真宵の天窓

桜部ヤスキ

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第2章 閉ざされた悪夢への誘い

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 テスト中の教室みたいだ。
 自身の心理状態を一歩引いた所から客観視しながら、弥央はそんな感想を抱いた。聞こえるのは紙やペンの微かな音だけだが、一人一人の闘志が静かに燃え、その熱気が空間いっぱいに満ちている。
 対して一夜の心は、いわばテストの合間の休憩時間だ。誰も彼も落ち着きがなく話し声が飛び交う、騒がしいひと時。動揺しているのは表情に出なくとも分かる。
「……何の話だ」
 そう呟いて顔を逸らす。黒髪が垂れ目元が見えない。
「『俺のせい』って、この館で起こったことじゃないよね。それよりも前に、累人との間にあった出来事。そうでしょ」
「…………」
「累人とは高1からの仲なんだっけ。おれのいない1年の間に何かあったってことかな」
「……何が言いたい」
「知ってるよ、〈事件〉のことは」
 はっとして一夜はこちらを向く。緑青の双眼がさざ波のように揺れている。
「去年の3月、ある町の昼間の路上で一気に13人が殺された。どの死体もひどいあり様だったとか。犯人は。その場で逮捕されたけど、動機とか色々明らかになる前に死んだ。__そうだよね」
「…………あぁ」
「ごめん。悲しませるつもりはなかった。おれはずっと一夜のこと心配だったんだ。引っ越しで離ればなれになってからずっと、新しい学校でうまくやれてるかな、また公園で一人になってないかなって。でもあの日〈事件〉のことを知って、遠い場所で一夜がつらい目にあってるって知って、すごく苦しかった。すぐに飛んでいってそばにいてやれないことがすごくくやしくかった。だからおれは……」
 熱心に繰り出される言葉が急に失速する。そして電波ジャックでもされたように、弥央の脳内にふとあるイメージが割り込んできた。
 辺り一面にまき散らされた真紅。その中に倒れ伏す一つの人体。道端に転がるビー玉のような目にもはや生気はなく…………。
 慌てて頭を振ると、映像はかき消える。おれへの〈戒め〉のつもりだろうか、などと突飛な思考をとっさに走らせる。
 そんなわけないと気を取り直し、ソファの右側に座る一夜の方へ向き直る。
「だから最初に会った時、元気そうで安心したよ」
「…………そうか」
「それで、その〈事件〉に累人も関わってると?」
 弥央が尋ねると 薄暗いせいかいつもより青白く見える顔がつらそうに歪む。テーブル上の懐中電灯を見つめながら、ぽつぽつと話し出す。
「13人の犠牲者の中に、名神の父親もいたんだ。俺はあいつに言われるまで気付かなかった。俺のせいで、俺よりもつらい思いをさせたのに、何も知らずに平気な顔で接していた」
「何が『俺のせい』なんだ」
「事件があった日の朝、俺は父親の異変に気付いていた。あの時出かけるのを引き止めていたら…………いや、もっと前から父親に向き合っていたら、あんなことは起きなかった。結果論なのは分かってる。それでも未だに、選べたはずの選択肢を探して過去を嘆いている。こればかりは見切りをつけられそうにない……」
「それで、累人に償いをしようと?」
「俺は取り返しのつかないことをした。償いなどできない。でも、いつまでも自分を責め続けて、立ち止まるのはやめろと名神に言われた」
 俯いた顔に貼り付いていた絶望が、少しずつはがれていく。
「あいつは、関わるなと何度突き放しても関わるのをやめなかった。だから……俺が折れた。隣にいてもいいとあいつが言ってくれたから、俺は前を向いて歩いていられる」
 目線を上げた一夜の表情は、錆が取れて本来の輝きを取り戻した十円玉のよう。それを見つめる弥央の心中は、面白くない気分で満ちていた。

 そうだったのか。そりゃあおれのことなんて見えてないはずだ。

「一夜はやさしいねぇ。自分が苦しめたと思い込んでる相手のために尽くそうなんて」
 あからさまにぶっきらぼうな口調で言った。
「死んだ人間の埋め合わせでもしようってことかな。いや、そんなハンパな気持ちなら簡単にこわせるか」
「弥央……?お前、何を__」
「あいつは何も返さないよ。あの鈍感は自分に向けられてる気持ちに一生気付きやしない。一夜がいくら大切に思ってたって、何も知らない顔でバカみたいに笑ってるだけだ」
 弾丸のように次々飛び出す言葉が、目の前の見えない壁を撃ち砕いていく。壊せ。全て壊せ。
「待て。お前は何を言ってる。俺は名神に何かを返してほしいとは思ってな__」
「一方通行なんてむなしいだけだ。それだったらお互い離ればなれで会えない方がいい。つらい現実なんか見ないで、昔のきれいな思い出に浸ってる方がずっといい」
 何を言っているのか、弥央自身にも分からなかった。高ぶる感情と呼応するように腹の底がじくじくとうずく。

 どろり。黒々とした泥が底から這い出てきて、意識を浸食し始める。どろり、どろり。必死で抑えている大事なタガが、どろり、外れそうになる。どろり。頭が、どろり、朦朧と、どろり、して、どろりどろり。
 弥央はゆらりと身を乗り出し、腕を伸ばす。ソファに置かれた一夜の左手を強く掴む。

「なぁ…………おれにしないか、一夜」

 困惑する表情を鼻先に捉え、熱に浮かされたように囁く。
「おれなら一夜に同じ気持ちを返せる。ずっといっしょにいてやれる。もう二度と離れたりしない。絶対にさびしい思いはさせない。だから」
 さらに顔を近付ける。耳元で吐き出す言葉は呪詛のように陰湿でねっとりした気配をまとい、一夜の体に浸透し始める。
「名神累人のことは忘れろ。今は隣にいても、いつかは遠く手の届かないところへ去っていく。人の心に無責任にしがらみだけを残して。おれは絶対にそんなことはさせない。おれは一夜を守るためにここに来た。邪魔するヤツは全部おれが消してやる」
 弥央の目は焦点を失っていた。段々と握る力が増大し、一夜の手に爪が食い込んでいく。どろり、どろり。黒々とした泥が視界を暗転させ、わずかに残った光すら飲み込もうと__
「離せ!」
 一夜が叫んだ。腕を振り、押し倒さんとばかりにのしかかっていた弥央の体を突き飛ばす。
 その衝撃で弥央は我に返った。水圧洗浄機で洗い流されたように泥が払われ、意識が明瞭になる。
 呆然と固まる弥央に向けられた双眼は、親しい者に対するそれではなかった。憎き親の仇を射止めんとするむき出しの矢じり。
「弥央。俺はお前のことは嫌いじゃない。だが」
 一夜の鋭利な声が喉元に突きつけられる。

「名神に手を出すなら何だろうと、お前だろうと俺が消す。例外はない」

 …………すごい。やっぱり一夜はすごい。
 自分の中で優先順位を決めてはっきり線分している。自分にとって何が大切で、何がどうでもいいかを断言できる。その一途な意思は一振りの剣のように真っ直ぐで丈夫で、美しい。
 でも、その相手がおれじゃないのはどうして。
 その鋭い剣先を、刺し貫くかのようにおれに向けるのはどうして。
 わからない。わからないよ。どうしておれだとだめなんだ。おれのなにがだめなんだ。
 おしえてよ、一夜。

「…………ちょっと、上行ってくる」
 絞りカスのような弱々しい発音はほぼ形にならず、実際出たのはただの呻き声だった。
 弥央はソファから立ち上がり、懐中電灯も持たずに大広間を飛び出した。暗い玄関ホールを右へ折れ、ギシギシと軋む板張りの螺旋階段を駆け上がる。足元もろくに見えないにもかかわらず、猛然と進む足取りは一度もつまずかない。
 わたしはカラクリになりたい。
 以前読んだマンガにそんなセリフがあった。機械人形の開発を手掛ける博士が、最愛の一人娘を病で亡くした時に吐いた言葉。
 味も温もりも、痛みも感じない体になりたいなんてどうかしている。その時はそう思った。だが今なら、そばにいた機械人形に向かってそんなセリフを口にした博士の気持ちが少しだけ分かるような気がした。
 こんなに苦しいなら、誰だって逃げたくなるよな。



 荒々しく閉めたドアに背を預け、目を閉じたまま深く息を吐く。
 ここは2階の一室。階段を駆け上がり目についた扉を開けたのだろうが、道中の記憶がまるでない。1階の広間から瞬間移動してきたような気分だ。
 早鐘を打つような鼓動を鎮めようと、弥央は大きく息を吸い込む。広間や廊下の埃っぽい空気よりもすっきりした、薬品の匂いの混じった気体が肺に満ちる。
 …………ん。この感じ、どこかで……。
 目を開ける。
 そこは白を基調とする質素な室内だった。自宅のリビングくらいの広さで、右の壁にヘッドボードをつける向きで白いシーツのベッドが置かれている。一部開いたカーテンの向こうには澄んだ青空が見える。

 なんだ、去年まで入院していた病室か。

 見覚えのある光景にぼんやりとそんな感想を抱いたが、すぐに疑問が浮上する。いつの間に洋館から病院へ移動したのだろうか。
 背後のドア(細長い取っ手のついた白い引き戸になっている)を試しに開けようとする。が、しっかり固定されているようで動かない。しばらくここで過ごせってか。
 諦めて部屋の方を振り返る。
 すると、さっきまでは何もなかったはずのベッドに誰かが横たわっている。「誰か」なんてぼかす意味はこの場合全くないのだが。

 なぜならその人物は、入院着を身にまとった、弥央と全く同じ顔をした少年だったのだから。

「…………たしかに、こりゃあ幻覚だな」
 ぼそっと呟き、弥央はベッドのそばに歩み寄る。
 肌はシーツと同じくらいに白い。頬は痩せこけ手は骨張っている。髪は今より少し長く、落ち窪んだ目は静かに閉じられている。眼鏡はそばの棚の上にあった。
 紛うことなく病人の姿。息をしているかどうかも怪しい。
「こんなひどいことになってたのか、半年くらい前は」
 横たわる少年を弥央は細めた目で見下ろす。幻覚にしてはよくできている。
 ふと横を見ると、枕元のそばの丸椅子に置かれた雑誌が目についた。近寄って手に取る。
 とある有名な出版社の週刊雑誌で、世間で話題になった様々なニュースの特集が主に掲載されている。発行の日付は去年の10月末。パラパラとめくっていくと折り目のついたページに行き当たる。そこに書かれている内容は……。
「通り魔事件の容疑者、柳彰也が拘留中に病死」
 でかでかと書かれた見出しを読み上げる。
「この記事を見た時だったか。初めて〈あの事件〉があったことを知ったのは。でもこんな病弱な体じゃあ、一夜のもとへ行きたくても行けない。ただでさえ良くない具合が、事実を知ったことでさらに悪化したんだから」
 独り言のように語る弥央の前で、眠っているように見えた少年が不意に動いた。操り糸に吊られるように起き上がり、灰色に澱んだ瞳がかっと開かれる。そして次の瞬間、口から大量の血を吐き出した。
 激しく咳き込み、シーツを真っ赤に染めていく。その細い体から命の源が全て流れ出るような勢いだった。
「ほら、言わんこっちゃない」
 雑誌を椅子の上に放り、目の前の惨事を我関せずといった態度で弥央は眺めている。とめどなく滴り落ちる真紅が、白で統一されたこの病室の中でくっきり浮かび上がる。

「それでも、自分の体より一夜を優先した。だからのところへ来た。そうだったよな、

 平静な表情の中に、どこか悲しげな色が混じる。
「さすがに思ってなかったんじゃないのか。一夜があんな強情だなんて。まぁそれはおまえも……おれも同じだけど」
 少年は顔を上げ、苦悶の眼差しを向ける。ヒューヒューとか細い呼吸音が漏れる。
「苦しそうだな。今楽にしてやるよ」
 安らかな口調で告げ、弥央は手を伸ばして少年の首を掴む。ちょっと力を加えただけで折れてしまいそうな程に細い。
 ぐっと力を入れた瞬間、景色の全てが白く光ったかと思うとガラスのように粉々に砕け散った。
 後に残ったのは暗闇に佇む一人の影だけ。手応えを失った右手は、ただ空虚を握り締める。



 手探りでどうにかドアを開け、部屋を出る。
 廊下は1階と同様に幅広で、4つのドアが並ぶ。階段を上がり右に折れてすぐの所が、ついさっきまで入っていた部屋のようだ。
 そういえば、明かりを持ってないのに周囲がよく見える。なぜだろうと見回すと、天井に小さな四角い窓があった。そこから外の光が差し込んでいる。あんな窓、おれの家にもあったような。
 すると、隣の部屋の扉が開いた。出てきたのは__
「やひろん、やっほー」
 ニカッと笑う佐々蔵だった。弥央としては笑える気分ではなかったが、どうにか明るく取り繕う。
「やっほ。そっちも探索してたのか?」
 すると得意げな顔をして、
「ふふん。ばっちり収穫あったよー。日記っぽいものを見つけたからね」
「へぇ。じゃあ何か分かった?」
「大体ね。この家には夫婦2人とその子供3人、全員で5人の家族が住んでいた。でも10年くらい前にひどい事件があった。3人の兄弟のうち、真ん中の次男が家族全員を殺害して自ら命を絶ったんだ。彼がどうしてそんなことをしたのか、さすがにそこは書いてなかったけれど」
 一旦口を閉じた佐々蔵は気の毒そうな表情を浮かべていた。その憐れみは殺された家族に対してなのか、凶事を起こし自害したという彼に対してなのか、判別できそうなものでもなかった。
「ふーん。じゃあその日記ってやつ、次男が書いたのか?」
「だろうねー。というか、意外とリアクション薄いんだねやひろん。せっかく幽霊が出るのも納得のいわくつき館って判明したのに」
「この状況自体たのしくないんだろって言ったのは佐々蔵だ」
 物事を楽しむような心境には当分なれそうにないというのが、正直なところだった。1階に下りるのすら気が進まない。いっそこのまま瞬間移動で家に帰りたい。いつになく弱気な思考に迫られて、弥央は思わず溜め息を吐く。

 __名神に手を出すなら何だろうと、お前だろうと俺が消す。例外はない。

 一夜の優先順位は至って明確だ。というかもう順位ですらない。一人の人間とその他大勢を、宝箱とごみ箱にそれぞれ分別している。おれは最初から問答無用でごみ箱に入れられた紙クズの一つだったわけだ。
 どうすればあいつじゃなく、おれが宝箱に入れてもらえるだろう。

「……なぁ」
 高い天井の小窓(確か、天窓と言ったか)を見上げながら、弥央は呟いた。
「両親と兄弟を殺した時、次男は何を思ってたのかな」
 佐々蔵は何も言わない。
「きらいだったのかな。にくかったのかな。家族なのに。それとも家族だから、大切だから、ためらわなかったのかな」
「……いくらでも想像はできるさ。でも今となっては真実は闇の中だよ」

「そうか?なら分かって当然だと思うぜ。なぁ、

 目線を下ろし、目の前の佐々蔵、に見えるナニカを見つめる。それは途端に表情を消し、ツヤ消しのガラス瓶のような両目を弥央に向ける。
「部屋から出てきた時点で分かってたよ。だいぶ抑えてあるが、1階に現れたマネキンみたいなヤツと気配が同じだ。でも見た目とかしゃべり方はまんま佐々蔵だから、すげえ再現度でびっくりした。ホンモノはどうしたんだ」
 佐々蔵モドキは無言で、先程開けて出てきた扉を指差す。あの部屋にいるということらしいが、安否確認は後でいいか。
「おれのカンだと、おまえは自殺した殺人犯の次男だな。当たってるか」
 小さく頷く。
「変な死体や病室の幻覚を上映してくれたのは、おまえなりの歓迎ってとこか。一夜も累人もいい反応してたぜ。おれはもの足りなかったけどな」
 一夜にあんなことを言われた後だったんだ。何を見せられたところですでに深く抉れた心は痛まない。
 相手が生きた人間ではないと認識した上で、腕を組み淡々と話す弥央。すると佐々蔵モドキは無表情のまま口を開き、ホンモノではあり得ない細々とした声で言う。
「ボクはキミたちの精神にこびりついたイメージを覗いて再現した。恐怖は傷痕を残しやすい。キミの中で細胞のようにひしめく記憶は、ほとんどがあの黒髪の少年で埋まっていた」
「やっぱそうなんだ。じゃあ一夜は……って分かりきってるか。累人はどうだった。麦色頭のビビり君は」
「彼はキミたち2人と違って偏っていない。春の花園のように彩り豊かな面影に満ちていた」
「ふーん。頭の中がお花畑ってほんとにあるんだ」
 いつも教室で雑談したり勉強を教えてもらったりする時の、累人の朗らかな微笑み。ふと思い浮かべたその面影を、何だか無性に塗り潰したくなった。手元にクレヨンがあったら迷いなく真っ黒に描き殴っていただろう。
 モヤモヤした気分を払うべく頭を振る。その拍子に眼鏡がずれ、指で押し戻す。
「それで、おまえの中には何があったんだ。家族を殺したその殺意の中に」
 静かな声色の問いかけに、しばし沈黙が流れてから答えが返ってきた。
「ボクは家族を愛していた。だからずっと一緒にいたかった。みんなでこの家で永遠に暮らしたかった。でも、残ったのはボクだけだった。みんなを愛していたのは、ボクだけだった」
「……そっか」
 訊かない方がよかったという罪悪感が湧く。こいつもきっと、自分の思いが相手に受け入れられなかったんだろう。そして何年も独り、この廃れた館に留まり続けている。
「ボクを消すの?」
「うん?」
「ボクがいなくなれば、キミたちはここから出られる。だからボクを消すの?」
「わざわざ教えてくれるのは、おれにそうしてほしいからってことでいいのか?」
「…………」
「おれはいい加減外に出たいと思ってるから別にいいけど。でもその前に……」
 弥央は佐々蔵モドキに近寄り、ポンと肩に手を置く。そして、質の悪いいたずらを思いついた小学生のようにニヤリと笑った。
「ちょっとやってみたいことがあるんだけど、協力してくれるか。ユーレイくん」


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