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目を覚ますとすぐ、淹れ立てのコーヒーの香ばしいにおいが鼻に届いた。
細く開いた視界に、窓から射し込む眩しい金色の光を背にして、マグカップを運ぶ背の高い男性のシルエットが入ってきた。それが昨日出会った殺し屋、朝日だということを、ここが彼の部屋だということを頭が理解するまでに、少し時間がかかってしまった。
「おはよう。寝心地悪かったでしょう」
チェアの斜め前にあるテーブルの上に、朝日が朝ごはんを並べている。コーヒーとバターを塗ったトースト。
私は目をごしごしと擦った。
「……ううん。大丈夫。そんなことない」
本当にそんなことなかった。
背もたれに頬をつけて眠ると、朝日のにおいがした。ほとんど知らない人のにおいなのになぜかほっとできて、自分の布団で眠るよりも、うんと深い眠りに落ちた。ぐっすりと眠れたのはすごく久しぶりだ。夢すら見なかった。
ただ、こんなに朝早く起きることもずいぶんと久しぶりで、深い深い眠りの中にいたことも手伝って、まだ頭がぼんやりしている。
「まだ夢の中にいるみたいな顔だね」
「……うん。早起きなんだね、朝日」
「早起きって。もうすぐ八時になるよ」
朝日が小さく笑った。朝日は殺し屋のくせによく笑うし、男の人なのにくすくすと控えめに笑う。
無理やり明るさに慣れさせた目に、ようやくしっかりと輪郭を持って映った朝日は、すでに着替えを済ませていた。紺色のトレーナーは首周りにカラフルな小花の刺繍がしてある。下はダメージのないジーンズだ。穏やかな表情とラフな服装は、ちっちゃな子供に手を引かれてニコニコしている、そんなどこにでもいる、普通の若いお父さんにしか見えない。
「トーストでいいかな。他に何もなくて」
伺ってくる足元には、レインがうろうろとまとわりついていた。ごはんの催促をしているんだろう。そちらに微笑みかけてから、朝日は自分のトーストの端っこをちぎって手のひらで与えた。レインがかぶりつく。
「えっと、ごめん。私、朝はいつも遅いから食べてなくて……」
昼ごはんだってろくなものを食べていない。それなのに、急に規則正しくきちんとした食事なんて入ってきたら、胃がびっくりしてしまいそうだ。
すると、朝日は穏やかながらもきちっとした口調で言った。
「食べなさい。朝ごはんを食べないと、脳が活性化しないよ。何かを覚えようとするなら、なおさらしっかり食べないとだめ」
思いがけず父親みたいな言葉をかけられて、なんとなく照れ臭くなるけど、それよりもその内容に引っかかった私は、思わず身を乗り出した。
「覚えようって……もしかして、人を殺す方法を教えてくれるの?」
朝日は少し怒ったような顔になったかと思うと、静かに首を振る。
「それは無理だけど、考えたんだ。自分の身を守る護身術なら、教えてあげられる」
「護身術……?」
「格闘術とも言うのかな。襲われた時にかわしたり反撃したり」
「それは、わかるけど……」
そんなものが、本当に私を守ってくれるのか。救ってくれるのか。
「まぁ、たった三日じゃ、どこまで身につくかは微妙なところではあるけど」
朝日は頼りないことをつぶやくと、テーブルの、私から向かって右側に腰を下ろした。でも、それは椅子じゃなくて、今にも壊れそうな背の低い銀色の脚立だった。
「朝日? それ、椅子じゃないよ」
そんなことは朝日だって見てわかっているだろうけど、あまりにも当然のように座るから、びっくりしてしまったのだ。
朝日はまったく動じずに応えた。
「椅子は一つしか持っていなかったから。起きてすぐに、大家さんに借りてきたんだ。使えそうなものはこれしかないって言うから」
「それなら、私がそれを使うのに。お尻痛くない?」
「凛子はお客様だから。別に、それほど使い心地は悪くないよ」
ひょうひょうとした口ぶりでそう言うと、朝日は行儀良く膝を揃えて、自分の向かい側に手のひらを差し伸べた。
「さぁ、どうぞ。温かいうちのほうが美味しいから」
私の胃は、まだぜんぜん食べ物を受けつける態勢ではなかったけど、なぜだか急にそれらが美味しそうに見えた。
朝日の椅子は脚立だし、マグカップは不揃いで、私たちは家族でも友達同士でもない。それどころか、初めてちゃんと喋ったのはつい昨夜だ。おまけに、私は不登校児で、朝日は殺し屋。
ものすごくチグハグでめちゃくちゃ。それなのに、それだからこそ、なおさらとても正しく、温かな食卓に感じられた。
私は堪えきれず、ぷーっと噴き出した。
意味もなく無性におかしくなってしまって、目をしばたたく朝日をよそに、ひとしきりケラケラと笑い転げる。気が済んだら元気よくチェアを飛び降りて、朝日の向かい側に座った。
「いただきます」
手を合わせると、待っていたとばかりに、レインがぴょんと膝の上に乗ってきて驚いた。
「あぁ、椅子に座るといつもそうなんだ。たぶん僕だと勘違いしているんだよ」
朝日はトーストを囓りながら言った。私はそれに首を振る。
「違うと思う。朝日、一緒にいるのに知らないの? 猫ってそんなに頭悪くないよ」
朝日は首をかしげることこそしなかったけど、次の言葉を促す目つきはした。
私は上半身を丸めて、鼻先をレインの頭に近づけた。日向のにおいがする。
「きっとわかるんだよ。私が自分と同じだって」
自分と同じ、傷ついた心と身体。
違うところは、私は声に出して訴えることができるってだけ。
「……食べようか」
視線を上げた時、朝日はまるで身を切るような微笑みをたたえていた。
細く開いた視界に、窓から射し込む眩しい金色の光を背にして、マグカップを運ぶ背の高い男性のシルエットが入ってきた。それが昨日出会った殺し屋、朝日だということを、ここが彼の部屋だということを頭が理解するまでに、少し時間がかかってしまった。
「おはよう。寝心地悪かったでしょう」
チェアの斜め前にあるテーブルの上に、朝日が朝ごはんを並べている。コーヒーとバターを塗ったトースト。
私は目をごしごしと擦った。
「……ううん。大丈夫。そんなことない」
本当にそんなことなかった。
背もたれに頬をつけて眠ると、朝日のにおいがした。ほとんど知らない人のにおいなのになぜかほっとできて、自分の布団で眠るよりも、うんと深い眠りに落ちた。ぐっすりと眠れたのはすごく久しぶりだ。夢すら見なかった。
ただ、こんなに朝早く起きることもずいぶんと久しぶりで、深い深い眠りの中にいたことも手伝って、まだ頭がぼんやりしている。
「まだ夢の中にいるみたいな顔だね」
「……うん。早起きなんだね、朝日」
「早起きって。もうすぐ八時になるよ」
朝日が小さく笑った。朝日は殺し屋のくせによく笑うし、男の人なのにくすくすと控えめに笑う。
無理やり明るさに慣れさせた目に、ようやくしっかりと輪郭を持って映った朝日は、すでに着替えを済ませていた。紺色のトレーナーは首周りにカラフルな小花の刺繍がしてある。下はダメージのないジーンズだ。穏やかな表情とラフな服装は、ちっちゃな子供に手を引かれてニコニコしている、そんなどこにでもいる、普通の若いお父さんにしか見えない。
「トーストでいいかな。他に何もなくて」
伺ってくる足元には、レインがうろうろとまとわりついていた。ごはんの催促をしているんだろう。そちらに微笑みかけてから、朝日は自分のトーストの端っこをちぎって手のひらで与えた。レインがかぶりつく。
「えっと、ごめん。私、朝はいつも遅いから食べてなくて……」
昼ごはんだってろくなものを食べていない。それなのに、急に規則正しくきちんとした食事なんて入ってきたら、胃がびっくりしてしまいそうだ。
すると、朝日は穏やかながらもきちっとした口調で言った。
「食べなさい。朝ごはんを食べないと、脳が活性化しないよ。何かを覚えようとするなら、なおさらしっかり食べないとだめ」
思いがけず父親みたいな言葉をかけられて、なんとなく照れ臭くなるけど、それよりもその内容に引っかかった私は、思わず身を乗り出した。
「覚えようって……もしかして、人を殺す方法を教えてくれるの?」
朝日は少し怒ったような顔になったかと思うと、静かに首を振る。
「それは無理だけど、考えたんだ。自分の身を守る護身術なら、教えてあげられる」
「護身術……?」
「格闘術とも言うのかな。襲われた時にかわしたり反撃したり」
「それは、わかるけど……」
そんなものが、本当に私を守ってくれるのか。救ってくれるのか。
「まぁ、たった三日じゃ、どこまで身につくかは微妙なところではあるけど」
朝日は頼りないことをつぶやくと、テーブルの、私から向かって右側に腰を下ろした。でも、それは椅子じゃなくて、今にも壊れそうな背の低い銀色の脚立だった。
「朝日? それ、椅子じゃないよ」
そんなことは朝日だって見てわかっているだろうけど、あまりにも当然のように座るから、びっくりしてしまったのだ。
朝日はまったく動じずに応えた。
「椅子は一つしか持っていなかったから。起きてすぐに、大家さんに借りてきたんだ。使えそうなものはこれしかないって言うから」
「それなら、私がそれを使うのに。お尻痛くない?」
「凛子はお客様だから。別に、それほど使い心地は悪くないよ」
ひょうひょうとした口ぶりでそう言うと、朝日は行儀良く膝を揃えて、自分の向かい側に手のひらを差し伸べた。
「さぁ、どうぞ。温かいうちのほうが美味しいから」
私の胃は、まだぜんぜん食べ物を受けつける態勢ではなかったけど、なぜだか急にそれらが美味しそうに見えた。
朝日の椅子は脚立だし、マグカップは不揃いで、私たちは家族でも友達同士でもない。それどころか、初めてちゃんと喋ったのはつい昨夜だ。おまけに、私は不登校児で、朝日は殺し屋。
ものすごくチグハグでめちゃくちゃ。それなのに、それだからこそ、なおさらとても正しく、温かな食卓に感じられた。
私は堪えきれず、ぷーっと噴き出した。
意味もなく無性におかしくなってしまって、目をしばたたく朝日をよそに、ひとしきりケラケラと笑い転げる。気が済んだら元気よくチェアを飛び降りて、朝日の向かい側に座った。
「いただきます」
手を合わせると、待っていたとばかりに、レインがぴょんと膝の上に乗ってきて驚いた。
「あぁ、椅子に座るといつもそうなんだ。たぶん僕だと勘違いしているんだよ」
朝日はトーストを囓りながら言った。私はそれに首を振る。
「違うと思う。朝日、一緒にいるのに知らないの? 猫ってそんなに頭悪くないよ」
朝日は首をかしげることこそしなかったけど、次の言葉を促す目つきはした。
私は上半身を丸めて、鼻先をレインの頭に近づけた。日向のにおいがする。
「きっとわかるんだよ。私が自分と同じだって」
自分と同じ、傷ついた心と身体。
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「……食べようか」
視線を上げた時、朝日はまるで身を切るような微笑みをたたえていた。
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