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肌で季節を感じるように君を感じる日々
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柚子先輩は朝が早い。
勤めている本屋の開店準備をしなきゃならない立場にあるそうで、カラオケボックスが忙しくなる午後からの出社が多く、もっぱら正午近くまで寝ていた僕とは生活がまるで違った。
これまでのパターンを変える必要はないとあらかじめ言われてはいたけど、彼女が朝食の卵を割る音が聴こえると、僕はベッドからのったりと起き上がり、這いずるようにしながらもリビングに向かうようにしていた。
「寝ててよかったのに」
「柚子先輩の作った朝ご飯が食べたくて」
カフェオレを運んでくる彼女とのそんなやり取りは、日課になりつつある。
「このままだと、わたしを好きになるとかそれ以前に、身体のほうが参って出て行きそうね」
まぶたをゴシゴシとこする僕に、それを残念とも喜ばしいとも思っていないような声で彼女は言った。
「身体は慣れるものさ」
大あくびをする僕に、その説得力はこれっぽっちもなかった。
「この前会ったのは午前中だったじゃない」
母校で再会したときのことを言っているようだ。
「簡単なことだよ。その前の日にバンド練習が早く終わって、脳みそが腐るんじゃないかってほど、しこたま寝たあとだったからね」
バンドの練習はほぼ毎日、メンバーめいめいのアルバイトが終わってから、市内のスタジオに集まって行っていた。
スタジオと言っても高価な機材などは何もなく、防音加工がほどこされた少し頑丈なプレハブみたいなもので、それでも給料の安いフリーターどもが一部屋を占拠できる時間なんて限られていて、せいぜい二時間。
それから最寄りのファミレスに移動して、詞をどうだ、コードをどうだなんて言い合いながら、エアーで調整をして、解散して帰ってくるのはいつもだいたい明け方に近い時間だった。
あの日はファミレスにも寄らなかったし、ギターを担当するやつが風邪で嘔吐していたりしたので、スタジオ練習自体も三十分で切り上げていた。
「最近は一人分しか作ってなかったから、急に二人分とか面倒」
レタスときゅうりとトマトのサラダと、半熟の目玉焼き、トースト。
それらを配置よく並べていく柚子先輩は、口ではそんなことを言いながらも、どこか楽しそうに見えた。
「だったら、こんなゲーム持ちかけなきゃよかったんだ」
くすぐったい気持ちを隠して、口の端を吊り上げながらそんなことを言う僕も、相当意地が悪いと思うけども。
「家庭的な女。ヤバいでしょ。惚れないようにして」
「う~ん。僕が女性もイケる人だったら確かに危なかったかも」
気兼ねなく軽口を言い合っているようでいて、お互いに心の隅っこで気を張っていることを、僕たちはちゃんと気づいていた。
それは、とりわけ夜に顕著に表れる。
僕が帰ってくるのはけっこうな深夜であるため、必然的に朝早い彼女が先にシャワーを浴びて寝ていることになるわけだけど。
合鍵で部屋に入るのはいいとして、ひとつしかないベッドの、女性が寝息を立てている横に入り込んでいくのは、さすがの僕だって多少はためらう。
最初の夜は勇気が出ずに、コートをかぶってリビングのソファーで寝た。
翌朝、彼女にこっぴどく怒られるはめになる。
「風邪引いて熱でも出してわたしが看病したら、いくら蜜成だってうっかりわたしに惚れてしまうかもしれないでしょ。負けて出て行きたくないんだったら、バカなことしないで」
そう目くじらを立てる柚子先輩のほうが、よっぽどバカなことを言っている気がする、と僕はあっけに取られた。
それ以降、彼女の言うことに従うようになったけど、顔を見合わせ向かい合って眠ることは、今もあいかわらずできない。
そして、それは彼女も同じだ。
それでも、暗い寝室に彼女の息遣いは確実に漂い、僕を毎夜説明のできない不可思議な気分にさせた。
それはたぶん、背中から伝わってくるやわらかい体温であるとか、抗いようがなく鼻腔に入り込んでくる、化粧を落としまっさらになった彼女の生まれたての匂いとかが、否応なく僕を過去に飛び立たせるからだと思う。
一度しか見たことがない、彼女の裸の腰の曲線、胸のふくらみ。
彼女の涙。
不器用でしかなかった僕。
思い出すたび、どういう作用か下半身にザワザワとした衝動が湧き、同時に胸がキリキリと痛む。
あんなことさえなかったら、僕たちはきっと長く、うまく暮らせた。
どういう理由であれ、一緒に暮らすことになるのなら、ほんの短い間だとしても、やっぱり付き合っていた過去などないほうがよかったんだ。
もしくは、僕が彼女と同性だったなら。
だけど、僕はゲームにのってしまった。
あの日、車の中での彼女は確かに気丈だった。
だけど、僕が詞を書いたラブソングの間奏にまぎれて、すん、と一度だけ湿っぽく鼻を鳴らしたことは、運転に集中するふりをしながら、僕をちゃんと気づいていた。
同情したと言ったら、彼女は怒るだろうか。
「ねぇ、訊いてもいいかな」
朝食後、タブレットからひょいと視線を上げて、僕は柚子先輩を見た。
「どうぞ」
テーブルを挟んだ対面で読者中の彼女のほうは、顔を上げることはない。
仕事が休みの日でも、彼女はパジャマで部屋中を歩き回ることはなく、身なりをきちんとしていたし、薄めにだけど化粧もしていた。
それが、ここに赤の他人の僕が居座っているせいなのか、女性にとって至極当然のことなのか、女性と暮らした経験のない僕にはわからない。
「僕の夢を見たって言ったよね」
それを聞いた彼女がすぐさま目を合わせてきたことは、少し意外だった。
ところが、思ってもみないことを耳にした、といった表情をしている。
「言ってない気がする」
「言ったよ」
夢の内容を確認したかったのに、そう窓口を締め切られるような態度を取られてしまったら、質問を続行する気が萎えてしまう。
「いつ」
「この前。高校でバッタリのとき」
「あぁ」
彼女は小さく納得の声を上げてから、いつも空き時間ができたらするときと何ら変わらずに、眼下のハードカバーの文章を追うことを再開した。
「そんなこともあったかもしれない」
「あったんだよ。しっかり、くっきり、ばっちり、どっきりと」
僕が言うと、何がおかしかったのか、彼女は小刻みに肩を揺らした。
「蜜成はあれよね。やっぱり作詞をするだけあるなぁ。語彙が豊富だ」
「話をそらしてるでしょ」
唇をとがらせてみせながらも、褒められて悪い気はしなかったし、彼女の笑顔が見られたことは素直に嬉しくて、結局僕も横隔膜を震わせた。
「そらしてない。本当に感心しただけ」
「僕も感心してるよ。サラリと嘘をつく柚子先輩に」
「嘘なんかついてないって」
彼女は口の端をゆるく引き上げたまま、ページをめくって言った。
「忘れちゃったんだよ」
「僕の夢を見たって僕に言ったことを? 夢の内容を?」
「んー、両方」
答える彼女の顔の下半分で、やわらかくカーブを描く唇を、僕は見る。
彼女が嘘を言っているのかいないのかは、僕にはちゃんとわかるのだ。
「なるほどね。でもさ、十年も会ってなかった僕が、普段まったく意識してない頭の中にいきなり現れることもないだろうから、きっと柚子先輩は、最近僕のことを考えたことがあったんだろうね」
「ははは」
タブレットを抱えたまま、うんうんと感慨深くうなずいてみせる僕に、彼女はちっとも目を向けることなく乾いた笑いを発した。
「もうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」
「蜜成は詞を書きたいのか、おしゃべりがしたいのか」
彼女の声は、あの頃と同じ一本調子のままで、少しも変わらない。
それを、あの頃と同じくちっとも嫌だと思わない僕がいる。
あまりにもあの頃のまますぎて、二人が会わない間に十年の月日が流れたという事実が、なんだか不思議に感じられてしかたがない。
普通免許を取ったし、バイトではあるけど働いてもいる。
親元を離れて独り暮らしをはじめて、掃除も、洗濯も、料理だって人並みにはこなせるようになった。
歯医者の予約だってスムーズにできるし、役所での面倒な諸々の手続きだってもうお手のもの。
成長ってそういうことだと思っていたけど、実際は、僕っていう人間の根幹は何ひとつ変わっていないのかもしれない。
彼女はどうなのだろうか。
だけど、相手を好きになってはいけないゲームに興じるはめになってしまった立場の僕からは、それを尋ねることはしない。
気乗りしなかったとはいえ、どうせなら勝ちたい。
人を知るということは、人に好意を持つことに近い。
その可能性が限りなくゼロに等しいとしても、ゼロではないのなら、迂闊なことをしてはいけないのだ。
「クリスマス、柚子先輩は何か予定があるの?」
質問を投げかけながら、僕は扇子をひらくみたいな軌道を顎で描いて、横のクリーム色の壁にかけられたカレンダーに視線をやった。
「まだ一カ月以上も先じゃない」
彼女の言葉は、僕の質問を切って捨てるようだ。
「早い店はもうケーキの予約をはじめてる」
売り言葉に買い言葉でそう言うと、彼女はおもむろに顔を上げた。
ともすると、セルロイドの人形と話している錯覚を抱きそうな表情筋の動かない顔だけど、今はどことなく憮然として見える。
「ケーキが食べたいなら、お金は折半」
彼女は手のひらを上にして差し出してみせた。
「ケーキ以外の食費も折半にしてるでしょ。家賃は甘えさせてもらってるけど。て、言いたいのはそういうことじゃなくて」
「最近のカラオケボックスは、クリスマスケーキの予約もはじめたのか」
「それも違う。ノルマに追われてるわけじゃない」
僕はウンザリといった顔をしてみせた。
彼女は、あいかわらず大きく表情を変えることはないものの、鼻から細く長く息を吐き出しながら、不思議そうに首を傾けた。
蛍光灯に照らされた黒髪が、ピカピカと光りつつサラサラ波打つ。
その輝きがあまりにもきれいだと感動した高校生の僕は、正門のそばで友達と話し込む彼女の後ろ姿に向かって、自転車のサドルに腰かけたまま懸命に腕を伸ばしたこともあった。
「予定がとくにないなら、僕たちのライブにこない?」
慎重に言葉を選んで、僕は訊いた。
イベントのスケジュールをはなから白いと決めつけられるなんてことは、おそらく女性にとってはおもしろくないことだ。
僕の気遣いが功を奏したのかわからないが、彼女は不機嫌になることもなく、至って平常心で、傾いていた頭をゆっくりと正しい位置へ戻した。
「クリスマスにライブするの?」
「うん。アルバムを出してから最初のライブなんだけど、アルバムの売れ行きと反応次第では上京を考えていて。そうすると、こっちでは最後のライブってことになる」
その話は彼女に初めてするもので、だから当たり前なんだけど、彼女は初めて聞きました、という表情をした。
それでも、他の女性に比べたら、かなりあっさりとした変化だろうけど。
僕の放った言葉の意味を、彼女はどう吸収しただろうか。
額面通りに受け取れば、僕たちのこの奇妙な同居生活には限りがあることがわかる。
「だから、まぁ、特別な意味のあるライブなんだよね。僕たちのバンドにとっては。だから、見ておくのも柚子先輩の記念になるんじゃないかと」
「なるほど」
カクンとひとつうなずくと、彼女はまた視線を手元に落とした。
「残念だけど、仕事なんだよね」
「残念だけど、ちっとも残念そうじゃない」
泣かれてしまうのは困るけど、あまりにも薄味な返しだと、それはそれで肩すかしだ。
「柚子先輩は僕に興味があるものだと過信していたのに」
わざと口をとがらせてすねてみると、彼女はニコリともせずに声だけで笑って返した。
「ははは」
季節は、片足どころかむしろ片足だけを残した状態で、ほぼ全身を冬に突っ込んでいる。
なのに、カラオケボックスの店内は異常に暑く、働いている人間は半袖のユニフォームで何ら支障がないし、客だって汗をかきながらうたう。
そんな光景を見ていると、時にこの世界は快適を求めすぎだと懸念する。
そのうち、外の通りまでアーケードで完璧に覆って、常に中の温度の調整をするようになるのではないだろうか。
そうしたら、僕たちは肌で季節を感じ取ることを忘れてしまうだろう。
北風に縮こまった身が、誰かの温かい腕に包まれることでほどけていく感覚も、手のひらの上で溶けていく雪の儚さに、愛しい誰かを抱きしめたくなって、どうしようもなく胸が音を立てる衝動も。
勤務を終えて外に出てくると、そこに柚子先輩がいた。
夜の、あちこちの看板のネオンや、建物からの照明の中にただずむ彼女を見るのは初めてだったけど、想像通り、その白い肌はまるで浮かび上がるようだった。
「お疲れさま」
通勤に使うでかい生成りのトートバッグを肩にさげているところを見ると、彼女もどうやら仕事上がりらしい。
朝早い出勤の彼女が、こんなに遅くまで働くことは稀だった。
少なくとも、僕と暮らすようになってからは一度もなかった。
自動ドアを出てすぐの段差を二段下りながら、僕は言った。
「珍しいね。帰りが同じくらいになるなんて」
「うん。でしょ。珍しいから、バスに乗って足を延ばしてきてみた」
「あー、だけどごめん。僕、これからバンドの練習が」
「わかってる」
薄く微笑む彼女の表情がまったくいつも通りで、いつも通りであることに、なぜかこの胸が詰まされた。
「じゃあまた」と見せたその背中に、僕は「待って」と声をかける。
彼女が振り返るのを横目に見ながら、チノパンのポケットを探り、星が瞬く夜空色のカバーが付いたスマートフォンを取り出した。
スリーコールで電話に出た相手に、練習を休むことを手短に伝えて、行けたら行くよと付け足して、通話を切った。
ツインボーカルの片割れが不在でも、練習にさして支障はないだろう。
新しい曲を合わせようにも、歌詞は結局未完成のままだし。
「せっかくだし、車置いて少し歩こうか。何か食べに行く?」
僕は口角を引き上げて、さすがに手を差し伸べることはしなかったけど、エスコートするかのように彼女の前に一歩出た。
まつ毛をふせる彼女の笑みが少し寂しいのは、罪悪感を覚えているのだろうか。
「今朝、鍋焼きうどんの材料を仕込んでおいたの。ちょっと煮込めば、すぐに食べられる」
「最高」
並んで歩き出してすぐ、僕は思い出した。
「そうだ、柚子先輩。ここをまっすぐ行くとね、なかなかきれいな場所に出るんだ」
カフェや古着屋が建ち並ぶ通りの先を、僕は指さしてみせた。
「シーズン的に、なんとなく予想がつく」
「あー、もう。そういうことはわかってても言ったらいけないんだよ」
ふて腐れる僕に、彼女は謝りもせずに、今度はハッキリと楽しそうな表情を浮かべた。
五分ほど歩くと、この辺ではデートスポットとして有名な、とある商業施設の前に出た。
エントランスの正面がロータリーになっていて、半月前にはなかったはずなのに、どうやって運んだんだろうって首をかしげたくなるくらい、大きなモミの木が植わっている。
その枝のありとあらゆる箇所にLEDの電球が付けられていて、一定間隔で点滅するさまは、青い風が撫でて通りすぎているように見えた。
「おぉ~、とてもきれい」
巨大なツリーを見上げた彼女のセリフは、まったくの棒読みだ。
「AIでももうちょっと感情がこもってると思うよ」
「なるほど」
受け答えとして適当とは言えないような相槌を打って、彼女は辺りをキョロキョロとうかがい、周りの恋人たちが目を潤ませて木を見上げるのを確認すると、自分も真似をして祈るように指を組んでみたりした。
それがおかしくて、僕は噴き出す。
「人間らしいかしら」
「まぁ、機械は所詮、鍋焼きうどんのレシピを記憶して読み上げることくらいはできても、食べたくて仕込んだりはしないだろうからね」
「よかった」
ちっとも安堵を感じさせない声で、彼女はうなずいた。
白い息が、自分の鼻先をやわらかく包むのを感じながら、僕は言った。
「だけどさ、来月の二十六日には、全部外されちゃうんだよ」
「感動が台無しなこと言うなぁ、蜜成は。歌うたいのくせに」
そもそも感動していたかどうかすら危うい彼女がそんなことを言って、僕を非難するように冷めた目で見てきた。
「先のことなんか考えるものじゃないの。今が楽しければ、それでいいじゃない」
僕は思わず目を丸くしてしまった。
「柚子先輩、もしかして、今楽しいの?」
それは、この時代を生きていることとかいう漠然としたものを指しているわけじゃなくて、僕という人間と一緒に暮らしていること、果ては今この瞬間に僕とここでクリスマスツリーを眺めていることを指していた。
質問の意図に気づいたのだろう、今度は彼女が目を見ひらいた。
「ははは」
すぐに抑揚のない笑い声を発して、くるりと身体を反転させる。
来た道を颯爽と戻りはじめたから、僕は肩をすくめたあとに、そんな彼女のあとをついて行くしかなかった。
夜、僕の眠りをさまたげようとするものに、すぐには気づけなかった。
柚子先輩と暮らすようになって、一週間ほど。
最初のうちはさすがにキツかったが、そのうち、どんなに朝が早くても、一度キッパリ頭が冴えてしまえば、昼の間に眠気に襲われることはほとんどなくなった。
バイトにバンドの練習と忙しい僕にとっては、ありがたい。
そのぶん、夜は泥のように眠った。
翌日もまた早くから活動をせがまれることを、脳が理解したらしい。
短い時間にできるだけ質のいい睡眠を取れるようにしないと、このままでは生命存続の危機に関わると、早急に対応できるよう身体のほうに働きかけてくれたようだ。
お腹の上に、何かがのしかかっている重みを感じたのは、ベッドに入ってからまだそれほど経っていない頃。
とうに深く奥底のほうに沈んでいた意識が、それを奇妙だと感じた。
僕は横向きで寝ていたはずだった。
ベッドはシングルだし、柚子先輩のほうを向くことはできないでいたから、いつもそのままの体勢で朝を迎えた。
彼女はどこだろう、とボンヤリ思っていたとき、頬に何かが触れた。
甘い匂いがする。
しっとりと滑らかな感触に、これは髪の毛かもしれないと思い立ったとたん、唇をふさがれた。
僕は普段から鼻呼吸であるから、それで酸素を取り入れること自体に窮することはない。
だけど、生温かい舌が口内に侵入してきて、ところ狭しと舐め回し、唾液が喉の奥へ流れはじめ、しかも顔の両側をガッチリと手で固定されてしまったとあっては、穏やかじゃないぞと思った。
せめて顔の自由を得たかったけど、今の今まで死体みたいに寝ていた僕の身体は、指先すらすぐには動かなかった。
奮闘むなしく、か細い吐息がただ漏れただけだ。
すると彼女は顔から離れ、足元へと下降していった。
スウェットをめくられ、するするとボクサーパンツが下ろされると、冷えた部屋の中にあらわになった僕自身が震えた。
彼女がそれを握る。
手が熱い。
ゆっくり上下されると、身体の芯がビックリするくらいゾワゾワしはじめた。
待って。
そう声を上げたつもりが、声にはならず、目も開けられない。
やがて、彼女の温かく湿った口内に先端からすっぽりと包まれてしまうと、腰を中心に電気がビリビリと全身に走り、さすがに跳ね起きて、彼女の両肩を押し返してしまった。
暗がりの中で、大きく見ひらかれた彼女の目が光った。
「……また、あのときと同じ想いを繰り返したいの?」
僕の息は少し上がっていた。
「……僕は女性とはできない。身に沁みているはずじゃないか」
彼女の目がたちまち悲しそうになる。
「……でも、勃つじゃない」
「そりゃ、外部から刺激を受けりゃね。でも、到達することは難しいと思うよ」
長いまつ毛がふせられ、彼女の涙袋に濃い影を作ったかと思うと、大粒の雫がポロリとこぼれ出した。
「……ごめんなさい」
あのときも、彼女はやっぱり謝った。
深く考えずに告白を受けたのは僕のほうなのに、好奇心で彼女を脱がせたのも僕だったのに、途中で断念せざるを得なかったのも僕のせいなのに。
返した僕の「ごめんね」は、ひどく宙ぶらりんだった。
「……寝ましょう。邪魔してごめんなさい」
彼女は僕の上から下りると、布団に潜った。
いつものように向こうを向いて、そのまま朝まで動かなかった。
勤めている本屋の開店準備をしなきゃならない立場にあるそうで、カラオケボックスが忙しくなる午後からの出社が多く、もっぱら正午近くまで寝ていた僕とは生活がまるで違った。
これまでのパターンを変える必要はないとあらかじめ言われてはいたけど、彼女が朝食の卵を割る音が聴こえると、僕はベッドからのったりと起き上がり、這いずるようにしながらもリビングに向かうようにしていた。
「寝ててよかったのに」
「柚子先輩の作った朝ご飯が食べたくて」
カフェオレを運んでくる彼女とのそんなやり取りは、日課になりつつある。
「このままだと、わたしを好きになるとかそれ以前に、身体のほうが参って出て行きそうね」
まぶたをゴシゴシとこする僕に、それを残念とも喜ばしいとも思っていないような声で彼女は言った。
「身体は慣れるものさ」
大あくびをする僕に、その説得力はこれっぽっちもなかった。
「この前会ったのは午前中だったじゃない」
母校で再会したときのことを言っているようだ。
「簡単なことだよ。その前の日にバンド練習が早く終わって、脳みそが腐るんじゃないかってほど、しこたま寝たあとだったからね」
バンドの練習はほぼ毎日、メンバーめいめいのアルバイトが終わってから、市内のスタジオに集まって行っていた。
スタジオと言っても高価な機材などは何もなく、防音加工がほどこされた少し頑丈なプレハブみたいなもので、それでも給料の安いフリーターどもが一部屋を占拠できる時間なんて限られていて、せいぜい二時間。
それから最寄りのファミレスに移動して、詞をどうだ、コードをどうだなんて言い合いながら、エアーで調整をして、解散して帰ってくるのはいつもだいたい明け方に近い時間だった。
あの日はファミレスにも寄らなかったし、ギターを担当するやつが風邪で嘔吐していたりしたので、スタジオ練習自体も三十分で切り上げていた。
「最近は一人分しか作ってなかったから、急に二人分とか面倒」
レタスときゅうりとトマトのサラダと、半熟の目玉焼き、トースト。
それらを配置よく並べていく柚子先輩は、口ではそんなことを言いながらも、どこか楽しそうに見えた。
「だったら、こんなゲーム持ちかけなきゃよかったんだ」
くすぐったい気持ちを隠して、口の端を吊り上げながらそんなことを言う僕も、相当意地が悪いと思うけども。
「家庭的な女。ヤバいでしょ。惚れないようにして」
「う~ん。僕が女性もイケる人だったら確かに危なかったかも」
気兼ねなく軽口を言い合っているようでいて、お互いに心の隅っこで気を張っていることを、僕たちはちゃんと気づいていた。
それは、とりわけ夜に顕著に表れる。
僕が帰ってくるのはけっこうな深夜であるため、必然的に朝早い彼女が先にシャワーを浴びて寝ていることになるわけだけど。
合鍵で部屋に入るのはいいとして、ひとつしかないベッドの、女性が寝息を立てている横に入り込んでいくのは、さすがの僕だって多少はためらう。
最初の夜は勇気が出ずに、コートをかぶってリビングのソファーで寝た。
翌朝、彼女にこっぴどく怒られるはめになる。
「風邪引いて熱でも出してわたしが看病したら、いくら蜜成だってうっかりわたしに惚れてしまうかもしれないでしょ。負けて出て行きたくないんだったら、バカなことしないで」
そう目くじらを立てる柚子先輩のほうが、よっぽどバカなことを言っている気がする、と僕はあっけに取られた。
それ以降、彼女の言うことに従うようになったけど、顔を見合わせ向かい合って眠ることは、今もあいかわらずできない。
そして、それは彼女も同じだ。
それでも、暗い寝室に彼女の息遣いは確実に漂い、僕を毎夜説明のできない不可思議な気分にさせた。
それはたぶん、背中から伝わってくるやわらかい体温であるとか、抗いようがなく鼻腔に入り込んでくる、化粧を落としまっさらになった彼女の生まれたての匂いとかが、否応なく僕を過去に飛び立たせるからだと思う。
一度しか見たことがない、彼女の裸の腰の曲線、胸のふくらみ。
彼女の涙。
不器用でしかなかった僕。
思い出すたび、どういう作用か下半身にザワザワとした衝動が湧き、同時に胸がキリキリと痛む。
あんなことさえなかったら、僕たちはきっと長く、うまく暮らせた。
どういう理由であれ、一緒に暮らすことになるのなら、ほんの短い間だとしても、やっぱり付き合っていた過去などないほうがよかったんだ。
もしくは、僕が彼女と同性だったなら。
だけど、僕はゲームにのってしまった。
あの日、車の中での彼女は確かに気丈だった。
だけど、僕が詞を書いたラブソングの間奏にまぎれて、すん、と一度だけ湿っぽく鼻を鳴らしたことは、運転に集中するふりをしながら、僕をちゃんと気づいていた。
同情したと言ったら、彼女は怒るだろうか。
「ねぇ、訊いてもいいかな」
朝食後、タブレットからひょいと視線を上げて、僕は柚子先輩を見た。
「どうぞ」
テーブルを挟んだ対面で読者中の彼女のほうは、顔を上げることはない。
仕事が休みの日でも、彼女はパジャマで部屋中を歩き回ることはなく、身なりをきちんとしていたし、薄めにだけど化粧もしていた。
それが、ここに赤の他人の僕が居座っているせいなのか、女性にとって至極当然のことなのか、女性と暮らした経験のない僕にはわからない。
「僕の夢を見たって言ったよね」
それを聞いた彼女がすぐさま目を合わせてきたことは、少し意外だった。
ところが、思ってもみないことを耳にした、といった表情をしている。
「言ってない気がする」
「言ったよ」
夢の内容を確認したかったのに、そう窓口を締め切られるような態度を取られてしまったら、質問を続行する気が萎えてしまう。
「いつ」
「この前。高校でバッタリのとき」
「あぁ」
彼女は小さく納得の声を上げてから、いつも空き時間ができたらするときと何ら変わらずに、眼下のハードカバーの文章を追うことを再開した。
「そんなこともあったかもしれない」
「あったんだよ。しっかり、くっきり、ばっちり、どっきりと」
僕が言うと、何がおかしかったのか、彼女は小刻みに肩を揺らした。
「蜜成はあれよね。やっぱり作詞をするだけあるなぁ。語彙が豊富だ」
「話をそらしてるでしょ」
唇をとがらせてみせながらも、褒められて悪い気はしなかったし、彼女の笑顔が見られたことは素直に嬉しくて、結局僕も横隔膜を震わせた。
「そらしてない。本当に感心しただけ」
「僕も感心してるよ。サラリと嘘をつく柚子先輩に」
「嘘なんかついてないって」
彼女は口の端をゆるく引き上げたまま、ページをめくって言った。
「忘れちゃったんだよ」
「僕の夢を見たって僕に言ったことを? 夢の内容を?」
「んー、両方」
答える彼女の顔の下半分で、やわらかくカーブを描く唇を、僕は見る。
彼女が嘘を言っているのかいないのかは、僕にはちゃんとわかるのだ。
「なるほどね。でもさ、十年も会ってなかった僕が、普段まったく意識してない頭の中にいきなり現れることもないだろうから、きっと柚子先輩は、最近僕のことを考えたことがあったんだろうね」
「ははは」
タブレットを抱えたまま、うんうんと感慨深くうなずいてみせる僕に、彼女はちっとも目を向けることなく乾いた笑いを発した。
「もうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」
「蜜成は詞を書きたいのか、おしゃべりがしたいのか」
彼女の声は、あの頃と同じ一本調子のままで、少しも変わらない。
それを、あの頃と同じくちっとも嫌だと思わない僕がいる。
あまりにもあの頃のまますぎて、二人が会わない間に十年の月日が流れたという事実が、なんだか不思議に感じられてしかたがない。
普通免許を取ったし、バイトではあるけど働いてもいる。
親元を離れて独り暮らしをはじめて、掃除も、洗濯も、料理だって人並みにはこなせるようになった。
歯医者の予約だってスムーズにできるし、役所での面倒な諸々の手続きだってもうお手のもの。
成長ってそういうことだと思っていたけど、実際は、僕っていう人間の根幹は何ひとつ変わっていないのかもしれない。
彼女はどうなのだろうか。
だけど、相手を好きになってはいけないゲームに興じるはめになってしまった立場の僕からは、それを尋ねることはしない。
気乗りしなかったとはいえ、どうせなら勝ちたい。
人を知るということは、人に好意を持つことに近い。
その可能性が限りなくゼロに等しいとしても、ゼロではないのなら、迂闊なことをしてはいけないのだ。
「クリスマス、柚子先輩は何か予定があるの?」
質問を投げかけながら、僕は扇子をひらくみたいな軌道を顎で描いて、横のクリーム色の壁にかけられたカレンダーに視線をやった。
「まだ一カ月以上も先じゃない」
彼女の言葉は、僕の質問を切って捨てるようだ。
「早い店はもうケーキの予約をはじめてる」
売り言葉に買い言葉でそう言うと、彼女はおもむろに顔を上げた。
ともすると、セルロイドの人形と話している錯覚を抱きそうな表情筋の動かない顔だけど、今はどことなく憮然として見える。
「ケーキが食べたいなら、お金は折半」
彼女は手のひらを上にして差し出してみせた。
「ケーキ以外の食費も折半にしてるでしょ。家賃は甘えさせてもらってるけど。て、言いたいのはそういうことじゃなくて」
「最近のカラオケボックスは、クリスマスケーキの予約もはじめたのか」
「それも違う。ノルマに追われてるわけじゃない」
僕はウンザリといった顔をしてみせた。
彼女は、あいかわらず大きく表情を変えることはないものの、鼻から細く長く息を吐き出しながら、不思議そうに首を傾けた。
蛍光灯に照らされた黒髪が、ピカピカと光りつつサラサラ波打つ。
その輝きがあまりにもきれいだと感動した高校生の僕は、正門のそばで友達と話し込む彼女の後ろ姿に向かって、自転車のサドルに腰かけたまま懸命に腕を伸ばしたこともあった。
「予定がとくにないなら、僕たちのライブにこない?」
慎重に言葉を選んで、僕は訊いた。
イベントのスケジュールをはなから白いと決めつけられるなんてことは、おそらく女性にとってはおもしろくないことだ。
僕の気遣いが功を奏したのかわからないが、彼女は不機嫌になることもなく、至って平常心で、傾いていた頭をゆっくりと正しい位置へ戻した。
「クリスマスにライブするの?」
「うん。アルバムを出してから最初のライブなんだけど、アルバムの売れ行きと反応次第では上京を考えていて。そうすると、こっちでは最後のライブってことになる」
その話は彼女に初めてするもので、だから当たり前なんだけど、彼女は初めて聞きました、という表情をした。
それでも、他の女性に比べたら、かなりあっさりとした変化だろうけど。
僕の放った言葉の意味を、彼女はどう吸収しただろうか。
額面通りに受け取れば、僕たちのこの奇妙な同居生活には限りがあることがわかる。
「だから、まぁ、特別な意味のあるライブなんだよね。僕たちのバンドにとっては。だから、見ておくのも柚子先輩の記念になるんじゃないかと」
「なるほど」
カクンとひとつうなずくと、彼女はまた視線を手元に落とした。
「残念だけど、仕事なんだよね」
「残念だけど、ちっとも残念そうじゃない」
泣かれてしまうのは困るけど、あまりにも薄味な返しだと、それはそれで肩すかしだ。
「柚子先輩は僕に興味があるものだと過信していたのに」
わざと口をとがらせてすねてみると、彼女はニコリともせずに声だけで笑って返した。
「ははは」
季節は、片足どころかむしろ片足だけを残した状態で、ほぼ全身を冬に突っ込んでいる。
なのに、カラオケボックスの店内は異常に暑く、働いている人間は半袖のユニフォームで何ら支障がないし、客だって汗をかきながらうたう。
そんな光景を見ていると、時にこの世界は快適を求めすぎだと懸念する。
そのうち、外の通りまでアーケードで完璧に覆って、常に中の温度の調整をするようになるのではないだろうか。
そうしたら、僕たちは肌で季節を感じ取ることを忘れてしまうだろう。
北風に縮こまった身が、誰かの温かい腕に包まれることでほどけていく感覚も、手のひらの上で溶けていく雪の儚さに、愛しい誰かを抱きしめたくなって、どうしようもなく胸が音を立てる衝動も。
勤務を終えて外に出てくると、そこに柚子先輩がいた。
夜の、あちこちの看板のネオンや、建物からの照明の中にただずむ彼女を見るのは初めてだったけど、想像通り、その白い肌はまるで浮かび上がるようだった。
「お疲れさま」
通勤に使うでかい生成りのトートバッグを肩にさげているところを見ると、彼女もどうやら仕事上がりらしい。
朝早い出勤の彼女が、こんなに遅くまで働くことは稀だった。
少なくとも、僕と暮らすようになってからは一度もなかった。
自動ドアを出てすぐの段差を二段下りながら、僕は言った。
「珍しいね。帰りが同じくらいになるなんて」
「うん。でしょ。珍しいから、バスに乗って足を延ばしてきてみた」
「あー、だけどごめん。僕、これからバンドの練習が」
「わかってる」
薄く微笑む彼女の表情がまったくいつも通りで、いつも通りであることに、なぜかこの胸が詰まされた。
「じゃあまた」と見せたその背中に、僕は「待って」と声をかける。
彼女が振り返るのを横目に見ながら、チノパンのポケットを探り、星が瞬く夜空色のカバーが付いたスマートフォンを取り出した。
スリーコールで電話に出た相手に、練習を休むことを手短に伝えて、行けたら行くよと付け足して、通話を切った。
ツインボーカルの片割れが不在でも、練習にさして支障はないだろう。
新しい曲を合わせようにも、歌詞は結局未完成のままだし。
「せっかくだし、車置いて少し歩こうか。何か食べに行く?」
僕は口角を引き上げて、さすがに手を差し伸べることはしなかったけど、エスコートするかのように彼女の前に一歩出た。
まつ毛をふせる彼女の笑みが少し寂しいのは、罪悪感を覚えているのだろうか。
「今朝、鍋焼きうどんの材料を仕込んでおいたの。ちょっと煮込めば、すぐに食べられる」
「最高」
並んで歩き出してすぐ、僕は思い出した。
「そうだ、柚子先輩。ここをまっすぐ行くとね、なかなかきれいな場所に出るんだ」
カフェや古着屋が建ち並ぶ通りの先を、僕は指さしてみせた。
「シーズン的に、なんとなく予想がつく」
「あー、もう。そういうことはわかってても言ったらいけないんだよ」
ふて腐れる僕に、彼女は謝りもせずに、今度はハッキリと楽しそうな表情を浮かべた。
五分ほど歩くと、この辺ではデートスポットとして有名な、とある商業施設の前に出た。
エントランスの正面がロータリーになっていて、半月前にはなかったはずなのに、どうやって運んだんだろうって首をかしげたくなるくらい、大きなモミの木が植わっている。
その枝のありとあらゆる箇所にLEDの電球が付けられていて、一定間隔で点滅するさまは、青い風が撫でて通りすぎているように見えた。
「おぉ~、とてもきれい」
巨大なツリーを見上げた彼女のセリフは、まったくの棒読みだ。
「AIでももうちょっと感情がこもってると思うよ」
「なるほど」
受け答えとして適当とは言えないような相槌を打って、彼女は辺りをキョロキョロとうかがい、周りの恋人たちが目を潤ませて木を見上げるのを確認すると、自分も真似をして祈るように指を組んでみたりした。
それがおかしくて、僕は噴き出す。
「人間らしいかしら」
「まぁ、機械は所詮、鍋焼きうどんのレシピを記憶して読み上げることくらいはできても、食べたくて仕込んだりはしないだろうからね」
「よかった」
ちっとも安堵を感じさせない声で、彼女はうなずいた。
白い息が、自分の鼻先をやわらかく包むのを感じながら、僕は言った。
「だけどさ、来月の二十六日には、全部外されちゃうんだよ」
「感動が台無しなこと言うなぁ、蜜成は。歌うたいのくせに」
そもそも感動していたかどうかすら危うい彼女がそんなことを言って、僕を非難するように冷めた目で見てきた。
「先のことなんか考えるものじゃないの。今が楽しければ、それでいいじゃない」
僕は思わず目を丸くしてしまった。
「柚子先輩、もしかして、今楽しいの?」
それは、この時代を生きていることとかいう漠然としたものを指しているわけじゃなくて、僕という人間と一緒に暮らしていること、果ては今この瞬間に僕とここでクリスマスツリーを眺めていることを指していた。
質問の意図に気づいたのだろう、今度は彼女が目を見ひらいた。
「ははは」
すぐに抑揚のない笑い声を発して、くるりと身体を反転させる。
来た道を颯爽と戻りはじめたから、僕は肩をすくめたあとに、そんな彼女のあとをついて行くしかなかった。
夜、僕の眠りをさまたげようとするものに、すぐには気づけなかった。
柚子先輩と暮らすようになって、一週間ほど。
最初のうちはさすがにキツかったが、そのうち、どんなに朝が早くても、一度キッパリ頭が冴えてしまえば、昼の間に眠気に襲われることはほとんどなくなった。
バイトにバンドの練習と忙しい僕にとっては、ありがたい。
そのぶん、夜は泥のように眠った。
翌日もまた早くから活動をせがまれることを、脳が理解したらしい。
短い時間にできるだけ質のいい睡眠を取れるようにしないと、このままでは生命存続の危機に関わると、早急に対応できるよう身体のほうに働きかけてくれたようだ。
お腹の上に、何かがのしかかっている重みを感じたのは、ベッドに入ってからまだそれほど経っていない頃。
とうに深く奥底のほうに沈んでいた意識が、それを奇妙だと感じた。
僕は横向きで寝ていたはずだった。
ベッドはシングルだし、柚子先輩のほうを向くことはできないでいたから、いつもそのままの体勢で朝を迎えた。
彼女はどこだろう、とボンヤリ思っていたとき、頬に何かが触れた。
甘い匂いがする。
しっとりと滑らかな感触に、これは髪の毛かもしれないと思い立ったとたん、唇をふさがれた。
僕は普段から鼻呼吸であるから、それで酸素を取り入れること自体に窮することはない。
だけど、生温かい舌が口内に侵入してきて、ところ狭しと舐め回し、唾液が喉の奥へ流れはじめ、しかも顔の両側をガッチリと手で固定されてしまったとあっては、穏やかじゃないぞと思った。
せめて顔の自由を得たかったけど、今の今まで死体みたいに寝ていた僕の身体は、指先すらすぐには動かなかった。
奮闘むなしく、か細い吐息がただ漏れただけだ。
すると彼女は顔から離れ、足元へと下降していった。
スウェットをめくられ、するするとボクサーパンツが下ろされると、冷えた部屋の中にあらわになった僕自身が震えた。
彼女がそれを握る。
手が熱い。
ゆっくり上下されると、身体の芯がビックリするくらいゾワゾワしはじめた。
待って。
そう声を上げたつもりが、声にはならず、目も開けられない。
やがて、彼女の温かく湿った口内に先端からすっぽりと包まれてしまうと、腰を中心に電気がビリビリと全身に走り、さすがに跳ね起きて、彼女の両肩を押し返してしまった。
暗がりの中で、大きく見ひらかれた彼女の目が光った。
「……また、あのときと同じ想いを繰り返したいの?」
僕の息は少し上がっていた。
「……僕は女性とはできない。身に沁みているはずじゃないか」
彼女の目がたちまち悲しそうになる。
「……でも、勃つじゃない」
「そりゃ、外部から刺激を受けりゃね。でも、到達することは難しいと思うよ」
長いまつ毛がふせられ、彼女の涙袋に濃い影を作ったかと思うと、大粒の雫がポロリとこぼれ出した。
「……ごめんなさい」
あのときも、彼女はやっぱり謝った。
深く考えずに告白を受けたのは僕のほうなのに、好奇心で彼女を脱がせたのも僕だったのに、途中で断念せざるを得なかったのも僕のせいなのに。
返した僕の「ごめんね」は、ひどく宙ぶらりんだった。
「……寝ましょう。邪魔してごめんなさい」
彼女は僕の上から下りると、布団に潜った。
いつものように向こうを向いて、そのまま朝まで動かなかった。
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