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第二章
第一九話
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鈴虫一匹すらも鳴かない静謐。その中に消えてしまうのではないかと感じるほどの声で、日向は話を始めた。
「私ね、実は脳の病気だったの」
「脳の、病気?」
初耳だ。八年も付き合っていたのに。
三つのショックが同時に襲い掛かる。
一つは、僕に病気のことを打ち明けてくれなかったショック。
二つは、その病気で日向が命を落としたショック。
三つは、そのような事情に全く気付いてやれなかったショック。
その全てが、無力感として重くのしかかってくる。
「うん。あなたと別れる一年くらい前には、もうわかってたの。余命宣告までされてた」
「どうして……言ってくれなかったんだ」
僕は自分の声量に驚いた。消え入るような声なのはむしろ自分の方じゃないか。
「別れる一年前って言ったら、あなたはちょうど忙しかったでしょう? いつも忙しそうにしてはいたけど、そのときは特に。それに、あなたは悩みを抱え込みやすいタイプだって知っていたから、どうしても言い出せなくて」
「じゃあ僕はフラれ損、ってことか……」
「ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったの。ただ、ある程度距離を取ってから死んだ方が、あなたの悲しみを少しでも軽くできるかと思って……。たとえ死んだことが伝わっても、私がフった後なら次に切り替えてくれてるだろうって」
「そんな馬鹿な話があるもんか!」
僕は出ない声を振り絞って怒った。日向は微動だにしない。
「僕は……僕は、本気で君が好きだった。他なんて有り得なかった。結婚だって考えていたさ。だから仕事を頑張って結婚のための資金を稼いでやるぞって、精神すり減らしていたんじゃないか。仕事以外だって……いや、この際自分のことはどうでもいい。何よりも、君が辛かったのなら僕に言ってくれよ! 僕と君はそうやって、八年もの間支えあってきたじゃないか! 確かに、好きな人がもうすぐ死ぬかも知れないのは辛いさ。でも、そうやって大事なことを隠されるのはもっと辛いよ。だって、僕を信頼していないとも捉えられることだから」
僕は一息に思いを吐露した。日向はそれを、じっと黙って聞いている。彼女が何を思っているのかはわからない。わかりようもない。
「……すまない。話しすぎた」
「ううん、いいの。当然のことだから。私は、自分の行いに言い訳をするつもりはないわ。あなたがそう思ったのなら、それが全てだから」
僕の心はさらに痛む。
日向は、自分の行い──たとえそれが間違ったものだとしても──を真摯に受け止めている。過去を見つめて未来を見ず、現在を蔑ろにして「この世界」に逃げてきた自分とは正反対だ。「この世界」に辿り着いた、という結果が同じだとしても。
僕は、自分と彼女の大きな違いを改めて噛み締める。
それと同時に、ある懐かしい感覚に陥った。
そうだ。僕は、日向のそんなところを好きになったんだった。
「ふっ」
「?」
僕の口から、思わず笑みがこぼれる。
「陽一……くん?」
「ああ、ごめん。何だか前を思い出してさ。いつだったかなあ……。確か、就職活動をしているときだったと思う。『今後の僕と君の関係性をどうするか』って、喧嘩になったよな」
「あったよね、そんなこと。結局どうなったんだっけ?」
「『今と同じように続けて、ダメそうならそのとき改めて話し合おう』って感じだったと思う。あのとき、言い合いでは僕が圧倒的に優勢だったんだよ。だけど、君の一言一言のパンチがあまりに効いていて、ひとしきり口喧嘩した後しばらく経って僕が思い直したんだ。だから、結果としては君寄りの結論かな。考えてみれば、いつもそんな感じだったような気もするな」
「そうかも。でも、あのときはそれで間違いじゃなかったと私は思ってる」
「そうだね。僕もそう思う」
二人で笑う。さっきまでとは違う空気だ。
「あれ、私たち何の話をしていたんだっけ?」
「僕たちがここに辿り着いた理由……だったと思う。でも、もう良いかな。せっかく転生してもまた会えたことだし、その辺りは後で時間をかけて話していこうか」
「ふふっ、そうね」
「正体が衝撃的ですっかり忘れていたけど、今は君の身体とその周辺に『ノイズ』が発生していることについて解明しなくてはいけない。そのために僕たちは君を追っていたんだ」
「やっぱりそうだったんだ」
「そうだな……。まず何から始めれば良いのかよくわからないから、『野生会』の事務所に行こう」
「ジンガーさんが言ってた組織のこと?」
「そう。詳しくは事務所までの道すがら説明していくよ。ここで簡単に言っておくと、『この世界』で勝手に結成された自警団的な組織だ。まあそんなのは建前で、実際は何でも屋なんだけどね。だから何でも屋らしく、『ノイズの女を追いかけてくれ』なんてよくわからない依頼も受けてしまうのさ」
「へぇ~、何だか面白そうね。あなたに合ってそう」
「おかげさまで楽しくやってるよ。じゃあ、早速行こうか」
「うん!」
あれだけ長く感じた夜はもうすでに明け、朝日が差し込み始めていた。
死ですら別つことができなかった僕と日向は、久々に二人並んで歩いていった。
「私ね、実は脳の病気だったの」
「脳の、病気?」
初耳だ。八年も付き合っていたのに。
三つのショックが同時に襲い掛かる。
一つは、僕に病気のことを打ち明けてくれなかったショック。
二つは、その病気で日向が命を落としたショック。
三つは、そのような事情に全く気付いてやれなかったショック。
その全てが、無力感として重くのしかかってくる。
「うん。あなたと別れる一年くらい前には、もうわかってたの。余命宣告までされてた」
「どうして……言ってくれなかったんだ」
僕は自分の声量に驚いた。消え入るような声なのはむしろ自分の方じゃないか。
「別れる一年前って言ったら、あなたはちょうど忙しかったでしょう? いつも忙しそうにしてはいたけど、そのときは特に。それに、あなたは悩みを抱え込みやすいタイプだって知っていたから、どうしても言い出せなくて」
「じゃあ僕はフラれ損、ってことか……」
「ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったの。ただ、ある程度距離を取ってから死んだ方が、あなたの悲しみを少しでも軽くできるかと思って……。たとえ死んだことが伝わっても、私がフった後なら次に切り替えてくれてるだろうって」
「そんな馬鹿な話があるもんか!」
僕は出ない声を振り絞って怒った。日向は微動だにしない。
「僕は……僕は、本気で君が好きだった。他なんて有り得なかった。結婚だって考えていたさ。だから仕事を頑張って結婚のための資金を稼いでやるぞって、精神すり減らしていたんじゃないか。仕事以外だって……いや、この際自分のことはどうでもいい。何よりも、君が辛かったのなら僕に言ってくれよ! 僕と君はそうやって、八年もの間支えあってきたじゃないか! 確かに、好きな人がもうすぐ死ぬかも知れないのは辛いさ。でも、そうやって大事なことを隠されるのはもっと辛いよ。だって、僕を信頼していないとも捉えられることだから」
僕は一息に思いを吐露した。日向はそれを、じっと黙って聞いている。彼女が何を思っているのかはわからない。わかりようもない。
「……すまない。話しすぎた」
「ううん、いいの。当然のことだから。私は、自分の行いに言い訳をするつもりはないわ。あなたがそう思ったのなら、それが全てだから」
僕の心はさらに痛む。
日向は、自分の行い──たとえそれが間違ったものだとしても──を真摯に受け止めている。過去を見つめて未来を見ず、現在を蔑ろにして「この世界」に逃げてきた自分とは正反対だ。「この世界」に辿り着いた、という結果が同じだとしても。
僕は、自分と彼女の大きな違いを改めて噛み締める。
それと同時に、ある懐かしい感覚に陥った。
そうだ。僕は、日向のそんなところを好きになったんだった。
「ふっ」
「?」
僕の口から、思わず笑みがこぼれる。
「陽一……くん?」
「ああ、ごめん。何だか前を思い出してさ。いつだったかなあ……。確か、就職活動をしているときだったと思う。『今後の僕と君の関係性をどうするか』って、喧嘩になったよな」
「あったよね、そんなこと。結局どうなったんだっけ?」
「『今と同じように続けて、ダメそうならそのとき改めて話し合おう』って感じだったと思う。あのとき、言い合いでは僕が圧倒的に優勢だったんだよ。だけど、君の一言一言のパンチがあまりに効いていて、ひとしきり口喧嘩した後しばらく経って僕が思い直したんだ。だから、結果としては君寄りの結論かな。考えてみれば、いつもそんな感じだったような気もするな」
「そうかも。でも、あのときはそれで間違いじゃなかったと私は思ってる」
「そうだね。僕もそう思う」
二人で笑う。さっきまでとは違う空気だ。
「あれ、私たち何の話をしていたんだっけ?」
「僕たちがここに辿り着いた理由……だったと思う。でも、もう良いかな。せっかく転生してもまた会えたことだし、その辺りは後で時間をかけて話していこうか」
「ふふっ、そうね」
「正体が衝撃的ですっかり忘れていたけど、今は君の身体とその周辺に『ノイズ』が発生していることについて解明しなくてはいけない。そのために僕たちは君を追っていたんだ」
「やっぱりそうだったんだ」
「そうだな……。まず何から始めれば良いのかよくわからないから、『野生会』の事務所に行こう」
「ジンガーさんが言ってた組織のこと?」
「そう。詳しくは事務所までの道すがら説明していくよ。ここで簡単に言っておくと、『この世界』で勝手に結成された自警団的な組織だ。まあそんなのは建前で、実際は何でも屋なんだけどね。だから何でも屋らしく、『ノイズの女を追いかけてくれ』なんてよくわからない依頼も受けてしまうのさ」
「へぇ~、何だか面白そうね。あなたに合ってそう」
「おかげさまで楽しくやってるよ。じゃあ、早速行こうか」
「うん!」
あれだけ長く感じた夜はもうすでに明け、朝日が差し込み始めていた。
死ですら別つことができなかった僕と日向は、久々に二人並んで歩いていった。
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