響く声は、霞む夜を照らす

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 双葉霞ふたばかすみ、22歳。
 家族はかすみの貯金を持って蒸発し、親友にはバイクを盗まれた。それでも霞はサボらず、やっとの思いで向かったバイト先に辿り着くと、そこは別の店に変わっていた。

「不幸体質も、ここまで来たらもう笑えるな」

 ――そんなことを思いながら帰宅した霞の目の前には、数台の消防車と、それを囲む人だかりがあった。
 その先で、霞の住むアパートは全焼していた。どうやら、たまたま放火されたらしい。

「あー……終わったんだ、全部。ハハハ」

 それからのことは、霞自身もよく覚えていない。
 そのままきびすを返し、行く宛もないまま街をふらついた。

 夜の街は、今の自分とは正反対の光を放っていた。
 街灯やネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、霞の足元を揺らす。
 耳に入るのは、遠くで笑う声、車のエンジン音、人が行き交うざわめき。
 その中で、霞の心はぽっかりと空いたまま、何も感じられなかった。

「……もう、全部どうでもいいかもな」

 そんなとき、不意に明るい声が聞こえた。

「えっ、暗ぁ~。元気ないじゃ~ん。そんな顔してどうしたの~。オニーサンに話してみ?」

 振り向くと、細身なのに妙な存在感のある男が立っていた。
 歩きながら飲んでいたのか、手には缶チューハイ。
 白に近い金髪に黒いメッシュが散り、月の光に柔らかく照らされている。
 切れ長の目は笑っているのに、どこか冷たさが宿っていて、霞は直感的に「関わりたくないタイプだ」と思った。

「……え、あ、いや、別に」

 男はにこりと笑い、首をかしげる。

「あ~、今キミ、俺のこと関わり合いになりたくないとか思ったでしょ~」

 その軽やかで無邪気な声に、霞の胸がぎゅっと締め付けられた。
 この人は、きっと今までどんな不幸も、どんな絶望も知らない。
 ――分かりっこない。自分のことなんて。

 そう思うと、心の奥に薄い壁が一枚、静かに立ち上がる。

「……全財産を持って家族に逃げられて、親友に裏切られた挙げ句、家が全焼した、って言ったところで何になるんですか」

 これでもう何も言ってこられないだろうと思った次の瞬間、男はあろうことか、口に含んだばかりの酒を噴き出した。
 そして我慢できなかったかのように、豪快に笑い出す。

「にゃはははは!マジで!?全部かよ、全部!」

 手に持っていた缶チューハイを軽く振り、泡を少し飛ばしながらも、笑いが止まらない。
 霞は思わずムッとして後ずさる。

「な、なにが面白いんですか……」

 しかし男は、涙を浮かべるほど笑いながら、肩を揺らして言った。

「いやもう、最高すぎん!?そんなの全部起こるとか、逆に才能じゃん!キミ、完全にラッキーボーイだろ、これ!」

 霞は呆然として、言葉を失った。
 怒りでも悲しみでもなく、ただ男の笑い声が周囲の空気ごと震わせ、霞の心の壁をわずかに揺らしていく。

「……バカにしてるんですか」

 霞の声は小さく、けれど確かに響いた。
 男は肩をすくめ、笑いをひと息つくと、ふわりと手を差し伸べる。

「バカにしてないって~!まぁでも、ちょうどいいのかも?俺調べ・ラッキーボーイランキングNo.1の俺と一緒にいたら、ラッキーになれんじゃない?」

「……はい?」

「それに、家燃えたってことはさ?寝るとこないんでしょ。ウチ来なよ」

 霞は一瞬、ためらった。
 見ず知らずの、ただすれ違っただけの他人に頼るなんて――。

 そんな霞の考えなどお見通しだったのか、男は続ける。

「見ず知らずだからこそ、気遣わなくていいんじゃない?」

 見ず知らずの男に、家まで連れて行かれる。
 正気なら断るべきだと頭では分かっている。
 けれど、帰る場所も、頼れる人もいない今の自分には、拒む理由がなかった。
 立て続けに起きた非現実的な出来事で、少し感覚が麻痺していたのかもしれない。

 霞は小さく息をつき、ためらいがちに手を差し出した。
 男はすぐにそれを握り、嬉しそうに笑う。

「よし、決まり。俺は夏織響也なとりきょうや。こう見えてNo.1ホストやってるよ~ん。よろしくね、アンラッキーくん」

 その笑顔に、霞の胸がわずかにざわついた。
 いや、心が動いたわけではない。
 ただ、今はもう流されるしかない――そう思っただけだ。

「こう見えて、というか……ホストにしか見えませんよ。というか、何なんですか、その失礼なあだ名……。……霞。双葉霞です」

「ふーん、霞くんね」

 響也きょうやはそう言って、霞の手を取った。
 まるで昔からの知り合いにでもするような気安さだ。

「よろしく、霞くん。今日からキミ、俺のラッキーアイテム第一号だから」

「意味が分かりません……」

「大丈夫大丈夫。俺もよく分かってない」

 にしし、と悪戯っぽく笑い、響也は先に歩き出す。
 引かれる形で、霞も一歩踏み出した。

 足取りは軽いのに、どこか地に足がついていない。
 このままついて行って、本当にいいのか。
 何度もそう考えたが、不思議と足は止まらなかった。

 ――どうせ、失うものなんて、もう何もない。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かがひどく冷たくなった。

「……あの」

 少し遅れて声をかけると、響也は振り返らずに答える。

「んー?」

「……よく、こんな簡単に他人を家に入れられますね」

 一瞬だけ、間があった。
 次の瞬間には、軽い声が返ってくる。

「あー、だってさ。霞くんは危ないことしなさそうだし」

「それ、理由になってますか」

「なってるなってる。少なくとも俺に『その女と私、どっちが大事なのよ!』って刃物向ける顔じゃないし~」

 冗談めかして言われたその言葉に、霞は眉を寄せ、口を閉ざした。

 しばらく無言のまま歩く。
 夜風が頬を撫で、嫌な気配が少しずつ遠ざかっていく。

「ねえ、霞くん」

「……なんですか」

「さっきさ」

 響也は歩調を緩め、横目で霞を見る。

「全部どうでもいい、って顔してた」

 霞は答えなかった。
 否定も、肯定もできなかった。

「でもさ」

 響也は、いつものふざけた調子をほんの少しだけ落として続ける。

「ほんとにどうでもよかったら、あんな顔になんないよ」

 一瞬、心臓が跳ねた。
 見透かされた、というより――触れられた、という感覚。

「……そういうの、分かった風に言われるの、嫌いです」

 絞り出すように言うと、響也は「おっと」と小さく声を上げた。

「ごめんごめん。地雷だった?」

「……分かりっこないでしょう。自分のことなんて」

 霞の声は低く、夜に溶ける。
 響也は立ち止まり、今度はしっかりと霞の方を向いた。

 その目から、笑みが消えている。

「うん。分かんないね」

 あっさりと、そう言った。

「だからさ、分かろうとしない」

 その言葉に、霞は思わず目を見開いた。

「分かろうとするから、ズレるんだよ。霞くんが今しんどいって事実だけあれば、それでよくない?」

 軽い口調なのに、不思議と誤魔化しがなかった。
 慰めでも、同情でもない。
 ただ、現状をそのまま置いているだけの言葉。

「……変な人ですね」

 霞がそう言うと、響也はまたいつもの笑顔に戻った。

「よく言われる~。褒め言葉でしょ?」

「違います」

「じゃあ、そのうち褒め言葉にしといて」

 そう言って、再び歩き出す。

 ネオンの向こうに見えたマンションの影を眺めながら、霞は思った。
 この人は、軽くて、適当で、信用ならない。

 それでも――。

 胸の奥に立てたはずの壁が、
 いつの間にか、ほんの少しだけ低くなっていることに、霞はまだ気づいていなかった。


 エントランスを抜け、エレベーターに乗り、無言のまま最上階近くで降りる。
 響也きょうやのマンションは、外観だけ見れば雑誌に載っていそうな高級感があった。

「ここだよ」

 鍵を開け、ドアが開いた瞬間――
 かすみは、言葉を失った。

「……え」

 中は、想像していた“キラキラしたホストの部屋”とは、まるで違っていた。
 脱ぎ捨てられたままのジャケット。
 床に転がる、高そうな指輪やアクセサリー。
 ブランドロゴの入った箱やショッパーが無造作に積まれ、クローゼットは半開きのまま、高級店の服がはみ出している。

 そして、なぜか。

「……クレジットカード、壁に刺さってますけど」

「あー、それ。昨日酔ってダーツしたやつだわ」

 軽い調子で言われ、霞は何も言えなくなった。

「まぁ、座りなって。汚いけど」

 汚い、というレベルではない。
 生活感というより、嵐が通り過ぎた後だ。

「……ホストって、もっとちゃんとしてるものだと思ってました」

「夢壊してごめんね~。仕事のときだけちゃんとしてる系なんで」

 そう言いながら、響也はベッドの上に散らばった服を適当にどかすと、霞の方を見た。

「はい、ここ使いな」

「え?」

「さすがに初対面で同じベッドは嫌でしょ? 俺、紳士だから譲ったげる」

 そう言って、床に転がっていたラグを引き寄せ、自分はそこに寝転がろうとする。

「……床、硬いですよ」

「慣れてる慣れてる。酔って帰った時なんて玄関で寝てるし、前に三回くらいエントランスの植え込みで寝てたことあるから」

「せめて一回で懲りましょうよ」

 あまりにもあっさりしていて、霞は逆に落ち着かなかった。
 さっきまで警戒していたはずなのに、こうして当たり前のように床で寝ようとする姿を見ると、胸の奥がちくりと痛む。

「……一緒で、いいです」

 ぽつりと、思ったよりも小さな声が出た。
 その言葉で、響也は一瞬動きを止めた。

「……え?」

「その……家主に床で寝られるの、嫌なので」

 言い訳めいた言葉を続けながら、霞は視線を逸らす。

「……ベッド、広いですし」

 数秒の沈黙のあと。

「……マジ?」

 響也はゆっくりとこちらを見て、目を丸くした。

「さっきまで警戒心MAXだったネコチャン、どこ行った?」

「うるさいです」

「いやぁ……予想外すぎて」

 そう言いながらも、響也はどこか嬉しそうに笑い、結局ベッドに腰を下ろした。

「じゃ、遠慮なく。俺は端っこで寝るから。襲わないから安心しなネ~!」

「あ、当たり前じゃないですか!」

 電気を消すと、部屋は一気に静かになる。
 夜の街の明かりが、カーテンの隙間から淡く差し込んでいた。

 しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 どうやら、響也は先に眠ってしまったらしい。
 霞は目を閉じたまま、じっとしていた。

 ――そのとき。

 不意に、背中に温もりを感じた。

「……っ!」

 響也の腕が、無意識に霞を抱き寄せていた。
 強くはないが、逃げられない程度の距離。
 胸の奥が、じわじわと落ち着いていくのが分かる。

 知らない家、知らない人。
 それなのに――不思議と怖くなかった。

(あったかい……)

 全てに疲弊ひへいし、冷え切った身体に、この体温は反則だ。
 そう思ったところで、意識がふっと遠のいていった。

 どれくらい眠っていたのかは分からない。
 深く沈んだというより、意識の底で揺られているような感覚だった。

 ――音がする。

 遠くで、断続的に鳴る電子音。
 最初は夢の一部だと思った。現実感がなく、頭がうまく働かない。

 身体を包んでいた温もりが、不意に動く。

「……ん」

 耳元で、低く掠れた声がした。

「霞くん」

 肩を軽く揺すられる。
 その拍子に、はっきりとした振動が伝わってきた。

「……起きて。ヤバい」

 いつもの軽さがない声だった。
 その違和感で、霞の意識が一気に浮上する。

「……なに、ですか……」

 目を開けた瞬間、耳をつんざくような音が飛び込んできた。

 ジリリリリリリ!!

 火災報知器だった。
 天井のランプが点滅している。
 低く、重く、部屋全体を震わせるような音が鳴り続けていた。

 《火災が発生しました。落ち着いて避難してください》

 無機質なアナウンスが、何度も何度も繰り返される。

「……火災……?」

 言葉にした途端、全身の血の気が引いた。
 火。その単語だけで、脳裏に一気に映像が蘇る。
 赤い炎。黒い煙。崩れ落ちる、自分の居場所。

「……っ」

 身体が強張り、呼吸が浅くなる。

(また……?)

 その瞬間。

「――霞くん」

 間近で声がして、肩を揺すられた。
 遠のいていた意識が、現実へと引き戻される。

「大丈夫、大丈夫」

 目を向けると、響也が落ち着かせるように声を掛けてきた。
 眠そうなはずの顔は妙に冷静で、すでに状況を把握している。

「下の階っぽい。煙はまだ来てないけど、出よっか」

「……」

 霞は返事ができなかった。
 喉が詰まったように、声が出ない。

 頭の中に浮かんだのは、ひとつの考えだった。

 ――自分が来たからだ。
 ――自分がいるから、また燃えた。

 そう思った瞬間、胸の奥が冷え切っていく。

「……僕の、せい……」

 ぽつりと零れた声に、響也が一瞬だけ動きを止めた。

 次の瞬間。

「はぁ?」

 間の抜けた声が返ってきた。

「なにそれ」

 響也は、呆れたように――いや、どこか面白がるように笑った。

「いやいや、さすがにそれは自意識過剰すぎでしょ」

「でも……昨日も……」

「昨日も今日も、火つけたの霞くんじゃないよね?」

 あっさりと言われて、言葉に詰まる。

「だったら、霞くんのせいじゃないじゃん」

 まるで当たり前のことを言うように、霞の手を引きながら続ける。

「それにさ」

 靴を履きながら、ちらりと振り返る。

「気づけたし、逃げられるし、誰も怪我してない」

 火災報知器の音が、相変わらず鳴り響いている。
 それなのに、その言葉は妙に現実的で、強かった。

「これ、普通にラッキーじゃない?」

「……ラッキー……?」

「うん。豪運」

 にっと笑って、親指を立てる。

「霞くん、ほんとすごいよ。不幸イベント引き寄せてるようで、ちゃんと助かる方引いてるじゃん」

 理解できない。
 けれど、否定もできなかった。
 響也はドアを開け、外を確認する。

「ほら、行こ。ここで突っ立ってたら、ほんとに燃えちゃうから」

 非常階段へ向かう途中、霞は何度も足を止めそうになった。
 背後から聞こえる警報音が、胸の奥を掻き乱す。

「……響也さん」

「んー?」

「……怖くないんですか」

 少しだけ考える素振りをしてから、返ってきた。

「怖いよ」

 あっさりと。

「でもさ、怖いからって固まってたら、燃えるでしょ」

 だから、と軽い調子で続ける。

「逃げられるときは逃げる。それだけ」

 その背中を見ながら、霞は思った。
 この人は、運命とか不幸とかを、背負わない。抱え込まない。
 ただ、起きたことを起きたまま受け取って、前に進む。

 それが、ひどく眩しかった。

 外に出ると、夜明け前の空気がひやりと頬を打った。
 マンションの一部から、薄く煙が上がっている。

「……やっぱり、僕……」

 また口を開きかけた霞を、響也が肘で軽くつつく。

「はい、そこまで」

「……?」

「これ以上『僕のせい』って言ったら罰金だから」

「何の罰金ですか……」

「ネガティブ使用料。一回10万円」

「高すぎません?」

「ホスト価格だよ~ん」

 思わず、小さく息が漏れた。
 笑うつもりなんて、なかったのに。
 火災と、警報と、ざわめきの中で。
 霞は初めて、自分が逃げていることを責めなかった。

 ――逃げてもいい。
 ――助かってもいい。

 その感覚が、胸の奥に、静かに残っていた。
 霞は支給された毛布を羽織ったまま、少し離れた場所に立っていた。
 救急隊員や管理会社の人間が行き交い、ざわざわと落ち着かない。

 ――助かった。
 ――逃げられた。

 そう頭では理解しているのに、胸の奥だけがひどく静かだった。

(……やっぱりこれ以上、関わらない方がいい)

 響也はホストだ。そもそも住む世界が違う。
 ここで離れれば、それで終わる。これ以上巻き込む理由が無い。
 そう思って、きびすを返そうとした瞬間。
 背後から、ぐっと引き戻される。

「……ぅわっ」

 今度は逃げる間もなかった。
 背中から包み込むように、腕が回される。

「はい、ストーップ」

 耳元で、低い声。

「今の動き、完全に逃走ルートだったじゃんね?」

「……違います」

「嘘つきには爪楊枝10本飲ーます」

「針1000本だし、絶妙に怖い……」

 力は強くない。
 けれど、外す気がない抱き方だった。

「霞くんの、一人になろうとする顔、分かりやすいんだって」

 霞は視線を伏せたまま、何も言えなかった。

「ちょっと大人しくしててネ~」

 そう言って、響也は腕を回したまま、片手でスマホを取り出す。
 離す気はないらしい。
 コール音が少し続いて、繋がったのか音が変わる。
 それと同時に響也の声が、すっと切り替わる。
 甘くて、少し弱くて――でも相手に疑念を持たせない声。

『もしもし~……』

 霞は、その声を聞いただけで分かった。
 これは女性を口説くためだけのものじゃない。庇護欲を刺激するための声だ。
 No.1ホストだという響也の姿が、意識に焼き付く。

『姫?ごめんね、こんな時間に……俺さ、今日ほんとツイてなくてさ』

 軽く笑うが、どこか疲れた調子。

『家、火事でさ。しばらく戻れなくなっちゃった』

 一瞬、間。

『ホテルでもいいんだけどさ、正直、ちょっとしんどくて』

 声が少しだけ掠れる。
 わざとだ。

『前にさ、手持ちのマンションで空いてる部屋あるって言ってたでしょ?もし良かったら、家賃はちゃんと払うしお礼もするから借りれたりしないかな』

 また、間。

『……え、いいの?』

 安堵したように息をつく演技。

『ありがとう……ほんと助かる』

 そして、最後に響也はキラキラが漂う煌びやかな笑みを形作りながら続けた。

『あ、アフター?うーん……今はさすがに無理かな。代わりに、落ち着いたらちゃんと埋め合わせする』

 少し間を置いてから、柔らかく。

『ありがと。じゃあ、また連絡するね』

 そうして通話が切れる。

「よし」

 響也はスマホをしまい、ようやく霞を見る。

「居場所、確保~」

「……大丈夫なんですか?僕のこと、言ってないですよね」

 響也は一瞬きょとんとして、それから笑った。

「言うわけないじゃん、女の子といるって疑われたり、余計な誤解生むでしょ」

 当然だと言わんばかりに肩をすくめる。

「よく言うでしょ、女の子の嫉妬より怖いものなんてないって」

「それは、響也さんが色んな女の子取っかえ引っ変えしてるからじゃ……?」

「ちょ、その言い方には語弊ごへいがあるよ??キョーヤさん傷付いたわ~」

 響也はそう傷付いたような声音で言いながら、別の連絡先をタップすると、「今度は車だね~。ちょっと待ってて」と言って再び通話を始めた。

『もしもし鈴木っち?俺俺~。……いや、詐欺じゃねーし!響也!あのさ、今から車回せる?俺ん家のマンション、火事になってさ?にひひ、笑えるっしょ?』

 (笑えないんだけど??)という霞の心の声に気付いたのか、霞に目を向けた響也の表情がニヤリと歪む。

『えぇっ、火事!?ちょっと響也さん、そんな笑ってる場合じゃないじゃないですかー!すぐ行きますね!』

 鈴木の声は慌てていたが、響也は落ち着いた調子で続けた。

「大丈夫、大事にはなってないって。ほら、冷静に、ネ!」

 霞はそんなやり取りを聞いて、小さく息を吐きながら、周囲を見渡す。
 火災の騒ぎは収まりつつあるが、まだ救急隊や管理会社の人々が忙しく動いていた。
 それからしばらくして、鈴木の運転する黒塗りのワンボックスカーがマンション前に到着する。

「響也さん!お待たせしました~」

 鈴木が運転席から手を振る。

「お~、ありがとネ~!」

 響也はまず自分が後部座席の一角に腰を下ろすと、霞に向かって手を差し出す。

「はい、霞くん、こっちこっち」

 霞は少し躊躇いながらも、手を取られて車に乗り込む。
 後部座席は二人だけ。距離感は自然に少し近く、霞の胸は少しざわつく。
 車が走り出すと、鈴木が後ろを振り返り、にやりと笑った。

「そちらの方はもしかして、響也さんの……セフレですか?」

 霞は思わず目を見開き、顔が真っ赤になる。

「え、えっ、な、なに言ってるんですかっ!?」

「ちょっと、コラ。鈴木っち、そういう絡みはセンス無いよって言ったでしょ」

 響也は横で冷静に注意する。声には怒りや緊張はなく、ただ落ち着いた余裕が漂う。

「ほら、霞くん、気にしなくていいよ。こいつ、調子に乗ってるだけだからさ~」

 霞は冗談だと分かっていてもとんでもない発言に、心臓が早鐘はやがねを打つのを感じながらも、響也の声で少しだけ安心する。
 この自然な安心感――危機管理能力と人への気遣い――これが、響也がホストとして人気の理由なのかもしれない、と霞はふと思う。

 車内は少しの沈黙が流れる。
 窓の外には夜の街灯が流れ、霞は肩を小さく震わせながらも、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 響也はちらりと霞を見て、にっと笑った。

「はい、もうすぐ着くからね。もうちょっとだけ、くつろいでて」

 霞は頷き、座席に深く腰を下ろす。
 知らない場所、知らない人、でも――少しだけ、安全を感じていた。


 朝の光が差し込む中、鈴木の車は高層マンションの前に停まった。
 黒塗りのワンボックスから降りた霞は、少し背伸びをして大きく息を吸う。
 先ほどの火災騒ぎとは対照的に、そこは静かで、どこか冷たい空気に包まれていた。

「じゃあ、行こうか。霞くん」

 響也はすでに軽やかに歩き出している。
 マンションに入ると、管理人室の駐在員がにこやかに声をかけてきた。

「おはようございます。夏織響也なとりきょうや様ですね。お部屋の件、承知しております。こちらへどうぞ」

 すぐにドアマンが現れ、エレベーターまで案内される。
 霞は圧倒されながらも、無言で響也の後ろについていった。

 鍵を受け取り、部屋に入る。
 まだ家具が入っていないせいか、二人で住むには広すぎるように感じた。
 がらんとした空間に朝の光が差し込み、白い壁に柔らかく反射している。

「お腹空いてるでしょ?とりあえず何か食べて、ゆっくりしてから家具買いに行こうか」

 響也は当たり前のように言った。
 その言葉に霞は一瞬固まり、ぱちりと瞬きをする。

「……家具……?」

「え、もしかして霞くん、ダンボールハウスの方が良かった?」

「違います!一緒にって……なんか同棲みたいじゃないですか……!」

 思わず声を上げ、霞は顔を赤くする。

「へ?一緒に住むでしょ?霞くん」

 にひひ、と笑いながら肩をすくめる響也の口調には、疑いようのない自然さがあった。

 霞は声を低くする。

「……いや、僕は、少し泊めてもらうくらいの感覚で……」

「え~?一緒に住めばいいじゃん!一人で不幸になるくらいなら、俺といた方が楽しいっしょ」

 軽い言葉の裏に、わずかな真剣さがにじんでいた。
 霞は自分に問いかける。
 こんな見ず知らずの男に、ここまでしてもらう理由なんて、本来あるはずがない。

「ま、そういう運命だったんじゃない?にひひ」

 いたずらっぽく笑い、肩をすくめる響也。
 その笑顔に、霞は思わず視線を逸らした。

「とりあえず何か食べよっか!」

 響也はスマホを差し出す。

「ほら、霞くん。好きなもの頼みな。デリバリーで何でもいいよ」

 霞は少し戸惑いながらスマホを受け取り、申し訳なさそうに目を伏せる。
 まるでひよこのように縮こまったその様子に、響也はにっと笑い、後ろからそっと抱き寄せた。

 自然な流れで、霞は響也の胸に軽くもたれ、二人並んでスマホの画面を覗き込む形になる。

「あの!いちいち距離が近すぎませんか!?」

「え~?そんなに気になる?一緒に見た方が楽しいじゃん」

 霞は慌てて身を引こうとするが、響也は軽く手を添えて制する。

「無理に離れなくていいって。ほら、ここに人気メニュー出てるでしょ?」

 画面に並ぶピザや寿司、カフェメニューを見比べるうち、霞の緊張は少しずつ解けていった。
 肩や腕に伝わる体温が、なぜか心地よい。

「……じゃあ……ピザにします」

「よし、それでいこう! 俺はサイド頼も~っと」

 注文を確定させ、スマホを閉じた響也は、からかうように笑う。

「ね、やっぱ距離近いと楽しいでしょ?」

「え、ええ……」

 霞の返事に、響也は満足そうにニヤリとする。

「これが俺が人気な理由のひとつなんだよね~」

 霞は少しだけ納得した気持ちになった。
 ホストらしい軽さと余裕、そして近すぎるのに不快にならない距離感。
 それが、初対面の自分にも不思議な安心感を与えていた。

 その後、届いたピザを食べ終えた二人は、近くのショッピングモールへ向かった。
 その中の家具店に入るなり、響也はさっそくテンションを上げ、店内を見渡す。

「よーし!霞くん、一緒に住むんだし、欲しいものあったら遠慮せず言ってね!」

 霞は小さく肩をすくめ、声を潜めて答える。

「えっと……別に……」

 すると響也は耳をふさぐふりをして、大げさに叫んだ。

「ダメ~!欲しいもの言わなきゃ、俺が全部選ぶことになるじゃん!それはイヤでしょ~?」

「えぇっと……」

 歩く先々で、響也が指差す家具はどれも桁違いに高く、霞は目を丸くする。

「えっ……これ、ふ、普通に十万超えてますよ……?」

「大丈夫大丈夫~。こういうのは勢いが大事なの!」

 響也は平然と笑い、店員に向かって「これください~」と指を差す。
 霞は思わず「え、待って……そんな簡単に……!」と声を漏らすが、響也のノリにはまったく歯が立たなかった。

 やがてベッドコーナーにたどり着くと、響也はふかふかのマットレスに駆け寄り、豪快に倒れ込む。

「霞くん!見て見て!めっちゃふかふかじゃん!これにしよ!」

 霞も恐る恐る手をついて寝転ぶ。

「……すごい……ふかふか……」

「でしょ~!ふかふかって正義だよね!」

 しかし、表示された価格を見た霞は、思わず腰を抜かしそうになる。

「……え、これ……本当に平気なんですか……?」

 響也は笑顔で肩をすくめた。

「平気平気!勢いが大事だから~」

 会計に向かう響也を待つ間、霞はふと、近くの商品棚に目を向ける。
 そこには『うちゃまる』という、人気のうさぎキャラクターのクッションが並んでいた。
 霞は小さい頃から、うちゃまるが好きだった。

「……あ、かわいい……」

 しかし流石は高級店とのコラボ。値段は可愛く無い。
 迷うように視線を向けたその一瞬を、響也は見逃さなかった。
 霞の迷いなど意に介さず、クッションを手に取ると、店員に軽やかに告げる。

「はい、これもください~!」

「……え、待って……これも買うんですか……?」

「買うに決まってんじゃん!これいたら寂しくないでしょ?」

 霞は小さくため息をつきながらも、顔を赤くして笑ってしまう。

(……この人に振り回されるの、なんだか……悪くないかも……)

 そんな霞の表情を見て、響也はにひひと悪戯っぽく笑った。

「ふふ、霞くんの笑顔、なかなかいいね~」

 二人のショッピングモールでの小さな冒険は、終始笑いの絶えない時間になった。
 家具店での大冒険を終え、響也の財力により、家具はすべて当日中に配送されることが決まる。

「ふふ、これで一安心だね~」

「……現実味がなさすぎます……」

 家具の配送を待つ間、二人はショッピングモール内をぶらぶらすることにした。
 すると響也は再びテンションを上げ、霞を服売り場へ引っ張っていく。

「霞くん、服も無いよね?俺も買いたいし、せっかくだし色々試着してみよ~!俺、全部付き合うから!」

「え、でもそんなに……」

「遠慮すんなって!今日の俺は勢いが大事なの!」

 半ば押し切られる形で、霞は次々と試着室に呼ばれる。
 シャツ、ジャケット、ジーンズ、靴まで。
 そのたびに、響也は笑顔で「似合う~!」を連発した。

「……これ、全部買うんですか……?」

「もちろん!せっかく買うなら、遠慮してちゃ意味ないでしょ~」

 そうして、霞には手が出せないような価格帯の服を数十着ほど揃えた後、響也はふと立ち止まる。

「そういえば霞くん、眼鏡してるけど、コンタクトも合うと思うんだよね」

「え、でも……」

 響也はにひひと笑い、眼鏡を外すよう促す。

「うーん……特に何も変わらないと思うんですけど……」

 そう言いながら眼鏡を外し、響也を見上げた瞬間――響也は、無意識に息を呑んだ。

 想像以上に整った端正な顔立ち。
『美少年』という言葉は、この子のためにあるのではないかと思ってしまうほどだった。

「……?」

 返事がないことに霞が首を傾げると、響也ははっと我に返る。

「うわっ、霞くん、めっちゃ綺麗な顔してるじゃん!?」

「え……」

「やっぱコンタクトにしてみなよ!絶対似合うって!」

 結局、響也の押し切りで、霞はコンタクトも購入される。
 試着と買い物に振り回されながらも、霞の表情はどこか楽しそうだった。

 ――誰かと過ごす時間を、楽しいと思える日が、まだ自分にもあったんだ。
 そんなことに気づき、心が少し緩む。

 ショッピングモールを後にした二人の手には、服や小物、コンタクトに至るまで、ほとんどすべて響也が選んだ霞の持ち物が揃っていた。

「……なんというか……すごい買い物でしたね」

「ふふ、でも楽しかったでしょ?」

 霞は小さく頷き、少し笑う。
 振り返ると、響也はにひひと満足そうに笑い、両手にいくつものショッピング袋を抱えていた。

「さあ、帰ったら今日中に家具が届くし、部屋がもう完成しちゃうよ~」

「ほんとに……夢みたいな一日ですね」

 振り回されながらも、胸の奥に不思議な安心感を抱きつつ、
 霞は今日から響也と共に住む高層マンションへと足を向けた。


 マンションに戻ると、ちょうどエントランス前に大型トラックが停まっていた。
 業者が忙しそうに行き交い、台車の上には、先ほど店で見たばかりの家具が積まれている。

「……え、もう?」

 霞が思わず足を止めると、響也は得意げに胸を張った。

「でしょ~?当日配送、最高!」

「いや、早すぎません……?」

「こういうのはスピード感が大事なの。気持ちが冷める前に部屋完成させる派」

 次々とエレベーターへ運び込まれる家具を見ながら、霞は完全に現実感を失っていた。
 数時間前まで、住む場所すら定まっていなかった自分が、今は“帰る部屋”を持とうとしている。

 鍵を開けた部屋に入ると、作業員たちは手際よく配置を確認し、黙々と組み立てを始めた。
 空っぽだった空間が、みるみる生活の形を帯びていく。

 ソファ。ローテーブル。ベッド。カーテン。

 霞は壁際に立ったまま、その様子をぼんやりと眺めていた。

「霞くん、そこ邪魔じゃない?」

「え、あ、すみません……!」

 慌てて動こうとすると、響也が軽く腕を引く。

「いいよいいよ。こっち座って見てよーよ」

 ソファはまだビニールがかかったままだが、二人で並んで腰を下ろす。
 不思議と距離は近いのに、さっきほどドキドキしなかった。

「……本当に、今日中に全部終わっちゃうんですね」

「うん。夜には普通に住めるよ」

 そう言ってから、響也はふっと声のトーンを落とした。

「一緒に住むの、嫌だった?」

 霞は一瞬、言葉に詰まる。
 嫌かと聞かれれば、そうではない。ただ――怖いだけだ。

「……正直、まだよく分からないです。本当にこれでいいのか」

「そっか」

 否定されるかと思ったが、響也はあっさりと頷いた。

「でもさ、分からないまま一人で抱えるより、分からないままでも二人でいた方が楽じゃん?」

 霞は、その横顔を盗み見る。
 軽そうで、適当で、それでいてちゃんと自分を持っている。

「……響也さんって、変な人ですね」

「今さら!?」

 わざとらしく目を見開いたあと、すぐに笑う。

「でもまあ、変じゃなきゃ霞くん拾わないしね」

 作業が終わり、業者が帰るころには、部屋はすっかり誰かが暮らす場所になっていた。
 ソファの上には、響也がプレゼントしてくれた“うちゃまる”のクッションがちょこんと置かれている。

 それを見て、霞は思わず小さく笑った。

「……これ、本当に僕がもらっちゃっていいんですか」

「当たり前じゃん。抱いて寝な?」

「だ、抱きません!」

「え~、じゃあ俺が抱く~」

「えっ、だめですっ!僕が抱いて寝ます!!」

 言い合いをしながらも、空気は柔らかかった。

「今日は色々あったし、疲れたでしょ。先にシャワー浴びなよ」

「え……でも……」

「遠慮禁止。ここ、もう霞くんの家でもあるんだからネ」

 その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。

「ありがとうございます」

 霞は小さく頭を下げ、バスルームへ向かった。
 ドアが閉まる直前、背中越しに響也の声がする。

「ねえ、霞くん」

「はい?」

「今日は火事になった日とかじゃなくてさ」

 一拍置いて、明るい声が戻る。

「一緒に過ごした初日ってことにしよ?」

「……はい。強烈な一日でしたけど……そっちの方が大きいです」

 シャワーの音が響き始める。
 リビングで一人になった響也は、ソファに深く座り込み、天井を見上げた。

「……まいったな」

 思った以上に、手放す気がなくなっている自分に、苦笑する。

 一方、湯気の中で霞は、胸に残る温かさを持て余していた。

 知らない人。
 知らない場所。

 それなのに――怖さよりも、少しの期待が勝ってしまっている。

(……まだ、ここにいてもいいのかもしれない)

 そう思えた、夜の始まりだった。

 霞がシャワーを終えてリビングに戻ると、髪はまだ少し湿っていて、部屋にはほのかに石鹸の匂いが漂っていた。
 新しい部屋着に包まれた体は、どこか落ち着かず、居場所を探すように視線が泳ぐ。

「……お先、ありがとうございました」

「おっけ~。じゃあ俺も浴びてくるネ~」

 軽く頭を撫でるような仕草を残し、響也はバスルームへ向かう。
 その距離の近さに、霞は一瞬固まり、小さく頷くことしかできなかった。

 やがてシャワーの音が止み、ドライヤーの音が少し続いたあと、今度は響也がリビングに現れる。
 きっちりとしたスーツに身を包み、仕事モードの空気を纏っていた。

「よし。じゃあ俺、十九時には出るから。あ、その前にさ」

 響也はスマホを取り出し、霞に差し出す。

「連絡先、交換しとこ」

「あっ、はい!」

 新規登録画面で指が止まり、霞は少し考え込む。

「……ナトリさんって、どう書くんですか?」

「夏を織るって書いて、夏織なとりだよ」

「綺麗な字ですね」

 その言葉に、響也は一瞬きょとんとしたあと、すぐに口を尖らせた。

「って、苗字で登録しようとしてない?」

「え、あ……はい」

「やだ~!キョーヤって登録してよ!距離感じてキョーヤさん悲しい~」

「距離って……」

 迷いながらも、霞は言われた通りに打ち直す。

 《響也さん》

「……これで」

「よし。完璧!じゃあ俺は~……カスミンっと」

「……それはやめてください」

「え~?かわいいじゃん!」

 強く拒絶できない霞を見て、響也は満足そうに笑った。
 玄関で靴を履き、振り返る。

「困ったら連絡していいし、無理して起きてなくてもいいからね」

「わかりました」

「じゃ、行ってきまーす」

 ドアが閉まり、部屋は静かになる。
 一人になった霞はソファに戻り、スマホを開いた。
 連絡先一覧に並ぶ、新しい名前。

『響也さん』

 その文字を見つめ、胸の奥がじんわりと温かくなる。

(……良い人、か)

 うちゃまるクッションを抱き寄せ、ぽつりと呟く。

「こんな時間が、ずっと続いたらいいのにな」

 それが独り言なのか、誰かに届いてほしい願いなのか。
 霞自身にも、まだ分からなかった。

 ――それから一時間ほど経った頃。

 ソファでぼんやりとテレビを眺めていた霞のスマホが、メッセージ通知で静かに震えた。

『響也さん』

 画面に表示された名前に、心臓が一瞬跳ねる。

『ごめん!ネクタイ忘れた!店の位置送るから、持ってきてほしいな。無理だったら全然いいからね!』

 続けて、位置情報が送られてくる。
 表示された地図を見て、霞は小さく息を呑んだ。

(……ホストクラブ……)

 迷う間もなく、体は動いていた。
『わかりました』と短く返し、ソファ横のカウンターチェアに掛けられていたネクタイを手に玄関へ向かう。

 ドアノブに手をかけたところで、ふと足が止まった。
 玄関脇の全身鏡に、自分の姿が映る。

 眼鏡に、部屋着。
 どう考えても――場違いだ。

(この格好で、あんなところ……無理だ……)

 しばらく悩んだ末、霞はクローゼットを開けた。
 今日、響也に買ってもらった大量のセットアップ。
 タグを切ったばかりのそれに袖を通し、最後にコンタクトをつける。

 眼鏡を外した顔が、鏡の中に現れる。

「……」

 整った目元、すっと通った鼻筋。
 だが本人に、その自覚はない。

(……やっぱり、似合ってない……よね……?)

 不安を抱えたまま、霞は家を出た。

 夜の街は、ネオンと音で満ちている。
 歩くたび、やけに視線を感じた。
 すれ違う人が振り返る。
 足を止める人もいる。

(……え、なに……?変……?悪目立ちしてる……?)

 胸がざわつく。
 視線の意味が分からないまま、霞は足早に店へ向かった。

 やがて、煌びやかな看板が見えてくる。
 位置情報と一致するホストクラブの前で、霞は一度、深呼吸した。
 入口に立つ受付スタッフに、恐る恐る声をかける。

「す、すみません……響也さんに、用があるんですけど……」

 一瞬、受付が霞を見て固まる。

「……少々お待ちください」

 中へ連絡が入った直後、ほどなくして聞き慣れた声が響いた。

「霞くん!」

 振り向くと、店内用の華やかな笑顔を纏った響也が現れる。

「ありがと~!これこれ!」

 差し出したネクタイを受け取り、響也はほっとしたように笑った。

「助かったわ~。ほんとごめんね」

「い、いえ……」

「ていうか、その格好……」

 言いかけたところで、周囲がざわつき始める。

「え、なにその子? 新人さん?」
「響也さんの知り合いですか?」
「めっちゃ美少年じゃん!? 本当に棒生えてんの?」

 女の子や、後輩らしきホストたちが集まってくる。
 響也は肩を組むような距離で、あっけらかんと言った。

「今この子と一緒に住んでんの。可愛いでしょ?」

「ええ~!?」
「ずる~い!」

 霞は一気に顔が赤くなる。

「ちょ、ちょっと……!」

 だが、響也はすぐに呼び出しを受けた。

「ごめん、霞くん。俺行ってくるね。ちゃんと寄り道せず帰って、あったかくして寝るんだよ!」

 そう言って、客席へ戻っていく。
 ――だが、響也が離れたあとも、霞は解放されなかった。

「ねえねえ、どこで知り合ったの?」
「本当にキョウヤさんと住んでるんすか~?」

 女の子たちも、後輩ホストたちも、楽しそうに話しかけてくる。
 霞は戸惑いながらも、自然と笑顔で受け答えしていた。やがて時間を見て、霞は立ち上がった。

「僕、そろそろ帰りますね」

「また来てくださいよ~」
「気をつけて!」

 後輩ホストたちに見送られ、入口へ向かう霞。

 そのとき。
 今日車を出してくれて一度面識のあった鈴木がまた霞に声をかけてきた。

「俺、霞さんなら全然イケるんで。キョウヤさんじゃなくて、いつでも俺のとこ来てくれていいっすからね~」

 軽い調子の鈴木の声が、耳に届いた。
 霞は一瞬だけ足を止め、「変な冗談やめてくださいよ~」と困ったように笑い、軽く会釈して店を出た。

 自動ドアが閉まり、ネオンの向こうへ霞の姿が溶けていく。完全に、見えなくなった。

 ――その後だった。

「……鈴木」

 丁度休憩に入り、店を出ていく霞を見つけて追いかけようとしていた響也。
 そんな響也が不思議そうに首を傾げ、いつもの柔らかい笑顔を浮かべて鈴木の背後に立っていた。

「今のってさ、霞くんに言っていいようなセリフだったっけ?」

 声は低くも、強くもない。
 むしろ穏やかですらある。

「俺の聞き間違いならいいんだけど」

 一歩、距離を詰める。

「もし本気で言ったなら、センス無さすぎてちょっと困るんだよね」

 口調は軽いまま。
 だが――笑顔だけが、どこか冷たい。

「だからさ」

 視線を逸らさず、にこりと笑ったまま。

「裏、行こ。今すぐ」

 ❖❖❖

 家に帰った霞は、玄関で靴を脱ぐとすぐにスマホを確認した。
『ちゃんと家ついた?』――響也からのメッセージが届いている。
 軽く返事を打ち、着替えを済ませた途端、張り詰めていた疲れが一気に押し寄せた。
 気づけばソファに腰を下ろしたまま、霞はうとうとと眠りに落ちていた。

 それから数時間後。
 帰宅した響也は、ソファで眠る霞を見つけ、思わず息を漏らす。
 自分も疲れているはずなのに、自然と頬が緩んだ。

「俺が最初に、霞くんのこと見つけたんだよ」

 そう独り言のように呟き、そっと頭を撫でる。
 そのまま抱き上げるようにしてベッドへ運び、静かに布団を掛けた。
 自分も着替えようとシャツのボタンを外し、ネクタイを緩めた、その時。

「……ん……?」

 霞がぼんやりと目を覚ます。
 寝ぼけたまま、目の前にいる響也をうちゃまるクッションだと勘違いし、腕を伸ばした。
 響也が気づいて声を上げるより早く、霞はそのまま抱きつく。

「……えー……こんな可愛いことある……?」

 思わず漏れた声とともに、ネクタイを放り投げ、響也は霞を包み込むように抱きしめた。
 重なり合う体温の中で、二人はしばらく静かに眠り続けた。

 ――翌朝。

 そんなことになっているとは知らずに目を覚ました霞の視界いっぱいに広がっていたのは、ホストとしての顔とは違う、あどけない響也の寝顔だった。
 彫刻のように整ったその顔が、至近距離でこちらを向いている。

「ッ!?……え!?」

 思わず声を上げ、霞は反射的に顔を覆う。

「……ん゙…………?」

 霞の声で目を覚ました響也は、眠たげに目をこすりながら呟いた。

「霞くん……?おはよぉ~」

 霞は慌てて布団に潜り込み、真っ赤な顔のまま動けなくなる。
 その様子に、響也は小さく笑うだけで、何も言わずに体を起こし、隣に腰を下ろした。

「なんでこんな近いんですか!?」

 心臓がドクドクと鳴り、どう動いていいのか分からない。

「ん?そんなに慌てなくてもいいじゃん。てか、先に抱きついて離れなかったの、霞くんだからネ~?」

 布団の縁に腰かけ、腕を組んでニヤリと笑う。

「寝ぼけてた霞くん、可愛かったよ」
「もう!何も!言わないでください!!」

 霞は布団の中で体を丸め、顔だけ出して必死に抵抗する。
 それを見て、響也は楽しそうに微笑んだ。

「今日も一日、よろしくね。霞くん」

 霞はまだ赤い顔のまま、小さく頷く。

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 その後、二人はリビングで朝食の準備を始めた。
 響也が仕事帰りに買ってきてくれていた、温かいサンドイッチとスープ。香ばしい香りが部屋に漂う。

「ほら、食べな~」

 霞は小さく頷き、スープをひと口すする。
 その間にも、これからの生活のことが頭を離れなかった。

「響也さん……僕、バイト探して働こうと思ってて……」
「え?無理しなくていいんだよ。霞くんくらいなら俺が養えるし、今はしんどいだろうし働かなくても大丈夫だよ?」

 軽く笑いながら言う響也に、霞は迷わず首を振った。

「嫌です。お世話になりっぱなしじゃいられません。ちゃんと……家賃も払います」

 一瞬驚いたような表情を見せたあと、響也は柔らかく笑った。

「真面目だな~、霞くん」

 霞は小さく息を吸い、スープを口に運ぶ。
 胸の奥には、覚悟と不安が入り混じっていた。

 それから数日間、霞は日中、バイトの面接に奔走した。
 だが不運は続き、店が閉店していたり、急なキャンセルが入ったり、採用だと思ったら人違いだったりと、うまくいかないことばかりだった。
 それでも希望を捨てきれず、求人サイトを開き続ける。

 そんな中、目に留まったのが工場の夜勤募集だった。深夜勤務で、条件も悪くない。

(……これなら……)

 意を決し、面接に向かう霞だったが、結果は、不採用。すでに採用枠を締め切っていたという、手違いだった。
 建物を出たあと、夜風に当たってようやく現実が胸に落ちてくる。

(……また、だ)

 数日間必死に動き回ったのに、掴めたと思った希望はあっさりと零れ落ちた。
 スマホを取り出しかけて、指が止まる。

 ――今、家に帰っても。
 響也はもう仕事に出ている時間だ。

 電気の消えた部屋に一人で戻ることを想像し、胸が重くなる。

(……やっぱり、僕は駄目なんだ)

 足取りは自然と重くなり、行き先も決めないまま歩き続けた。
 気づけば、見覚えのあるネオンが視界に滲む。

 ――夜の街。

 騒がしく、眩しく、どこか現実から切り離された場所。
 ふと、響也と出会った日のことが脳裏をよぎる。

(あの時と、同じだ)

 行き場を失い、ただ歩いていた夜。
 霞は自嘲気味に息を吐き、ネオンの光に導かれるように足を踏み入れた。
 街のざわめきに混じって、人々の笑い声や音楽が耳に届く。
 歩くたびに、自分がここにいてはいけないような気持ちになる。

(……僕、どうしたらいいんだろ……)

 周囲の明るさと、自分の沈んだ気持ちの差に押しつぶされそうになる。
 足は自然と、通りの奥にある薄暗い路地へと向かっていた。

 そのとき、突然声がかかる。

「お兄さん!綺麗な顔してますね。うちのバーで働かない?」

 霞は思わず立ち止まる。
 声の主は、スーツではなく少しけばけばしい服を着た男で、人の良さそうな笑みを浮かべていた。

 一瞬、身を引きそうになるが――

(……今の僕に、選んでる余裕なんてない……)

 工場の面接に落ち、胸に残るのは虚しさだけ。
 響也に頼りっぱなしでいるのは、迷惑じゃないと言われても気が引ける。
 働き口が見つからず途方に暮れるより、少しでも自分の生活を支える手段が欲しかった。

「……はい。僕、働きたいです」

 声は小さいが、迷いはなかった。
 霞はスカウトの男の後ろを歩き始める。
 夜の街のネオンが足元を照らし、踏み出す一歩ごとに、わずかな勇気が削られていく。

(……これで、本当に大丈夫かな……)

 不安と期待が入り混じる中、男に続いて路地を進む。
 選択肢はない。未来のために、付いていくしかなかった。

 やがて、小さなネオンが灯る扉の前に立つ。
 看板には《BLACKHEART》と書かれている。

「ここ……本当に大丈夫かな……」

 扉の向こうから、笑い声やガヤガヤした話し声が漏れ聞こえる。
 中を覗いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。

 扉を開けると、想像以上に怪しい空間が広がっていた。
 バニーボーイ風の衣装を着た若い男たちがカウンター裏で忙しなく動き回り、派手なネオン、煙草とアルコールの匂いが空気を満たしている。

 会員制・紹介制らしく、外部の人間はほとんどおらず、客層も柄の悪い半グレ風の男たちばかりだった。

「……えっ、これ、普通のバーじゃ……」

 思わず立ち止まり、断ろうとしたその瞬間、スカウトの男の雰囲気が一変する。
 霞が口を開く間もなく、怒鳴りつけた。

「オイ!テメーの為に時間割いてやったのに、やっぱ無しとか言わねーよなぁ!」

 その迫力に、霞の体は硬直する。
 逃げようとした気持ちは、一瞬で萎縮した。

「あ……ぅ……」

 言葉を失った霞を、スカウトは無言で店内の奥にある個室へと押し込む。
 カーテンで仕切られた狭い空間。
「オーナーが来るから待ってろ」と言い残し、ドアが乱暴に閉められた。

(……やっぱり、やばい場所かも……)

 胸が高鳴り、冷や汗が背中を伝う。
 今さら「帰ります」と言える雰囲気ではない。
 不安と恐怖に、体が自然と縮こまった。

 やがて、オーナーの蓮司れんじと呼ばれる男が現れ、霞の前に腰を下ろす。

「へぇ?稼げそうなツラしてんじゃねーの。まぁ、座れや」

 促されるまま椅子に腰を下ろすが、頭の中は逃げ道を探すことでいっぱいだった。
 震える手を膝に置き、必死に気持ちを落ち着けようとする。
 だが、個室の空気は重く、逃げ場はどこにもない。

「……いやです……働きたくない……」

 小さく首を振った瞬間、手首を強く掴まれる。

「いた……っ」
「おとなしくしろ」

 差し出された契約書。
 視線を伏せても、カーテンの向こうにはスカウトが立っている。

「書け。今すぐだ」

 震える手にペンを握らされ、強引に署名させられる。
 だが、それで終わりではなかった。
 契約書の下から現れたのは、多額の借金の借用書。
 そこには、たった今書かされた「双葉霞」の名前が転写されている。

「お前は今、うちに三千万の借金をした」

 息を呑む霞の前で、蓮司は注射器をひらつかせる。

「警察に言ってみろ。どうなるか分かってるよな?」

 声が出ない。
 全身の力が抜け、霞は椅子の上で小さく丸まる。

(響也さん……)

 じわりと涙を浮かべる霞を見て、蓮司は鼻で笑った。

「泣けばどうにかなると思ってんのか?」

 机に置かれた注射器が、冷たく光る。

「逃げたり通報しようもんなら――使うだけだ」

 逃げ道は最初から存在しなかった。
 顎を掴まれ、顔を無理やり上げさせられる。

「今日からお前は“商品”だ」

 霞は唇を噛みしめ、震える声で答える。

「……わかり、ました……」

 満足そうに手を離した蓮司が黒服たちに命じる。

「衣装持ってこい。新人だ」

 カーテンが開き、派手なバニーボーイの衣装が突き出される。

「着替えろ。仕事は今夜からだ」

 逃げ場のない現実が、容赦なく押し寄せる。
 ネオンの明かりと笑い声の裏で、霞の世界は静かに崩れていった。

 霞は言葉を詰まらせ、声も震えていた。
 どうやってこれを着ろというのか――考えるだけで、体が硬直する。

 蓮司は鼻で笑い、傍らに立つスカウトをちらりと見やる。

「固まってんじゃねーか。新人らしいな」

 その視線の圧力に、霞は一歩も動けず、制服をただ見つめ続けるしかなかった。
 背後の喧騒も、客や従業員の笑い声も、霞の耳には届かない。すべてが遠く、まるで自分だけが切り離されているようだった。

(……これ、着なきゃ……殺されるかも)

 体が震え、頭の中で必死に言い訳を探す。
 けれど、逃げる隙は一切ない。カーテンの向こうにはスカウトがぴったりと立ち、外に出る道は完全に塞がれている。

 涙がひとすじ、頬を伝った。
 霞は小さく息を吸い込み、恐る恐る手を伸ばす。
 制服に触れた瞬間、冷たく、しかし確かな現実感が全身を貫いた。

(……逃げられない……)

 固まったままの霞の衣装のファスナーを雑に押し上げて、蓮司が低く声をかける。

「早くしろ。契約書、借金、注射器――全部覚えてるよな?」

 霞は小さく、何度も頷いた。
 否定も拒否も、もはや選択肢にはない。

 監視の目から逃れられないまま、霞は震える手で着替えを終える。
 前に置かれた鏡に映った自分の姿を見て、ひやりとした。一体、誰が喜ぶのか。
 見慣れないバニーボーイ姿の自分は、まるで別人のようだった。

 急かす声に背中を押されるように、霞は更衣室を出てフロアへと足を踏み出す。

 その瞬間、無数の視線が突き刺さった。
 ネオンの光の下、笑い声が跳ね、グラスの触れ合う音がやけに大きく響く。

「お、なんだ新人か?」

 低い声が飛び、霞は反射的に足を止め、肩をすくめた。

「へぇ……細っ。似合ってんじゃねーの、その格好」

 別の客が肘をつき、値踏みするように上から下まで眺める。
 視線が皮膚をなぞる感覚に、背中がぞわりと粟立った。

「こっち来いよ。名前は?」

 呼ばれていると分かっていても、足が動かない。
 喉がきゅっと締まり、声が出なかった。

「……おい、無視か?」

 苛立ったように、誰かが立ち上がる気配。
 次の瞬間、腕を掴まれ、軽く引かれる。

「っ……!」

 驚きで息が詰まり、霞は小さく声を漏らした。

「力入れんなって。減るもんじゃねーだろ」

 笑い混じりの声に、周囲からどっと笑いが起きる。

(……やめて……)

 心の中で叫んでも、声にはならない。
 視線が集まるほど、体はますます固まっていく。
 逃げたいのに、どこへ行けばいいのか分からなかった。

「緊張してんだろ?ほら、座れよ」

 空いた席を指差され、半ば押されるように腰を下ろす。
 背中がソファに触れた瞬間、逃げ道が完全に塞がれた気がした。

「新人、お前綺麗な顔してんな。女顔ってやつ?こりゃ人気出るなァ。ほら、もっとこっち寄れよ。オーナーに言われてんだろ? 可愛がってもらえって」

 男の手が、霞の腕から太腿ふとももへと滑る。

「……ッ!?」

 思わず肩をすくめると、男は面白がるように笑った。

「オイオイ、ちょっと触っただけだろ~?」
「……す、すみません……」

 謝るしかできない自分が、ひどく惨めに思えた。

 客たちは楽しそうに笑い、霞の反応を面白がっている。
 その輪の中心で、霞はただ縮こまり、必死に呼吸を整えていた。
 心臓は激しく跳ね、息を整えようとしても全身に震えが走る。
 視界が、じわりとかすんでいった。

「……ッ、あ……」

 小さな声を漏らしたそのとき、VIPルームから声が飛ぶ。

「おい、新人。ちょっとこっちにも来いよ」

 指示された方向を見ると、VIPルームの奥から向けられる複数の視線が、自分を捉えているのが分かった。
 その多くは、正気を保っているようには見えない。

 ――こんな場所だ。
 誰かが薬をやっていたって、おかしくはない。

 危険を直感し、咄嗟に後ろへ逃げようとした。
 だが、巡回していたスタッフに無理やり押さえつけられる。

「ううっ……!」
「逃がさねぇぞ、コラァ」

 押し倒され、床に背中を打ちつけた瞬間、霞は声を上げられず目を閉じた。
 震える体を覆うように、VIPルームから漏れる楽しげな声が響く。

『あれ? ……カスミくん、だっけ~?』

 その声に、霞はぎょっと目を開けた。
 目の前に立っていたのは、見覚えのある女の子だった。
 目が合うと、彼女はにやりと笑う。

「なんだ、知ってるのか?」

 周囲のVIP客たちが、女の子――リリカに声をかけながらこちらを見る。
 リリカは、さらに声を張った。

「いや、この子な。この前キョウヤに会いに来とったんよ。なんや、一緒に住んどるみたいやで」

 霞の体に、電気が走った。

「キョウヤ……?キョウヤって、あのクラブ・インペリアルのNo.1の?」

 夜の街で、その名を知らない者はいない。
 リリカは、キョウヤを指名している姫の1人。以前霞が響也にネクタイを届けに行った時に、響也を指名したのがリリカだ。リリカは自分の胸の奥で――キョウヤが一番愛しているのは自分だと、疑っていなかった。

 だからこそ、キョウヤのそばにいる霞を見るその目は、あからさまな敵意を帯びている。

『ねぇオーナー。こいつにもオクスリあげてよ~!みんなも、このキレーな顔がぐしゃぐしゃになるの、見たいやんな?』

 その言葉に、霞は凍りついた。
 体の力が抜け、呼吸が詰まる。

「う、うそ……やだ、やだ……っ」

 必死に叫んでも、周囲の喧騒にかき消される。
 逃げる隙は、どこにもない。

 VIPルームの奥から、薬物をちらつかせる手が伸びてくるのが視界の端に映った。
 霞は小さく縮こまり、唇を震わせる。

(……これで……終わるの……?)

 唇を噛みしめ、目を閉じる。
 心の中で、ただひたすらその名前を繰り返した。

(響也さん……響也さん……)

 涙は止まらず、静かに頬を伝い落ちていった。

 ❖❖❖

 夜の街でもひときわ輝くホストクラブ『クラブ・インペリアル』。
 女の子との時間から少し離れて休憩中の響也は、スマホを握ったまま受付に立つ黒服と話していたが、どこか心ここにあらずだった。

「さっきからずっとスマホ見てますけど、何かあったんですか?」

 黒服の問いに、響也は少し間を置いてから答える。

「ん~……もう家にいる頃だと思うんだけど、霞くんと連絡つかなくて……」

 黒服は考え込むように眉をひそめた。

「霞くんって、この前来られてた綺麗な子ですよね……?」

 そこへ、出先から遅れてやって来たインペリアルのオーナー・結城 界ゆうき かいが会話を聞きつけ、響也の肩にのしかかるようにして揶揄からかう。

「なんだ、遂にキョウヤにも恋人か?」

「違います。ただの同居人です~」

 そう言いながら、響也はスマホの画面を開く。
 そこには、眠そうにソファに座る霞を隠し撮りした写真が映っていた。
 自分があげた“うちゃまる”を抱きしめ、小さく笑っている姿に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「ほら、この子。めっちゃ可愛いでしょ」

 結城は写真を覗き込み、わずかに首をかしげた。

「あれ……?この子、さっきどっかで見かけた気が……」

「へ?どこで?」

 その瞬間、受付の扉が勢いよく開き、先日霞が来た日にもいた女の子二人組が駆け込んできた。

「キョウヤ!!霞くんが!!」

 必死な声に、響也の背筋を嫌な予感が走る。
 二人の話によると、霞が悪名高いバー『BLACKHEART』に、スカウトと一緒に入っていくのを見たという。

「……BLACKHEART……」

 その場にいたオーナーや黒服たちも、思わず声を落とした。
 かつて響也の後輩ホストが薬絡みでインペリアルをクビになり、その後に開いた店――危険な噂があり、決して近づくべきではない場所。

 霞が、いていいはずがない。

「待て、キョウヤ!!」

 結城が制止する声も耳に入らず、響也はそのままインペリアルを飛び出した。
 ネオンに照らされた夜の街。輝く光の裏に潜む不安が、胸を締めつける。

(霞くん……無事でいて……絶対、助けるから)

 名前を心の中で繰り返しながら、響也は走る。
 心臓の鼓動が耳鳴りのように響き、意識はただ一つ――霞の無事だけに集中していた。

 BLACKHEARTの扉を、響也が蹴破った瞬間。
 鈍い破壊音とともに、店内の喧騒が一拍遅れて止まる。

 ネオンの光、煙草とアルコールの匂い、歪んだ笑い声――そして、視界の中心に飛び込んできた光景。

 バニーボーイ姿の霞の上に、BLACKHEARTのオーナー・蓮司が馬乗りになっている。
 かつてインペリアルで響也につく後輩だった男。
 その手には注射器が握られ、霞の肩に押し当てられていた。

「……っ」

 響也の思考が、一瞬で真っ白になる。

「あ゙……?」

 次の瞬間、燃え上がるような怒りに歯を食いしばった。

「え、インペリアルのキョウヤじゃね?」
「なんでここにいんだよ」

 周囲のざわめきは、すべて雑音だった。
 涙でぐしゃぐしゃになった霞の顔だけが、視界に焼き付く。

「……きょ……う、や……さん……?」

 かすれた声。
 彷徨っていた霞の視線が響也を捉えた瞬間、ふっと全身から力が抜ける。
 安堵したように、わずかに口元が緩み――

 次の瞬間、霞の意識は途切れ、ぐったりと体が崩れ落ちた。

「……ッ、霞くん!!」

 響也の低く鋭い声が響く。

「キョウヤさんじゃないっすか。久しぶりっすねぇ」

 馬乗りのまま、蓮司がにやついた笑みを浮かべる。

「あー、うん。そういうのいいから」

 響也は静かに一歩、近づいた。

「霞くんから、退いて?」

 柔らかな口調とは裏腹に、声は怒りを孕んでいる。

「は?勝手に来といて何だよ。まだ話は――」

「ええから、退け言うてんねん」

 一言で、空気が張り詰める。
 舌打ちしながら蓮司が霞の上から退いた、その直後――予備動作もなく、拳が振り抜かれた。

「ここはインペリアルじゃねーぞ!先輩ヅラすんな、キョウヤ!!」

 だが響也はわずかに体を逸らしてかわし、迷いなく拳を叩き込む。
 鈍い音とともに、蓮司の体が情けなくも床を転がった。

「……ほんま」

 低く吐き捨てる。

「俺の可愛い霞くんに、何してくれてんねん」

 その瞬間。

「テメェ!!」
「何勝手なことしてんだ!」

 客たちが一斉に立ち上がり、怒号とともに詰め寄る。
 瓶が床に転がり、場の空気が一気に荒れる。

「ちょっとキョウヤ!?あんた正気!?」

 甲高い声で前に出てきたのは、リリカだった。

「こんなとこで暴れて、タダで済むと思ってるん!?」

「あー……お前誰やっけ」

 一瞬考えてから、淡々と続ける響也。

「確か、コケシみたいな名前してたやんな」

「は!?なにそれ!いつもは――」

「いつも?……あー、こっちか」

 一瞬だけ、響也は“ホスト”の顔で微笑んだ。

「ごめんね、姫。いきなり来て、びっくりさせちゃったね~」

 甘い声。柔らかな笑み。
 リリカの表情が釣られて酔っていく。
 だが、次の言葉で一気に冷える。

「――って言うと思った?悪いけど今の俺、ホストやないんよ」

 指にはめていた指輪を、一つ、また一つと外す。

「ただの夏織響也なとりきょうや。俺の大事な子、返してもらいに来ただけやから」

 響也は着ていたスーツのジャケットを脱ぐと、床に横たわる霞にかけて抱き寄せる。

「コケシちゃん」

 低く、はっきりと告げる。

「お前、もうインペリアル出禁な。ついでに言うと――この店も、もう終わりやから」

「は?何言って――」

 その瞬間、再び扉が開いた。

「警察だ!動くな!!」

 警察が一斉に突入し、店内は騒然となる。
 殴りかかろうとしていた客たちの動きが、そこで完全に止まった。

「BLACKHEART、薬物使用および監禁の容疑で家宅捜索を行う」

 ネオンの光が、赤と青に塗り替えられる。
 その喧騒の中、響也は霞をしっかりと抱きしめた。

「……もう大丈夫、大丈夫だからね。霞くん」

 霞はまだ目を覚まさない。
 それでも確かに――響也の腕の中に、戻ってきていた。

 扉の向こうが騒然とする中、遅れてもう一つの人影が現れた。
 警察に挟まれるようにして入ってきたのは――結城だった。

「……キョウヤ!!」

 その声に、響也が顔を上げる。

「お前は……ったく……」

 叱責とも安堵ともつかない溜息をつきながら、結城は床に転がる蓮司、押さえ込まれている客たち、そして響也の腕の中でぐったりと眠る霞へと視線を走らせた。

「……最悪なもん見せられたわ」

 だが次の瞬間、その視線は完全に霞に固定される。

「その子……大丈夫か?」
「……まだ、意識が戻ってないです」

 響也は短く答え、腕に込める力をわずかに強めた。
 警察官の一人が近づき、霞の状態を確認する。

「反応は……呼吸は安定してるな」

 別の警官がライトで瞳孔を確認し、さらに肩口をそっとめくる。

「……注射痕があります」

 その言葉に、響也の指先がぴくりと震えた。

「ただ、腫れも軽い。量はかなり少ないな」

「途中で止められたんだろう。深刻な中毒症状は、今のところ見られない」

 警察同士が小声でやり取りを交わし、やがて一人が響也に向き直る。

「一応、病院での検査を勧めたいところだが……意識が戻れば、今夜は帰宅しても問題ないレベルだ。本人の状態次第だな」

「……分かりました」

 響也は深く息を吐いた。
 胸に張りついていた重たいものが、ほんの少しだけ緩む。

「この店の件は、こちらで責任を持って処理する」

 淡々とした警察の声が響く中、結城が一歩前に出た。

「キョウヤ。今日はもう仕事どころじゃないだろ。送るから来い」

「……お願いします」

 やがて騒然とした店内を後にし、外の空気に出た瞬間、夜風が肌を刺した。
 赤と青のランプが遠ざかり、街の喧騒が少しずつ現実へと戻っていく。
 結城の車に乗せられ、後部座席で霞を抱えたまま、響也は一度も腕を離さなかった。

「……ほんと、無茶したなぁ。昔のお前みたいやったわ」

 運転席から、低い声が落ちる。

「でも……よう間に合ったな」

 信号待ちの赤が、フロントガラスを照らした。

「遅れてたら、取り返しつかんかったかもしれん」

 その言葉に、響也は小さく頷き、霞の顔を見下ろす。
 涙の跡がまだ残る頬。規則正しい、けれど少し弱々しい呼吸。

「……帰ろ、霞くん」

 そう囁くと、霞は答えることなく、かすかに眉を寄せただけだった。
 車は静かに走り、やがて二人が暮らすマンションの前で止まる。
 結城がエンジンを切り、振り返った。

「キョウヤ」

 短く名前を呼び、少しだけ声を和らげる。

「今日は……よう守ったな」

 響也は一瞬だけ目を伏せる。
 少し俯いたことで表情には影が落ちたが、噛みしめた下唇が、微かに震えているのが見えた。


 結城の車が夜の路地に消え、テールランプの赤が完全に視界からなくなったのを確認してから、響也は霞を抱き上げ直した。  
 人目を避けるように裏口からマンションへ戻り、静まり返った共用廊下を足早に進む。  
 部屋に入ると、靴を脱ぎ捨てるようにして寝室へ急いだ。  
 ベッドに降ろそうとした、その瞬間。

「……ん……」

 霞の喉から、かすれた声が漏れる。  
 瞼がわずかに震え、ゆっくりと開いた。  

「……ここ……」

 焦点の合わない視線が天井を彷徨い、やがて響也の輪郭を捉える。  
 だがすぐに力尽きたように、また瞬きを繰り返した。

「大丈夫。俺たちの家やから」

 響也はそう言って、そっとベッドに寝かせる。  
 乱れた前髪を指で整え、額に触れると――熱い。

「……熱……。薬のせいか?」

 独り言のように呟き、響也はすぐに立ち上がった。

「水、持ってくる。すぐ戻るから」

 そう言い残してキッチンへ向かう。  
 その背中が視界から消えた途端、霞の胸がきゅっと締めつけられた。  
 理由もわからない不安。置いていかれるような、取り残されるような感覚。

「……きょ……う、けほっ、けほ!」

 呼び止めようと口を開くが、声にならない。  
 喉がひりつき、体に力が入らず、指先がシーツを掴むことすらできない。  
 じわじわと、体の内側から熱が広がっていく。  
 息が浅くなり、胸が上下するたびに苦しさが募る。

(……なに、これ……)

 思考がまとまらない。  
 ただ、苦しい。熱い。怖い。

 そのとき――

「霞くん!?」

 キッチンから戻ってきた響也が、異変に気づく。  
 手にしていたグラスが床に落ち、ガシャンと乾いた音を立てて砕け散った。  
 だが、そんなことはどうでもよかった。  
 響也は駆け寄り、ベッドに膝をつく。

「しっかりして。俺の声、聞こえる?」

 霞の頬に触れると、先ほどよりも明らかに熱が上がっている。  
 呼吸も早く、苦しそうに眉を寄せている。

「……っ……」

 霞の喉から、かすかな息が漏れる。

「……大丈夫。キョーヤさん、ここおるから、ネ!」

 響也はそう霞に言い聞かせるように、そして自分に言い聞かせるように、わざと明るく繰り返しながら、霞の手をしっかりと握った。  
 その手は、熱に濡れて、かすかに震えていた。

(……あいつ……)

 胸の奥に、遅れて怒りが込み上げる。  
 だが今は、それよりも――響也の意識は霞に向けられる。

「落ち着こ。ゆっくり呼吸しよ」

 響也は霞の額に触れたまま、低く穏やかな声で語りかけ続けた。

 霞の指先がシーツを掴もうとして空を切る。  
 熱が、まるで体内に別の生き物が住み着いたようにうねり、血管を這い上がってくる。  
 心臓の鼓動が耳元でうるさく、息をするたびに肺が焼けるような錯覚に襲われる。

「……あ、……っ、熱い……」

 声は掠れて、ほとんど吐息に近い。  
 霞は無意識に首を振ったが、それすら重くて、すぐに力尽きて枕に沈む。

 響也の手が、まだ額に触れたままだった。  
 その冷たさが、わずかに救いだった。なのに、同時に――触れられている場所から、じわりと別の熱が広がっていく。

「ん……っ」

 小さな喘ぎが漏れる。  
 自分でも何が起きているのかわからない。  
 ただ、身体の芯が疼いて、堪らない。

 霞の瞳が潤み、焦点が定まらないまま響也の顔を探す。

「……きょ…うや……さん」

 名前を呼ぶ声は弱々しく、途切れ途切れ。  
 でもその一言で、響也の表情が硬く引き締まった。

「……媚薬系か」

 響也の声が低く、抑揚を失う。  
 霞の頬を撫でていた指が、一瞬、強く食い込む。

「少量とか関係無さそうやな……」

 独り言のように吐き捨てながらも、響也はすぐに冷静さを取り戻そうとする。  
 霞の肩を軽く揺すり、視線を合わせようと顔を近づけた。

「霞くん、俺の目見て。聞こえる?」

 霞の瞳はすでに涙で滲んでいて、焦点が合わない。  
 それでも響也の声を、かろうじて捉えようとしている。

「……き、ょうや……さん。熱くて……おかしく、なる……」

 言葉の端々が震え、途中で息が詰まる。  
 霞の手が、力なく響也の腕を探り当て、ぎゅっと掴んだ。  
 爪が食い込むほどではないが、必死さが伝わる握り方だった。

「怖い……?」

 響也が問うと、霞は小さく、こくこくと頷く。  
 涙が一筋、頬を伝って落ちた。

「こわいぃっ、……たすけて、っ」

 その言葉が、響也の胸をえぐる。  
 怒りと、霞への痛みと、そして――抑えきれない別の感情が、一気に渦を巻いた。

「そばにいるから、大丈夫。大丈夫だよ」

 響也は霞の身体をそっと引き寄せ、背中を抱き込むようにして支えた。  
 熱い吐息が首筋にかかり、霞の身体がびくりと震える。

「んっ……あ……」

 触れられただけで、電流のような感覚が走る。  
 霞は無意識に響也の胸に顔を埋め、シーツを掴む指にさらに力を込めた。

「苦しい……きょ、うやさ……ん、触って、ほしい……」

 霞は掠れた声で、信じられないような言葉を零す。  
 混乱で顔が真っ赤になりながら、それでも身体は正直に、響也に縋りつく。

 響也は一瞬、息を詰めた。

「……本当に、言ってる?」

 低く、抑えた声。  
 霞の答えを待つように紡がれる。  
 霞は、熱に浮かされた瞳で響也を見上げた。  
 涙がまた一粒、こぼれる。

「……お願い……さわって……」

 その言葉が、響也の最後の理性を溶かした。

「――わかった」

 響也は霞の顎を優しく持ち上げ、熱い唇を重ねた。  
 同時に、震える背中をゆっくりとなぞる。  
 霞の身体が、びくんと跳ねた。

「……っ、はぁ……!」

 媚薬の熱が、触れられた場所から一気に爆ぜる。  
 霞は響也の首に腕を回し、必死にしがみついた。

「くるし……きょうやさ、ん……もっと……」

 涙と汗と、熱に濡れた声で、霞は懇願こんがんするように繰り返した。  
 響也はもう、言葉を返す余裕すらなかった。  
 ただ、霞を抱きしめ、熱を分け与えるように――そして、奪うように、深く、深く触れ続けた。

(ここまで来たら、一回抜いてあげた方がええかもな)

 そう考えて、響也はビクビク震えて熱を持つ霞のバニーボーイ衣装の上から、さらに熱を持ったそこに触れる。

「ん゙ッ、んぁっ!~~っ、ぁ……」

 響也の指先が衣装の上からその膨らみに触れた瞬間、霞の全身が跳ねた。
 甘く震える声が部屋に響き、腰が無意識に浮き上がる。  
 媚薬の効果が頂点に達したかのように、触れられた部分から熱い波が全身に広がり、視界が白く霞む。

「……あ、っ……きょ、うやさん……そこ、っ……」

 霞の声はすでに言葉にならず、ただ喘ぎと懇願の混じった吐息だけ。  
 指が軽く布地をなぞるだけで、霞の身体はびくびくと痙攣し、シーツを握る手が白くなるほど力を込める。

 響也は息を潜め、霞の反応をじっと見つめた。  
 その瞳には、怒りと心配が渦巻いていたが、今は霞の苦しみを和らげることだけが優先だった。  
 衣装の生地越しに、熱く脈打つ硬さを優しく包み込み、ゆっくりと上下に動かし始める。

「これで、少し楽になるか……?」

 響也の声は低く、その中には抑えきれない興奮が混じっていた。  
 しかし霞を傷つけるようなことはせず、優しく触れた。  
 霞の首筋に唇を寄せ、軽く吸いながら、手の動きを少し速める。

「はぁっ……あ、んっ! きょう、や……さん、もっと……強く……」

 霞は涙を零しながら、響也に縋り付いて、スーツ越しに爪を立てる。  
 媚薬の熱が、触れられるたびに爆発的に増幅され、理性などとうに溶けていた。  
 ただ、響也の温もりだけが、唯一の救いだった。

 霞の腰が無意識のうちに動き始め、衣装の下で熱いものが限界を迎えようとしている。

「ふぅ、っぁ、あ……っ」

 響也は霞の耳元で囁く。

「我慢しなくていいよ。出して、霞くん」

 その言葉がきっかけだった。  
 響也の手が少し強く握り、素早く動いた瞬間――霞の身体が硬直し、甘い叫びが漏れる。

「あっ……!んんぅっ……?!い、くっ」

 熱いものが衣装の中に溢れ、霞の全身から力が抜けた。  
 息が荒く、汗で濡れた身体が響也に寄りかかる。  
 媚薬の効果はまだ残っているが、一度頂点を越えたことで、少しの安堵が訪れた。  
 それでもまだ効果が薄らぐ気配はない。

 響也は霞を抱きしめ、額にキスを落とす。

「触ってごめんな、大丈夫?」

 霞の身体は、頂点を越えた余韻で小刻みに震え、響也の胸にぐったりと寄りかかっている。  
 汗と涙で濡れた頰が、響也のシャツにくっつき、熱い息が首筋をくすぐる。  
 バニーボーイの衣装は乱れ、網タイツが少しずり下がり、露出した肌が部屋の薄明かりに白く浮かび上がっていた。

「……きょう、や……さん」

 霞の声は弱々しく、しかし媚薬の残滓が新たな火を灯すように、甘く掠れている。  
 一度の解放で満足するはずもなく、身体の奥底から再び疼きが這い上がってくる。  
 無意識のうちに、かくかくと小さく揺れる腰は、熱を外に出す為に必死なのだろう。

 そんな時、霞の腰が揺らいだ先で、ゴリッと音を立てて何かと当たってしまった。

 僅かに、響也から吐息が漏れた。

「……っん」

「……?きょうやさん……?」

 自分が何にぶつかっているか分からないまま、熱い体を動かす霞。  
 響也の息が一瞬止まる。

「ッ、霞くん、待って。そこで動かないで……」

「ふぇ?……ぁ、これ……、きもちぃ……」

 霞の腰が、媚薬の疼きに突き動かされるように、くらくらと揺れ続ける。  
 硬くなった響也のものに擦れることさえ、快楽に変わる。  
 無意識の動きが、ごりごりと響也の股間に何度も擦れ、布越しに硬く張り詰めた熱を刺激する。

「……っ、くそ……」

 響也は目を閉じ、深く息を吐く。  
 額に汗が浮かび、首筋の筋が浮き上がるほど我慢しているのがわかる。  
 バニーボーイの衣装に包まれた霞の身体――乱れた網タイツ、ずれたウサ耳、汗で張り付いたボディスーツが強調する細いライン――すべてが、響也の視界を埋め尽くし、理性を削り取っていく。

「……うぅ、あつい……、きょうやさ、ん……もっとさわって……お願いぃ」

 いつもの可愛さのある声から、真面目さが飛んだ甘い声。今、霞の中には『響也に触れてほしい』という熱しかない。  

 他を考える余裕はない。
 響也の喉がゆっくり上下する。

「あのな、霞くん」

 必死に理性を押し留めて止めようとした響也だが、言葉は続かなかった。

「やだ、さわって……おねがい、いっぱい一緒にして……きょうやぁ」

 甘く溶けた声。  
 いつもはどこか一線を引いて控えめに『響也さん』と呼ぶ霞の声が、甘さを含み、初めて『きょうや』と呼んだ。  
 涙で潤んだ瞳が響也を捉え、縋るように見つめてくる。  
 バニーボーイの衣装が汗で肌に張り付き、網タイツの隙間から覗く白い太ももが震え、すべてが無防備で、刺激的だった。

 響也の喉が、もう一度ごくりと鳴る。  
 額の汗が一筋、頬を伝って落ちた。

「……霞くん、もう……俺、限界かも」

 低く、震えた声。  
 抑えていたものが、ぱきんと音を立てて切れる瞬間だった。

 響也は霞の腰を強く引き寄せ、ベッドに押し倒す。  
 霞の背中がシーツに沈み、乱れた前髪が顔にかかる。響也はすぐにその髪を指で払い、熱い視線を霞の顔に落とした。

「本当に、いいの? 俺が、霞くんとしても」

 霞はこくこくと頷き、涙を零しながら両手を響也の首に回す。

「うん……きょうやさんが、いい……きょうやさんじゃなきゃ、いやだ……」

 その言葉が、響也の最後の理性を完全に溶かした。
 響也は霞の唇を奪うように深くキスをし、同時にボディスーツのファスナーを一気に下ろした。

(……着る時、誰かに触られたんかな。……あー、なんやこれ、イライラする)

 そんなことを考えながら、唇を離して霞の体に視線を落とす響也。  
 汗で湿った肌が露わになり、網タイツの縁が食い込む太ももが震えている。  
 響也の手が、霞の胸を滑り、腰をなぞり、さっきまで衣装の下に隠されていた熱い部分に触れる。  
 一度達しているはずのそれは、まだ残る薬の影響で再び熱を持ったまま。

「霞くんは、気持ちよくなってくれるだけでいいからね」

「……?うん、」

 霞が小さく頷いたのを確認した響也は、次の瞬間、流れるようにそれを口に含んだ。  
 思わず「んぁっ」と霞の口から漏れ出た声は官能的だ。  
 強い快感に襲われ、ビクッビクッと太腿が揺れる。

「っ、ぅ、あ。あっ、」

 響也は口に含んだそれを舐めるように、舌を動かす。  
 舐めるのが苦しくない可愛らしいサイズのそれは、霞と同じように熱を持ちビクビク反応する。  
 響也の舌が、熱く脈打つそれを優しく包み込むように這う。  
 湿った口内で、ゆっくりと根元から先端へとなぞり、霞の反応を確かめるように。

 霞の身体がびくんと震え、喉から甘く掠れた声が漏れた。

「んぁっ……きょうやさん……あ、そこ……っ」

 霞の指が響也の髪をぐしゃりと崩し、腰が無意識に浮き上がる。  
 体内で激しく燃え上がり、触れられるたびに電流のような快感が全身を駆け巡る。

 響也はそんな霞の様子を間近で見つめながら、舌の動きを少し速め、軽く吸い上げる。  
 口内でさらに熱を帯び、痙攣するように反応した。

(……可愛いな。こんなに素直に反応して……)

 響也の胸に、甘い疼きが広がる。  
 唇を離さず、片手で霞の内腿を優しく撫で、網タイツの網目から指を滑り込ませて肌を直接触れる。  
 霞の太ももがびくりと締まり、熱い吐息が部屋に満ちる。

「はぁっ……ん、きょうやさん……もっと、して……」

 霞の声はすでに甘く蕩けた懇願に変わり、涙が頰を伝う。  
 響也はそれを聞きながら、口内の動きを緩やかに続け、先端を舌でくるくると回す。  
 霞の腰がそれに合わせて揺れ、媚薬の熱が頂点に向かって再び高まっていく。

 だが、響也は焦らせるように、時折唇を離して息を吹きかけ、再び含む。  
 その繰り返しが、霞の欲求をさらに煽り立てる。

「……あっ、んっ……きょ、うやさん……苦しくない……?」

 霞が心配げに、震える声で尋ねる。  
 そんな純粋な気遣いが、響也の心をさらに溶かす。  
 響也は一度唇を離し、霞の瞳を見上げて微笑んだ。

「キョーヤさんの心配してくれてるん?可愛いな、霞くんは、もっと気持ちよくなることだけ考えてて」

 そう言って、再び口に含む。  
 今度は少し強く吸い、舌で下から押し上げるように刺激する。  
 霞の背中が弓なりに反り、甘い叫びが漏れた。

「あぁっ……!きょうや、さん……あ、だめ……また、イっちゃいそう……」

 響也はそれを聞きながら、手を霞の後ろへと伸ばす。媚薬の効果で熱く濡れているそこを、優しく指で探る。  

 だが、指を入れようとして、響也は一瞬動きを止めた。

(……ローション、ないとキツイな。霞くん、初めてっぽいし……。て、俺も初めてやけど。本当に、もう止められん……)

 そこで頭に浮かんだのは、その日の出来事。  
 店で酔った後輩ホストが、イタズラで鞄に押し込んできたローション。  
『キョウヤさ~ん!今日の女の子とのアフターにどうぞ~』なんてふざけた顔で。  
 響也は注意するのも面倒くさくて、取り出すことを忘れていた。  
 今、ベッドの横に投げ捨てられた鞄が、視界の端に映る。

 響也は唇を離さず、片手で鞄を引き寄せ、中を探る。  
 すぐに指先に触れた小瓶を取り出し、蓋を開ける。  
 透明なローションが、響也の指に絡みつくように滴る。

(……まさか、こんな時に役立つとは)

 心の中で苦笑しつつ、響也はローションを指にたっぷり塗り、霞の後ろに滑り込ませる。  
 冷たい感触に、霞の身体がびくりと跳ねた。

「んっ……あ、っ、きもち、いい……ぁ……」

 後ろに触れられる初めての感覚に、霞の声が戸惑うが、媚薬の熱ですぐに甘く変わる。  
 響也は口内の動きを続けながら、指をゆっくりと入口に押し当てる。  
 ローションの滑りが、抵抗を和らげ、第一関節まで沈む。

「あ゙っ、ぅ、う~っ、なに……っ、きもちぃ……っ」

 霞の腰がくねり、網タイツの網目がシーツに擦れる音がする。  
 響也は網タイツを引っ掴むと、するりと脱がせて優しく指を動かし、中をほぐしていく。  
 同時に、フェラを続けて霞の快感を二重に刺激する。  
 指が徐々に深く入り、内壁を優しく押すように探る。

「はぁっ……あ、んっ……きょうや、さん……もっと、指……動かして……」

 霞の声が甘く溶け、涙が止まらない。  

 響也は霞の腰を抱えたまま、ゆっくりと指を動かし続けながら、唇を離して霞の顔をじっと見つめた。  
 霞の瞳はまだ熱にぼんやりと霞み、涙が頰を伝って落ちている。  
 響也は親指でその涙を優しく拭い、額に軽く唇を寄せる。

「ねぇ……っ、おねがい……きょうやっ」

「だーめ。霞くん、慣れてないんやから、ちゃんとほぐさないと」

 静かで落ち着いた声。  
 しかし、その声の奥に抑えきれない熱が滲んでいるのが、霞には伝わっていた。  
 熱を帯びた響也の声に、霞はゾクゾク震える。

 響也は指を一本抜き、再びローションをたっぷり塗って二本でゆっくりと戻す。  
 内壁を優しく押すように広げながら、もう片方の手で霞の胸を撫で下ろす。  
 汗で湿った肌が、指先に吸い付くように滑る。  
 乳首の先端を軽く摘まむと、霞の身体がびくんと跳ねた。

「んっ……あ、そこ……」

 霞の声が甘く掠れる。  
 響也はそれを聞きながら、唇を霞の首筋に移し、ゆっくりと舌を這わせる。  
 鎖骨をなぞり、胸の膨らみを優しく舐め上げる。  
 片手で乳首を転がし、もう片方の手は腰から太ももへ。  
 網タイツはすでに脱がされ、足首に絡まったままの布が、霞の白い肌をより際立たせている。

「霞くん、全部見せて? どこが気持ちいいか、教えて」

 響也の息が耳元にかかり、霞は恥ずかしそうに首を振るが、身体は正直だった。  
 腰が無意識にくねり、指の動きに合わせて内側が締め付ける。

「……きょうやに、触られただけで……っ、熱くなって……胸も、きもちくて……」

 霞の小さな告白に、響也の目が優しく細められる。  
 すぐに唇を胸に戻し、乳首を口に含んで舌で転がす。  
 軽く歯を立てて甘噛みすると、霞の背中が弓なりに反った。

「あっ……! きょうや、……それだめ……っ」

 響也は口を離さず、手を霞の腹部に滑らせ、内腿を優しく撫で上げる。  
 指先が敏感な部分をかすめるだけで、霞の腰が浮き上がり、甘い吐息が漏れる。  
 同時に、後ろの指は三本目へ。  
 ローションの滑りが音を立て、霞の内側を丁寧に広げていく。

「んぁっ……入ってる……きょうやのゆび……きもち、いい……」

 霞の声が震え、涙がまた溢れる。  
 響也は指の動きを止めず、ゆっくりと曲げて内壁の敏感な点を押す。  
 同時に、空いた手で霞の熱いものを握り、優しく上下に扱く。  
 二重の刺激に、霞の身体がびくびくと痙攣し始める。

「まだ……もっと気持ちよくなれるよ」

 響也は霞の耳たぶを軽く噛み、首筋にキスを落としながら、指を深くまで沈める。  
 内壁を優しくマッサージするように動かし、霞の反応を一つ一つ確かめる。  
 霞の感じるところを探し当てて、指を擦り付けるように動かすと、霞の腰がビクンと揺れ、熱い息が響也の肩にかかる。

「あ゙ぁっ、……きょうや、……っもう、熱くて……おかしくなりそう……もうそれやだぁっ、」

 霞の声が懇願に変わる。  
 響也はようやく指をゆっくり抜き、霞の太ももを優しく開いて自分の身体を近づける。  
 硬く張り詰めた自身を、霞の入口に軽く押し当てるが、まだ入れない。  
 ただ、熱を伝えるように擦りつけるだけ。

「もう少し……我慢して? 霞くんが、ちゃんと受け入れられるようになるまで」

 響也は霞の唇を優しく奪い、舌を絡めながら、手で全身を撫で続ける。  
 胸、腰、太もも、内腿――どこもかしこも、触れて、温めて、霞の身体を自分のものに染めていく。  
 すると霞は響也の首に腕を回し、強く抱きついてくる。  
 涙と汗と、媚薬の熱に濡れた身体が、響也に溶け込むように寄り添う。

「……きょうや、……もう、いい……入れて……おねがい……」

 霞の掠れた声に、響也の息がわずかに乱れる。  
 唇を重ね、指を再び滑り込ませながら、霞の耳元で囁く。

「もう少しだけ……、だから。ごめんな、痛くしたくない」

 しかしそんな響也の言葉は届かず、霞は嫌だ嫌だと首を振り、拗ねた子供のように響也の胸を叩いて押し退けようとする。  
 媚薬のせいでろくに力が入らない霞では、響也の体はびくともしない。

「やだっ、もうやだぁ……っ、あついの、くるしいの……っ!きょうやきらいっ!も、ほかのひととする……っ」

 響也の表情が、ぴくりと引きつった。  
 額に浮かんだ汗が止まり、目が一瞬、鋭く細められる。  
 そして、何かが切れる音がした。

「……は?」

 低く、抑えきれない苛立ちが声に滲む。  
 響也の瞳が暗く光り、霞の細い腕を強く掴んでベッドに押しつけた。  
『絶対逃さない』という強い意思が響也の全身から伝わる。  
 霞の身体がびくりと震え、涙で濡れた瞳が驚きで丸くなる。  

 媚薬の熱に浮かされた霞は、自分の言葉がどれだけ響也を煽ったか、わかっていない。  
 ただ、溢れた欲求をぶつけただけなのに。

「他の人……? へえ、霞くん、そんなこと言うんだね?」

 響也の声は静かだが、怒りが底から沸き上がっている。  
 嫉妬が胸を締めつけ、独占欲が一気に爆発した。  
 霞の太ももを強く掴み、脚を無理やり開かせる。  
 空いた手で、霞の熱く張り詰めたものを強く握りしめ、先程までとは違い今度は乱暴に上下に扱き始める。  

 媚薬の効果で敏感になったそこは、触れられただけでびくびくと痙攣するほど。そんな触り方に、霞が耐えられるわけがない。全身が跳ね上がった。

「ン゙ぐっ、ぁあ゙ッ、あッ!!」

 霞の声が甘く高い、悲鳴に近い喘ぎに変わる。  
 響也は動きを止めず、強く握ったまま速く扱く。  
 親指で先端をぐりぐりと擦り、根元を強く締め上げるように。  

 薬のせいで更に敏感になっている先端を強く擦られて、霞の全身には電撃に近い快感が走る。  
 開いた口が閉ざされることはなく、涙と涎で霞の顔はびしょ濡れだ。  
 もう、自分が何をされているのかさえ、考えられないだろう。ただ快感を拾うことで精一杯な霞は、また張り詰めていく全身の感覚に溺れていく。

「あ゙あっ……んっ、きょうやぁ゙……あ、だめ……っ!イく、イっちゃう……っ!イッちゃうから゙ぁっ」

 霞の声が懇願と快楽の混じったものになり、身体がびくびくと痙攣する。  
 だが響也は聞き入れることなく、さらに速く手を動かし、耳元で低く囁く。  

「霞くんはさ、今、誰といるんだっけ?教えて」

 その言葉がきっかけだった。  
 既にとろとろに溶かされていた霞の脳内を震わせるような、刺激的な声。  
 霞の背中が硬直し、甘い叫びが漏れる。 
  
「んぅッ……あっ、くぅッ、~~ッ!きょうや、……あ゙ッ、イくっ……!イッぢゃゔ……ッ!」

 その先の吐精感を期待していた霞だが、その直前で、響也の大きな手が根本を掴んで、それは遠のいていく。

「ぁ……っ、え……?きょ、うや、……なんでぇ……?」

 響也は霞の顎を優しく掴み、顔を自分に向けさせる。  
 額を合わせ、息がかかる距離で、低く穏やかだが、抑えきれない嫉妬の滲んだ声で囁く。

「ごめんね、霞くん。でも、悪いのは霞くんの方だよ。ねえ、教えて?今、霞くんは誰の手で気持ちよくなってるの?」

 その言葉が、霞の胸を刺す。  
 媚薬に溶かされた頭で、霞は必死に考えようとするが、熱い疼きが思考を邪魔する。  
 ただ、響也の縋るような視線が熱く、重く、霞の心を締めつける。  
 霞の指がシーツを強く握り、弱々しく首を振る。

「……きょうや…………きょうやだよ……っ」

 霞の声は小さく、しかし必死に響也の名前を呼ぶ。  
 涙がまた一筋、頰を伝う。  
 響也の目が優しく細められ、嫉妬の火が少し和らぐ。  
 だが、まだ満足せず、手の握りを緩めずに、ゆっくりと親指で先端をなぞる。  
 霞の身体がびくりと反応し、甘い吐息が漏れる。

「そうだよ。俺だよ、霞くん。他の人なんて、絶対にダメ。そんなことされたら、俺、もうどうなるか分かんないんだよ……」

 響也は霞の唇を優しく奪い、舌を絡めながら、手の動きを再開する。  
 今度は優しく、しかし確実に頂点へ導くように。  
 霞の腰が浮き上がり、熱いものが限界を迎える。  
 響也の耳元で、霞の甘い声が響く。

「んっ……あ、きょうやぁ……っ、ぁ゙いく、~~ッイクッ、ぁっ、あ゙ッ、い゙ぐッ!」

 熱いものが響也の手の中に溢れ、霞の全身から力が抜けた。  
 息が荒く、汗で濡れた身体がぐったりとシーツに沈む。  
 余韻で小刻みに震える霞の腰を抱え、響也は自分の硬くなったものを霞の入口に押し当てる。  
 ローションの残りで滑りがよく、力が抜けた瞬間に――ずぷっ、と一気に沈めた。

「あ゙っ……!入って、る゙……きょうや、……きょうやぁ……っ」

 霞の喉から、掠れた叫びが上がる。  
 熱く狭い内側が響也をきつく締め付け、媚薬の熱が二人の接点で爆発的に広がる。  
 響也は動きを止めず、すぐに腰を引いて、再び深く突き入れる。  

 ゆっくり、しかし強く。  
 霞の内壁を優しく、でも独占的に感じさせるように。

「ん゙……ッ、く……」  
「んぁっ……あ、きょうや……きもちぃ……っ」

 霞の声はすでに理性を失い、涙を零しながら響也に縋りつく。  
 響也は自身に襲いかかる快感に耐えながら霞を抱きしめ、首筋に強くキスを落として腰を動かし続ける。 
  
「ぁ、……っ、キツ……」

 響也は霞の腰を強く抱え、腰を沈めながら、霞の首筋に鼻を寄せて深く息を吸い込んだ。  
 霞の肌から漂う、タバコの煙と酒の甘い残り香――BLACKHEARTの残り香が、響也の胸をざわつかせる。

(……俺以外の匂いが、まだ残ってる)

 嫉妬の残火が再び灯り、響也は霞の首筋に自分の頰を擦りつけ、自分の香りを移すように密着させる。  
 自分の匂いで上書きするように、首から鎖骨へ、唇と鼻先を滑らせて。

「ん……きょうや……の、におい……する……っ」

 霞の声が甘く震え、響也の香水の香りが鼻腔を満たす。  
 クラクラするような甘いめまいが霞を襲い、媚薬の熱と混じって、霞の瞳がさらにぼんやりと溶ける。  
 響也の顔が近く、穏やかだが熱を帯びた視線が霞を捉える。その視線だけで、霞の胸がドキドキ高鳴り、熱い吐息が漏れる。  
 響也の低く抑えた声が耳元で響くたび、霞の身体がびくりと反応する。

「霞くん……俺の名前、もっと呼んで。俺のことだけ見て」

 響也は腰を深く突きながら、霞の顎を優しく持ち上げ、視線を合わせさせる。  
 ゆっくりと、しかし容赦なく奥を突き、霞の内壁を擦り上げる。  
 霞の身体がびくんと跳ね、甘い声が零れ落ちる。

「あっ……! きょうや……きょうや、……っ! きょうや……ぁ、ん……っ」

 霞は響也の名前を何度も呼び、涙で濡れた瞳で響也の顔を見つめる。  
 その呼び声が、蕩けた顔が、響也の背筋をゾクゾクと震わせる。  
 甘く掠れた声で自分の名前を連呼されるたび、響也の胸が熱く疼き、腰の動きが無意識に速くなる。

「もっと……っ霞くん、俺の名前呼んで……っ、響也って、たくさん言って」

 響也は霞の耳元で囁き、腰を円を描くように動かし、奥を執拗に突き上げる。  
 霞の内側がびくびくと痙攣し、熱が頂点に向かって一気に駆け上がる。  
 クラクラ揺れる頭の中で、響也の顔と声だけが鮮明に浮かぶ。  
 ドキドキする胸の高鳴りが、快感を増幅させる。

「きょうや……きょうや、っ!きょうや……あ゙っ、奥…………きもぢぃい……っ!もう、……イ゙っちゃ゙ゔっ!」

 霞の声が名前を連呼しながら高くなり、奥を強く突かれた瞬間、身体が硬直する。  

「あ゙ッ、ぁ゙、っ゙!イ゙グッ」

 甘い叫びとともに、霞は再び頂点を迎え、内側が響也をきつく締め付ける。足先に力が入り、シーツに沈むように無意識に相手の名を探して、唇がかすかに動く。

「……きょ……、……や………」

 抱き寄せられる腕に、すべてを預けた。
 熱い波が全身を駆け巡り、霞の視界が白く染まっていく。
 響也は止まらず、霞の余韻に包まれた身体を抱きしめ、腰を動かし続ける。  

 ゆっくり、深く。  
 霞の最奥を犯し、敏感になった点を狙って突き上げる。  
 霞は身体がびくびくと震え、涙が止まらない。

「あ゙あっ、まって……ぁ゙、ま゙って、だめっ、!きょ゙ゔや゙ぁっ、も……む゙り゙!~~~~ま゙っ゙で!!」

「ん……っ、あー……、可愛い。気持ちいいね?」

「だめ゙だめ゙だめ゙ッ!!ごわ゙れ゙る゙!ぎも゙ぢぐな゙い゙ッ!」

 その反応に、響也はピク、と眉を動かす。

「……へぇ?余裕みたいじゃん。なら、もっと気持ちよくしてあげなきゃね」

 そのまま響也は霞の懇願を無視するように、腰を激しく振り始める。  
 ゆっくりとした動きから一転、強く、深く、容赦なく奥を突き上げる。  
 響也の硬く張り詰めたものが、ズンッと激しい音を立てて霞の中を何度も抉るように刺激する。  
 霞の全身を快感が駆け巡る。

「あ゙ぁ゙ッ、~~~~ッ!!」

 霞の声はすでに悲鳴に近く、涙が止まらない。  
 強すぎる快感に耐えきれず、霞は響也に縋るように両腕を回し、強く抱きしめる。  
 汗で濡れた胸が密着し、霞の細い指が響也の背中に爪を立てる。
 必死にしがみつくその仕草が、無自覚の可愛らしさを放つ。

「ん……っ、霞くん……」

 響也の息が一瞬、乱れる。  
 急に抱きしめられたその縋りつき方が、響也の胸をキュンと締めつける。  
 可愛い。あまりにも可愛い。  

 その思いが、響也の興奮をさらに煽り、硬くなったものが霞の中でびくんと大きく脈打つ。  
 熱く、太く、存在感を増したものが、霞の内側をさらに広げるように圧迫する。

「あ゙ッ、?んっ……!ぁ゙、え……な、に……なんで、おっきく……ッぅあ゙」

 霞はびっくりして目を丸くし、涙で濡れた瞳で響也を見上げる。  

 内側を埋め尽くす熱いものが、急に膨張した感覚に、霞の息が詰まる。  
 驚きが一瞬、媚薬の熱を上回るが、すぐにその大きさが新たな快感を生み出し、霞を再び快感の海に溺れさせる。  
 腰が無意識にくねり、響也の動きに合わせて内壁がびくびくと痙攣する。

「はぁ……っ、あ゙あっ、きょうやぁ……っ!あ゙っ、だめ……もっと、奥……ほしぃ……っ」

 霞の声が甘く溶け、理性などとうに飛んで、ただ快感に身を委ねる。  
 響也はそんな霞を抱きしめ返し、腰をさらに激しく振り打ち付ける。
 深く、強く、霞の奥を何度も突き上げ、二人の汗が混じり、濡れた音が部屋に響く。

「霞くん……俺も、気持ちいい……っ、霞くんが可愛すぎて……我慢できない……」

 響也の声が低く震え、動きがさらに加速する。  
 霞も、より強く香る響也の香りと、余裕が剥がれつつある彼の声に、ドキドキする胸の高鳴りが止まらない。  
 響也の顔、声、匂い――すべてが霞をどろどろに溶かしていく。

「あ゙ぁっ……きょうや……きょゔや゙ぁ……っ! イく……また……っ、やだぁっ、きょうやとイキたいぃ゙……っ!」

 霞の唇が、震えながら響也の口元に近づく。たどたどしく、まるで初めてのように、柔らかく触れるキス。熱く火照った息が混じり、響也が必死に押し留めていた理性の最後のひと欠片が、バラバラと砕け散る。

「霞くん……っ、」

 響也は低く呟き、霞の首筋を抱き寄せて、思い切り舌を絡ませる。深く、貪るように。霞の甘い吐息が響也の口内に流れ込み、二人の舌が絡みつく。濡れた音が、部屋の空気をさらに熱くする。

 動きは止まらない。響也の腰が、霞の奥を激しく突き上げ、霞の体がびくびくと震える。霞の声が、キスの合間に漏れ出る。

「あっ……ぉ゙あ゙ッ、あ゙っ!きょうや……んっ……!」

 響也も、霞の熱い内壁に締め付けられ、喘ぎが抑えきれなくなる。低く、荒い息が混じり、声が震える。

「はあっ、ぁ゙……あ゙、霞くん……俺も……っ、イキそう……!」

 二人の体が密着し、汗が滴り落ちる。響也の動きが頂点に達し、霞の体が響也の全てを受け入れて跳ね上がる。霞の声が高く、切なく響く。

「あ゙ぁっ……きょうや゙……イくっ……イクッ、ぃくいくぃ゙ッく……っ!」

 響也も、霞の名を呼びながら、喉から喘ぎが溢れ出す。

「霞くん……あ゙ッ、ぐッ!……ッあ゙、俺も……イ……ぐ……っ!」

 激しい波が二人を飲み込み、同時の絶頂。
 響也の熱が霞の奥深くに注ぎ込まれ、霞の体がびくびくと痙攣する。あまりの激しさと快感に、霞の視界が白く染まり、意識がふっと遠のく。
 気を失った霞の体が、響也の腕の中でぐったりと沈んだ。

 響也は息を荒げ、霞を抱きしめながら、優しく額にキスを落とす。部屋に残るのは、二人の行為の余韻と、静かな息づかいだけだった。

 響也は、霞の体を抱きしめたまま、ゆっくりと息を整える。激しい余韻が体に残り、心臓の鼓動がまだ速い。
 霞の顔を覗き込むと、長い睫毛が静かに伏せられ、頰に薄い赤みが残っている。気絶したようだ——あまりの快感と激しさに、意識を飛ばしてしまったのだろう。

「霞くん……、霞くん?」

 響也は優しく呼びかけるが、返事はない。そっと額に触れてみる。熱っぽさはまだあるが、先ほどのような異常な火照りは引いているようだ。
 あの媚薬の効果が、ようやく薄れてきたのかもしれない。霞の呼吸は穏やかで、苦しげな様子はない。
 ただ、疲れ果てて眠りに落ちたような、穏やかな表情。

 響也はベッドの端に腰を下ろし、霞の寝顔を見つめる。こんなに近くで、こんなに無防備な姿を見るのは初めてだ。……いや、初めてじゃない。
 出会ったあの夜、霞は自暴自棄に夜の街をさまよっていた。

 今にも消えてしまいそうな、儚い影のように。
 響也はそんな霞の姿を見た時、昔の自分を重ねた。
 かつての自分も、すべてを投げ出して、ただ壊れていくだけだった。

 ホストとして、数えきれないほどの客を抱えてきた響也が、霞には本心で近付いた。
 触れれば簡単に手折れてしまいそうな、こんな綺麗な子に声をかけたのは、ただ自分の手で、守ってあげたいと思ったから。

 しかし、たった数日だけで、霞の存在が、こんなにも自分を揺さぶるほど意識するものに変わった。ただの守るべき相手じゃなく、もっと深いところで。

 響也は小さく息を吐き、立ち上がる。部屋を見回すと、床に落として割れたグラスが散らばっている。慎重に破片を拾い集め、ゴミ箱に捨てる。
 部屋を少し片付けた後、バスルームに向かい、シャワーの準備をする。
 お湯の温度を調整し、タオルを用意して部屋に戻ってくると、霞はまだ気絶したまま。

 響也は優しく霞の体を抱き上げる。改めて気にすると、華奢な体だと思っていたが、細身の自分と比べても、やはり軽い。
 そのままゆっくりと、足音を立てないようにバスルームへ運ぶ。

 響也はシャワーの下で、霞の体をそっと支えながら、温かいお湯で優しく流す。まるで壊れ物を扱うように、指先で丁寧に泡を滑らせ、汗とお互いの痕跡を洗い流していく。霞の長い睫毛に水滴が溜まり、頰を伝って落ちる。意識のないままの霞は、ただ静かに響也に身を預けているだけだ。

 首筋から肩、鎖骨のくぼみへ。指が滑るたび、響也の胸に熱いものが込み上げる。こんなに近くで、こんなに無防備に触れているのに、霞はまだ何も知らない。知らなくていいのかもしれない。

 響也は霞のことを見つめながら、二人が出会ったあの夜のことを思い返していた。
 あの夜、ネオンが乱反射する路地裏で、霞はまるで消え入りそうな息をしていた。瞳に光がなくて、ただ虚ろに夜を眺めているだけだった。
 あの横顔——ガラスで造られた花のように透き通って、触れたら割れてしまいそうなほど綺麗で。

 響也は思った。
 この子が、このままどこかへ消えてしまったら。存在すらなかったみたいに、跡形もなく消えてしまったら。 
 
 声をかけたのは、助けたいからだけでは無かった。
 自分のためだ。
 自分があの子を繋ぎ止めて、存在を確かめて、花を愛でるように、あの子の笑顔を引き出したい。

 ただ、一目惚れだった。
 ただの衝動で、でも本気で。
 響也は霞の髪を優しく洗いながら、そっと耳元で囁く。霞には聞こえていないはずなのに。

「好きなんて言わない。だから、ただ俺に守られてるだけでいいから……ずっとここにいてよ」

 言葉は水音に溶けて消える。響也は霞の体を抱き寄せ、背中に腕を回して、温かいお湯の下でしばらく動かずにいる。霞の体温が、じんわりと伝わってくる。まだ少し熱っぽいけれど、もうあの異常な火照りはない。
 響也はもう一度霞の体をシャワーで温めると、シャワーを止める。タオルで丁寧に体を拭き、濡れた髪を優しく拭き取ってやる。

「ごめんな、霞くん。俺が、霞くんを見つけちゃって」

 響也は霞を再び抱き上げ、バスルームを出る。新しいシーツを敷き直したベッドに、そっと横たえる。霞の体に毛布をかけ、額に軽くキスを落とす。
 部屋の灯りを落とし、響也はベッドの端に腰を下ろして、霞の寝顔を見つめ続ける。  
 胸の奥で、静かに、でも確かに、何かが根を張っていくのを感じながら。
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