が耳に入った。
「……でな、また敵国の兵士が国境を越えてきたらしいぜ。今度は小さな村を襲って、食料を略奪していったそうだ」
「またかよ。帝国軍は何をしてるんだ?」
「それがな、帝国軍の将軍が交代するらしいんだよ。前任者は病気で引退して、後任は……誰だと思う?」
「誰だよ?」
「鬼将軍だそうだ。敵国で一番恐れられている将軍が、国境の守備を任されるらしい」
セレーナの手が止まった。鬼将軍。噂には聞いていたが、まさか本当に国境に赴任してくるとは。最初の人生では、この情報は入ってこなかった。あるいは、私が無関心だったのかもしれない。
「鬼将軍って、あの冷血な将軍か? 捕虜を皆殺しにするって噂の……」
「そうだそうだ。でもな、噂によると、あの将軍、実は……」
商人の話はそこで途切れ、別の話題に移った。セレーナは静かに食事を続けながら、心の中で呟いた。
鬼将軍。あなたが私の運命を変える鍵となる存在なのか。それとも、ただの通過点なのか。いずれにせよ、私はあなたと出会う。そして、この二周目の人生を、絶対に無駄にはしない。
翌朝、馬車は再び街道を走り始めた。セレーナは窓から外を眺めながら、静かに決意を新たにする。カイ卿への復讐。父を守ること。そして、未知なる運命との出会い。すべてが、この旅路の先で待っている。
「アンナ、もう少しで辺境ね」
「はい、セレーナ様。あと五日ほどで、伯爵領に到着いたしますわ」
「……そうね。でも、私たちは伯爵領には行かないわ」
アンナが驚いた表情を見せる。
「えっ? ではどこへ?」
「国境の城塞へ行くの。父上が赴任する場所よ」
「そんな……危険ですわ! 敵国との国境なんて!」
「危険だからこそ、価値があるのよ、アンナ」
セレーナは静かに微笑んだ。最初の人生では、私は安全な場所ばかりを選んで、結局すべてを失った。しかし今回は違う。危険な場所こそが、私に真の力を与えてくれる。そして、鬼将軍との出会いが、私の運命を変える鍵となる。
馬車は街道をひた走る。セレーナの胸の中では、静かなる炎が燃え盛っていた。婚約破棄された令嬢の逆襲は、ここから始まる。そして、その先には誰もが予想しない展開が待ち受けていた。
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