おとぎの庭

カトリ

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おとぎの庭

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 私は、

 あの人の世界の間違いを、

 指摘する術を知らない。

 おそらく指摘しても、あの人はただただ──


 微笑むだけなのだろう。



【おとぎの庭】



 買ってきたタマゴに、一つヒビがいっていた。
 一緒に買ったイチゴジャムがその一つだけに倒れていたのだ。

 ──めんどくさい事になったぞ。

 私は小さくため息をつくと慌てて、買ってきたジャムとタマゴを冷蔵庫へと押し込んだ。
 ただ……──
 問題はひびの入ったタマゴである。
 これを「あの人」に見られでもしたら、無精卵のタマゴを抱えて温めそうで恐ろしい。
 私はなんとか頭を巡らせて、ホットケーキという救いの手に行き当たった。
 ほっとしてボールを手にする。
 さっさと使ってしまおう。それに限る。それにもうすぐ3時だし。
 私は小さくため息をつくと、ホットケーキ作りにとりかかった。


 それは──
 暇な夏休みを過ごしていた、大学生の私にとっては恰好のバイトだった。
 何よりよく見知った叔父の頼みだったし、バイト代もかなり弾んでくれるとの事だったので、貧乏学生が飛び付かない訳がない。
 住み込みが条件だったけど、たった十日間だし、その間の生活費は全て向こう持ち。
 まさに至れり尽くせり、である。

 ただ一点を覗いては──



「素敵。いい匂い」

 いつもの少し高い声に振り返る。
 あぁ……起きてきてしまいましたか、お昼寝から。
 にっこり微笑んでいる「その人」は、いつもの少し大きなクマのぬいぐるみを抱えて現れた。
「なぁに?マイカちゃん何作ってるの?」
「ホットケーキ、です」
「うわぁ、素敵!じゃあできるまで待ってるわね」
「その前に、お顔、洗ってきてはどうでしょう?」
 きょとん、とした顔。
 そうね──笑って呟いて、彼女は洗面台へと向かった。


 彼女──フミハさんは、今年で御年三十五歳になられる。
 ハーフだという彼女は、パッと見にはすごく美人だ。
 キレイな亜麻色の髪をくるくると伸ばして、叔父の後ろで微笑む姿を見た時にゃ……叔父もなかなかやったもんだ、と思ったもんである。

 けれど──

 彼女は一般の人からは一線を画していた。
 なんと言えばいいのか……フィルターが違う、のである。
 常識がなく、まるで五歳ぐらいの子供の様な考え方をする。
 純粋と言えば聞こえがいいが、つまり「病む人」の類いに入るのだろう。
 叔父は、彼女がああなってしまった原因は、何一つ言わなかった。
 ただ少しばかりの苦笑いで──
「あれはあーいう奴でね」
 と、言ってぶ厚い日記を渡された。
 おそらくこれを読んで理解してくれ、という事なのだろう。
 私はただただ……受け入れるしかなかった。



 焼けたホットケーキを皿に盛ると、さっき買ってきたジャムと生クリームをたっぷりのせてテーブルに置く。
「マイカちゃんっ」
 ちょっと怒り気味の声に顔を上げる。

 あぁ……もしかして──

「どうしていつものクマさんのタオルじゃないの?」
「洗濯中なもんで」
「わたし、ゾウさんって嫌いっ」
 まだよく拭けてない顔でタオルを突っ返される。
 うーん、しまった。
ここまでは頭が回らなかったな。
「今はこれで我慢して下さいな」
 私はタオルを裏返してごしごしと無理矢理フミハさんの顔を拭いた。
 や~ん、とだだをこねて、彼女はすぐさまキッチンへと走り抜けてしまう。
 ホント、子供だ。
 私は子供を相手にしているのだ。 
 そう思わなければやっていけない。

 やれやれ──

 拭ったタオルを洗濯カゴにほおりこむと、私もキッチンへと向かった。



 フミハさんは、庭がよく見える裏口近くの席が好きだ。
 特等席で、美味しそうにホットケーキをもぐもぐと食べている。
 彼女の隣に、私は腰をかける──これも、ほぼ指定席になりつつある。
「ねぇ」
「はい?」
 フミハさんの口の回りについたクリームが気になって、ティッシュを取ってこようと立ち上がりかけた瞬間、尋ねられた。
「こぉちゃんはいつ帰ってくるの?」
 こぉちゃん──つまり、孝治おじさんの事である。
「そーですねぇ……」
 私はカレンダーを見ながら、ティッシュの箱を手に取る。
 バッテンのついたカレンダー。叔父が帰ってくるまでのカウントダウン。
 お……?
「後二日で、帰ってきますよ」



 作家である叔父は十日間、ホテルでの缶詰めを編集部から言い渡されたらしい。
 確かに──毎日フミハさんの面倒を見ていたのでは、書けるものも書けないだろう。
 締め切りとかだって、あるわけだし。
 それでも「二週間」と言われていた所を「十日」で押さえた叔父には拍手を送ってやりたい。



「二日?二日って、なぁに?どれくらい?」
 私は、そうだった──と思いつつも、がっくりとうなだれた。
「見て下さい」
 カレンダーをさして、一、ニ、と数える。
 フミハさんはクリームのついた口で「うわぁ」と嬉しそうに声を上げた。
「もうすぐこぉちゃんに会えるのね、うれしいなぁ。ねぇ、ココア」
 クマのぬいぐるみに笑いかけるフミハさんに苦笑い。
 あ。
 やばい。
「フミハさん、お口拭きましょう」
 彼女はそのうち大親友のココアにまでも、クリームのついたホットケーキを食べさせかねない。
 私は慌ててティッシュを持って隣へと座った。



 一度、あったのだ。
 私の作ったハンバーグをココアに食べさせて汚してしまい、取り上げるのに、まず大変。
 説得する事数時間。
 ココアを洗濯して干してる間、彼女はそれでもずっと泣きじゃくっていた。



 あれだけは、もう二度とごめんだ。
 なので、彼女の食事時は細心の注意を払わなければいけない。
「フミハさん」
「なぁに?」
「ココアにはフミハさんの見えないホットケーキ用意して、ちゃんと食べてるんですから、フミハさんのはあげちゃダメですよ?」
「分かってるもん」
 クリームを全部拭うと、またフミハさんは笑顔でホットケーキを食べ出す。
 私はほっとして、椅子の背もたれに体を預けた。
 一息ついて、裏口を、見つめる。
 大きな窓の下には、ステンドグラス。
 私もこの裏口は好きだ。
 キラキラのステンドグラスの上の窓からは、白い花が咲き誇る庭が見える。
 そこだけは、まるで……まるで、夢の世界の様だった。
 フミハさんが住んでいる様な、キラキラの、おとぎの世界。



 美味しそうに、嬉しそうに、ホットケーキを食べるフミハさん。
 最初、叔父が行ってしまってから……ずっとずっと、泣いていた。
 それも二日間ぐらい。
 私も軽いノイローゼになりかけていた。
 こっちこそ、泣きたい気分だった。
 けれど、三日目の晴れた午後。
 フミハさんが突然私の手をとって、裏口を開けた。
 広がる白い世界に、ぽつんと緑色のベンチ。
 そこに、裸足でとてとて向かうと、フミハさんは真剣な顔で、言った。
「マイカちゃん、一緒に泣こう」

 私はなんだか可笑しいやら、今までの精神的疲労がどっと溢れてきたやらで──言われるがまま、二人して声を上げて泣いた。
 大声で泣いた。
 白い庭園は、そんな二人を優しく包む様に、風に揺れてさわさわと慰めてくれていた。
 まさしくそこは、「おとぎの国」、だった。



 後、二日。
 二日で、この生活も終わるのだ。
 どんなにどたばたで、どんなにたくさん苦労しただろうか。
 そりゃ、叔父の日記を読む限りでは、私の苦労なんてほんの塩ひとつまみ程度だろうけど──
 けれど、どうしてこんなに、この日々が……この人が、こんなに愛しく思えるのだろう?
 私はなんだか切なくなって、フミハさんを見つめていた。
「マイカちゃん」
 いつのまにか完食していたフミハさん。
 またティッシュで口元を拭う。
「なんでしょう?」
「悲しいの?」

 ドキッとした。
 苦笑いをしながら拭き終える。
「なんでですか?」
「そんな顔してたもの」
 フミハさんは、そっと、私の手を取った。
「また、お庭、行く?」
 少し、潤み出した目。
 私は小さく、うん──と、呟いた。



 この十日間自体が、もしかしたら「おとぎの世界」だったのかもしれない。
 こんなに日々を、人を、愛しいと……思った事はない。

 ぎゅっと手を握っててくれるフミハさんの温もりを感じながら、私は切なくて……静かに、泣いた。




end

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