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【人間界3】

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「ずいぶんな言い方だな。手間取っているようだから、助けてやろうとしているのに」

 カロンはどこまでも余裕綽々だ。
 軽やかに窓から飛び降り、少女との間に立ちふさがるように着地する。自身の背丈ほどもある金属製のハサミが、床のタイルに当たり、高い音を反響させた。

 口を開けたままの少女はもとより、男も茫然として、少女への憤りなどさっぱり忘れてしまったかのようだ。休戦状態が思いがけず訪れたことだけが、幸いだ。男から手を放して、カロンに向き合った。

「『死神書店』ではありません。魂管理局記録保管庫です。訂正してください」

 けっ、とカロンは吐き捨てる。

「死神の呼び名がふさわしいのは、むしろあなたでしょう。冥界の使者、カロン」
「カロン様、と呼べよ。それとも、気軽に呼び合う仲になりたくなったか? 同じ魂の番人だしな」
「同じではありません。一緒にしないでください」

「冥界の……使者だって?」
 その意味するところに気がついたのは、男のほうが早かった。

「耳にしたことがおありですか? 冥界の王・ハデスの名を」
「冥界って……死者の国だよな。ハデスは……悪魔?」
「近からずも遠からずです。ハデスは死者の国を治める神様。人間が悪魔と呼ぶものも、元々は神様である場合がほとんどですからね。彼は、カロンは、ハデスの飼い犬です」
「言ってくれるじゃねぇか」

 カロンは曲げた口の片方から犬歯を見せつける。そうやってすぐに歯をむくところなんて、まさしく番犬のようなのに、お気に召さないらしい。

「ハデス様はオレの飼い主なんかじゃねえ。親代わりだ」
「拾って面倒を見てもらい、そのご恩に死者の管理のお手伝いですか。忠犬ですね」

 ぎりっと奥歯を噛みしめる音に、エコーがかかる。そうかと思うと、カロンは含んだ笑みを浮かべた。

「お前は一度、オレに負けているからな。皮肉でも口にしていないと、悔しくて気が狂いそうなんだろうよ」

「負けてる……?」
 引っかかりを覚えたのか、カロンの後ろで少女がささめいた。

「……魂の回収は、勝負事ではありません。そのような言い方はいかがかと」

 苦い想い出は棘を持つ。
 身体の奥に押しこめてあったそれは、強引に引っ張り出される際にあちこちにぶつかり、傷をつくった。引っかき傷によどんだ空気が染みて、痛みに思わず顔をしかめる。

「そんな優等生なことばかり言っているから、オレに負けるんだ」

 カロンはせせら笑うと、少女のほうを振り返った。

「お嬢ちゃん」
 芝居がかった声を出す。
「生まれ変わりたくない気持ちはわかるが、いつまでもここに留まってはいられないんだぜ」

 少女は上半身をびくつかせた。話しかけられるとは思わなかったのだろう。

「かわいい顔をしているのに残念だが、お嬢ちゃんはもう死んだんだ」
「……そんなこと、わかってるし」
「だめです! 彼の話に耳を貸してはいけません」
「うるさい外野は放っておけ。どうせあいつにお嬢ちゃんは救えない」
「え……? あなたは、救えるの?」
「もちろんさ。オレは、お嬢ちゃんを悲しみから解放するためにやってきたんだ」

「いけません!」

 駆け寄ろうと足を踏み出したのとほぼ同時に、カロンが背中に腕を伸ばす。両手で持ったハサミをこちらに向けて振り下ろすと、刃先から突風が起こり、吹き飛ばされた。
 限りある室内のはずなのに、十数メートルも後方で腰から床に叩きつけられた。

「ネコちゃん……!」

 カロンがにやりと笑う。

「術を使える冥界の使者と、天使の小間使いでしかない書店員の差が出たな」
「く……カロン!」
「おい、大丈夫か」

 飛ばされた際に、うっかり書籍を手放してしまったらしい。男が拾い、抱え起こしてくれながら、胸元に差し出してきた。はっと目を見開いたあとで、「お手数をおかけします」と受け取る。

「正直、何が何やらだけどよ。あいつが悪役だってことはわかるぜ」

 男はひそひそと耳打ちしてきた。

「ええ。とんでもない悪役です」
「助けるとか、悲しみから解放するとか、適当なデマカセなんだな? あいつは何がしたいんだ。何のために現れたんだ?」
「彼は……」

 カロンはハサミを元通りに背負い、再び少女に向き合っている。少女は依然怯えながらも、彼を映すその目に、わずかに希望の光を宿しているように見えた。

 恐れていた事態がやってきてしまった。彼が現れる前に、すべてを済ませたかった。
 歯を食いしばる。

「カロン……冥界の使者の仕事は、魂を転生の輪廻から外すことなのです」
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