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四章 桂木 千佳
「お母さん…」
自分のものとは思えないほどキツい声が出た。この人は、私をハルさんに押し付けて親の義務を放棄しておいて、私の平穏を壊しに来た。
ハルさんの顔は青白く、苦々しげな顔をしている。ケイさんが無言でハルさんの隣に立つ。
「何してるの。ほら、来なさい」
手が伸びてくる。私は咄嗟に居住スペースに逃げ込むように身を翻した。
奥へ逃げ込もうとする心音を捕まえようとする千佳さんの手を、俺は掴んで止めた。
「!二条くん、離して」
「駄目だ。貴女は…貴女って人はどうして…!」
そこまで言ったところで俺は口を閉じた。
俺は、どうしてここまで怒っている?もちろん心音が大事だからだ。自分のためじゃないのか?違う。でも…
「晴樹」
京一の声にハッと我に返る。
「千佳さん、今日はお引き取りください。後日、俺と二人で話しましょう。
そして、あの子の意思を尊重してやってくれませんか」
千佳さんは諦めたような顔で頷き、ツカツカと店を出ていった。
「あれ、心音ちゃんのお母さん?わお、キツそうな人だね」
「ああ、キツいよ、あの人は」
「心音、あの人は帰ったよ。後日、話をしてくる」
ハルさんの声に顔を上げると、心配そうな顔のハルさんとケイさんが私の側にいてくれていた。
「あ…ハルさん…ありがとう」
「ああ、気にするな」
ハルさんは私の頭をぐしゃりと撫でて、近くの棚に歩み寄った。引き出しから銀色に光る細い紐のようなものを取り出す。
それを、私の首にそっとかけた。
チャリ、と音を立てて、私の胸元に銀色の小さなプレートが揺れた。
「これ…は?」
「俺の母が大事にしてた形見のネックレス。心音にあげるよ」
慌ててネックレスを外そうとすると、ハルさんの細い手がそれを止めた。
「心音に持っててほしい」
ハルさんは笑って、私を軽く抱きしめた。
「心音、何があっても、お前は俺の姪だ。いいか、忘れるなよ」
その時は知らなかった。その言葉に、どれほどの慈愛が込められていたか。どれほどの願いが込められていたか。
あの日から二日。
俺は千佳さんと向かい合う形で、喫茶店で座っていた。
自分で言い出したこととはいえ、キツい。勘弁しろ。
「二条くん、心音を返してほしいの」
千佳さんの言葉に怒りを覚えるのも何回目か。
「何度も言ってますが、心音は物じゃないでしょう。
返す、返さないの話じゃない。あの子の意思を…」
「貴方が誑かしてるんでしょ。自分の元から離れないように」
人聞きが悪すぎる。
「千佳さん、どうして急に心音を?」
千佳さんは薄暗い顔で俺を恨めしそうに見る。
「あの人相手に一人でいろって言うの?」
あの人…。俺の義兄にあたる、心音の父親。
随分と価値観がぶっ飛んでいると聞いたことがある。
「千佳さんが大変なのは聞いてる。
でも、心音はまだ大学生だ。これからが、未来がある。
それを、千佳さんの都合だけで曲げてしまうのは良くない。心音の人生を曲げるのも伸ばすのもアイツ次第。俺たち大人は、アイツが人として堕ちてしまわないようにだけ、見守ればいい」
俺は願っていたのだろう。
母は子を想うものだと、そうあってくれと。
千佳さんは知らなかったのだろう。
愛し方を、接し方を、向き合い方を。
「…ねぇ、二条くん」
「…はい、なんですか?」
千佳さんは憑き物が落ちたような顔で、俺を見た。
「今までは、心音を理由にしてたけれど、あの子ももう大学生。自分で歩いていける」
俺は静かに頷く。そう、見守るだけでいい。盾に、矛に、なってやらなくてもいい。
「離婚、しちゃおうかしら。
あの人と一緒にいすぎて、私まで人を物扱いしちゃう」
「いいんじゃないですか。貴女のしたいようにすれば。
ただし、心音にキチンと伝えること、向き合うことですね」
俺は少し笑って伝票を取った。
「奢りますわ、俺、男だし」
「でも、私の方が年上よ」
俺は千佳さんの手を避け、さっさと会計を終えた。
「千佳さん、別にいいって」
尚も不満げな異母姉を押しとどめ、俺は喫茶店を出た。早足に『二条堂』へ戻る。
私の携帯が震えたのは母が『二条堂』にやってきた日から二週間以上経った時だった。突然、母から父との離婚について知らされ、憑き物が落ちたようにすっきりした母に違和感を覚えていた頃。
ハルさんがお母さんと話をしてくれた、と母から聞いたが、あの日以来会えてはいない。
携帯には『ケイさん』と表示されている。
ハルさん同様、あの日以来会えていなかった人からの電話。
なんだろう、と軽い気持ちで電話をとる。
「もしもし?」
『あ、もしもし!?心音ちゃん、お母さんと一緒にR病院来れる?今から』
病院?何故。
『晴樹が…』
病室に駆け込むと、白い部屋の白いベッドの上で、ハルさんが苦笑を浮かべていた。
ベッドの横の椅子でケイさんが座っている。
お母さんと私は、並んで立ち尽くしていた。
「…ごめんな、心音」
ハルさんの声に慌てて駆け寄る。
「か、風邪?風邪なんでしょ?」
ハルさんは眼を細めた。ほら、やっぱり。きっと大したことはないんだ。
「…癌だよ」
申し訳なさそうな声。
現実感が消えて、足元が崩れる気がした。お腹の辺りがふわっと冷えるような感覚。
ハルさんが、癌…?
桂木 千佳 主婦
入店日:10/18
自分のものとは思えないほどキツい声が出た。この人は、私をハルさんに押し付けて親の義務を放棄しておいて、私の平穏を壊しに来た。
ハルさんの顔は青白く、苦々しげな顔をしている。ケイさんが無言でハルさんの隣に立つ。
「何してるの。ほら、来なさい」
手が伸びてくる。私は咄嗟に居住スペースに逃げ込むように身を翻した。
奥へ逃げ込もうとする心音を捕まえようとする千佳さんの手を、俺は掴んで止めた。
「!二条くん、離して」
「駄目だ。貴女は…貴女って人はどうして…!」
そこまで言ったところで俺は口を閉じた。
俺は、どうしてここまで怒っている?もちろん心音が大事だからだ。自分のためじゃないのか?違う。でも…
「晴樹」
京一の声にハッと我に返る。
「千佳さん、今日はお引き取りください。後日、俺と二人で話しましょう。
そして、あの子の意思を尊重してやってくれませんか」
千佳さんは諦めたような顔で頷き、ツカツカと店を出ていった。
「あれ、心音ちゃんのお母さん?わお、キツそうな人だね」
「ああ、キツいよ、あの人は」
「心音、あの人は帰ったよ。後日、話をしてくる」
ハルさんの声に顔を上げると、心配そうな顔のハルさんとケイさんが私の側にいてくれていた。
「あ…ハルさん…ありがとう」
「ああ、気にするな」
ハルさんは私の頭をぐしゃりと撫でて、近くの棚に歩み寄った。引き出しから銀色に光る細い紐のようなものを取り出す。
それを、私の首にそっとかけた。
チャリ、と音を立てて、私の胸元に銀色の小さなプレートが揺れた。
「これ…は?」
「俺の母が大事にしてた形見のネックレス。心音にあげるよ」
慌ててネックレスを外そうとすると、ハルさんの細い手がそれを止めた。
「心音に持っててほしい」
ハルさんは笑って、私を軽く抱きしめた。
「心音、何があっても、お前は俺の姪だ。いいか、忘れるなよ」
その時は知らなかった。その言葉に、どれほどの慈愛が込められていたか。どれほどの願いが込められていたか。
あの日から二日。
俺は千佳さんと向かい合う形で、喫茶店で座っていた。
自分で言い出したこととはいえ、キツい。勘弁しろ。
「二条くん、心音を返してほしいの」
千佳さんの言葉に怒りを覚えるのも何回目か。
「何度も言ってますが、心音は物じゃないでしょう。
返す、返さないの話じゃない。あの子の意思を…」
「貴方が誑かしてるんでしょ。自分の元から離れないように」
人聞きが悪すぎる。
「千佳さん、どうして急に心音を?」
千佳さんは薄暗い顔で俺を恨めしそうに見る。
「あの人相手に一人でいろって言うの?」
あの人…。俺の義兄にあたる、心音の父親。
随分と価値観がぶっ飛んでいると聞いたことがある。
「千佳さんが大変なのは聞いてる。
でも、心音はまだ大学生だ。これからが、未来がある。
それを、千佳さんの都合だけで曲げてしまうのは良くない。心音の人生を曲げるのも伸ばすのもアイツ次第。俺たち大人は、アイツが人として堕ちてしまわないようにだけ、見守ればいい」
俺は願っていたのだろう。
母は子を想うものだと、そうあってくれと。
千佳さんは知らなかったのだろう。
愛し方を、接し方を、向き合い方を。
「…ねぇ、二条くん」
「…はい、なんですか?」
千佳さんは憑き物が落ちたような顔で、俺を見た。
「今までは、心音を理由にしてたけれど、あの子ももう大学生。自分で歩いていける」
俺は静かに頷く。そう、見守るだけでいい。盾に、矛に、なってやらなくてもいい。
「離婚、しちゃおうかしら。
あの人と一緒にいすぎて、私まで人を物扱いしちゃう」
「いいんじゃないですか。貴女のしたいようにすれば。
ただし、心音にキチンと伝えること、向き合うことですね」
俺は少し笑って伝票を取った。
「奢りますわ、俺、男だし」
「でも、私の方が年上よ」
俺は千佳さんの手を避け、さっさと会計を終えた。
「千佳さん、別にいいって」
尚も不満げな異母姉を押しとどめ、俺は喫茶店を出た。早足に『二条堂』へ戻る。
私の携帯が震えたのは母が『二条堂』にやってきた日から二週間以上経った時だった。突然、母から父との離婚について知らされ、憑き物が落ちたようにすっきりした母に違和感を覚えていた頃。
ハルさんがお母さんと話をしてくれた、と母から聞いたが、あの日以来会えてはいない。
携帯には『ケイさん』と表示されている。
ハルさん同様、あの日以来会えていなかった人からの電話。
なんだろう、と軽い気持ちで電話をとる。
「もしもし?」
『あ、もしもし!?心音ちゃん、お母さんと一緒にR病院来れる?今から』
病院?何故。
『晴樹が…』
病室に駆け込むと、白い部屋の白いベッドの上で、ハルさんが苦笑を浮かべていた。
ベッドの横の椅子でケイさんが座っている。
お母さんと私は、並んで立ち尽くしていた。
「…ごめんな、心音」
ハルさんの声に慌てて駆け寄る。
「か、風邪?風邪なんでしょ?」
ハルさんは眼を細めた。ほら、やっぱり。きっと大したことはないんだ。
「…癌だよ」
申し訳なさそうな声。
現実感が消えて、足元が崩れる気がした。お腹の辺りがふわっと冷えるような感覚。
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桂木 千佳 主婦
入店日:10/18
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