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【天界0】

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「これまで、自死した新刊を受け持ったことはありませんでした」

 それが、仕事をしくじった言い訳にならないことなんて、わかっている。そんなことは、当然ウリエルにはお見通しで、だから、相槌すら打たない。

「老女が」

 これを言ったら、自分こそが罰を受けるのではないかと震える。だけど、抱えたままでは、罪の重さにそれこそ押しつぶされてしまいそうで、口にした。

「……選んだのです。わたくしと行くより、カロンについていくことを」

 老女は打ちのめされていた。人生に絶望していた。
 長く生きてきた彼女を待っていたものは、世間の冷たい仕打ち。
 老いているというだけで、肉体が衰えているというだけで、時に邪魔者扱いされ、時に汚いもの扱いされた。それでも、連れ合いが生きている間は、励まし合って頑張れた。

 ともに戦ってくれる相手を失った時、明日を生きる気力は、もう彼女になかった。

 彼女は、しわくちゃの顔をさらにぐちゃぐちゃにしながら、嗚咽するように言った。悲しいくらいに涙はもう出ないから、笑っているようにすら見えた。

「わたくしでは、どう説得しても、お気持ちを変えていただけませんでした」

 カロンがしたことは、彼女の話をすべて肯定しただけ。
 ただ、それだけなのに。

「自ら死を選ぶくらいだ。人の生そのものに嫌気がさしてしまったとしても、おかしくはないよ」
「慰めなどいりません」
「76番」

 ウリエルは誰も、何も否定しない。
 そんなことはとうに知っていて、尊敬する点でもあったのに、今は受け入れられない。
 むしろ、否定して欲しかった。なんてことをしてくれたと怒鳴りつけて、軽蔑して欲しかった。彼にはその権利がある。

「死神書店、なんて笑われている記録保管庫のスタッフの一人が、本物の死神に負けたのです。なんだか滑稽ですよね」
「そんなふうには思わない」
「馬鹿にされることが悔しくて、頑張っていたのに」
「勉強家の君を、僕は誇りに思う」
「命あるものが生まれ変わることは、この世のことわり。当たり前で、普遍的なこと。わたくしがここで教わったことは、間違っているのですか」
「いいや」
「転生は、命あるものにとって大切なこと。繰り返すことで、魂は成長する。人間は、とくに成長したがる生きものであると、そう学びました」
「その通りだ」

「では、なぜ老女は転生を拒んだのです……!」

 黒い毛の丸いこぶしで、マントの生地を握る。
 らしくなく感情的になっているとわかっていながらも、止められない。

「正しいことであるはずなら、説得に応じてくれるはずではありませんか。理解してくれるはずではありませんか」

 老女にとって、人生は辛かったに違いない。だけど、それは特別なことではないのだ。
 この広い世界には他にも、彼女のように、いや、それ以上の苦しみや悲しみを背負いながらも、最期まで生きて命をまっとうする人間がたくさんいる。
 彼女のようなワガママをすべて聞いていたら、この世には生まれ変わる命など、やがて一人もいなくなってしまうだろう。そんなことになったら、我々は職なしだ。

 何より、この世界のバランスが崩れてしまう。

「去り際に、カロンは言いました。マニュアル通りにやることがすべてではない、と」

 こうも言った。自分の仕事が褒められないもの、という自覚がある。だからこそ、できるだけ魂に寄り添う努力をしている、と。

 だから、何だと言いたいのだ。
 我々は、寄り添えないのではない。あえて寄り添わないのだ。
 ただ耳障りのいい言葉をかけてあげるだけなら、それこそ死神にだってできる。それだけでは職務を遂行できないから、マニュアルがあるのではないか。それこそが正しいやり方だと、推奨されているのではないか。
 それなのに。

 老女がカロンの手を取るのを、ただ茫然と見ていた。
 まるで時を飛び越えて子供時代に戻ったかのような、母親の手にすがりつく時のような、心の底から安心しきった、そんな柔らかな表情を、老女は最期に浮かべていた。

 二人の姿が闇に溶けてなくなった時。使われなかった書籍が、この手から滑り落ちた。
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