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【人間界1】

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「……ほ、本て」

 少女は弱々しく声を発した。

「販売って、いったい誰が、買うの……?」

 話を信じたのだろうか。
 嘘偽りは語っていないわけで、信じてもらえるにこしたことはないが、信じてもらえないとしても、別に困らなかった。それはそうだろう。

 書籍を手のひら、もとい、肉球の上で広げる。

「あなたには関係ありません」

 これに尽きる。

「ふわ! 冷たい!」
「あなたはもう亡くなっています。そんなことを気にしたところで、意味がありません」

 無駄なことをしている時間はない。ただでさえ面倒なことになっているのだ。

「冷たい上にすごい事務的……スマートスピーカーのほうがまだ温もりある……て、え? な、亡くなっているって」

 戸惑う声に手元から目線を上げるが、正直それすらわずらわしい。

「ご自分がどのようなおこないに出たのか、忘れてしまったわけではないでしょう?」
「どのようなおこないって?」

 まさか本当に覚えていない?
 いや、単に混乱しているだけだろう。意識がある以上、自分がどこにいて、どういう状態にあるかは認識できているはずだ。そこについて疑問を抱かないのだから。

「あなたは、自ら身体を傷つけたのではないですか。その結果、無事、という言い方はいかがなものですが、お亡くなりになられたのです」
「え?」
「え?」自死ではない?

「わたし」
 少女は傷を負っていないほうの手をかかげ上げてみせる。
「動けるし、喋れてるんだけど」

「あぁ、そこですか」
 だから、困っている。

「死んでないじゃん」

 その口ぶりは、思い描いていた仕上がりと違う、とクレームをつけるようだった。
 そっくりそのまま、こちらが返したい気分である。

「いいえ、ご安心ください。亡くなっています」
「だから」
「ならば、足は動かせますか?」
「足?」

 少女は眉をひそめながらも、口元に薄笑いを浮かべた。当たり前じゃないの、と腰を上げようとして、すぐさま顔を強張らせる。

「え……動けない。ぜんぜん」
「ですよね」
「ずっとしゃがんでて、足がしびれてるとか……?」
「痛みは感じますか?」

 その問いかけに、少女は浴槽の中に視線を落とす。少しの間が空いた。

「……やっぱり動かないし、痛みも、ない。しびれてるんじゃないんなら……」
「死斑です」
「しはん?」
「亡くなってから三十分もすると、循環されなくなった血液が重力の作用で下部に溜まり、その色がまだら状に現れるのですが……まぁ、難しいことはさておき、要は死体特有の現象です」
「死体? 死体って死体?」
「死体です」
「誰が?」
「あなたですよ。スカートの裾と靴下の間に、わずかにですが死斑が確認できます」

 つまるところ、やはり肉体はしっかりと機能を終えている、ということだ。

「基本的に死体は動きません。もちろん、痛みなんて感じません」
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